交流の広場
老成学研究所 > 時代への提言 > 『今、国学の呼びかけるもの』シリーズ > 『今、国学の呼びかけるもの』シリーズ ⑨:「荷田春満(かだのあずままろ)が真淵たちに伝えたもの」
『今、国学の呼びかけるもの』シリーズ
⑨
荷田春満(かだのあずままろ)が
真淵たちに伝えたもの…
万葉人(まんようびと)になりきれ
真淵が春満に初めて会ったのは、真淵 26歳、浜松の木村玄竹亭での和歌会の席でした。
11歳から教えを受けていた春満の姪、杉浦雅子(真崎)と和歌会を主催していた雅子の夫、杉浦国頭(くにあきら)の仲介によるもの と推察できます。その後、真淵が、伏見に出て正式に春満に入門したのは、31歳の頃 とされています。
そして、本格的に伏見の春満の許に上京したのが 37歳の頃でした。
真淵は 万葉風 (※1) の和歌を多く詠みました。
※1 万葉風(万葉調): 万葉集の歌の特色をなす調べ。
現実生活における素朴な感動、強い実感を素直に表現し、格調は雄健でおおらか。五音七音のリズムが強調される五七調を主とし、短歌では二句切れ・四句切れが多い。真淵はのちに「ますらおぶり」と称した。
それは、『万葉集』を研究し味読するのに、横から眺めるのではなく、『万葉』の世界に直に分け入り、『万葉』風の歌を自分も詠み、『万葉』風の書き方をしてみて 万葉人になりきろう とした のです。
こうした考え方や万葉人が使っていた万葉仮名 (※2) で和歌を書くという試みは、真淵の師であった春満が試み 勧めたものでした。
真淵たちは、それを実践したのです。
※2 万葉仮名:上代(奈良時代以前)の話し言葉の音を写した文字。
(例)「阿米都知能」と書き 「アメツチノ」(→天地の) と読む。
こういう若き日の体験から、真淵は 69歳の時 『にひまなび』で、
万葉集を常に見よ。
且つ我歌もそれに似ばやと思ひて、
年月によむほどに、
其調も心も、心にそみぬべし。
と 力説するのでした。
(編集:前澤 祐貴子)
* より詳細な情報をお求めの方は是非 下記 浜松市立賀茂真淵記念館アカウントにアクセスくださいませ。
浜松市立賀茂真淵記念館
URL: http://www.mabuchi-kinenkan.jp
※ 尚、当シリーズにおきましては、賀茂真淵に関連する資料/画像、及び内容解説に至るまで 浜松市立賀茂真淵記念館(一般社団法人 浜松史蹟調査顕彰会)の許可とご協力のもと、展開させていただく運びとなります。この場をお借り致しまして その多大なるご尽力に感謝申し上げます。
* 作品に対するご意見・ご感想など是非下記コメント欄ににお寄せくださいませ。
尚、当サイトはプライバシーポリシーに則り運営されており、抵触する案件につきましては適切な対応を取らせていただきます。