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老成学の新段階「ポスト福祉国家」の時代の老人像 森下直貴
初代所長 森下直貴 作品群(2018 09〜2022 12) | 2021.12.29

「ポスト福祉国家」の時代の老人像


あなたも市長になったら
どう改革するか

老成学研究所所長 森下 直貴

序 老成学の新段階

人生100年時代をいかに生きるか。

老成学はこの問いを掲げて出発した。まずは理論的な基礎固めに着手し、コミュニケーションの一般理論に基づく『システム倫理学的思考』を出版した。その見地からあらためて超高齢社会の人生100年を眺めると、人生後半だけでも50年、老いの進行とともに老人の直面する状況や果たすべき役割が変わる。とすれば、老いの全体の進行を導き方向づけるような目標が必要となる。それが老いの最期に見せる生き様である。

死に際にはどんな姿を見せるか。

人生100年の生き方が最期の生き様に集約される限り、出発点の問いを絞り込むとこうなる。二冊目の著書『「生きるに値しない命」とは誰のことか』の中でその答えを探り、「最期にありのままの姿を若い人に見せ、そこから人生を学んでもらう」という境地にたどり着いた。この境地の前提には老いの価値と老人の役割に対する二つの観点がある。それがコミュニケーションの役割および世代としての責任だ。

市長になったらどう改革するか。

最期の生き様を作り上げるのは老いの中で積み重ねてきた生き方である。そして生き方は社会的現実の中にある。21世紀の社会的現実が「ポスト福祉国家」の時代であるならば、従来とは異なる老人像が要請される。老成学が推奨するのは、20世紀型福祉国家の社会保障の抜本的な改革を先取りするような老人像である。関心の焦点はさしあたり自分の居住する自治体の行政の仕組みにある。そこから冒頭の問いが生まれる。

上記いずれの問いにあっても主語は「あなた」、つまり老人自身だ。だから、老成学は「ポスト福祉国家」の時代の人生100年を生きるための倫理学なのである。

1 老人像の変容 1972〜2021

老いの価値や老人の役割を具体的な形にしたものを老人像という。老人像が時代と社会の価値観の影響を受け、その変遷とともに変容することは人類の歴史が示すところだ。現代日本に視野を限定するなら、老いを「社会問題」として初めて本格的に取り上げた有吉佐和子の『恍惚の人』(1972年)以来、2021年の現在にいたるまで、経済や政治をはじめ社会の状況が大きく変動するなかで老人像もまた変容してきた。

1980年代までの主流は、家族の世話を受けて短い余生を過ごす受動的な消極型の老人像である。これは『恍惚の人』で描かれた老人像の延長線上にあり、その前提には日本経済の高度成長に支えられた福祉国家の社会保障制度があった。

ところが1990年代後半からは、市場経済の自由化の影響を受けて社会と家族が大きく変容し、それにつれて個人の生きがいを追求する自立的な積極型の老人像が支持されてきた。この自立型は老人の権利を主張するロバート・バトラーが提唱する老人像に呼応し、既存の社会保障の拡充を要求する。

しかし、21世紀に入るとグローバル化によって雇用が不安定化し、さらに金融危機や自然災害が重なるなかで、2010年代には国民のあいだの経済格差が広がり、とくに母子世帯や単身高齢者世帯を中心に貧困層が増加した。この状況に対処するため福祉国家を支える社会保障の手直しや見直しが行われてきたが、目立った効果が見られないまま現在に至っている。その結果、人生100年を生き続ける意味を見出せない老人たちが増えている。

ここまでの内容は老成学研究所ホームページ掲載の論考や書評で詳述している。例えば、徘徊論や、『老後破産』、ボーヴォワール『老い』、『恍惚の人』、バトラー『老後はなぜ悲劇なのか』、キャラハン『医療の限界』、エイジズム論、『老人と海』等を見られたい。

以上のように、日本は戦後一貫して、ケインズ型経済政策とベヴァレッジ型社会保障がセットになった20世紀型福祉国家の路線を突き進んできたが、いまや「ポスト福祉国家」の時代に突入している。この時代を人々は生きていかなければならない。であるならどのような老人像が必要とされるのか。以下では、「ポスト福祉国家」の時代に要請される老人の生き方の輪郭を描いてみることにしよう。

