お知らせ

「ピンピンコロリ」という呪文の影で
〜生の減速 と 消えゆく螺旋の美学〜
「ピンピンコロリ(PPK)」
死ぬ直前まで変わらず元気に過ごし、ある日突然綺麗に逝く……
そんな願望が 高齢者の間に広く定着したのは、いつの頃からだろうか。

死に怯え、泣き叫ぶ姿を晒したくない。
痛みにのたうち回り、自我が壊れていく恐怖に耐えられない。
不自由な環境の中で誰かに指示され、支配される生活を送りたくない。
そして
自分の知らない自分へと落ちていく現実を受け入れられない……

私たちが知っている数々の生々しい現実があるからこそ、「PPK」は一筋の救いを求める呪文となった。延命措置の拒否、救急車の辞退、果ては安楽死の議論まで、高齢者の取る自衛策は今や多岐にわたっている。
しかし仮に、PPKが理想の死だと仮定してみよう。それを可能にする死因とは何だろうか。
心臓麻痺、突発的な脳血管障害、事故、あるいは天災。それらはどれも強烈な事象であり、言い換えれば「本人すら死を予期できない瞬間」に訪れるものばかりだ。
そこには、大きな裏腹のリスクが潜んでいる。予期せぬ衝撃から「たまたま生き残ってしまった」とき、人は本人の理想とは真逆の、最も恐れていた重い障害を抱える余生を送ることになる。PPKの追求は、本質的にこの大きな賭けと背中合わせなのだ。

そもそも、「死に方」とは何だろうか。

閉じられた生の循環から、徐々に「死」というゼロの循環へと近づいていく過程は、飛行機の着陸に似ている。強いブレーキか弱いブレーキかは別として、減速もまた加速と同じく、複雑で繊細なコントロールを必要とする。
さらに人は、社会的関係の中で生きる生き物だ。誰かの突然の死という失調は、残された同胞の心に「ロス」という負のブレーキをかける。そして何より当の本人は、「今日、今この瞬間」に降りかかる突然の終わりに、本当の覚悟ができているのだろうか。「明日ならいいけれど」と笑うのが、人間の本音ではないだろうか。
自然界に目を向ければ、摂理に従い、何ものも自らの死に方を選ぶことなどできない。食われるもの、環境に適応できなかったものは、当たり前に淘汰されていく。人は生を手中に収めた勢いのまま、死をも支配下に置きたいのだろうか。

…だが、もし「老い」そのものの意味を捉え直したなら、景色は全く違って見えるはずだ。
酸いも甘いも噛み分けた「老い」とは、本来、人生の中で最も至福に満ちた時期なのではないか。老いを慈しむ社会においては、人生の最期の一瞬までが意味を持ち続ける。効率主義やスピード感から解き放たれた「余白」や「余裕」こそが、人が醸し出す美しさの核なのだから。
人生の余白を慈しみ、楽しみ、他者へと配り還元する循環の中に身を浸すこと。
それは、渦の中心(主役)から外周へと移りながら、身をちぎるように自らを分け与え、静かに消えていく過程である。
その螺旋の果てに自らが消えゆく姿こそが、次に続く「群れの螺旋」を回していく力強い遠心力になるのではないだろうか。
突然消え去ることだけが、美しい終わり方ではない。己を削り、社会へ還しながら緩やかに減速していくプロセスにこそ、人間本来の「美しき着陸」があるのかもしれない。
(記: 前澤 祐貴子)