交流の広場

老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿C】医師 菅原一晃シリーズ > 【寄稿C】No.11 モーパッサンの「首飾り」を読む 精神科医 菅原一晃

【寄稿C】No.11 モーパッサンの「首飾り」を読む 精神科医 菅原一晃
時代への提言 | 2023.06.23

©︎Y.Maezawa

人生を感じられる 時間と場所 をめぐって

モーパッサンの 「首飾り」*

を 読む

* 『モーパッサン短編集』 (山田登世子編訳 ちくま文庫) より

精神科医

菅原一晃

モーパッサンは 短編小説の名手 として知られています。

人間には 誰しも生きている限りにおいて いろいろな出来事や事件が起こりますが、その喜怒哀楽のコントラストが モーパッサンの小説では 非常に大きいのです。

©︎Y.Maezawa

今回は その中でも有名な作品であり、また 「私たちが生きていることは どのようなことか」を考える上で 非常に示唆的な作品を 取り上げていきます。まずは「あらすじ」ですが 秀逸なまとめが wikipediaにありますので それを引用しましょう。


マティルド・ロワゼルは 美しい女性であるが、文部省の小役人と結婚する。日頃から 自分ほどの器量良しなら どんな贅沢でも望めたのに と考えており、自分には手の届きそうにない上流階級の暮らしや 優雅なお茶会、晩餐会を 空想していた。

また 彼女は ドレスやネックレスといった類のものを持っておらず、そのくせ 自分は それらを身に着けるために生まれてきた と考えるほど そんなものばかりが好きであった。それほどまでに 彼女は人にうらやまれたり、ちやほやされたり したかったのだ。

ある日 夫は 彼女が喜ぶだろう と思い 苦労して 大臣主催のパーティーの招待状を手に入れて帰ってくる。ところが マティルドは パーティーに着ていく服がない と言いだし 大粒の涙を流す。

そこで 夫は仕方なく なけなしの400フランを 妻のドレスを仕立てるために差し出すのであった。しかし パーティの日が近づき ドレスが仕立てあがっても 彼女はふさぎ込んだままであった。夫が訳を尋ねると 今度は 身に着ける装身具がひとつもないからだ と言うのである。夫は 友人のフォレスチエ夫人に借りに行くように 提案する。

フォレスチエ夫人は 気前よく 宝石箱を開けて見せ、マティルドに どれでも好きなものを持っていくように言う。その中でも ダイヤの素晴らしい首飾りが どうしても欲しくなったマティルドは それを借りていくことにする。

パーティー当日、美しく上品に着飾ったマティルドに 男という男は 目を向け、ダンスを申し込みたがった。彼女は おのれの美貌の勝利、成功の栄光に浸りながら 至福のなかで 無我夢中になって踊るのであった。

ところが、パーティーからの帰宅後、マティルドは 借りた首飾りを失くしたことに気づく。夫と共に探すが どうしても見つからない。そこで 夫は 同じ品を見つけて返すことを 提案する。

宝石商を渡り歩いた末、借りたものと寸分違わぬ首飾りをみつける。

ところが それは 最低でも 3万6000フランはするものであった。結局、借金をしてまで その首飾りを買い、何食わぬ顔で フォレスチエ夫人に返すのであった。

それから ロワゼル夫妻は 巨額の負債を返すため 住まいも引き払い 屋根裏に間借りして 切り詰めた生活を送ることとなる。

今までメイドに任せきりであった家事を 一切こなし、買い物に行く際も なるべく値切っては 苦しい財布から一銭でも守ろうとした。

この苦しい生活は10年続き ついに 借金を全て返し終えたのである。

マティルドは 貧乏生活が身について かつての美貌は失われていた。それでも時々 楽しかったあの日のパーティーを思い出すのであった。

ある日 マティルドは 偶然に シャンゼリゼでフォレスチエ夫人を見かけ 思い切って声をかけた。すっかり変わってしまったマティルドに驚くフォレスチエ夫人に「こんな貧乏をするのも もともとは あなたから借りた首飾りを失くしたからだ」と言う。フォレスチエ夫人は 借金をしてまで首飾りを返したマティルドに よほど感動したらしく、彼女の手を取り こう言った。「まあ、どうしましょう、マティルド!私の貸した あの首飾りは 模造品だったのよ。せいぜい 500フランくらいのものだったのよ!」