なお、前半の第節から第節までは経済と社会保障に関する概説と専門家の見解の紹介になる。老人像に対する私の考えが展開されるのは後半の第節の「生活」概念の再構成からであり、その核心は第節になる。私の見立てでは後半の前提として前半部も必要なのだが、分量が長すぎて不要と考える読者がいれば、いきなり第節に飛んでもらっても構わない。

2 20世紀型福祉国家の変容

まずは、経済成長と社会保障がセットになった20世紀型福祉国家の変容を振り返ってみよう。

福祉国家の代名詞ともいえる英国は1980年代、市場原理を掲げて小さな政府を目指す経済自由主義の路線へと転換した。自由市場はすでに変動相場制によって拡大していたが、この時期になると規制緩和や民活が一段と進み、巨大な多国籍企業が生まれて国際市場を牛耳り始めた。

さらに、東西冷戦が終結した1990年代には市場経済のグローバル化がいっそう進展し、デジタル技術に支えられた金融市場ではマネーが世界中を飛び回った(以上については西部2011年が詳しい)。

米国は1990年代から2000年代にかけて、高い付加価値を生み出すデジタル関連のベンチャー企業を支援し、経済成長を遂げた。このとき誕生した巨大なITプラットフォーム企業はいまや世界市場を席巻し、物財中心から知財中心の産業構造へと変えつつある。

他方、ヨーロッパ諸国は域内経済の枠組みを作り、米国流のグローバル化に対抗して規制を強化する一方、とくにドイツは生産と流通のデジタル化(いわゆる第四次産業革命)を推進した。そして2010年代には若い世代の環境に対する危機意識やライフスタイルを戦略的に取り入れ、脱炭素経済へと大胆にシフトしつつある(以上については諸富2018年が詳しい)。

人々の生活はどうか。グローバル化によって先進国では中間層が凋落し、経済格差と貧困が拡大している。その一方、発展途上国では貧困層が激増し、移民や難民として先進国に流入している。

英国は1990年代以降、新自由主義から北欧諸国と同様の社会的投資国家の路線に転換した。そのなかで社会保障に関して、働く人を優先するワークフェアか、働くか働かないかにかかわらず生活を保障するベーシックインカムかという論争が浮上している(これについては橘木2015年で紹介されている)。

ただし、外国人労働者や難民が加わることによって事態は複雑になっている。今日、世界中でポピュリズム政治が横行し、無差別テロが蔓延し、地域紛争は収まる気配を見せていない。

日本国内に目を転じると、経済は1960年代の高度経済成長から1970年代半ばの構造改革をへて、1980年代には世界経済の牽引車と呼ばれる時代を迎えた。そして前半には空前の消費ブームが到来し、後半には規制緩和と民活導入によって投資ブームに沸いた。

しかし、バブル経済が破綻した後、1990年代半ばからはグローバル化が進展し、雇用が不安定化するなかで長期不況に陥った。さらに人口減少に加えて金融危機や、東日本大震災、各種の災害、そして昨今のコロナ禍も重なり、今日に至るも低落傾向に歯止めがかかっていない。

その間、国民のあいだでは貧富の格差が拡大し、非正規雇用の女性や、母子家庭、単身高齢者の貧困状況が深刻化している(以上については岩田2021年、宮本2017年が詳しい)。

3 日本経済の再生方向

以上で概観したように、グローバル化によって世界中で格差と貧困が拡大し、これを背景にして分断と紛争が起こっている。とくに日本の場合、経済の落ち込みが著しく、実質所得が低下したまま格差と貧困が拡大している。また、社会全体を広く見渡すなら、コミュニティ解体と孤立・孤独、商品化やデジタル化による価値の拠り所の消失も生じている(これについては森下①2020年終章で説明している)。

いささか極端な表現をすれば、いま、若者は未来に夢と希望を持てず、中高年は負担に押しつぶされて疲弊し、老人は安心して死を全うできないでいる。

とするなら、経済をどの方向に向けて再生すればいいのか。また、経済再生と一体ではあるが、現代的貧困に対処するため社会保障をどの方向に向けて改革すればいいのか。以下ではとりあえず専門家の見解を参照してみよう(ただし、それらは多数の見解のうちの一部にすぎず、より包括的な文献調査は今後の課題である)。

