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老成学の見地から『ライフシフト2』を読む 森下直貴
初代所長 森下直貴 作品群(2018 09〜2022 12) | 2022.03.11

天竜二俣駅

寿命100年時代の
年齢と性別

森下直貴

はじめに 寿命人生=社会〉》という視点

近年、話題となった本に『ライフシフト 100年時代の人生戦略』がある(池村千秋訳、東洋経済新報社、2016。Linda Gratton & Andrew Scott, The 100-Year Life: Living and Working in an Age of Longevity, Fraser & Dunlop Ltd, 2016.)。これは世界中でベストセラーとなり、日本でも直ちに翻訳されて人々に衝撃を与えた。また最近、パンデミックの影響を踏まえた姉妹本『ライフシフト2 100年時代の行動戦略』も出版されている(池村千秋訳、東洋経済新報社、2021。Andrew Scott & Linda Gratton, The New Long life: A Framework for Flourishing in a Changing World, Fraser & Dunlop Ltd, 2020.)。

『ライフシフト』と『ライフシフト2』は視点も内容も基本的に同じであるが、力点の置きどころが違っている。後著では長寿化と並んでテクノロジー(つまりデジタル化)の影響を取り上げ、人間の本質論に深入りし、政府の課題を詳しく論じた上で、行動方針を具体的に提案している。それらは前著でも指摘されてはいたが、後著では正面から言及されている。たしかに力点の違いはある。しかし、それを除けば両著の枠組みは共通している。その骨子はこうだ。

20世紀には寿命70年を前提にして教育・仕事・退職という3ステージの人生が組み立てられ、これを例えば年金制度のような社会の仕組みが支えてきた。そこで想定された老後は5〜10年であった。ところが、21世紀の人生100年時代になると、老後は30年以上の長期に及び、現行制度が将来に渡ってすべての世代の老後の生活を支えることは不可能である。そこで人々は定年後も働かざるをえなくなるが、働き方の変化は教育のあり方、結婚の時期や相手、子どもを作るタイミング、余暇の過ごし方、女性の社会的地位など、人生と社会のあらゆる方面に波及する。そのため寿命100年時代にふさわしい人生と社会を再設計することが、企業・教育・政府だけでなく、21世紀を生きるすべての世代の人々にとって喫緊の課題となっている。

以上の展望はじつにリアルかつ切実であり、21世紀を生きる私たちは老人と若者とを問わず、それを深く受け止める必要があるだろう。とりわけ寿命が人生ステージと社会の仕組みの土台にあるという捉え方は、従来ほとんど注意を払われてこなかったが、考えてみればたしかに重要な視点である。人生ステージを社会の仕組みが支え、人生ステージによって社会の仕組みが支えられる。そしてこのワンセットの関係を寿命が限界づけている。寿命が50年、70年、100年と長くなると、人生ステージと社会の仕組みもそれに応じて変わっていく。

人生ステージと社会の仕組みのワンセットを《人生=社会》、またその土台となる寿命を加えた三者の関係を《寿命〈人生=社会〉》と表してみよう。この枠組みをめぐってはいくつか疑問が生じる。例えば、《人生=社会》を限界づける土台は寿命だけだろうか。それ以外の要因があるとすればそれは何か。それらの要因は相互にどのような関係にあるのか。また、寿命の変化は何によって引き起こされるのか、等々である。なかでもわたしが注目しているのは年齢と性別という二つの要因が果たしている役割についてだ。

人生の時間(寿命)は生死の区別であり、生物であることに起因する。翻って生物に焦点を合わせると、健康と病気・障害の区別とともに、老若の区別や、男女の区別がある。寿命70年の時代では年齢によって一律に入学・入社・定年の時期が決まっていた。これは時間の配列である。他方、性別によって男女の役割、席順、活動の場が分けられた。これは空間の配置である。視野を社会全体に拡大すると、一方に労働と休憩、出勤日と休日、年次休暇といった時間区別があり、他方に職場と家庭、都心と郊外、都市と地方といった空間区別がある。

このように年齢と性別は《寿命〈人生=社会〉》において重要な役割を果たしているが、それだけが両者に注目する理由ではない。それらが固定されて社会規範の一部になるとエイジズムとセクシズムを生じるからでもある。21世紀では年齢についても性別についても柔軟に捉える見方が強まりつつある。このような動向を組み込むならば、寿命100年時代の《人生=社会》の日常風景はどのように変わるだろうか。

本稿は、『ライフシフト2』に含まれる五つの論点を取り上げ、年齢と性別という二つの区別に注目しながら寿命100年時代の《人生=社会》について考察し、この考察を通じてわたしが長年提唱してきた「老成学」を進化させることをめざしている。人生後半の50年の生き方、つまり老い方を組み立てる際には「成りたい老人」のイメージを持つことが不可欠だ。老成学はその視点から現在の老人世代だけでなく、中高年や若者を含めた全世代の人々が「21世紀にふさわしい老人に成る」ための条件を探究するプロジェクトである(老成学研究所ホームページhttps://re-ageing.jp)。

1 長寿化とデジタル化の背景

『ライフシフト2』の焦点は、長寿化とともにテクノロジーの進化、つまりデジタル化が《人生=社会》に対して与える影響をいかに積極的に受け止めるかにある。そこから関連する箇所を要約して引用する(数字は頁数を示す。以下同様)。

