交流の広場

老成学研究所 > 時代への提言 > 【寺川進 研究室】 > 意識生成系:こころはどう作られるのか 寺川 進 第2回/全6回シリーズ; 「第2章 意識の川の原風景」寺川 進

意識生成系:こころはどう作られるのか 寺川 進 第2回/全6回シリーズ; 「第2章 意識の川の原風景」寺川 進
時代への提言 | 2026.04.09




意識生成系

 寺川 進 



第2章 意識の川の原風景




第2章の目次

 

 第2章の緒言 
 こころ(心)とは何か
 こころを生むしくみ
 こころは順序から生まれる
 なぜ今の機械にはこころが無いのか
 認識するということ
 脳機能局在論を超える
   (脳生理学の指導原理Ⅱ)
 脳の精神的な機能のまとめ



第2章の緒言

ヒトの意識は、自分が毎日体験するものであるが、日夜によって、季節によって、また、歳月によって大きく変わる。それは、丁度流れる川のようなものだともいえる。水が連続して流れるのが川である。初めは、小さな雫から始まる。雫は小さく、個別に分かれており、生まれたその場で蒸発したり、自然物に吸収されたりして、消えてしまうこともある。雫は少しずつ合体し、地上や地下を流れていくうちに、湧き水やせせらぎに成長する。支流が合わさって、次第に川幅は大きくなる。川の中や底の様子が変わる。泡が立ち上り、渦が現れる。岸の様子もどんどん変わる。最後は大海に流れ込み、川としては消失する


昔、インドに降り立った空港からホテルまで、タクシーに乗った。窓の外は、たくさんの出店とそれらを物色する人々で大混雑していた。タクシーは歩く人々と同じ速度で移動した。そうするうちに、運転手と話が始まった。彼が先ず教えてくれたのは、ヒンズー経とは何かということであった。全ての宗教は川の様なものである。全ての川が流れ込むのが海である。ヒンズー経はその海なのだという。インドに着くなり、タクシー運転手からそんな話を聞かされ、インドの懐の深さに眼を見張る思いであった。


初めの意識は雫のようなものである。幼児になって、小川のようになる。長じて、見慣れた近所の川のようになるが、様々な姿を持ち、極めて複雑で、なかなか理解しがたい。脳は意識ある脳というものを完全には理解できる立場にないのではないかという、諦めの論を吐く人もいる。実のところ、意識は海の様なものかもしれない。川であろうが海であろうが、意識は身近にあり、常に体験するものである。


ここでは、意識が働く脳を自然物として観察し、その姿を正確な風景スケッチとして無欲に写し取ってみたい。自然科学的な観察の対象として、意識に関わる基礎的な事実を集めたい。第1章では、実験測定的な方向から脳を捉えて、考えた。いわゆる「外側からの客観的な観察」に基づくアプローチをした。そうして分かる事実から仮説を立て、その方向への考察を進めた。この第2章と続く第3章では、脳を外側からだけでなく、少し内側に廻って見ることをしてみたい。いわば、川に流れる舟から辺りの風景や水中を見回すのだ。つまり、意識を主観的に体験するものとして捉え、そのような内側からの観察によって得られる姿をまとめて、意識とはどんなものなのかを理解してみたい。




こころ(心)とは何か

 

本能のように、神経系のハードウェアとして、あるいは、内臓されたプログラムとして働く作用によって(原始的な)こころが生まれる。たとえば、本能としての食欲があるから、何かを食べたい、というこころが生じる。これは、ダンゴムシでも同じである。ヒトに至れば、本能に様々な感情や記憶が加わってくる。感情とは、自然や社会の環境から科せられた条件に対する、自己の反応であり、記憶とは、世界はどのようになっているか、という知識や記録である。全
世界とは、この世の全てである。その中に含まれるのは、宇宙、地球、住居回りなどの自然環境、自分の身体と食べ物や排泄物、自分と他人や他人と他人の関係、他人の思考や行動のパターン、数学や歴史を初めとする文化・文明などである。必ずしも、すべてを網羅できるわけではないし、現実には無いものが注意深く排除されるわけでもない。