二人の対照的な見解

まずは日本経済の再生に関して、諸富徹『資本主義の新しい形』(岩波書店2020年)と西部忠『資本主義はどこに行くのか』(NHKブックス2011年)を参考にする。

諸富は、グローバル化の本質を資本主義の「非物質主義的転回」に見る。アイデアや、経営戦略、消費者とのネットワーク、ブランドといった非物質的要素が、消費と生産と流通における付加価値生産の大半を占めるようになった傾向のことである。日本経済がもの(物財)づくりにこだわり続ける限り、長期低落傾向から回復できず、欧米や中国から決定的に遅れてしまった。しかしまだ希望はある。再生のための処方箋は三つある。アイデアを生み出す人材の育成(社会的投資国家)、同一労働同一賃金の実施、成長と両立する環境経済の導入である。諸富がめざすのは資本主義の持続可能で公正な成長である。

西部はグローバル化の本質を商品市場経済の内包的深化、とりわけ労働力商品を軸とする資本主義的な商品市場経済の内包的深化と捉える。内容的深化とは消費や収入を超えて利潤そのものを求める傾向であり、これは資本の本性にほかならない。その結果、身体や生命までもが商品となり、心の豊かさと幸福を支えるコミュニティが解体している。西部が期待するのは、資本主義的な交換システムの内部に、利子をつけない通貨による互酬的なコミュニティ経済を再興し、それを通じてコミュニティの新しい形を再生することである。

諸富も西部はともにケインズ型の財政金融政策による経済成長とそれを基盤とする福祉国家の限界を指摘しているが、再生の方向については対照的である。諸富は現状のままで企業や政府が実行できる政策を提言する。それに対して西部は原理的・根本的な見地に立ち、国民の意識改革に期待している。共通点は教育支援、子育て支援、最低賃金の引き上げ、同一労働同一賃金であり、対立点は投資、環境経済、コミュニティをめぐる評価である。

4 社会保障制度の改革方向

続いて日本の社会保障制度の改革案に移る。前提として制度の変遷を確認しておこう。

1950年に生活保護制度が創設され、1961年から皆保険・皆年金制度がスタートした。これは高度経済成長政策とセットになった分配制度である。二つの制度は両輪であり、一方が支えられる側、他方が支える側のものだ。1973年は福祉元年と呼ばれ、これ以降、老人福祉を中心とする社会保障が充実するが、この時期はなお旧来の救貧的な社会保障観から脱していない。

1980年代には財政再建のために政府によって社会保障費が削減されていく。それに対して半ばからは社会保障を国民の権利として位置づける普遍主義的な見地が打ち出され、19901年代にかけてその方向で改革が行われた結果、介護保険制度が成立して2000年に施行される。

その後の2000年代以降には保育を中心に全世代型の社会保障が目指された。しかし、財政難と行政の縦割りと中間層の凋落のために頓挫し、複合的な貧困状況に対応できていない(以上については宮本2017年が詳しい)。

三人の異なる見解

それでは、社会保障制度全体をどのように改革するのか。岩田正美『生活保護解体論』(岩波書店2021年)、橘木俊詔『貧困大国ニッポンの課題』(人文書院2015年)、それに宮本太郎『共生保障』(岩波書店2017年)の三者を比較する。

岩田は、生活保護の制度に関して、創設以来というもの基幹部分の抜本的な改革がなされておらず、旧来の救貧的発想から抜け切らないまま現代的貧困に対応できていないとする。他方、皆保険皆年金制度では低所得者層向けに税金が投入され、保険原理とのあいだで矛盾を生じている。そこで岩田は二つの公的扶助を統合するために、生活保護の八つの扶助をニーズの違いに応じてバラバラにし、社会保障制度全体に溶け込ませるべきだとする。その際、生活保護として残る生活扶助の最低基準は、住居費と通信費からなる生活基盤費約6万円と日用品消費費を合わせて一人約11万円とする。財源は税と保険料になるが、両者はともに国民の共通財源であり、そこに公助と共助の別はない。国民の生活保障のために共通財産をどのように分配するかを決めるのは国民自身という。

橘木は、日本経済の不振のなかで貧困が拡大しているにもかかわらず、生活保護を含めて社会保障制度が対処できていないことから、その抜本的改革が必要だとする。この点では岩田と同意見であるが、財源は消費税を引き上げ、それによって国民一律の老齢年金をまかなうべきだとする。その際、消費税には累進を導入し、また支払い済みの保険料を国民にすべて返還する。また、企業年金・企業福祉も廃止し、その分を労働者の給料に回すことになる。老齢年金の最低基準は現行の実態から計算して夫婦17万円、単身9万円とする。誰もが老後に安心できる老齢年金制度を前提にして実用教育を重視することにより、人口減少のなかでも経済のゼロ成長(定常状態)は可能だとする。