ある年度の平均寿命世界一の国の平均寿命を意味する「ベストプラクティス平均寿命」という概念がある(30頁)。2020年のそれは日本女性の約88歳だ。平均寿命が延びることによって人生の中年期の後半と老年期の前半が長くなる(32頁)。いま最も人口が急速に拡大している年齢層は100歳以上だ。

100歳以上を生きるという前提で人生設計をやり直す必要がある(31頁)。長寿化を災いではなく恵みにするために個人と社会はどのように行動すればいいのか。長寿化だけでなくテクノロジーの進化も長い人生を生きる私たちに影響を与える。テクノロジーとは具体的には汎用人工知能(AGI)のことであり(25頁)、これが雇用と働き方を変えつつある(28頁)。

過去の世代がとった選択肢はもはや有効ではなくなっている。これまでの人生の枠組みを支えてきた社会の仕組みも役に立たなくなっている。技術的発明に対応した社会的発明が決定的に遅れている(11頁)。あらゆる世代の人々に求められるのは、社会的開拓者として新しい社会のあり方を切り拓く覚悟だ。

そもそも長寿化は何によって引き起こされるのか。そして長寿化とテクノロジーの進化はどのように関連しているのか。今日進行しているのは長寿化だけではない。少子化や家族の変容、人口減少も進行している。これらの傾向をトータルに捉えるためには、《人生=社会》の枠組みを成り立たせる要因群を見出し、それらがどのように関連しているかを前もって把握しておく必要がある。

《人生=社会》を形成する要因をあげてみよう。まず考えられるのは生物としての条件である。ここには寿命に関わる生死の別、老若の年齢別、男女の性別、健康か病気・障害の別がある。次は社会集団としての条件だ。ここには集団の存続を保証する機能として生産性と秩序維持があり、そのうち生産性には市場経済とテクノロジーが連結し、秩序維持には社会規範と制度・文明が関与する。三つ目は生物の条件と社会集団の条件を取り巻いている自然環境である。その上に人々の生存を維持する労働やその他の人間的な活動が生じる。人間的活動の全体である広義の生活のなかで文化が培われる。そして以上のすべての条件の影響関係の交点に位置するのが家族だ。以上を図1にまとめる。

続いて《人生=社会》を変動させる要因をあげてみよう。一つ目は、生物の条件のうち生死に関わる寿命である。その限界内に老若のライフサイクルがあり、子ども・青年・大人・老人の段階が生じる。二つ目は、自然環境を土台として行われる労働である。労働は男女の性別によって区別され、他の要因と結びついて家族を形成する。三つ目は、家族を超えた社会集団の条件のうち市場経済とテクノロジーだ。社会を維持する方向に作用する規範と制度に対して、それらは社会を変容する方向に作用し、労働の仕方を変える。変化した労働は家族と文化を変え、加刷を生じながら結局は社会規範と制度を変える。そして変容した規範と制度が今度は新たな《人生=社会》を固定し強化するのだ。

歴史を大雑把に振り返るなら、近代以前の社会では自然のリズムの中で労働が営まれ、寿命50年の土台の上で人生ステージの細部は年齢によって定められ、生活の役割の細部は性別によって規定されていた。ところが19世紀以降の近代社会になると、市場経済の資本主義とテクノロジーが発達するなかで、工場労働中心の生活が営まれた結果、労働中心の社会時間が作られ、労働とその他の活動が分離する。そして20世紀の半ばには寿命70年を前提とする3ステージの人生が成立する。人々は一斉に入学し入社し引退した。企業も教育も制度も3ステージを基にして設定されたのである。

20世紀の後半には著しい経済成長を背景にして、一方では社会保障制度が充実し、他方ではテクノロジーがますます進化した。こうして工業先進国では医療テクノロジーと社会保障制度に支えられた長寿化が実現した。また、市場経済の発展は女性の社会進出を促し、家族の形を変容させることで少子化を引き起こした。そして21世紀に入るとデジタル化を伴って市場経済のグローバル化が世界を席巻し、資本の非物資主義化を通じて労働と雇用を変化させた(諸富徹『資本主義の新しい形』)。寿命100年時代の超高齢少子社会の到来である。

以上のように概括できるならば、長寿化とデジタル化、社会保障制度の充実と危機、女性の社会進出、家族の変容、少子化と単身社会、国民総人口の減少といった多方面の変化の基底にあるのは、資本主義的市場経済のグローバル化だということが見えてくるだろう。ここでグローバル化とは、物質や環境のような外部の商品化から、身体や心のような人間の内部の商品化へと市場経済が深化する傾向を指している(西部忠『資本主義はどこに行くのか』)。

2 人間と幸福の捉え方

技術的発明に比べると社会的発明は決定的に遅れている。社会的発明を推進するには明確な目的が必要である。『ライフシフト2』によればそれが人間と幸福の捉え方だ(11頁)。それは図1に当てはめると「文化」に含まれる。以下、人間観と幸福に関連する箇所を要約して引用する。

人間の本質は、一貫性があって前向きな人生の物語を紡ぎ出すこと、探索と実験と学習をおこなうこと、そして他の人たちとの関係を構築・維持することに絞られる。つまりは物語、探索、関係の三つだ(11頁)。物語とは人生のストーリーであり、これを持つためには「ありうる自己像」が必要である(57頁)。探索が重要なのは人間が学習と変身をめざす動物だからだ(59頁)。関係とは深い絆のことであり、それが人生の幸福感と生涯にわたる満足感の源泉となる(60頁)。