©︎Y.Maezawa


この小説では、登場人物の夫人は 自身が夢に見たパーティーに参加するために、自身を着飾る装飾品である首飾りを 借りました。が、それ故に その首飾りを紛失し、それを返すために 10年以上費やし、結局 それが安物であった というオチとなっています。

主人公の運命に関しては、道徳的な視点から 分不相応なことをした報いであるとか、紛失したことを言わずに済ませようとした罰 というような見方もあると思います。

実際 私が今回読んだ手元にある小説集の訳者解説では、ひとりの女の浅はかな虚栄心が とりかえしのつかない人生の転変をひきおこす 「愚かさ」の残酷さ を描いてこれに勝る作品はないだろう と書かれています。

たしかに 普通は そのように読むことができます。

それに対し 植島啓司『生きるチカラ』(集英社、2010年)の中で 「本当にそうだろうか」 と疑義を呈しています。

以下 植島の見解に沿って 考えます。

©︎Y.Maezawa

植島は、

「マチルドが 自分の質素な生活に 不満を持っていたのは たしかで、そういう観点からすると、彼女が 身のほど知らずの願望を抱いたため、皮肉なことに 10年間もムダに苦労せざるをえなかった という読み方もできるだろう。彼女が夜会に行ったこと自体を 好ましいことではないと断じ、それに見合った罰を受けるのは当然のことだ と考える人もいる」

と書きつつ、

「しかし、よく読み直してみよう。

ここで重要なポイントは、マチルドも夫のロワゼルも あくまで 夜会の成功には満足している という点である。それは 彼らの人生で もっとも輝かしい瞬間だった」

と述べ、

「つらい10年間を送った後になっても、マチルドは あの夜会での悦びを しみじみと 思い起こすのであった。首飾りをなくしたのは悲劇だったけれど、なんと 彼女はあの日のことを 後悔していないのだ」(p193)

と続けます。

私見でも、人間は誰でも 損得勘定、特に 大きく損をしてしまったことに対しては 強い後悔の念を抱くことが多い と思います。

今回のケースでは、首飾りを補償するために 10年の月日を費やしてしまったわけで、その期間は 決して短い歳月ではないので 猶更である と思います。

しかし、人生の中で、何か大きなものを得るために 10年の歳月を費やす、ということは 決して珍しいことではありません。

例えばですが、スポーツで最も大きな大会に出るために 何年も努力し、しかし本番前に怪我をして出られなかった ということは しばしば聞く話であります。

また、受験勉強を 何年もかけて行ってきたけれど 本番で失敗したり、本番直前に風邪をひいたり 病気で試験自体受けられなかった などのことも、避けたいことではあるけれど、しばしば 聞く話でもあるのです。

その観点でいえば、今回は パーティーに参加した結果としては 「大成功」なわけです。

©︎Y.Maezawa

モーパッサンは 最終盤で 次の文章をもってきます。

「あの日、首飾りを失くすようなことがなかったら、いったいどうなっていただろう。そんなこと誰にわかろうか、いったい誰が。人生はなんと不思議にできていることか!ほんのちょっとしたことで、破滅したり、救われたりするのだから!」

©︎Y.Maezawa

植島は この「ほんのちょっとしたことで、破滅したり、救われたりするのだから!」 という箇所に注目し、

「マチルドが ちょっとした失敗をきっかけに 自分の人生を肯定的に捉えられるようになった と逆に見ることも 可能になるのではないか。単なるアクシデントをきっかけに、彼女の人生の見方が変わった とはいえないだろうか」 (p194)

と 大胆な解釈を述べています。

©︎Y.Maezawa

もう少し 植島の解釈を続けると 物語の最後のシーンの後について

「マチルドが どのように反応したか わからない。落胆の表情を見せたり、青ざめて すぐに 自分の人生を呪ったのかもしれない。しかし 夫人から打ち明けられる前に、『(別の品とは)気が付かなかったでしょう』と言ったときの マチルドの『得意げに、無邪気に笑った』という様子からして、彼女自身、自分の生き方を いまや のびのびと肯定しているのが 見てとれよう」 (p196)