社会保障の二つの制度のうち、岩田は生活保護の解体を通じて、橘木は社会保険の解消を通じて社会保障制度の再編を提案する。それに対して両制度のはざまに視線を向けるのが宮本である。

宮本は、両制度の間に落ち込んでいる人々の生活保障のために、就労と居住のための共生(支え合い)の場を作り、支える側を支え直し、支えられる側に参加の機会を与えるという、間接的だが抜本的な改革の戦略を立てる。具体的には一般的就労と保護とのあいだに多様な働き方を生み出し、私的居住と施設のあいだに共同の居場所を設ける。ただし、それを実現するためには地域で実践されている事例に学んで行政の仕組みを変える必要がある。宮本は基本的に北欧型の社会的投資路線を重視するが、経済成長や家族・コミュニティ再生の観点を排除しない。財源に関しては増税が避けられないとしつつ、その前提として政治に対する国民の信頼が不可欠とする。

目標としての豊かさ

ここまで三者の見解を紹介してきたが、本質的な疑問が残る。

三者とも貧しさの観点から生活を捉えている。社会保障を問題する以上、それは当然ともいえるが、貧しさの対極には豊かさがあり、経済学はもとより社会保障も本来はその豊かさを目標にしていたはずだ(橘木2015年210頁、西部2011年13頁)。ところが、岩田や橘木の見解からは肝心の豊かさのイメージが湧いてこない。また、宮本の見解には豊かさの一部が含まれるが、全体のイメージが浮かんでこない。

そもそも豊かさとは何か。どこまでが貧しくて、どこから豊かになるかの境界線は、専門家によれば所得や資産で決められる。しかし、生存ギリギリの状態から豊かさをイメージすることは困難である。それは所得や資産の多寡で比べられるものではないし、たんなる幸福感や精神的な心持ちにも還元できない。あるいは、豊かさは幸福とどのように関連するのか。

豊かさは「生活」の豊かさである。豊かさのイメージが貧しいのは「生活」の概念が貧しいからではないか。だとすれば鍵を握るのは「生活」概念の捉え直しである。

5 「生活」の再構成と「豊かさ」の本質

日本国憲法の25条には「健康で文化的な最低限度の生活」とあるが、「文化的」の意味は人によって解釈が異なる。他方、ヨーロッパ10カ国の最低所得標準(MIS)の前提には、或る一定の時期・或る社会の「まともなdecentな生活」という見地があり、「まともな」によって人間の尊厳と社会参加が含意されているというが(岩田2021年257頁)、こちらも抽象的であり、解釈の幅を許す。

そこで、実際に活用された二つの指標を足がかりにして生活概念の再構成に着手しよう。その一つは「生活保護」でいう「生活」であり、これは貧しさの観点から規定されている。もう一つは「新国民生活指標」における「生活」であり、こちらは豊かさの観点から設定されている。

二つの指標

最初は1950年創設の生活保護でいう「生活」である。ここには八つの扶助が含まれている。すなわち、生活、住宅、教育、医療、介護、出産、葬儀、生業である。ここで生活扶助は日用品の消費に関わる。また、生業扶助は就業支援であるが、そこでは高校通学も考慮しているというから、70年間捉え方に変化がないことを示している。なお、介護扶助は介護保険制度の施行後に付加されたから、それ以前は長らく七つだったことになる。

生活保護受給の所得基準は事実上、生活の最低限を意味する。基盤となる生活扶助と住居扶助は現行では夫婦で12〜14万程度、単身者で8〜9万円とされている。これに児童がいれば教育扶助、高齢者や障害者がいれば医療扶助と介護扶助が加算される。

さて、八つの扶助の相互関係であるが、解説がないので推測してみたい。まず、生活と住宅は生存のための基盤であり、それなしに人は生きていけない。次に、教育は人の成長にとって、医療は傷病の癒しのために、介護は老齢が不可避であるから、それぞれ生活に不可欠である。他方、出産と葬儀は一時的であり、生業は人によって異なるから特殊である。以上のように相互関係は捉えられるとしても、なぜこの八個になるかについては不明である。