 
脳という臓器の特殊な機能は、身の周りの環境やその外側にある世界を感覚器や言語を介して写し取り、地図や模型のように脳内に形作る(写像する:またはmappingする)ことである。脳は〝身の回りの世界をコピーするための臓器” であり、そのコピーを保存しておく器官なのである。脳はそのコピーの一部を(注意の対象として)取り出し、それに対して何らかの情報処理を行って、外界や内界(身体や記憶庫)へ出力する。その結果が、食物を獲得するのに役立つような探索や攻撃などの行動へ繋がる。その目的は、個体の恒常性の維持である。この活動を繰り返すときに意識があると感じられる。エサの場所を記憶するリスと星座を記憶して方向を知るヒトは、共に、脳が世界を写像するという機能に依存して、命を繋いでいる。そこに意識が生まれるのだ。


そこで、実際の心の動きを見てみよう。まず、眠っているときには、ほとんど心は働いていない。朝になって目覚めると、心が働きだす。その一例を挙げれば、次のようである。

さて、今日は何曜日だったか・・・。脳内の記憶によれば、そうだ、日曜日だ(記憶1)。日曜になったら、海に行ってみようと思っていたっけ(記憶2)。天気もいいようだし(感覚入力、状況判断)、早く食事をして(食欲)、出かけてみよう(意欲)。青い空と寄せ来る白い波の風景が目に浮かぶ(記憶3)。風も少しあり、気持ちよさそうだ(感覚と記憶4)。浮き浮きしてきたな(情動;感情)(図16)。



                 © Toshiko Nishida
図16. 朝、目覚めて、その日の計画を練りながら、

想像する。 
 


  

こうした心の働きは、どれをとっても、基本的には広い意味での記憶から誘導されており、環境や体内からの感覚入力で修飾・制御されており、行動という反応に結びついている。そうまとめてしまうと、ダンゴムシの行動とあまり差はないかもしれない。海に行きたいという気持ちは、大部分、記憶により突き動かされている。記憶や本能によって強く駆動されるものが欲望なのだ。意識の根底にある甕(かめ)には、大小色々な欲望が湧き上がり、対流している。本能によって駆動される意識は、普通は、無意識や意識下といって区別される。意識下の力が強くなってくれば、それに注意が向けられ、意識によってはっきり認識されるものとなる。


神経系は、免疫系の場合と同じように、あらかじめセットされた反応(自律神経系:本能的)と、外界を学習することによって作り出される反応(高次神経系:学習的)が、複雑に重なって動いている。免疫では、あらかじめ設定されたプログラム(自然免疫系)と、対象を学習して記憶した反応(獲得免疫系)の両者を、重ねて発動させて、侵入異物を排除する反応を強化している。侵入異物を排除した後でも、その物の印となる分子の形を記憶した細胞が生き残り、再度の侵入に備える。脳も同じ戦略で、本能的な記憶と学習的な記憶の両方を活用して、外部世界に適応する反応を確実なものにしている。個々の細胞が特定の事項を記憶しているという仕組みも、免疫の場合と共通している。免疫系と神経系の違いは、自我が反応の対象となるかならないかである。免疫系では、自我は原則として認識の対象からはずされている(免疫細胞は、胸腺で敵と見方を区別する訓練を受け、自己の分子に反応性を持つ場合には、滅殺される)。神経系では、自我(私)は世界の一部として切り離すことはできず、自我が全対象物の中に占める割合はとても大きい。自分の身体から送られる痛みや手足の存在感だけでなく、自己という対象物自体の記憶を担っている細胞も存在しているはずだ(第1章に前述)。自我は、認識の対象として、外界と同じくらいの割合を占めているのだから。この差が、免疫系にはこころが無く、神経系にはこころの存在が感じられる、大きな理由となっているのであろう。