人間にとっては経済的豊かさ(つまり満足いく生活水準の確保)だけでなく、帰属意識と自尊心を満たすことが重要であり、そのための社会的発明が必要とされる(55頁)。愛し愛されているとき、自分が幸せで大切にされていて尊重され理解されていると感じる。しかし、深い関係や広い交友関係は20世紀に形成された3ステージの人生(これは老若や男女の分離をともなう)では養えない(61頁)。

デジタル化と長寿化によって人生のストーリーの骨組みが変わる。働き方や雇用の変化は余暇の時間を増やして時間配分を変える(107頁)。マルチステージのストーリーを完成させるには人生の目的をもち、よい人生を生きたいという願いが不可欠だ(114頁)。人生の目的の追求、多様な活動への参加、健康、パートナーや友人との温かい関係が人生の満足感をもたらす(118頁)。

『ライフシフト2』は人間の本質を「経済的」活動だけでなく「物語」「探索」「関係」としても捉えている。これら四つの要素は具体的で分かりやすいが、一般論としては抽象度が低く十分とはいえない。わたしの考えでは、人間の最大の特徴は自己言及のコミュニケーション、つまり心の内部における自己とのやりとりにある(森下直貴『システム倫理学的思考』第2章)。

自己言及のコミュニケーションを通じて「物語」が創出されるが、創出されるのは「物語」だけではない。遊びを基盤とする科学や芸術や哲学など文化的創造物一般である。また、自己言及コミュニケーションを通じて「探索」や「関係」が人間的な水準に達するが、これらも広く経済活動一般や共助活動一般に包摂される。

問題を含んでいるのはとりわけ「関係」の捉え方である。これには狭く親密な関係と見知らぬ他者間の広い関係が含まれるが、『ライフシフト2』ではその区別が混同されている。その結果、幸福感についても帰属意識と自尊心をめぐってあいまいさが生じている。見知らぬ他者の関係は公共的な関係に通じるが、そこでの尊重や理解は承認であって愛ではない。

システム倫理学の四次元相関の思考法を踏まえて再構成するなら(『システム倫理学的思考』第3章、第4章)、人間的活動(つまり対面コミュニケーション)は、「探索」「親密関係」「他者関係」「物語」の四次元になる。この人間的活動の四次元を社会領域の場面に拡大すると、「経済」「共助(家族・コミュニティ)」「公共」「文化」の四領域が浮かび上がる(図2)。

他方、幸福とは煎じ詰めれば、自己言及のコミュニケーションに基づく人間的活動にともなう充足感である。そこで人間的活動の四次元に対応させると、「目標達成感」「安心充実感」「承認自尊感」「理想向上感」という幸福感の四次元セットが現れる。幸福感に最小限はあるのだろうか。それはおそらく「できることは自分でやる」「受け入れてくれる居場所がある」「周囲の人から認められている」「自分なりの楽しみや目標がある」といったささやかな活動にともなうものだろう。人が逆境のなかでも生き続けることを支えてくれるのは、そうした最小限の幸福感であるに違いない(『システム倫理学的思考』第7章)。以上をまとめると図3になる。

最晩年の老い方についてもこう言及されている。

よい老い方とは、若々しい感覚と老化のリスクへの備えの間でバランスがとれていることであり、これが人生の晩年の日々の姿勢に貫かれていることが望ましい(158頁)。よい人生は最晩年の経験によって決まる。その際の最大の関心事はどこでどのように死ぬかだ(159頁)。

物語の軸になる「ありうる自己像」は、老成学では「成りたい老人像」として受け止め直される。そのとき寿命100年の後半50年に及ぶ「老い方」の目標は何か。その答えの一つは、最期の老い方の姿を若い世代に見てもらい、人生と老いの何たるかを学んでもらうというものだ(森下直貴・佐野誠編著『新版「生きるに値しない命」とは誰のことか』)。ロールモデルとしては、江戸時代では貝原益軒や葛飾北斎、明治時代では井上哲次郎、昭和・平成時代では日野原重明(女性たちは多すぎて選びきれない)をあげることができるだろう。

3 年齢と時間

『ライフシフト2』の最大の特徴は年齢と時間の捉え方にある。まずは年齢に関連する箇所を要約した上で引用する。

年齢には生年に基づく暦年齢、身体状態を示す生物学的年齢、社会的規範としての社会的年齢、そして本人が実感する主観的年齢がある。これらの四つの要素の関係が変化することで「老いること」の意味が変わる(68頁)。 

以上とは別に死生学的年齢もある。これは現在から死亡するまでの年数のことであり、死亡率から推測できる。老人の健康寿命を映し出す指標としては死生学的年齢のほうが暦年齢より優れている。死亡率が低いなら生きられる年数は長くなる(69頁)。英国の場合、歴年齢でいえば高齢化社会になるが、高齢者層の死亡率が低下しているため、死生学的年齢でみればかつてないほど若い社会といえる(69頁)。

米国人の場合は生物学的年齢の対歴年齢比は低下している。英国人では年齢ごとの死亡率でみると今日の78歳は1922年の65歳と同水準にある。暦年齢重視の年齢観を改める必要がある。年齢は可変なのだ(72頁)。社会的年齢が固定観念になると他者だけでなく、未来の自分に対しも偏見が生じ、「ありうる自己像」の範囲を狭めてしまう(75頁)。