次は「新国民生活指標」でいう「生活」である。これは1980年に経済企画庁国民生活局によって作成され、2000年まで活用された(なお、2002年には20年間の傾向を分析した報告書が出ている。西部2011年14頁)。ここでは八つの活動領域と四つの価値基準が設定されている。八つの活動領域は「住む」、「費やす」、「働く」、「育てる」、「癒す」、「学ぶ」、「遊ぶ」、「交わる」である。また、四つの価値基準は「安心・安全」、「公正」、「自由」、「快適」とされる。

作成当時の雰囲気だろうか、ネーミングにはセンスを感じるが、それは反面で概念としての弱点に通じる。活動領域はなぜこの八つか、価値基準はなぜこの四つなのか。また、活動領域や価値基準はそれぞれ相互にどのように連関するのか。さらに、同じ「生活」であるから、生活保護の「生活」の八つの扶助との整合性も問われるだろう。とにかく以上が不明だ。

以上の疑問を解消するために、以下ではシステム倫理学の枠組みに基づいて「生活」概念を再構成し(これについては森下①2020年第7章で詳述されている)、再構成した「生活」の中に上記二つの指標を位置づけ直してみる。

人間の「生」の三層構成

人間の「生(life)」は「生命」、「生存」、「生活」、「人生」、「生涯」のように多義的である。ここで生命は「生存」の基礎として組み込まれ、生涯は「人生」に包含される。また、生には「質」があり、これには客観的と主観的の別がある。このように考えるなら、「生」はけっきょく「生存」「生活」「人生」の三層と二側面の「質」から構成されると捉えることができる。この枠組みは個人だけでなく国民に関しても当てはまる。この枠組みの全体を図1に示す。

枠組みの細部を説明する。

まず、生存の層は生命を基礎とする生物行動であり、この「質」の客観的側面が身体の動作と状態、主観的側面が健康感に相当する。

次に、生存の層の上に成り立つ生活の層は人間的活動であり、この質が客観的には仕事・家族などの社会環境、主観的には幸せ意識になる。幸せ意識は現在から過去に向けられると生活満足感になり、未来に向けられると生きがい感になる。

三番目の人生の層はすべての人間的活動の時間的な総括であり、その質は客観的な社会時間と主観的な人生観・死生観からなる。

人間的活動を展開する生活の層は、生存の層を基盤にしつつ人生の層を生み出す。その限り生活の層が人間の生の三層構成の中心にある。人間的活動の本質と種類に関する研究は、アリストテレス以来長い歴史をもつ。

システム倫理学は独自のコミュニケーションの観点から、人間的活動を相互的コミュニケーションの四次元セットとして捉える。すなわち、実用的活動、共同的活動、公共的活動、文化的活動のセットだ。

この四次元セットという捉え方が重要であり、どれが欠けても人間的活動としては不足する。これら四次元の活動から機能的に社会システムが成立する。社会システムはそれぞれ4分野に区分されるため、全部で16分野になる。以上を図示すると図2図3になる。

人間の生の三層構成の枠組みの中に生活保護と「新国民生活指標」を位置づけてみると、なぜ八になるかを含めて不明だった点が説明可能になるが、それだけでなく同時に不十分な点も見えてくる。

生活保護でいう「生活」は生存の層に対応するが、四次元のうち二次元しか満たしていない。他方、新国民生活指標は「生活」の層に対応し、四次元に満遍なく散らばるが、16分野には程遠く、欠落と曖昧さが目につく。また、四つの価値基準についても、これらは活動ではなく観点であるが、四つである理由が機能的に説明される。以上については図4に示す。

生活の豊かさと幸福

システム倫理学の見地では、生活とは人間的活動、すなわち経済・共同・公共・文化といった四次元16分野の相互的コミュニケーションが繰り広げられる場である。

相互的コミュニケーションの四次元16分野の広がりの範囲と深まりの度合いに応じて、生活は豊かにもなれば、貧しくもなる。豊かさは相互的コミュニケーションの展開の仕方と相関するのだ。

四次元16分野に広がる生活の基盤は生存である。生存を維持する条件は、住宅、日用品消費、スマホである。住宅は生存の土台である。

スマホは社会に開いた生活の窓であり、それなしには今日にデジタル社会を生きていくことはできない。生存を維持する最低限の所得ラインは、住宅費次第で変わるが、岩田や橘木の試算では一人につき約11万円程度になる。そのうち、水道光熱費込みの住宅費とスマホ料金を合わせた6万円弱が固定費になる。生存維持の最低限のライン以下が絶対的貧困と呼ばれるが、住宅手当が貧困対策の要になる。