こころを生むしくみ

 

自己という存在は、大脳にとっての認識対象である。大脳は世界の形や有り様を知り、それを記憶として保存する。この記憶は、世界という実体を脳内にコピーしたもので、脳内のミニチュア世界として存在する。記憶された様々な要素の間には、物理学的、生理学的、心理学的な法則が絡んでおり、記憶の内容を組み合わせることにより、脳は脳内のミニチュア世界を時間や空間に沿って動かしたり、再構築したりすることができる。これによって、ある程度、実世界の動きを予想することができる。


河を渡る水牛は、以前に、ワニが水から飛び出すようにして口を開いたのに出会って、自分が驚いたことを記憶している。頭の中では、次の瞬間に、水面下からワニの口が突き出る像が、ほとんど見えるくらいになっている。その予想のため、群れの中を歩くのが安全だと分かっている。

自己という認識対象についても、同様に、その有体(ありてい)を、脳内の記憶に整理して保存している。その内容は、自己の名前や出身地、個人的に体験したことなどが中心となるが、さらに、世界との関係(家族構成、居住地、社会的地位、友人、他人との繋がり状況など)や、自己の応答や反応(個性、性格)を特徴づける統計的なパターンも含まれる(自分は浪花節に弱い、自分は二重目蓋(ふたえまぶた)の女性が好きだ、自分は右利きだなど)。世界を対象とした記憶と同じように、自己に関する記憶や知識を基に、現在からある程度時間を進めて、数分、あるいは、数時間後の自己や自己と他人の関係を想像することができる。このような自己記憶に基づく脳内自己の時間変化(反応)を「こころ」と呼ぶことになるのだろう。


世界の事物や自己を、脳内のコピーとして記憶して、世界を支配している現実的な法則に忠実に合わせた条件の下で、脳内で動かす反応が、意識であり、こころなのだ。そのような動きに影響を与える因子として、好き嫌い、恐怖、嫉妬、競争心、依存心、支配欲など、よく知られた人間的要素が絡んでくる。その上で、脳内に形成されている世界や自己を、想像の中で動かすときには、イメージや言葉が使われて、現実に似た変化が作り出される。多くは、母語による独り言のような言葉の連なり(internal thought)が脳内に発生し、意識という脳の反応を表現するものとなる。例えば、「このパン、固すぎて噛みにくいな。ミルクを一緒に飲めばいいかな」というように。脳内に発生した言葉は、次に、行動となって、外界へ働きかけることにもなる。脳内に自発的に言葉が発生することが、意識を形成する一番強い力である。さらに言えることは、心の中にある世界の模型では、現実の世界で成り立っている物理法則が、ほとんど完璧に、成り立っているということだ。つまり、心の中の物に対しては、法則を働かせる脳内の仕組みが関与して、言葉を使わなくとも、自然のままに動くということだ(図17)。脳内における言葉の発生部も自然法則制御部も、意識を構成する重要な部分となる。

 

© Toshiko Nishida
図17. 歩いていたら大きな地震を感じ、今にも電柱や家が崩れてくるのではないか、と思った。




こころは順序から生まれる

 

言葉は、単語を文法に従って直線的に並べたものである。記号の直線的配列であるが、単語には意味があり、その意味に対応する神経細胞がある。線形の配列の中では、注意の焦点があり、時間変化の中で、その焦点は文頭から文末へ移動していく。一列の記号の連続体を認識するには、脳は、単語を順に記憶していき、それを並べて全体として解読する必要がある。その結果として一文の意味が現れ、脳はそれを記憶・認識することができる。