ここで年齢に関して四つの要素が出ている。四要素が連関するという見地は、年齢をめぐる錯綜した事態を整理する上で有効なものだ。中心には暦年齢がくる。これが社会的年齢として固定されたり、実際の身体的状態を表す生物学的年齢とかけ離れたりする。そのなかで生じる対立やギャップが人々の主観的年齢に反映し、年齢に対するこだわりや自信のなさや偏見を生み出すことになる。

例えば「0.5ミリ」という映画では、登場する老人たちはみな色呆け、孤立、悪戯、過去志向、寝たきりなどマイナスイメージで描かれている。なぜか。寿命70年という前提があるために、七、八十歳を過ぎた老いのイメージを想像できないからだろう。寿命100年時代にふさわしい老人に成るためには暦年齢重視の発想を変えなければならない。

死生学的年齢によるカウントはわたしも実践している。50歳を境に100歳までをカウントダウンすると、暦年齢は現在68歳であるが、死生学的年齢では32歳になる。人に話すとき説明しないと怪訝な顔をされるが、残りの年数を日頃から意識できるというメリットがある。以上の年齢の連関を四次元相関の枠組みを用いてまとめると図4になる。

次は時間である。

時間の捉え方には二つの型がある。一つは「丘のてっぺん」型(76頁)だ 。ここでは現在性バイアスが働き、現在は大きく見えるが、未来は遠くて小さく感じられる。もう一つは「鳥の目」型だ(77頁)。カレンダー型ともいう。ここでは過去・現在・未来のすべての時点が等しく感じられる(77頁)。 健康寿命が長くなれば人生の時間も長くなる。未来の自分を大切にし、選択肢を広げるための投資を積極的に行うためにはカレンダー型がふさわしい。

寿命すなわち人生の時間の捉え方には直線型もあれば、中年を頂点とする丘型や、ライフサイクルの円環型などがある。古来、盛りを過ぎて衰えることを「老ゆ」というように、人生を「丘」に擬える捉え方は古今東西で共通している。それに対して『ライフシフト2』は鳥の目型もしくはカレンダー型を推奨するが、これは行動経済学でいう現在性バイアスに逆らうものだ。

老人のロールモデルの一人、日野原重明さんは103歳になっても5年先まで手帳のカレンダーにびっしり予定を入れていた。そして自分が死ぬ気はしないと語っていた。カレンダー型ではすべての日付が同等の重みを持つから、未来が限りなく続くように思える。しかしその反面、死に対して準備するという意識は希薄になるのではないか。その点を考慮してわたしはライフサイクル型を推奨したい。寿命100年のサイクルは50年や70年に比べると大きくなる。虫の目には直線に見えることだろう。

時間といえば、ボーヴォワールの老いの時間性をめぐる現象学的分析が有名である。彼女は老いの時間の本質を「凝固した過去と閉ざされた未来の間の短く不安な現在」として捉えている。『ライフシフト2』を読むまでは、残された者がいるかぎり死後にもコミュニケーションは続くという観点を除けば、その分析の重大な欠陥に気がつかなかった。しかし、いまやそれは明瞭である。最大の問題点は寿命70年を前提していることだ。寿命100年を前提にすれば、未来は決して短くないし、新たに作られもする。他方、未来が開けることによって逆に過去の意味づけも流動的になるだろう。

最後に、人間の「生」全体の枠組みについて言及しておきたい。わたしは「生存(生物行動)」「生活(人間的活動=コミュニケーション)」「人生(時間)」の三層構造でその枠組みを捉えている(『システム倫理学的思考』第7章)。そのなかで人生(時間)の層の内容が比較的に希薄だった。この人生(時間)にも二つの側面があり、客観的側面は社会時間、主観的側面は人生観・死生観になる。そのうち社会時間は領域ごとに異なり、経済領域では効率・速度、共助領域では忍耐・交流、公共領域では保守・革新、文化領域の蓄積・革命のように捉えられる。しかし、以前はそれ以上具体化するための手がかりを見出せずにいた。

しかし、『ライフシフト2』を読んでその原因がわかった。寿命の視点がなかったのだ。寿命70年や寿命100年を土台に据えることで、経済の時間が労働を中心に配列され、そこから経済領域だけでなく社会領域の全体にわたって時間が具体的に展開するようになるのだ。

4 家族と世代とコミュニティ

性別を主軸として成立しているのが家族である。そして家族は世代とコミュニティの基盤になる。まずは家族について関連する箇所を要約して引用する。

今日の単身者たちは古い核家族モデルから脱却し、21世紀型の絆や親密な関係を作り出しつつある(171頁)。新しい「家族」のあり方や、育児と介護のやり方を社会的に発明する必要がある(175頁)。 新しいパートナーの関係にはキャリア(自己実現を伴う仕事)+ジョブ(家計を支える仕事)型、キャリア+ケアラー(家族の世話)型、キャリア+キャリア型がある。いま世界中で多くの人が壮大な実験をしている(185頁)。しかし、人々の意識や欲求に社会の制度や規範が追いついていない。

わたしは以前、ゆるやかな関係を志向する若い世代の傾向を分析し、それを踏まえて21世紀の家族のあり方を展望したことがある(森下直貴「家族」の未来のかたち―結婚・出産・看取りをめぐる人類史的展望、2009年)。従来、家族の基本構造は「母子結合」に「男=父」が加わることで成り立つと考えられてきた。しかし、その三者関係は近代社会の核家族モデルを人類の全歴史と全社会に一般化したものであり、標準でもなければ究極のかたちでもない。それをさらに分解するとたんなる「誰かと誰かのつながり」が現れる。これを「とも関係」と呼ぶなら、この「とも関係」が21世紀の家族のかたちの原点になるだろうし、そこでは異性愛中心の常識や性別役割の規範は薄れ、やがては消えていくだろう。