それでは、幸福とは何か。古今東西の多彩な定義には共通する要素がある。それが人間的活動に伴う快の充実感である。

快の充実感、つまり幸せ感は、人間的活動が四次元に広がる限り、それに伴って四次元を持つ。すなわち、目標達成感、安心充実感、承認自尊感、理想向上感の四次元セットであり、どれが欠けても幸せ感としては不足する。これら相互の関係を図5に示す。


人間的活動とは相互的コミュニケーションであり、その四次元の広がりの範囲と深まりの度合いが豊かさの程度を示すとすれば、その豊かさの程度に応じて幸せ感も高まったり、低まったりすることになる。四次元セットの幸せ感を人生の層で改めて意味づけ直すと幸福観になる。

以上ここまで豊かで幸福な生活のイメージを示してみた。人の生き方は生活、すなわち人間的活動としての相互的コミュニケーションをいかに展開するかにかかっている。しかし、生活の基盤は生存である。生存が保障されていなければ生活を展開できないし、生活を展開できなければ豊かで幸福な生活はとうてい望めない。

6 21世紀に生きる老人の条件

今日、「人生100年時代をいかに生きるか」という問いは、生活の基盤である生存が20世紀型福祉国家の仕組みでは維持できなくなっているため、「ポスト福祉国家の時代をいかに生きるか」に限定されることになる。

ここで生き方の中心となるのは、20世紀型福祉国家の抜本的改革を先取りし、促進するような活動である。これは四次元でいえば生存の保障に関わる公共的活動であり、実際には政治的活動に通じる。

政治の論点として社会保障の財源を取り上げるなら、現行のように税と保険料の二本立てのまま工夫するのか、税に一本化するのか、税のうちでも消費税の割合を増やすかが争点となろう。また、関連してデジタル歳入庁の設置も重要である。そのほか、社会保障制度を支える経済成長の方向をはじめ、住宅手当、同一労働同一賃金なども論点となるが、いずれも大きなテーマである。

もちろん、老人の政治活動には疑問や反対の声が上がるかもしれない。むしろ、老人だから静かに余生を送っていればよい、社会保障の改革を進めると老人の不利になるから止したほうが得策だ、知的体力的にみてとても無理ではないか、などと考える人も多いだろう。

しかし、生存保障は恩恵ではない。国民の権利であると同時に、そのために財源の配分を決めるのは義務である。世代間の公平という問題もある。足腰が弱くなっても頭は働くはずだ。いや、頭が働くように日頃から脳トレーニングに公共問題を加えればよい。年金を受給する老人は若者よりも社会保障に切実であり、かつ時間的余裕もあるだけに、むしろ社会保障制度を考える絶好の位置にいる。

老人はいつまでも20世紀の老人ではない。老人も変わる必要があるし、変わることができるはずだ。21世紀に生きる老人に要請されるのは、生存レベルの保障に関わる公共的活動を中心に置きながら、生活レベルのその他の活動を展開する生き方である。その他の活動のうち重要な四つを挙げてみよう。

一つ目は、公助の生活保障の改革とは別に、互助のつながりを通じて新たなコミュニティの形成する活動である。

例えば、食料品や衣料品の配給、子ども食堂や老人食堂の運営、空き家の提供、人々が集まる居場所の提供、利潤を求めない地域経済の再興などはすでに実践例がある(宮本73頁、79頁、82頁、西部225頁以下)。その際、重要なのはデジタル通信の活用によるネットワークづくりである。これに老人たちも参加し、若い人たちと一緒に担っていくことが望まれる。

二つ目は、デジタルリテラシーを習得してスマホを使いこなし、コミュニティの活性化や行政の効率化のために社会のデジタル化を促進する活動である。

例えば、83歳の若宮正子さんは老人こそデジタルリテラシーが必要だと考え、独力で老人向けゲームアプリを開発し、デジタルエヴァンジェリストを自称している(NHKあさイチ2021年11月19日)。なお、岩田も社会保障制度の改革の鍵をデジタル歳入庁の設置に見ている。それによって国民の収入をリアルタイムに把握できれば、課税だけでなく、給付やワクチン接種等のサービスも効率的に実施できるという(岩田2021年291頁)。

