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【寄稿B】➓「教えるということは 希望を語ること」 西遠女子学園 学園長 岡本肇
時代への提言 | 2022.09.01

©︎Y.Maezawa

教えるということは

希望を語ること

西遠女子学園 学園長

岡本 肇

大学を出て 社会科の教師になった時 生徒は戦後生まれの団塊の世代の高校生だった。

一クラス60人以上いる生徒に配るプリントは ガリ板というヤスリ目の鉄板の上にロウ原紙を載せて 鉄筆で字を書いて 謄写版で一枚ずつ刷って 印刷した。

この孔版印刷は 1880年にエジソンが発明したものである。

書類を何枚も写す複写機はまだなかったので カーボン紙と紙を交互に重ねて 上から強く書いて 筆圧で下の紙に写した。頑張って書いてもせいぜい5〜6枚が関の山だった。このカーボンコピーは領収書や宅急便の控えに今でも使われている。

ガリ板印刷もカーボン紙複写も筆圧を必要としたので いつも右手の中指にペンだこができていたのを覚えている。

家に帰って 原紙を一晩に2枚切るのが精一杯だった。その上 「字が下手くそで読みにくい」とよく生徒から文句を言われた。テストの合計や平均点を出すのには ソロバンが使われていたし 学校の中は明治・大正とそう変わっていなかった。

©︎Y.Maezawa

大学を卒業した時 経済学部から教職に進んだのは私だけだった。

当時の日本は 高度経済成長期にさしかかる頃で 友達は銀行、商社、大手製造会社に就職した。


それから2年目の暮れに 仲間が集まった時 ボーナスの話が出て 目の前が真っ暗になった。皆は私の3倍くらいのボーナスをもらって 車を買う話などをしているのである。

しかし 宴もたけなわになって 声が大きくなると 会社の不満や仕事の愚痴がだんだん多くなってきた。

そうか、自分は毎日生徒と一緒に楽しく過ごしている。ボーナスの時だけ ちょっと悲しいけれど この連中は年に2日だけ嬉しくて 他の日は大きな組織の中で 意に沿わない仕事やノルマで大変なのだ と思った。

実際 教員室の中は 鍋蓋社会と言われ 校長と教頭が上にいて あとはベテランも新米も皆同じで平等だった。その上 教室やクラブ活動に行けば 一国一城の主で かなり自由で気楽だった。

©︎Y.Maezawa

昨年 妻が亡くなって そろそろ自分も死に支度を と手紙や写真の整理を始めた。50年前の若い頃の白黒写真を見ると どれも生徒と一緒に笑っているものばかりだった。臨海学校、登山、スキー教室、体育大会のスナップ写真は みんな笑っていた。

「デモ・シカ先生」、「学校の常識は世間の非常識」、「先生と言われるほどの馬鹿でなし」と世間から揶揄されることもあったが 新米教師はそれなりに満足して 張り切っていたのだと思う。

©︎Y.Maezawa

その頃 ルイ・アラゴンの「教えるということは 希望を語ること。学ぶということは 誠実を胸に刻むこと」 という言葉に出合って 教師になってよかった と思ったものだった。

©︎Y.Maezawa

「窓際のトットちゃん」という本がベストセラーになり 「三年B組金八先生」というテレビドラマがブームになった頃だと思うが 様々な教育問題が学校に押し寄せてきて その対応に教育現場は苦慮するようになった。校内暴力、受験戦争、偏差値、いじめ、自殺 という問題は 特定の学校だけでなく 全国どこの学校にも多かれ少なかれ起きた。反面 雑用と言われた印刷、集金、記録などの仕事は 計算機、ワープロ、輪転機、パソコンが入ってきて 楽になったはずだが 教師の仕事はますます複雑で多忙になってきた。

仕事の困難さや長時間労働で疲れ切った教員の姿が 段々 若い人に敬遠されて 教員を希望する人が減ってきている と言われる。

国家百年の計は 教育にあり」と言うが これは大きな問題である。

もう一度 

教えるということは 希望を語ること。 

学ぶということは 誠実を胸に刻むこと」

という ロマンと夢のある学校に 戻れないものか。

©︎Y.Maezawa

(編集:前澤 祐貴子) 


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