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教えるということは
希望を語ること
西遠女子学園 学園長
岡本 肇
大学を出て 社会科の教師になった時 生徒は戦後生まれの団塊の世代の高校生だった。
一クラス60人以上いる生徒に配るプリントは ガリ板というヤスリ目の鉄板の上にロウ原紙を載せて 鉄筆で字を書いて 謄写版で一枚ずつ刷って 印刷した。
この孔版印刷は 1880年にエジソンが発明したものである。
書類を何枚も写す複写機はまだなかったので カーボン紙と紙を交互に重ねて 上から強く書いて 筆圧で下の紙に写した。頑張って書いてもせいぜい5〜6枚が関の山だった。このカーボンコピーは領収書や宅急便の控えに今でも使われている。
ガリ板印刷もカーボン紙複写も筆圧を必要としたので いつも右手の中指にペンだこができていたのを覚えている。
家に帰って 原紙を一晩に2枚切るのが精一杯だった。その上 「字が下手くそで読みにくい」とよく生徒から文句を言われた。テストの合計や平均点を出すのには ソロバンが使われていたし 学校の中は明治・大正とそう変わっていなかった。
大学を卒業した時 経済学部から教職に進んだのは私だけだった。
当時の日本は 高度経済成長期にさしかかる頃で 友達は銀行、商社、大手製造会社に就職した。
それから2年目の暮れに 仲間が集まった時 ボーナスの話が出て 目の前が真っ暗になった。皆は私の3倍くらいのボーナスをもらって 車を買う話などをしているのである。
しかし 宴もたけなわになって 声が大きくなると 会社の不満や仕事の愚痴がだんだん多くなってきた。
そうか、自分は毎日生徒と一緒に楽しく過ごしている。ボーナスの時だけ ちょっと悲しいけれど この連中は年に2日だけ嬉しくて 他の日は大きな組織の中で 意に沿わない仕事やノルマで大変なのだ と思った。
実際 教員室の中は 鍋蓋社会と言われ 校長と教頭が上にいて あとはベテランも新米も皆同じで平等だった。その上 教室やクラブ活動に行けば 一国一城の主で かなり自由で気楽だった。
昨年 妻が亡くなって そろそろ自分も死に支度を と手紙や写真の整理を始めた。50年前の若い頃の白黒写真を見ると どれも生徒と一緒に笑っているものばかりだった。臨海学校、登山、スキー教室、体育大会のスナップ写真は みんな笑っていた。
「デモ・シカ先生」、「学校の常識は世間の非常識」、「先生と言われるほどの馬鹿でなし」と世間から揶揄されることもあったが 新米教師はそれなりに満足して 張り切っていたのだと思う。
その頃 ルイ・アラゴンの「教えるということは 希望を語ること。学ぶということは 誠実を胸に刻むこと」 という言葉に出合って 教師になってよかった と思ったものだった。
「窓際のトットちゃん」という本がベストセラーになり 「三年B組金八先生」というテレビドラマがブームになった頃だと思うが 様々な教育問題が学校に押し寄せてきて その対応に教育現場は苦慮するようになった。校内暴力、受験戦争、偏差値、いじめ、自殺 という問題は 特定の学校だけでなく 全国どこの学校にも多かれ少なかれ起きた。反面 雑用と言われた印刷、集金、記録などの仕事は 計算機、ワープロ、輪転機、パソコンが入ってきて 楽になったはずだが 教師の仕事はますます複雑で多忙になってきた。
仕事の困難さや長時間労働で疲れ切った教員の姿が 段々 若い人に敬遠されて 教員を希望する人が減ってきている と言われる。
「国家百年の計は 教育にあり」と言うが これは大きな問題である。
もう一度
「教えるということは 希望を語ること。
学ぶということは 誠実を胸に刻むこと」
という ロマンと夢のある学校に 戻れないものか。
(編集:前澤 祐貴子)
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