三つ目は、男らしさ/女らしさを固定するジェンダー差別を問い直し、それを通じて21世紀にふさわしい老人らしさを作り出す活動である。

例えばデイサービスでは、男性の利用者が壁際に座り、部屋の中央でゲームに興じる女性たちの様子をしかめ面で睨んでいる光景を目にすることがある。老人も変わる必要がある。自分に適したサービスメニューを提案すればいいのだ。世の中ではスポーツを始めとしてLGBTX問題も登場している。男/女や老/若の捉え直しを通じて頑固で頑迷ではない老人の姿を見せることは、若者とのあいだの意識ギャップを埋めることにつながる。

四つ目は、体力の鍛錬を通じて知力や精神力を養う活動である。

全国各地で取り組まれている健康体操を軽視する人がいるかもしれないが、身体の日々の鍛錬を怠ると後悔することになる。いわゆる健康寿命の延引は自己努力にかかっている。例えば90歳現役インストラクターの瀧島未香さんは見た目にもじつに若々しい(NHK総合テレビ2021年9月20日インタビュー)。四次元の活動を支えるための知力精神力を維持するのはとくに筋肉の鍛錬だ。105歳で亡くなった日野原重明さんは筋肉を柔らかくする週一日のマッサージを怠らなかった。「男は裏切るが、筋肉は裏切らない」とは天海祐希の名言である。

老人の活動も四次元に広がり深まる。しかし、それでも人生の最期はやってくる。「死の際にどんな姿を見せるか」。この答えは『「生きるに値しない命」とは誰のことか』で示したように、寝たきりになり自分のことが分からなくなっても、その姿のうちにそれまでの人生で展開してきた活動が集約され、刻印されている。とすれば、そのありのまま姿を若い人に見せ、人生の何たるかを学んでもらえばいいのだ。それが老人の最期の役割である。

そのためには延命治療でも安楽死でもなく、緩和医療が望ましいと考えられるが、いずれにせよ、最期の迎え方を家族や周囲に伝えておくことはポスト福祉国家の時代の老人の責務である。そうすれば終末期医療の文化も変わるにちがいない。

結 市長になったらどう改革するか

人間的活動としての相互的コミュニケーションの展開とその積み重ねを通じて最期の生き様が形成される。ポスト福祉国家の時代をいかに生きるか。老人に期待されているのは、社会保障の主たる受給者であるからこそ、世代の持続可能性のために自分の身を切る結果になるとしても、制度改革に向けて政治的に行動することである。さらに、社会のデジタル化を促進し、ジェンダー差別と絡み合った老人らしさを問い直し、終末医療の新しい文化を作ることである。

老人はいつまでも社会のお客様ではない。欄外者でも余計者でもない。社会の当事者である。老人は変わる必要があるし、変わることができる。私は老人に過大な要求を突きつけているのだろうか。いや、求めているのはもっと身近で地道なことだ。大所高所からの客観的な言説ではなく、世代の責任を意識した老人なりの主体的な受け止め方である。

に書いたように老成学の初発のテーマは「人生100年時代をいかに生きるか」である。研究所の実質一年目はその理論的な基礎づけに腐心した。二年目には「死に際にはどんな姿を見せるか」に絞って考察した。そして三年目の現在、新たに浮上したのが「ポスト福祉国家の時代をいかに生きるか」である。これをさらに具体化すると、あなたも「市長になったらどう改革するか」になる。

老成学はいまや新段階に踏み入っている。今後は地元の浜松市をフィールドワークしながら、まずは社会保障に関して行政の仕組みや民間の団体との関係を調査し、収集した情報を整理した上で、論点や見解を発信していくことを計画している。私のような老人にも何とかできる姿を見てもらいたいと思う。

参照文献

・諸富 徹『資本主義の新しい形』岩波書店、2020年.・西部 忠『資本主義はどこに行くのか』NHKブックス、2011年.
・岩田正美『生活保護解体論』岩波書店、2021年.
・橘木俊詔『貧困大国ニッポンの課題』人文書院、2015年.
・宮本太郎『共生保障』岩波書店、2017年.
・森下直貴①『システム倫理学的思考』幻冬舎メディアコンサルティング、2020年.
・森下直貴②・佐野誠『「生きるに値しない命」とは誰のことか』中央公論新社、2020年.

2012年12月27日脱稿

 
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