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【寄稿C】⑶ 生きる意味があることは幸福をもたらすか 精神科医 菅原一晃
交流の広場 | 2021.05.17

生きる意味があることは幸福をもたらすか

〜カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を読む〜

菅原一晃

聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院 神経精神科




『わたしを離さないで』は世界的に有名で、2017年にノーベル文学賞を受賞したイギリス人作家であるカズオ・イシグロの小説である(土屋政雄訳、早川書房2006年、文庫版2008年、原著はNever Let Me Go、2005年)。 


この作品は同作家の最高傑作と言われる作品であり、世界的に評価も高い。海外ではドラマや映画になったり、日本でも舞台やドラマになったりした作品である。私からすれば、この小説はまさに「老人文学」と読める作品である。



今回はこの作品を通して考えられること、またこの作品から考えたことを書き連ねたい。内容は断片的だが、本当に偉大な作品というのは、内容を分かっていたとしてもいないとしても面白さが減じるものではなく、もし読んでいなくても再読に値しうるものだから、こんな形でのあらすじ紹介で許して欲しいところである。



1. あらすじ

登場人物は原作ではキャシー、トミー、ルース、という3人が主であり、舞台は寄宿学校ヘールシャムである。しかしこれだと分かりにくいので、主人公、恋人、友人、としておく。あらすじを簡潔に述べると、上記3人はクローン人間の設定である。そして寄宿学校に入れられて、「提供」という役目を与えられる。「提供」とは聞きなれない言葉だが、それはまさに臓器提供を意味し、学校の生徒たちは臓器提供のために作られた人間であり、卒業して大人になってその役目を果たし、臓器を「提供」し、そして死ぬ。

病院で恋人や友人、その他の人物は否応なく臓器を提供していく。また「介護人」という役割もあり、それは「提供」する人間を世話する人間であり、「提供」を免れている人間である。主人公がそのような設定で、「提供」者である友人にとってその役割が判明する。しかし「介護人」は忙しく、結局自身も「提供」を行うことになる。そして主人公も「介護人」から「提供」者になり、そして死ぬ・・・・。

これだけを考えるととても救いのない話である。この設定自体無理があるという意見もあるし、どう考えても幸せな結末は見えてきそうにない。臓器提供をテーマにするのであれば、もっといい設定もあろうという意見もある。しかし私はそのようなこの作品への否定的な意見に与しない。



2. 作者の意見

作者のカズオ・イシグロがインタビューでこのように述べている。

「人生は短いから尊い、とだけいいたかったわけではない。人間にとって何が大切かを問いかけたかった。人間とは何か、クローンは人間なのかと考え始めたからだ。人生の短さを感じたとき、われわれは何を大切に思うだろうか。この作品は悲しい設定にもかかわらず、人間性に対する楽観的な見方をしている。人生が短いと悟ったとき、カネや権力や出世はたちまち重要性を失ってゆくだろう。人生の時間が限られていると実感したときこのことが重要になってくる。この作品は人間性に対し肯定的な見方をしている。人間が利益や権力だけに飢えた動物ではないことを提示している。赦し、友情、愛情といった要素こそが人間を人間たらしめる上で重要なものなのだ」

そうだと思う。人間とはなにかを考えたいから、イシグロはこの小説を書いた。

生ある私たちはいまの自分の人生以外を生きることが出来ない。そしてそれは儚く、始まりも終わりも予想できない。イシグロが描こうとしたのは、この限りある人生を敢えて特別に条件付けすることで、その価値を描こうとしたのだ。人生の儚さ、終わりを敢えて目に見える形でわかりやすくすることで、それに向かう人間の生きることの価値がありありと目の前に浮かんでくる。

それだけではない。私はこの小説から「人間の生きる意味は?」という問いを発見しようとも思う。その「人間」は若い人間だけではない。人生100年の時代、この登場人物たちは高齢社会に住む老人の姿にも見えて来る。



3.「生きる意味」を求める人間存在

人間は悩む。苦しむ。「自分の生きている意味が分からない」「生きていてもしょうがない」「こんなことをしていても意味がない」などなど。人間はどうしても自分の意味について問い、尋ね、苦しみ悩む。そして答えが出ずにさらに悩む。しかし「生きる意味」などどうやったらわかるのか。

