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【寄稿C】⑷ 物語ることで救われるということ 精神科医 菅原一晃
交流の広場 | 2021.05.21

物語ることで救われるということ

〜ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』を読む〜



菅原一晃

聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院 神経精神科

それほど日本では有名ではないのですが、私が好きな小説家にジャネット・ウィンターソンがいます。久しぶりに彼女の『灯台守の話』を読んでみました(岸本佐知子訳 白水社2007年、 新書版2011年、原著Lighthouskeeping、2004年)。

本書を開くのは私にとって10年ぶりになりますが、それなりに臨床経験を重ねてきますと、以前とは読了感が全く違ってきます。多くの問題が存在する現代社会において、歳をとりながら生きていく、あるいは生き長らえていくためのヒントがそこにはあるように感じます。



1. あらすじ

たった一人きりの身内である母を失った少女シルバーは、灯台守のピューに引き取られる。盲目のピューは暗い部屋に住み、海を照らす光を灯し、シルバーに夜毎お話を聞かせる。灯台は光をともす場所。物語という光もともす場所。引用します(新書版61頁)。

   お話して、ピュー。
   どんな話だね?
   ハッピー・エンドの話がいいな。
   そんなものはこの世のどこにもありはせん。 
   ハッピー・エンドが?
   おしまい(エンド)がさ。

物語は、現代のピューとシルバーの暮らし、それから一世紀以上前に生きたバベル・ダークという男の思い出(これはピューがシルバーに語ったこと、かび臭い日記に書かれていたこと)、この二つ物語が同時進行に進んでいきます。

人間は一人でこの世界に生まれてきますが、父親がなく、さらに幼少期の時期に母親を亡くす、というのは強い外傷体験になるはずです。この作品の作家のジャネット・ウィンターソン自身が孤児であり、養子として生きたことを考えれば、この小説の主人公は作家自身にも思えてきます。

主人公は灯台守の元に預けられ、そこで様々な話を聞かされます。小説の一番の主軸は、一世紀以上前に生きた、一方では普段は牧師として生き、もう一方では一年のうちに2ヵ月だけ姿を変えて別の街でかつての恋人とその子どもとくらす男の話。そしてたぶん、それ以外にも多くの話を聞かされたことでしょう。


現代と異なり、以前の航海というのは命の危険を伴うものでした。海を進んでもきちんとしたナビゲーションがないので、どこに進めば良いかわからない。そして岸に灯りが見えたと思っても、それが海賊で、自分たちの財産や生命を奪われることもしばしばありました。その意味では、灯台というのは命綱であり、航海の上で本当に重要な役割を果たしていたのです。

2. 航海すること、生き延びること

航海をする中で難破することがあり、仲間が亡くなることもある。その中で助かった人間というのは「物語ってきた人間」といいます。かつて訪れた土地、巡ってきた灯台、とにかく多くのことを話していく。もしそれが尽きたならば、今度は自分のことを話していく。もちろん状況的に絶望的なことはあるでしょう。物語ることが何の助けにならないことはあります、それは当然のことです。しかし、何もできないからこそ、できることは物語ることとも言えるわけです。

同じようなことは臨床の場面でもしばしばあります。人間が生きていく中で、様々な災厄に見舞われます。親しい人間と引き裂かれたり、大切な人間が亡くなったり、仕事上で大きな失敗をしたり、謂れのない噂で傷ついたり、災害で家や財産を失ったりと、多くのことが起こります。そのとき人間はどうしても正常で居続けることはできずに、身体的に、或いは精神的に異常を来すことがあります。

その後、特に精神的に回復した人間たちに聞いてみると、最悪な時期というのは自分の生き方を見失ってしまっているようです。先のことが分からないのはもちろん、これまで自分がやってきたことが果たして正しかったのかも分からなくなってしまう。それが精神科でいう「神経症(ノイローゼ)」の状態だと思います。逆に、良くなっている過程で、「そう言えばあの時‥」というように、何らかの形で自分の人生を再構成している語りをすることもあり、それはやはり自分を語ることが自己治癒的な役割を果たしているのだと思います。