以上が執筆当時の展望であったが、現在でもその認識は変わっていないどころか、ますます強まっている。それに対して『ライフシフト2』は未来の家族のモデルとしてギデンズの「純粋な関係」を持ち出している(184頁)。わたしに言わせればそれは多分に西欧近代の人間観に囚われたものだ。

次に、世代について関連箇所を要約引用する。

社会全体では世代間の緊張が高まり、それが政治にも波及している。米国の場合、政治における世代間の分断は拡大する一方で、その影響は人種や階級による亀裂より大きい(192頁)。

家族における世代は明確であるが、社会における世代概念はあいまいだ(198頁)。 世代の呼称は1920年代以降に誕生したが、それは学校・職場・引退の3ステージモデルの形成と同時期だった(198-9頁)。現在、社会の年齢別分離が進行し、世代に対するレッテルばりが強まっている(200頁)。

新しい世代の誕生はそれまでとは異なる価値観や視点を持つ人々が出現するかどうかで決まる(201頁)。その基準になるのは新しいテクノロジーとされるが、それがどこまで有効かは疑問だ。世代間より世代内の違いの方が大きい場合がある。実際、コンピュータの学習にはどの世代も取り組んでいる。それゆえ、世代に焦点を当てる場合は同時代のすべての人が共有している文脈を取り除かなければならない。世代にレッテルを張ることは安易なステレオタイプ思考を助長し、あらゆる年齢層が直面する課題を覆い隠すことになる(204頁)。

世代間の共感を育むことが必要だ(205頁)。孤独を感じるのは主に若者と老人である。彼らを連帯させるような社会的発明が求められている。日本では1971年に保育園と老人ホームの合体案が出されたが、これは参考になる(205頁)。

世代概念の提唱者は米国の作家ガートルード・スタインといわれる。彼女は1883〜1900年生まれを「失われた世代」と命名した(197頁)。米国ではその後、続々と新たな世代名称が作られた。1901〜1924年生まれの「最も偉大なGI世代」、1925〜1942生まれの「沈黙の世代」、1943〜1964年生まれの「ベビーブーマー世代」、1965〜1979生まれの「X世代」、1980〜2000年生まれの「ミレニアル世代またはY世代」、2001〜2013円生まれの「Z世代」、2014以降生まれの「アルファ世代」である。

世代概念に対する批判は一面では当たっている。社会集団における世代概念はたしかにあいまいだ。それに固執すると社会の内部に分断を生み出し、社会に共通する課題を見失わせる危険がある。しかし、世代間より世代内の個々人の違いのほうが大きいという指摘が当てはまるのは、生活態度やスキル、努力、健康などであって、家族や結婚、死生観などの社会規範に関しては世代間の価値観の違いが大きいのが通常であろう。その限りでは同時代意識を共有した同出生年齢集団としての世代概念にも一定の意味はあろう。

例えば、日本の場合、社会規範の面で戦前・戦中派の世代と戦後の団塊世代の違いは顕著だ。1947年生まれの団塊世代と1070年生まれの団塊ジュニア世代の違いも大きい。団塊ジュニア世代と2000年生まれのデジタルネイティヴ世代とでは、デジタル世界に対する感覚が違っている。ちなみに、韓国の場合、通説によれば20〜30歳代は脱韓・棄韓、40〜50歳代は革新・民族主義・親北、60歳代以上は保守・反共とされるが、そうした違いの背景として政治環境や経済環境の変容が指摘されている。

同時代意識をもつ同出生年齢集団としての世代概念に比べると、家族における世代概念は親子の代々の連鎖という明確な意味を有している。他方、個人の年齢はライフサイクルの年代概念と組み合わされることで、子ども、若者、大人、老人という年代の段階に振り分けられる。

そこで、親子の代々の系譜性とライフサイクルの年代の段階の観点を、個人を超えて社会集団に当てはめると、子どもの年代集団、若者の年代集団、中高年の年代集団、老人の年代集団というライフサイクルが浮かび上がる。同出生年齢集団は子ども世代から若者世代、中高年世代をへて老年世代へと移行するなかで、先行あるいは後続する年齢集団との間で継受的な関係をもつことになる。そこで継受されるのは経済・共助・公共・文化の全体にわたる社会そのものだ。

ここに新たに、個人の年齢、親子の世代関係、同年齢集団の世代、ライフサイクル年代という四つの時間要素を包摂するスーパー概念、《年代集団としての世代》が登場する(図5)。

最後に、コミュニティについて関連箇所を要約引用する。

コミュニティ活動は時間とスキルを提供した人たちに金銭的報酬とは別種の報酬を与えてくれる(214頁)。 マルチステージでは、ボランティア活動によるコミュニティへの関わりを引退後に始めるのではなく、生涯を通じて行うほうが理にかなっている(215頁)。そうすれば、長生きする確率が高まり、生きがいを持つことによってアルツハイマー病の発生リスクと死亡率を低下させることができる。

