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【寄稿B】《18》「痩我慢の説」を読む 西遠女子学園 学園長 岡本 肇
時代への提言 | 2024.03.15

©︎Y.Maezawa

「痩我慢の説」を読む

西遠女子学園 学園長 

岡本 肇

福沢諭吉は 明治24年(1891年)に 「痩我慢(やせがまん)の説」という文を書いた。

その中で 勝海舟や榎本武揚の維新前後の身の処し方を批判しながら 痩我慢の精神の大切さを説いている。

その第一行は 「立国は 私(わたくし)なり、公(おおやけ)に非ざる(あらざる)なり」 と一刀で両断するような 鋭い言葉で始まる。「学問のすゝめ」が 「天は 人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という名文で始まっているように である。

「学問のすゝめ」は 開国したばかりの日本の「民心の改革」を目指して 正規の教育を受けていない人々にもわかるように 嚙んで含めるように 易しく書かれているが、「瘠我慢の説」は 対象が違うので難解である。

福沢は 海舟と武楊に 「瘠我慢の説」という草稿に 心に釈然たらざるものを記し、いずれ世に出して 後の世の為にしようと思っている。当の御本人に 「何かご意見があれば 拝承いたしたく候」と手紙に書いて 「瘠我慢の説」を送っている。あなたのことについて書いたが 間違いがあれば 教えていただきたい というわけである。

©︎Y.Maezawa

釈然としない一点は 海舟が江戸城を無血開城したことである。一般には 江戸の町を戦火から救い、無益な血を流さなかったことで 高く評価されている。

しかし 福沢は 「敵に向かって 抵抗を試みず、ひたすら和を講じて 自ら家を解きたるは 日本の経済に於いて 一時の利益を成したり といえども、数百千年養ひ得たる我日本武士の気風をそこなふたるの不利は 決して少々ならず。得を以て 損を補ふに足らざるものといふべし」 と これによって 日本人が昔から養ってきた気概を損なってしまった と言っている。

「戦いで 勝ち目がない時でも 死力を尽くして 戦って 最後に講和をとるか、最後の一人まで戦うか、決めるのは立国の公道で 国民は国に従う義務と称すべきものなり。これが 痩我慢というもので その精神は 国民一人ひとりの心の中にあるものである。国家を維持保存しようとすれば、痩我慢の精神こそ 大切である。」 だから 上からの愛国主義でなく 一人ひとりの独立の精神が大切で 「立国は 私なり。公に非ず」と言ったのだろう。戦わずして 江戸城を明け渡したのは 「我日本国民に固有する痩我慢の大主義を破り、以て 立国の根本たる士気をゆるめたるの罪はのがるべからず」 と 苦言を呈している。

©︎Y.Maezawa

第二の論点は 維新後の海舟や武揚の 明治政府への身の処し方である。
凡そ 何事に限らず、大挙して某首領の地位に在る者は、成敗共に責に任じて、決して之をのがるべからず」と 指導者であった者は 勝とうが負けようが 自分で責任をとらねばいけない と言っている。
特に 敗れた者は 「政治上の死にして、たとひ其肉体の身は灰せざるも、もはや政治上に再生すべからざるものと観念して、唯一身を慎め」と その退き方や 退いた後の処し方を説いている。

海舟は 維新後 新政府の海軍大臣の職に就いたり(僅か一年間だが) 明治憲法が出来た時には 正三位を ついで 従二位を 贈られている。また 枢密顧問官にもなっている。武揚は 出世して 農商大臣、通信大臣、文部大臣などを歴任している。

福沢は 海舟が和議を主張して 戦いを避けた功名は認められても、幕府を滅亡させた功で 新政府から高位高官を授けられた とするならば たとえ 自ら求めたものでなかったにせよ 幕臣の身であったことを思えば その功名も手柄も色褪せたものになるのではないか と言っている。

武揚は 幕府滅亡後も 主戦論をとって 北海道箱舘まで行き 力尽きて敗れるまでは 見事であるが、降参して 放免された後 「青雲の志を発して 新政府の朝(ちょう)に富貴を求め得たるは、さきにその忠勇を共にしたる戦死者、負傷者より、流浪者貧窮者に至るまで、すべて同挙同行の人々に対して、いささか慙愧の情なきを得ず」 と 世に出て 敵であった政府に仕えて 立身出世したのは、共に戦って 戦死したり 没落した部下に恥ずる所があるはずだ と言う。

今からでも遅くないので 両名とも 職を辞し 官位を返上して 「唯その身を社会の暗処に隠してその生活を質素にし、一切万事控目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」と 謹慎するように勧めている。

福沢は 英語、オランダ語が分かるために 幕末に 「外国奉行翻訳方」を命じられ、一時期 幕臣であったことがある。期間は短くても 「二君に仕えざる」の節義を盾に 明治政府の出仕の要請を断った。そんな福沢から見れば 海舟や武揚の「新政府の朝に立っての富貴に得々たる様子」に「心 釈然たらざるもの」があったのだろう。

©︎Y.Maezawa

福沢はこの文を時節を見計らって公表するつもりで 机中に閉まっておいたが いつの間にか 世間に漏れてしまい 話題になったので 明治34年1月1日に 時事新報に掲載し その1ヶ月後 2月3日に亡くなった。
「痩我慢の説」は 多くの論客の俎上に載り、 福沢諭吉自身の評価から 日清、日露、第一次、第二次大戦の都度、国家と個人、愛国心とナショナリズムについて 沢山の文献が出された。これは 昨今のウクライナ、パレスチナ、台湾などの問題にも 通用するかもしれない。

©︎Y.Maezawa

最後に 福沢が海舟に出した手紙の返事を載せておく。

行蔵(こうぞう)は我に在す。

毀誉(きよ)は他人の主張、我に与らず(あずからず) 我に関せずと存じ候。

各人之御示御座候とも毛頭異存無之候 (もうとういぞんこれなくそうろう)」

出処進退は 自分自身で決めること、

けなしたり 誉めたりするのは 人にすることで 自分には関係ありません。

誰に見せても 少しも不服はありません。

©︎Y.Maezawa

(編集: 前澤 祐貴子)

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