と 書きます。

正直、そこまで肯定的な解釈をしてよいものなのか、首飾りが偽物ということにあまりにも困惑して、もう笑うしかない状況であった ともいえますが、しかし、続けて 次の文を見ると たしかに これはそうである と頷けます。

「首飾りの紛失は だれにでも起こりうる偶発的な事件にすぎない。はっきりしていることは、ちょっとした不注意はあったかもしれないが、マチルドに(もちろん夫のロワゼルにも)それほど大きな過失はなかったのである。人は すぐに ちょっとした過失を 当人の過大な欲望や好ましくない生き方と結びつけようとする。どうしても 教訓的な話にしたがる傾向がある。しかし 彼らは 人をだましたり、傷つけたりしたわけではない。そこには 最初から 倫理や道徳の出る幕はなかったのである。それをいうならば、むしろ その後に 二人がとった生き方の方を問題にすべきであり、そこを見落とすと、自分とは まったく関係のない出来事になってしまう」 (p196)。

この植島の見方には 私も同感できます。

誰しも 人生で 大きな失敗をしてしまいます。受験だったり スポーツの大会、音楽の発表会、大きなプレゼンテーションだったり。その時に、失敗すると「これは 自分が体調管理をしなかったからだ」と考えたり、「自分がきちんとしていなかった」「誰々を大切にしなかった」とか、はたまた「自分には そもそも 身の丈に合っていないことをしてしまったからだ」 などと言ったりすることが多いです。

そこに 人生を賭けていたのであれば それは当然であり、悲痛な心の叫びとなって その思いが出てきます。

しかし、それは 「だれにでも起こりうる」こと でもあるわけです。

どんな人でも 順風満帆であるはずはないし、自分だけで すべて人生をコントロールできるわけでもありません。

大事な試合や試験の直前に 家族や親戚が病気になるかもしれません。

極端な例ですが、もし 受験で一緒に受けに行った親友が 試験に行く途中で意識を失って倒れた とすると、その場合 その親友を病院に連れて行って 試験を受けられないパターンか、親友を見捨てて試験を受けに行くパターン のどちらも きっと後悔を残すことになるはずです。

その決断に関して、何か 自分が悪いことをしたせい などと思うこと自体、そもそも ナンセンス と言えるのではないか と思うのです。

さらに 誰しも試験や大会で ピークを本番に持ってくるのは 非常に難しいことだ と思います。

サッカーのワールドカップやオリンピックの競技でも、普段は抜群の実績でありながら、ワールドカップ本番やオリンピック本大会で活躍できずメダルを取れない選手、というのは しばしばいます。これも、だからといって、彼らや彼女たちが何か悪いこと、間違ったことをしているから活躍できないわけでは 決してない と思います。

それほどまでに、必要な時に 必要な力を出し切ることは 難しいことなのです。

その意味でいえば、今回の小説の主人公たちは パーティーで成功しました。

勿論 パーティーの成功 と 試験やスポーツ競技の成功 は違いますが、パーティーで一番の注目を浴びて楽しむ というのは 千載一遇の夢であったわけで、それを叶えることができた というのは、試験や競技で勝ったに等しいこと なのではないか と思います。

こんなことは あり得ないのですが、例えば、「もし オリンピックでメダルをとらせる代わりに、その後 10年間は〇〇しなければならない」というような悪魔がやってきたとしたら、それに乗るアスリートは多いと思います。「受験で受からせてあげる代わりに 10年間〇〇しなさい」という約束があれば、それに従う受験生は多いでしょう。

実際に、大学受験で合格し 医学部を卒業した後に9年間 へき地で地域医療を義務付ける医学部や、産業医として働かせる医学部 というのが 存在します。また 最近では 医学部に合格し 卒業後に10年ほど県内で働くことで 奨学金を免除する仕組みを設けている県もあり、それに乗っかる学生も多いです。そもそも日本では 奨学金の仕組みの多くが 貸与式になっています。