そこでこの物語だ。ここでの登場人物はあらかじめ「生きる意味」が決まっている。臓器を「提供」するために産まれ、生き、成長し、経験し、そして「提供」をして死ぬ。彼らの生きる意味は決まっている。端的に。「臓器を提供する」こと。そこにはもはや言い訳など出来ない意味が詰まっており、「介護人」も結局は「提供」をして死んでいく。自分たちの目的、そう、人生の目的を果たし、そして死んでいく。

そこには「生きる意味」を初めから与えられ、それを果たし死んでく人間の運命がある。我々はこの物語で「生きている意味」を体現する人間を目の当たりにする。それは果たして幸福だろうか?幸せだろうか?分からない。しかし一つ言えるのは、恐らく想像に反して、充実感を感じる可能性は高い、ということだ。



4.  2つの極限状況との類比

この物語の感想では、なぜ登場人物はこの状況から逃げないのか、脱走しないのか、抵抗しないのか、というものがあった。確かに寄宿学校では厳しい規則、制限された環境がある。実際に逃亡したことで殺される(実際には早期に「提供」されるのだが)生徒も出てくるが、大人になってもこの「提供」のルールに縛られるのか。それは至極全うな疑問だ。

私はこれを聞いて、最初に2つのある意味で「極限状態」を考えずにはいられなかった。一つは以前日本や世界の脅威になり得たオウム真理教や以前世界中を震撼させたイスラム国、もう一つはアウシュビッツだ。この寄宿学校、あるいは主人公たちが全編を通して置かれる環境は、一見近いアウシュビッツの対局にあり、また一見関係なく見えるオウム真理教やイスラム国とは驚くほど近い。なぜか。

私は先ほど、彼らは生きている意味を与えられ、死んでいく、と書いた。そう、人生の意味を奪う装置がアウシュビッツであり、また組織の中の人間に生きている意味を付与することで成り立たせているのがオウム真理教やイスラム国だからだ。逆にアウシュビッツはまさに虐殺、殺戮、殲滅の場所である。生命を奪い、ユダヤ人たちを葬る。しかしそれだけではなく、「生きる意味」ごと奪う、奪おうとする装置である。

イタリア人のジャーナリストであるプリーモ・レーヴィはアウシュビッツからの帰還後、著書である経験について語る。それは、レーヴィが喉が渇いて氷柱を折って口に入れようとしたとき、監視官にそれを取り上げ殴られる。何故だ、と聞くと、「ここには何故はない」と答えられる。そう、まさに「何故」と聞くこと、意味を問うこと自体出来ない場所であり、意味を捨てさせる場所なのだ。そもそもユダヤ人たちがアウシュビッツに入れられたことすら意味の彼方にあり、意味はないのだ。そしてここでは「生きる意味」を奪われる。故に逃げられない。フランクルが「生きる意味」についてあれだけ語ったのは、アウシュビッツが「生きる意味」を奪う場所であることと大きくリンクする。

一方オウム真理教やイスラム国と言えば、多くの国や地域でテロ活動を行っていた。しかしその一方で、このオウム真理教やイスラム国に「入信」或いは「入国」する若者たちは後を絶たないという状況であったのも事実である。オウム真理教は非常に優秀な人材を集めることができた。それは宗教そのものとは関係ないと思われる。


オウム真理教が、或いはイスラム国が、「生きる意味」を仮初めにであれ与えてくれるからだ。ヨーロッパでの2世、イスラム教徒はもちろんのこと、キリスト教徒ですらいまの社会において仕事やその他で満足を感じることは少ない。また日本の若者も人生において、仮に学歴が優れようと満足感を得られなかった。彼らや彼女たちに差別があれば尚のことだ。それがオウム真理教やイスラム国に入れば、その集団で大切な役割が与えられ、兵士として、スパイとして、いろいろな形で「国」や「団体」に貢献できる。そこでは死ぬことすら、英雄としての役割を与えられるのだ。つまりそれに入れば、どんな形であれ「生きる意味」を付与されるのだ。

