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「先人の知恵を味わうグルメの旅シリーズ」 童話の大人解釈 ❶『裸の王様』: もりした なおき
時代への提言 | 2020.07.26



©︎Y.Maezawa

「先人の知恵を味わうグルメの旅」シリーズ



童話の大人解釈 

 

(1)

裸の王様

もりした なおき




©︎Y.Maezawa


「童話」という物語のジャンルがある。民話や、伝説、神話、寓話、おとぎ話、創作話などがそこに含まれる。「童話」は名称のとおり児童向けである。児童が読んだり、児童に大人が読み聞かせたりするものだ。ところが、それを大人になって読み直してみると、これがなかなかに面白い。人生の知恵がそこに凝縮されている。その含蓄を味わうのは児童には難しい。「童話」はむしろ大人が読むべきではないか。


ということで、「大人」とは何かという小難しい問題はひとまず脇におき、大人の視点から「童話」に挑戦してみたい。これを勝手に「大人解釈」と呼ぶ。記念すべき初回、取り上げるのはアンデルセン童話から「裸の王様」(1837年)である。「裸の王様」の原題は「皇帝の新しい服」。明治時代に「裸」と意訳された。なぜこの童話を選んだか。理由は最後に判明する。


粗筋はこうだ(ちなみに、ここでは精緻な物語分析まではしない)。


ある国に服マニアの王様がいた。詐欺師の仕立屋がやって来て、利口な者には見えるが、利口でない者には見えない服を作れるという。興味をもった王様は家臣を試すために服を注文した。ときおり王様は仕立屋の仕事部屋を覗いてみた。何も見えなかったが、利口でないとみられたくないので、見えているふりをした。家臣たちも同様であり、みな見えているふりをした。そしてとうとう新しい服を披露するパレードの日が来た。パレードが進むにつれて観衆は口々に「素晴らしい服だ」と喝采した。その時である。一人の子どもが「王様は裸だ」と叫んだ。王様は赤面し、人々が困惑するなかでパレードは続けられた。


突っ込みどころ満載の話だが、大人解釈としてはとりあえず四つが考えらえる。


一つ目は、精神分析のフロイト流の解釈である。王様が服に固執するのは、王様の幼児体験に根差している。ずばり、幼児のとき母親の愛情が薄かったせいだ。服は母親の代理である。家臣や群衆は哀れな王様に付き合っているが、子供は忖度なく正直だ。仕立屋は詐欺師ではなく精神科医なのだろう。


二つ目は、哲学者のヘーゲル風の解釈である。人はみな虚栄心があり、評判を気にする。だから、他人から「馬鹿だ」と思われたくないため、見えているふりをしてしまうのだ。しかし、虚栄心はけっして無駄ではない。それは対立をもたらし、対立を通じて一段と高い総合の境地を実現する。この点が子供には分かっていない。


三つ目は、既存の常識を批判するバフチーン的な解釈だ。服とは制服であり、制度である。大人たちは制度的な常識の中にいて、常識を自明視して生きている。囚われのない無垢の子供の視線だけが、常識の馬鹿さ加減と破廉恥さを見抜くことができる。王様だけでなく大人はまことに哀れである。裸の土着へ帰れ!


四つ目は、私自身の解釈であり、人間のコミュニケーションの本質に結びつけるものだ。もしも王様が仕立屋の真意を捉えて嘘を見抜くことができたなら、この話はそもそも成り立たない。家臣同士や、群衆同士のあいだでも同様である。相手の心の真意を捉えることができないからこそ話が成り立つ。しかし、真意を捉えられないのにどうしてコミュニケーションが続くのか。それは、コミュニケーションが、相手の真意をそのまま捉えるやりとりではなく、自分なりに受け止めた解釈をやりとりすることだからだ。解釈こそが人間の世界の現実である(というのも一つの解釈だ)。


以上、四つの解釈を紹介してみた。皆さんはどの解釈がお好みだろうか。それとも、以上のどれとも異なる解釈をするのだろうか。なお、コミュニケーションに関する私の解釈については、『生命と科学技術の倫理学』序章および『システム倫理学的思考』第1章で詳しく説明している。

(編集:前澤 祐貴子)


 
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