©︎Y.Maezawa

その意味では、この主人公、登場人物たちは そもそも不幸なのか という疑問すら でてきてしまいます。

植島は 人生 という観点で このように述べます。

「ちょっと想像してほしい。まったく波風の立たない平穏な人生というものがあったとして、それは当人にとって幸せなものだろうか。

失敗がないということは とりわけ大きな成功もない ということを意味している。失敗のない成功など 決してありえないからだ。

たとえば、カジノのテーブルで1000円のチップで勝負する人が 1000万円勝つことなど ほとんどありえない。人間にはその人の分限というものがあり、それを超えるためには 超人的な努力が必要となる」。

「もちろん、波風の立たない平穏な人生が嫌だからといって 無茶をして、病気になるのもイヤだし、事故に遭うのはもっとイヤだ。

しかし 病気が全快すれば 心からうれしいし、ケガから回復したら 幸せと思うことだろう。

それは 前にも述べたとおり、たしかに 本当の幸せではないかもしれないが、それでも 悪いことが起こらなければ 自分がこうして生きていることが いいことだ と実感できなかったのではないか。いいことが起こって、そして 悪いことが起こって、初めて 自分の幸・不幸を実感できるのではないか」。

私も同意見です。

小説の主人公たちを批判する人たちが そもそも 身の丈に合わないようなパーティーに参加したことを良しとしない可能性についても 最初に言及しましたが、 こうなると その観点自体が そもそもつまらないことであろう と思います。もし 首飾りを借りず パーティーに参加しなければ、本人たちにとって 人生とは何だったのか。きっと 実際起こった「悲劇」に比べると 彩のないものになっていたのだ と思います。

人間は というより 人間こそが 過去を記憶として刻み それを言語化して振り返ることができます。その中では 嫌な記憶があり、それがトラウマとなってその人を苦しめもすることを考えると その種の能力が 良いものであるとは言い切ることはできません。

©︎Y.Maezawa

しかし 一方では その記憶があるからこそ 生きていけることがあるのも また事実です。

子どもの頃 憧れたスポーツ選手に会って それからプロを目指した という話は枚挙に欠きませんが、その人の中で よい思い出があったこと自体が 重要で、生きる原動力となっていくのです。

かつて 誰か信頼できる人に会ったりした経験なども その人が生きていく上で大きい体験となることでしょう。受験や大会で勝ち取った思い出なども 一生誇れる自信になっていくといえます。

©︎Y.Maezawa

現代の私たちは 便利で快適な生活を送ることができています。

過去には「貴族」といわれるような階級の人たちが 多くの国や社会で存在していました。今も存在している国がありますが 過去に存在していたほとんどの貴族と比べても 私たちは 豊かな人生を送ることができています。食べ物も手に入りやすく 娯楽も興じることができ また人とも繋がることが容易になっています。

しかし その一方で 心が豊かになっているかといえば 決してそうではないと思います。

職業柄 不適応を起こしたり、ストレスを感じたりする人も多く 散見されます。自分の中で 納得できるような体験や経験を感じている人は多くはないのだろう と思います。

人間は誰しも 他人と自分を比べて 生きていますし また なりたい自分や人生と実際のものを比較し その落差に躓いては 落胆していきます。

それで自身を肯定できなくなっていきます。

その中で この小説は 大きな失敗をして 10年という歳月をムダに費やしたように思ったとしても 実際には 決してそうではない という希望を与えてくれる物語である と思います。ちょっと背伸びしたとしても そして それに大きな対価を払わねばならないことがあったとしても それでも 自分の人生を肯定できること。そのような事態があるのではないか と思わせてくれるのです。

©︎Y.Maezawa

最後にもう一度 最終盤に出てくる文章を引用して このエッセイを終えたい と思います。

あの日、首飾りを失くすようなことがなかったら、いったいどうなっていただろう。そんなこと誰にわかろうか、いったい誰が。人生はなんと不思議にできていることか!ほんのちょっとしたことで、破滅したり、救われたりするのだから!

©︎Y.Maezawa

(編集: 前澤 祐貴子)

* 作品に対するご意見・ご感想など 是非 下記コメント欄にお寄せくださいませ。

尚、当サイトはプライバシーポリシーに則り運営されており、抵触する案件につきましては適切な対応を取らせていただきます。

 
一覧へ戻る
カテゴリー
© 老レ成 AGELIVE. All Rights Reserved.
© 老レ成 AGELIVE. All Rights Reserved.

TOP