コミュニティという概念は、最も広義にはコミュニケーションのつながり合いである。これが狭義のコミュニティとソサエティに分かれる。語源の解釈を踏まえれば、後者のソサエティは狩猟・漁労における協働という特定目的で協働する仲間に由来するが、前者のコミュニティは「ともに助け合う」「支え合う仲間」という共助を軸にし、特定の機能目的に限定されず包括的である(『システム倫理学的思考』)。寿命100年時代にはSNSを活用したコミュニティ形成が中心となるだろう。

北野天満宮由来の蝋梅

5 企業・教育・政府の課題

人生ステージの転換に企業・教育・政府はどのように対応すればいいのか。まずは企業について関連する箇所を要約して引用する。

マルチステージの人生では年齢(エイジ)と人生ステージの結合を断ち切ることが求められる(226頁)。 具体的には、第一に、入社年齢を多様化し、垂直移動から水平移動にシフトすること。そのためには受け皿となるキャリアのネットワークが必要である。第二に、引退と生産性に関する否定的な考え方を変更すること。年齢は可変的であり、職業人生を長く伸ばす必要がある。第三に、年齢と賃金(ウエッジ)の結びつきを断ち切ること。この結びつきが暗黙の常識となって年齢と人生ステージの分離を妨げている。

企業年金は従来の形から、マルチステージの人生に対応し雇用者のキャリア形成を支援する方向に変わる必要がある(256頁)。柔軟な働き方の文化を作るためのアプローチは二つある。一つは引退や、子育て、介護をめぐる人々のニーズに応えること(241頁)。もう一つはテクノロジーによって生産を向上させ、週休3日制を実現することだ(242頁)。 

シリコンバレーではエイジズムをめぐる訴訟が、この10年間で人種差別や性差別より多くなっている(248頁)。「高齢者は生産性が低い」とする固定観念を支えているのは次の三つの見方だ(248頁)。一つ目は残された人生の時間が少ない者は新たな学習に関心を持たないとする見方。二つ目は高齢者の教育レベルが低いという見方。三つ目は高齢者には身体的制約があるとする見方(249頁)。考慮に値するのは三つ目の「身体的制約」だけだが、これに対しては高齢者が働きやすい環境や新しい役割を作る工夫が必要である(252~253頁)。

前著『ライフシフト』ではマルチステージ対応する三つの働き方が紹介された。まず、自分が心底楽しめる活動ややりがいを感じられる活動をするポートフォリオ・ワーカー型だ(228頁)。これはとくに若々しさと円熟の組み合わせる老人に向いている。次のエクスプローラー型は特定の関心をもって旅に出るか否かによって冒険型と探検型に分かれる(232頁)。これは若者世代だけでなく、中年でも老年でも可能だ。ここではパートナーの選択が鍵を握る。三つ目、金銭的価値に執着せず、組織に雇われることなく独立の立場で生産的な活動をするのがインディペンデント・プロデューサー型はだ238頁)。これがシュアリング・エコノミーやギグ・エコノミーを担うことになる。

現在、マルチステージの人生に積極的に対応する働き方を見つけた若い人たちがいる一方、中高年世代や老年世代の多くは従来の働き方を変えることができずに困惑している。そういう人たちはハローワークやシルバー人材センターに行っても失望と落胆を味わうことになる。

この点で一歩踏み込んだ提案をしているが河合雅司の『未来の年表』だ。人口減少を見越して産業構造の全体を再編成し、それに応じた雇用を創出し、その情報を提供するという提案だ。農業や、林業、畜産業、水産業といった第一次産業の位置づけを含めて、職に関する適正な配分とアクセスを保証するのは一企業を超えた課題である。

次は教育の課題である。

汎用的コンピュータ(AGI)が職場に浸透するなか、マルチステージの人生に求められるのは科学・テクノロジー・エンジニアリング・数学からなるSTEMではなく、それに人間のスキル(A)を加えたSTEAMである。それと同時に、従来のような子供の教育方法論(ペタゴジー)ではなく大人の教育方法論(アンゴラゴジー)も必要になる(266頁)。大学は成人教育を担うようになり、多世代が学ぶ場となる。

大学改革の目玉として一時期、文理を融合した学部の設置が流行ったことあるが、結局はうまくいかなかったケースが少なからずある。最近では地元の静岡大学が窮余の末、文理に国際をかぶせたような新学部構想を打ち出している。今更の感を拭えないが、なぜ文理融合はうまくいかないのだろうか。

人間のスキル(Arts)の内容が不明確だという理由もあろう。『ライフシフト2』はその理由を寿命70年時代の暦年齢重視の発想に求めている。寿命100年のマルチステージ人生を前提にすれば、大学は成人の再教育を担い、文理の多様なバックグランドを持った多世代が学ぶ場に変貌する。そのためにはすでに社会人教育を担っている放送大学との関係を見直さなければならないだろう。

最後は政府の課題だ。

政府の仕事は失業、劣悪な雇用、不安定な収入、病気といった、長寿化とデジタル化にともなうリスクから人々を守ることだ(290-291頁)。その意味で社会保障制度の目的は新しい職への移行と新たな雇用の創出である。労働者の補完となるようなテクノロジーに企業投資を促すべきであり(298頁)、健康に関しては予防重視の医療へ転換し、年齢の可変性を考慮して高齢者への医療資源の提供を削減すべきではない(305頁)。

また、望ましい未来を促進することも政府の仕事だ。これに関しては三つの課題がある。第一は、スキルを身につける道筋を示すこと(307頁)。 将来に渡る職の情報提供は公共財である。第二は、高齢者が健康であることを後押しすること。ピリオド平均寿命よりも10年長く計算できるコホート平均寿命(310-311頁)に依拠すると、未来への投資意欲が高まる。第三に、長寿化を活かして経済を拡大させること。

