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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿C】医師 菅原一晃シリーズ > 【寄稿C】『新版「生きるに値しない命」とは誰のことか』に寄せて:精神科医 菅原一晃
「負の遺産」を
可視化するということ
『新版「生きるに値しない命」とは誰のことか』に寄せて
精神科医
菅原 一晃
私自身は 一介の精神科臨床医にすぎません。研究者でなにかを日々究めてわけでもなく、また 哲学に関しても素人です。しかし 学生時代には ドイツ哲学には 元々興味がありました。そして 学生時代に 森下先生が訳された『「生きるに値しない命」とは誰のことか』を読んで その文化的意義(負の意義も含めて)を考えるようになっていました。
2017年7月から2019年3月の期間 ドイツのハイデルベルク大学に留学しましたが、ハイデルベルクに留学してからは ずっとこの本のことを頭に浮かべながら行動していました。
ドイツのハイデルベルクという街は 人口14万人強の それほど大きくない街でありながら ハイデルベルク大学という有名大学があり、特に 医学部・物理学部・哲学科では ドイツのなかでも最高レベルであることから ヨーロッパの様々な国から 留学生や研究者が集まり、また 日本でも 京都大学、大阪大学、東北大学、東京学芸大学、三重大学、早稲田大学、上智大学、などの大学と交換留学をしていることから 日本人の学生や研究者も多い街です。
私も 日本人やドイツ人、さらには 他の国の人たち、研究者から学生、他の国からドイツに移民し生計を立てて生活している人など 多くの方々と親密になることができました。
その中で 実は ドイツに持っていった本の一冊が 旧版の『「生きるに値しない命」とは誰のことか』でした。ビンディンクとホッヘの文章に関しては 常に緊張感あるものとして 断続的に読んでいました。この本を読むに当たって 私がドイツに住んで感じたことを述べることで 何か参考になればと思い この文章を書かせていただきます。
©︎Y.Maezawa
私は ハイデルベルク大学精神科において 精神病理や現象学部門を担当している トマス・フックス教授 の講座に 籍を置かせていただきました。
フックス教授は 精神科医でありながら 哲学の博士を持ち、また ドイツでは 大学教授になるためには 大学教授申請資格(ハビリタツィオーン)というのがあるのですが、同資格で 医学と哲学の両方を取得している 極めて珍しい方で、世界一有名な精神病理学者 といってよいと思います。
ミュンヘン大学を卒業し 資格を取得された後に ハイデルベルク大学に来られ、カール・ヤスパースセンター教授 という肩書を持っており、『精神病理学総論』を記したカール・ヤスパースの後継者 という風に ドイツ国内外で見做されています。そこで 現象学部門 という講座が成り立っています。ドイツの大学教授は 年間を通して 講義を担当していますが、フックス教授は 医学部、哲学科、さらには 心理学の講座も担当していました。
そのフックス教授の下には 世界各国から 多くの研究者、主に 現象学を専門とした哲学者が留学されていました。彼らや彼女らの国は様々ですが、私が在籍させて頂いた期間では ドイツは勿論のこと、イタリア、スペイン、スイス、ベルギー、ロシア、中国、イスラエル、メキシコ、チリなど 本当に多くの国から来ていました。この研究室では 大体 毎月1回火曜日に 留学生の発表、水曜日には ドイツ国内 或いは 国外からの哲学教授の発表を 聴く機会がありました。
この教室のテーマは 現象学 であり、発表の内容も 主に現象学関連のものが多いのですが、現象学の開祖である フッサールの未発表原稿・手記である フッサリアーナ が ハイデルベルク大学にあることから、フッサールの文献研究を突き詰めた研究、或いは フッサールなどの現象学的な知見をもとにしながら統合失調症や発達障害、うつ病などの精神疾患を考察する精神病理学的な研究、現象学というよりは むしろ 脳科学や心の哲学といった関連した哲学・認知科学領域をメインにした分野横断的研究など 多くのものがありました。
いずれの発表もレベルが高く、また 抽象度が高いものも多いため 理解するのが難しい発表も多くありました。発表の言語に関しては、留学生は ほとんど英語で発表し、ドイツ人教授の場合には ドイツ語、ドイツ以外の国の教授は 英語 というものでした。
またこの講座の中心メンバーなどから構成される学会であるGerman Society of Phenomenological Anthropology, Psychiatry and Psychotherapy (DGAP)では半年に一回程度の頻度で国際ワークショップを開催していますが、2018年9月にはハイデルベルクで大規模な国際学会が開催されました。世界中の現役の有名な現象学者・精神病理学者が一堂に会するまたとない機会でありました。