「生きる意味」を与えられるからこそ、ここから逃げる必要はない。そう、イシグロのこの設定とオウム真理教やイスラム国は重なるのだ。アウシュビッツは「生きる意味」を奪うのに対し、『わたしを離さないで』の世界は「生きる意味」を付与する。それは「生きる意味」を欠乏し、求める我々に間違いなく充実感を与えてくれるだろう。ただし、だからこそ充実感と幸福感が違うことも同時に我々は理解することになる。



5. 考察:私たちは幸福に生き、死んでいけるか

もう一度問う。この物語の登場人物は幸福なのか。あるいはこのようにも言えるはずだ。この小説の登場人物の生きる意味はなんだろうかと。


もしこの登場人物が幸福であるならば、主人公が、友人が、恋人が幸福であるならば、それは充実感を与えられるからこそか、「生きる意味」を与えられるからか。あるいはそれ以外のものによるものか。もし、「生きる意味」と幸福感が異なるのであれば、そもそも私たちが「生きる意味」を問うこと自体が間違っているのではないだろうか。イシグロのこの小説は私たちに重要な点を問う。そう、「生きる意味」があること、人生に充実感を感じることと、幸福であることは違うかもしれないことだ。

登場人物は最終的には「提供」を行って死ぬ。それは「生きる意味」を全うする行為であり、しかしそのような「生きる意味」を、使命を持たない私たちには残酷に思える。自爆テロ犯が、旧日本軍のカミカゼが残酷に思えるように。

ただし、彼らたちはそれだけで生きているのではない。彼ら彼女たちには、楽しかった寄宿学校の生活がある。ここでは確かに「生きる意味」を教えるための洗脳の場であったかもしれないし、行動も制限され自由も十分ではなかったかもしれない。しかしそれでもそこでは楽しい時間があった。同級生との語らいがあり、青春があり、恋や愛もあった。もちろん傷つくこともあったし、辛いこと、校則の厳しさや人生を呪う恨みもあっただろう。しかし間違いなく幸福な時間があったのは間違いない。


そう、この登場人物たちは決して「生きる意味」を全うするためだけで生きているのではない。楽しい時間があり、幸福な時間があった。それはオウム真理教やイスラム国でも同じ。戦闘員、兵士、スパイ、それらも家族や友人を作り、ビデオでは「私たちはこんな国を作りたかった」と述べる。それは真実であろう。彼らは「生きる意味」を全うするために、集団のためには死ぬことも辞さないが、一方では同士との語らい、青春なども謳歌したい、恋愛を謳歌したいのだ。そこには寄宿学校もオウム真理教も、そして私たちの日常も変わりがない、人生の真実がある。

もし、主人公が、恋人が、友人が死んでいくときに、この幸福な経験を思い出すとしたらどうだろう。彼らの人生は幸福と言えるのだろうか。「生きる意味」を全うすることに悲壮感だけでないものを感じるとしたら、恐らく彼らの前半生の幸せを肯定することになるのだろうか?あるいは「生きる意味」全うすること自体に幸せがあるのだろうか?

そして補足であるが、寄宿学校の、主人公たちと異なるのは、オウム真理教やイスラム国の住人たちは主人公のように幸せな前半生すらないのだ。だから、私たちの結論は、結果的にその集団の何気ない時間を、日常を肯定することになるかもしれない。彼らは「生きる意味」だけでなく、幸せも感じられないのだから。そして集団に入ることで、「生きる意味」もし幸せも手に入れようとするのだから。

そんな形でならば「生きる意味」など要らないと思う人たちも多いだろう。多分その感想は正しくて、生きる意味を追いすぎると、悲劇が待っている。だからこそ人間には生きる意味など必要なくて、その生きる意味のなさそれ自体が、人間の尊厳そのものだと思うのである。

これまで書いたことに関しては、登場人物が臓器を提供することを、老人が別の世代に知識や経験を与えること、そのように考えることができるだろう。そこで「生きる意味」を追い求めすぎるとこの世界が苦しくなる。残りある寿命、人生の中で、生きる意味に縛られすぎずに、どうやって生きていくか。それが人生の「後半」や「最終盤」だとしても、その行為自体に、或いはそれをする人間(つまり老人)自体に尊厳を感じることができる。カズオ・イシグロのこの小説は、高齢社会の問題が生じている現在、このように読むことができるのではないだろうか。


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