暦年齢重視の発想と3ステージの人生モデルを前提にする限り、経済が縮小し、政府債務が増大するというストーリーから逃れられない(311 頁)。このストーリーの土台は「老年従属人口指標」(65歳以上人口と生産年齢人口の比率)であるが(312頁)、そこでは定年後の高齢者の働きがカウントされていない。今では潜在的な老人労働人口は増加している(313頁)。

高齢者も働けること、高齢者の支出が雇用を創出していること、高齢者を支えるのは自然なサイクルであること、そして高齢者の過去の税金で教育や医療のコストが賄われていることを考慮すると、長寿経済の成長は十分可能である(312頁)。そのためにはGDP指標を幸福指標に変更するとともに(318-319頁)、高齢者イコール65歳以上という暦年齢重視の定義を変えなければならない。

まず、高齢者への医療資源の提供に関しては、35年も前に哲学者のキャラハンが80歳を過ぎたら、健康状態に応じてではあるが、原則として医療水準を引き下げるべきだと問題提起した。『ライフシフト2』はそれに対して年齢の可変性を踏まえる、たとえ100歳であっても医療を削減すべきではないという。これはキャラハンが批判した老年学の主流の路線を踏襲ものだ。最近では安楽死を希望する高齢者も増えている。

寿命100年時代の健康保険制度のもとで高齢者医療はどうあるべきか。わたしは延命主義や安楽死は選択肢から外し、老齢に限らず死期の迫る終末期かどうかを考慮するなかで、通常医療を医療緩和治療に切り替えるべきだと考える(『新版「生きるに値する命」とは誰のことか』)。

次は長寿経済である。超高齢少子社会でも経済が成長できるという話は通説とは大きく違っている。成長の鍵を握るのが「老齢従属人口指標」の捉え方にあるという指摘には正直、驚かされた。

2021年現在、日本の人口は約1億2500万人である。それが2065年に約8800万人、2100年に約5000万人、そして2200年には約1000万人となるという。この人口は現在のスウェーデン並みであり、徳川時代初期の水準と同じだ。そのうち生産年齢人口の15〜64歳に絞ると、現在は約7500万人で総人口の60%弱。それが2040年に約6000万人、2050年に約5000万人、2065年には約4500万人になると予測される。社会を支える働き手がそこまで減少すると、生産が不足し、サービスが低下し、消費が減退し、やがて地方の自治体から消滅し始める。

従来はそんな気の滅入るようなストーリーばかりが語られてきた。しかし、ストーリーの核心にある指標そのものが寿命70年時代の産物なのだ。『ライフシフト2』が注目するコホート平均寿命を合わせると、寿命100年時代でも経済の未来に明るい希望が見えてくる。高齢者の場合、高齢者同士の互助の延長線上に、高齢者向けの産業を開拓してそこに雇用機会を見出す方向が現実的であろう。

都田公園の紅梅

6 寿命100年時代の人生=社会に向けて

《人生=社会》を変えるのは最終的には政治の力である。『ライフシフト2』は末尾で民主主義に言及しつつ、寿命100年にふさわしい《人生=社会》の再設計を呼びかける。

テクノロジーの進化は資本の概念をアイデアやブランドといった非物質主義的な方向に変え、それとともにシェア・エコノミーやギク・エコノミーのように労働の概念も変えた。その結果、既存の税制や福祉制度はうまく機能しなくなり、労働組合や資本家を前提にした政党政治もその変化に対応できなくなった。民主主義の面ではシルバー世代の声が強すぎるため、若い世代の声をいかに反映するかが問われている(320-321頁)。

すべての人が人生と社会のあり方を再設計するためには、様々な世代が協力し合あってこれまでよりも人間的な未来を形成する必要がある。一人ひとりの探索や開拓とともに政府の創意工夫が求められている(322頁)。

『ライフシフト2』の最大にして最良の特徴は年齢と時間に関する新しい視点である。寿命が《人生=社会》を左右するという《寿命〈人生=社会〉》の見地は社会認識としては革命的ですらある。とはいえ、老成学から眺めると不十分な点や欠落している側面も目に入ってくる。前著の『ライフシフト 』でも同様だ。ここでは五点を指摘しておきたい。

まず、寿命100年の後半50年の生き方、つまり老い方には、大まかにみれば三つの段階、すなわち元気に活動できる段階、病気になって世話を受ける段階、死期の迫る最期の段階がある。『ライフシフト2』では元気で活動できる時期にスポットライトを当てているが、それ以降の段階の話は出てこない。わずかに最晩年の経験が重要だという指摘はあるが、それ以上考察されているわけではない。それに対して老成学は「最期の生き方」を目標にして人生後半だけでなく、人生の全体を組み立て直すというスタンスを取っている。

次に、『ライフシフト2』では知的水準の高い人々や、専門的なスキル・能力を持つ人々、十分に意欲のある人々、高所得の人々を相手に提言しているように見える。その結果、庶民や、低所得層の人々、一人暮らしの老人たち、認知症の患者やその家族のための、実情と身の丈にあった働き方や生き方の提案にはなっていない。

また、それに関連して社会保障の話が手薄に見える。ユニバーサルベーシックインカムが人的投資を軸とした社会保障の観点から論じられており、それはそれで妥当ではあるが、話が一般的すぎる。あるいは、制度として賦課方式が推奨されているが、日本の議論の焦点はそこではなく、世代間の不公平をどうするかにある。