©︎Y.Maezawa
私は 校舎が異なる医学、哲学、心理学、その他の授業に 数多く参加しました。ドイツでは 大学はほぼ無料(但し ハイデルベルク大学のあるバーデン・ヴュルテンベルク州では 2017年10月から EU外の学生は 1学期1500€ 払わなければならなくなりました)であるのに加えて、かなり多くの授業や講義が 一般講座として 市民に開かれており、街の至る所に その告知のポスターが掲示されています。
医学、心理学、社会学、アメリカ学、美学、翻訳通訳学などなど…私は 時間があれば 自分の専門以外の分野の授業にも積極的に参加しましたが、これらの授業には 多くの社会人やかなり年を召された方も参加されていて、さらに 積極的に質問もされていました。このあたりは 日本精神神経学会の年次総会などで ほとんど質問が出ないことが多いのと対照的で、ドイツでは どんな講義でも質問が多く、授業は 概ね90分ですが 最初60分が講師による講義で 残り30分が質問時間となっています。
また 一般講座の講義は ハイデルベルク大学の教員だけでなく、国内外からも多種多様な講師が来ます。例えば 哲学科の講義では 『なぜ世界は存在しないか』 が日本でもベストセラーになった マルクス・ガブリエル の特別講義もあり 参加しましたが、ガブリエルは ドイツでも有名なため 会場に人があふれて 別会場での中継が必要になる様子も目にしました。
その数々の勉強会の中で 印象に残ったものがあります。
それは ハイデルベルクのアカデミーで ヤスパースとハイデッガーについての講演会 が開かれた時のことです。
フックス教授が ハイデッガーの 『Schwarze Hefte(黒ノート)』 について発表された際 学者以外に参加した一般人も合わせて 多くの人が 発言し、非常に荒れたものになりました。
ハイデッガーは ナチスに加担した哲学者 ということで 彼の存在論哲学自体以外に パーソナリティ面では いろいろな評価があると思いますが、ドイツ人にとっては 「ナチス」「ユダヤ人問題」 そして それに関連するような「ハイデッガー哲学」というのは 常に考えなくてはならない「しこり」を残したものである と感じました。
会場では 哲学を専門としている学者だけではなく 一般の市民も このような勉強会に参加し そして 発言 特に苛烈な発言をしていたことに 問題の大きさ・関心を肌で感じました。
私が所属していた ハイデルベルク大学の精神科 というのは 前述のカール・ヤスパース、クルト・シュナイダー、その前にも ドイツ精神医学の祖であるエミール・クレッペリンなど、戦前・戦後のドイツ精神医学に影響を与える人物を多く輩出しました。しかし ナチス時代には負の部分も背負っていました。
ナチス時代に ハイデルベルクの精神科教授であった カール・シュナイダー は T4計画で主導的な役割をしました。ハイデルベルクの旧講堂に隣接したハイデルベルク大学の博物館は 観光名所の一つでありますが、そこには ナチスの負の遺産も紹介されており、カール・シュナイダーや彼らの計画も批判されていました。
それに加えて ハイデルベルクの旧市街で 私が住んでいたメインの中央通り、Hauptstraßeの地面には ところどころ躓きの石と言われる板が埋められ、ユダヤ人など 連れ去られ 殺されたであろう人々の 名前や出身地、生年月日や行き場所(死に場所)が書かれていました。家の近くには 「水晶の夜」 で破壊されたシナゴーグ跡地が 解説付きで 空間そのものが残っていました。また ハイデルベルク大学の精神科病院、私の職場には プリンツホルン美術館が隣接しており、そこには 100年前の精神科患者たちが作成した作品群が 数ヶ月替わりで 展示されていました。
街中で 日常に このようなものを目にする機会が ドイツには非常に多いのですが、過去の罰や罪を 国民がどれだけ意識しているか という評価は 難しいと思います。しかし 可視化した形で残すことは 重要なのではないかと このようなものを見る度に 感じました。
国際学会で ベルリンに行った際には ユダヤ人の共同墓地をも見たことなども それらの延長線にあるでしょうか。
蛇足でありますが、知り合いのユダヤ人がいて、イスラエルやナチスの話が出ると、彼はそれまで開いていた入り口のドアを閉めて、例えば「お前は週末にニュルンベルクに行くと言ったが、ニュルンベルクが俺たちにとってどういう土地か分かるか」などと尋ねてきました。私が知っている人、出会った人たちの中で、ユダヤ人ということを隠している人も少なからずいたと思います。
また 高齢のドイツ人の中には、ナチスのことを知りながら 黙って暮らしてきた人たちも 沢山いた と思われます。このように ドイツでは 常に ユダヤ人問題、ナチス問題、或いは 移民や政治的な問題について 嫌でも考えざるを得ないことが 多かったのです。