もっとも、「語ること」が回復のきっかけや原因になっているのか、或いは回復しているから語ることができるようになったのかは分かりません。恐らく両方の可能性があるでしょうし、人間というのは様々なので、「物語ること」の在り方や意味がそもそも人によって異なるのでしょう。

3. 分裂する存在である人間

この作品で対比されるのが、一世紀前に生きた「ジキルとハイド」さながらの二重生活をする男と、主人公です。前者も後者も、人生に迷い、大事な人間を喪失する体験をします。前者は結局絶望感に苛まれますが、後者は人生を肯定的に捉える。

けれども、私はそう簡単には両者の比較はできないと思います。人間は生きているので、その人生が終わるまでは何があるか分からないからです。後者もやはり人生に絶望するかもしれないし、二重生活に至るかもしれない。小説が30歳前後で終わっているのを見ても、まだまだ人生先は長いとしか思えないのです。

それでも主人公には「物語る」という武器があります。小説の中で主人公は不安定になり、抗うつ薬を飲まされたり、タヴィストックの精神科医と面接したりする場面も出てきます。それは読んでいて非常に苦しくなる場面でした。

主人公と精神科医の会話では、あまりにも出鱈目で行き当たりばったりの生き方をする主人公に精神科医が統合失調症の疑いをかけ、「自分にはいくつもの人生があると感じることはあるか」と聞きます。それに主人公は「もちろんです。たった一つだけの物語を話すなんて、そんなの不可能です」と答えます。

統合失調症は以前精神分裂病と呼ばれていました。精神科医の中井久夫は、彼らや彼女らが柔軟な考え方や生活ができないことに対して、精神分裂病ではなく、むしろ「精神単一症」ではないか、とどこかで言われていましたが、統合失調症に限らず、神経症も含めて、精神的な失調になると、物事の捉え方が多様性を失い硬直します。

その意味でこの小説が私たちに提示してくれているのは、物語ること、自分だけではなく誰かの人生や生き方を物語ることだと思います。

4. 物語り、生き長らえていく人間

短い人生の中で、人間は多くの生き方をできません。しかし、物語ることにより追体験することはできます。物語ることで常に別様に生きるということ。それが言語を使うことができる人間の一番の強みであるのではないかと思います。

現在の高齢社会においては、どう生きればよいのか悩まれている老人が外来などでも多いように感じます。すでに人生をやり尽くしてしまったと思っている方、病気でやりたいことができない方、定年して満を持して海外旅行に行こうと思っていたらコロナ禍でなにもできなくなった方など、様々です。壮年期までは順風満帆であっても、その後燃え尽きてしまう方をしばしば目にします。

その中で、これまでの越し方を振り返るために物語ることは一つの処方箋ではないかと思います。認知症の老人が若い頃の思い出を生き生きと語る際に、目が輝きだす瞬間を何度も目にしました。人間とは「物語る存在」であり、物語ることで生き長らえてきたことを常に実感します。

最後に、この小説の一説を引いて終わりにします(新書版151頁)。

最良の物語には言葉などない、という意見もある。それは灯台守として育てられなかった人たちの言うことだ。確かに言葉はぽろぽろこぼれ落ちるし、大切なことは往々にして言葉にされずに終わる。大切なことは顔つきや仕草で伝えられるのであって,不器用にもつれる舌によってではない。真実は大きすぎるか小さすぎるか、いずれにせよ、言語という鋳型には寸法が合わないものだ。それは私だって知っている。でもわたしは他のことも知っている、なぜなら私は灯台守として育てられたのだから。日々の雑音のスィッチを切れば、まず安らかな静寂があってくる。そしてつぎに、とても静かに、光のように静かに、意味が戻ってくる。言葉とは、語ることのできる静寂の一部分なのだ。


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