さらに、テクノロジーのデジタル化の影響が労働・雇用の面に限定されている。デジタル化を広く文化の文脈で捉えるなら、リアリティ感覚をめぐる世代の違いにもっと注目されてもいいはずだ。また、生殖テクノロジーが性別の区別を不要とし、サイボーグテクノロジーが年齢を超える方向に向かうことも論じられていない。

最後に、最大の問題点は、時間の視点はあっても空間の視点がほとんどないということだ。時間と空間は切り離しては論じられない。時間の観点からみた労働と余暇、労働と家族、労働と地域、労働と人生などの区別は、空間の観点からみると職場と家庭、男の領分と女の領分、都市と地域、国と自治体、人工環境と自然環境、人間と動物といった区別になる。暮らし方の原点は住まい方であり、住宅問題は最重要の生活課題である。

天竜二俣駅

参照・参考文献(登場順)

・老成学研究所ホームページ
・諸富徹『資本主義の新しい形』岩波書店、2020年
・西部忠『資本主義はどこに行くのか』NHKブックス、2011年
・森下直貴『システム倫理学的思考』幻冬舎メディアコンサルティング、2020年
・森下直貴・佐野誠『「生きるに値しない命」とは誰のことか』中央公論新社、2020年
・ヘミングウェイ『老人と海』新潮文庫、1952年
・飯島虚心『葛飾北斎伝』岩波文庫、1999(1893)年
・日野原重明『生きかた上手』ユーリーグ、2001年
・有吉佐和子『恍惚の人』新潮文庫、1972年
・ボーヴォワールの『老い 上下』人文書院、1970年
・森下直貴、<垂直のコミュニケーション>という希望——最晩年期における「老の中の死」の意味、『死生学年報2017』東洋英和女学院大学死生学研究所、リトン、2017年
・本村昌文ほか編『老い 人文学・ケアの現場・老年学』ポラーノ出版、2019年
・宮田登、新谷尚紀編『往生考 日本人の生・老・死』小学館、2000年
・黒田日出男『境界の中世 象徴の中世』東京大学出版会、1986年
・森下直貴、「家族」の未来のかたち―結婚・出産・看取りをめぐる人類史的展望、古茂田宏ほか編『21世紀への透視図』青木書店、64–96頁、2009年
・森下直貴、《雑融性》としての「成熟」、名古屋哲学研究会『哲学と現代』26:42-87、2011年
・A・ギデンズ『親密性の変容』松尾精文・松川昭子訳、而立書房、1995年
・R・フォックス『親族と婚姻』川中健二訳、思索社、1997年
・柳田国男『先祖の話』角川ソフィア文庫、2013(初版1945)年』
・E.エリクソン、J.エリクソン『ライフサイクル、その完結』みすず書房、2001年
・村上宏昭『世代の歴史社会学 近代ドイツの教養・福祉・戦争』昭和堂、2012年
・D・キャラハン『老いの医療――延命主義医療に代わるもの』山崎淳訳、早川書房、1990年
・R・バトラーの『老後はなぜ悲劇なのか』1975年
・D・シンクレア『ライフスパン 老いなき世界』梶山あゆみ訳、東洋経済新報社、2020年
・橋田壽賀子『安楽死で死なせてください』文春新書、2016年
・深沢七郎『楢山節考』新潮文庫、1956年
・佐江衆一『黄落』新潮文庫、1996年
・アードマン・B.パルモア『エイジズム』奥山正司ほか訳、法政大学出版局、1995年
・河合雅司『未来の年表』講談社現代新書、2017年
・NHKスペシャル取材班『老後破産 長寿という悪夢』新潮社、2015年
・岩田正美『生活保護解体論』岩波書店、2021年
・橘木俊詔『貧困大国ニッポンの課題』人文書院、2015年
・宮本太郎『共生保障』岩波書店、2017年
・鈴木亘『社会保障亡国論』講談社現代新書、2014年
・広井良典『人口減少社会のデザイン』東洋経済、2019年
・財務省ホームページ「日本の財政を考える」
・国立社会保障・人口問題研究所ホームページ
・厚生労働省ホームページ
・尾関周二『21世紀の変革思想へ向けて—環境・農・デジタルの視点から』本の泉社、2021年
・大黒岳彦『ヴァーチャル社会の〈哲学〉—ビットコイン・VR・ポストトルゥース』青土社、2018年
・NHKスペシャル取材班『認知症・行方不明者1万人の衝撃』幻冬舎、2014年
・長谷川和夫、猪熊律子『ボクはやっと認知症のことがわかった』KADOKAWA、2019年
・井口高志『認知症社会の希望はいかにひらかれるのか』晃洋書房、2020年
・小澤勲『痴呆を生きるということ』岩波新書、2003年
・坂爪真吾『セックスと超高齢社会』NHK出版新書、2017年
・松本紹圭・遠藤卓也『お寺という場のつくりかた』学芸出版社、2019年
・山崎章郎『「在宅ホスピス」という仕組み』新潮選書、2018年
・山崎亮』コミュニティデザイン 人がつながるしくみをつくる』学芸出版社、2011年
・山崎亮『ケアするまちのデザイン 対話で探る超長寿時代のまちづくり』医学書院、2019年
・平山洋介『住宅政策のどこが問題か』光文社新書、2009年


 
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