今回 ハイデルベルク大学での生活で 思いついたものを報告させていただきましたが、日々の生活その他で得られることも多く、ドイツと日本の風土の差が 多くの精神性、さらには 精神病理の差に つながっていることを実感しました。
全体を通してみると ハイデルベルク大学 というのは 多くの授業や特別講義が 内部の人間だけではなく、学生や市民にも開かれており、非常に開かれた環境である と思います。
実際に 講義では 学生よりも明らかに年をとった一般の方の参加、さらには その方々が質問をする光景を 何度も目にしました。また ハイデルベルクは ヘーゲルやマックス・ウェーバー、カール・ヤスパースなどの 有名な哲学者たちが活躍した場所でありますが、パン屋でパンを食べている時に 隣に座った高齢の女性と目が合って話すと、その人は 昔哲学を勉強したことがあって ヴィトゲンシュタインやヘーゲルの話をする、というようなことが しばしばありました。
現在のドイツでは 古くからの看板の学問 ともいえる法学や物理学が 人気を失っている一方で、医学に加えて 心理学や薬学といった 実用的で開業ができる科目が 非常に人気のようですが、哲学、さらには それを精神医学の立場から考える精神病理学などは 潜在的には非常に関心があることを 肌で実感します。
私の上司である フックス教授 は 一般の人たちの中でも割と有名で、例えばハイデルベルク大学の臨床心理学の連携講義で 教授が講義の時には 聴講者は入り切らず、立ち見が出るほどの 人の入りでしたし、同じく フックス教授が精神分析研究所主催の講演をした時も 60人程度の部屋に 100人以上の聴講者が参加する などの大人気でした。
しかし その一方で、学問としての 精神病理学 はさほど人気がなく、「精神病理」という単語は 日常的に使われますし、臨床講義でも 必ず ドイツ精神医学の原点として エミール・クレペリン、カール・ヤスパース、クルト・シュナイダーの名前が出てきますが、どちらかというと 古い過去の知識 という感じで、診断も操作的診断基準に基づくようなものがメインになっていて、臨床面では 日本もドイツも 大して変わらないように見受けられました。
但し 精神分析や力動的心理療法は盛んで、街中では これらのクリニックを開業する心理士が多く、また 医学的心理学講座では 瞑想(マインドフルネス)の集まりを毎週行っていたり、その他の一般向けに 禅 や 気 についての 張り紙が 街中にあったりする など、薬物療法以外の試みなどは 日本と比べても 非常に盛んである と思います。
また レストランやお店でも 知らない人同士で 普通に話したりすることが多いなど、自分の立場を超えて話す機会は 日本と比べて 圧倒的に多いので、そのあたりの考え方や風土は 日本と全く異なる と思います。
ドイツ精神医学といえば 日本では 精神病理学、ヤスパースの『精神病理学総論』、シュナイダーの『臨床精神病理学』のようなイメージかもしれませんが、それは 50年以上も前のイメージであり、現在は そのようなものは ほとんど廃れていると感じます。
ブランケンブルクを読んだことがある人も ほとんどいないようです。ヤスパースやシュナイダーを援用するのは あくまでも 伝統と教養主義のためであり、実際には 非常にプラグマティックで、診断は 信頼性のために ICDを用いて、治療は 薬物療法の他に認知行動療法、さらには 力動的精神療法やその他種々の療法、生活習慣の指導など、使えるものは使う といったように思えます。
但し 保険制度が行き届いており 選択肢が多く また 精神科医含めて 休みを取りやすい(30日の有給休暇を誰でも取れる)ことなど、社会の仕組みが 日本や 私が聞くところのアメリカと異なっているのが大きいのではないか と思います。
医師にも 患者にも 様々な意味で 余裕があるように 思われます。
今後も ドイツ精神医学は プラグマティックな様相を呈し、日本とアメリカとの違いは 一見あまりなさそうなものになっていく と思います。しかし その一方で ヨーロッパが備えた社会主義(社会民主主義)の精神なども踏まえると 見えない部分で 大きな違いを生んでいくことになる ともいえるでしょう。
このようなドイツでありますが 前述のように 街中には 常に ナチスドイツの遺産を 注意していれば 目撃することができます。ハイデルベルクが誇るべきドイツ精神医学の遺産を忘れるようになっても、ナチスの過去に関しては 可視化している影響もあり、完全に忘れ去られることはないでしょう。
日本に住む私たちは このようなドイツのように「可視化できる負の遺産」がある環境に住んでいません。そんな中で 今回新しく『「生きるに値しない命」とは誰のことか』が発売になったことは 僭越ながら とても嬉しいことであります。
少し大袈裟な言い方になりますが 私はこの本を後世に伝えるべきものと思っていますし また ドイツに留学したことで 私自身の経験も含めて考えてきたことも 一緒に伝えて行く必要があると思っています。
(編集:前澤 祐貴子)