配列の順番を認識できるのは、脳の基本的な能力である。順番は、Aのニューロンの発火が起こると、Bのニューロンの発火が起こる、というようなニューロン間の結合で実現できる。ニューロンはいくらでもあるので、相当大きな数の順番を作り出し、整理した形で取り扱うことができる。時間軸に沿った系列として入る情報は、すべて、同じように取り扱われる。意識は、短い時間、大体1秒前後を中心にして、現在を感じながら、状況の変化を把握していくのであるが、その時間をはるかに超えて入力してくるような系列的な情報は、実際の長い時間をかけて全体を把握し、いくつかのあまり多くない数の記憶箱に順に配列貯蔵し、情報の系列が終了してから、それらの記憶箱の集まりを全体として取り上げて理解するのである。そのように働く意識は、一瞬の長さの場合もあるし、数分の長さに拡がっている場合もある。意識の現在時間は、常に、その幅が変動する。一般的には、現在に大きな重みをかけ、過去に遡るに従って重みが(概ね指数関数的に)減少するように、移動平均 (rolling average) されたものである。時間的に前のものをどのくらい重視して採用するかという、重み係数が小さければ、過去のことをすぐ忘れて、より現在の情報に重きをおいて認識する、ということになる。その重み係数は、状況に応じて、自分の都合に応じて、変化する。


順番に基づいて解析(認識)する様子を、左右の脳半球に分けて見てみよう。左脳は、主に文章の解読に使われている。一文の構成要素は、主語、述語、補語など、4つか5つ程度の少ないものであり、その意味は即座に理解可能である。右脳は、主に音の変化の記憶や認識に使われている(実際は、左右の脳の分担は厳密に分かれてはおらず、MRI計測では両半球が総合的に使われていることが分かるらしいが)。右脳で多く分担されているのは、自然の音や音楽の受容である。側頭葉の聴覚野には、音の高さをそれぞれ別のニューロンが担当して応答する機構が存在している(tonotopy)。音によっては、特徴ある楽器に由来するような複雑な音色があり、複数のニューロンが刺激されて、それらの同時的反応の組み合わせが認識される。このようなニューロンの反応パターンが記憶され、その時間的配列(順番)が短期記憶として保存される。その短いフレーズが認識され、その意味や感性が取り出されて記憶される。つまり、右脳と左脳のやっていることはほとんど同じなのだ。最後に格納される記憶が意味しているのは、左脳では、「地震に備えよ!」という言葉であるのに対して、右脳では「何か大きな恐ろしいものが近づいて来る音がする!」という、本能あるいは感性に、より強く訴えるものになる。左脳の解析には国別の言語能力が必要であるが、右脳の解析では、人類共通の自然な感性だけが必要なものであり、国が違っても翻訳する必要は無いのだ。



なぜ今の機械にはこころが無いのか

 

機械が意識を持つことになるなどということは全く想像できないというのは、人々の共通した思いである。現在の大部分の人にとって、これが自然で当然の考えである。そこで、より許容度を上げて、想像を巡らせてみたい。多数の記憶項目を一列に並べ、注意の焦点をその配列のどこかに合わせる反応が起きるとき、意識が働いているものとする。たとえば、音の高さの配列はメロディーであるが、ひとつのメロディーを想起しながら、流れに沿って焦点を移動させて歌を歌っているとき、意識が働いている、としてはどうだろうか。これならば、機械にもできそうなことではないだろうか。そんな機械は、意識を持つのではないか。


音の高さは色々であるが、順番を指定するニューロン群が次々に発火していくと、個々の順位に結合した(紐づけされた)ニューロンが発火して、そのニューロンが蓄えていた(表している)音程が思い出される。このように意識の焦点を移動させることができるためには、順番を設定するニューロンの一群が順序よく発火しなければならない。このような順番設定ニューロン群は、一定のクロックに従って作業を進めるコンピュータのCPUと似ている。ここで根源的な課題に舞い戻ってしまうかもしれない。CPUには意識が無いのに、脳にはどうして意識があるのか?


 

上記の音楽の例で考えると、音の高さを指定するPCの出力は、スピーカーからの音の発生には繋がるが、通常、PC内の他のスイッチ素子(ニューロン)には信号が送られない。しかし、脳では、音の高さを担うニューロンの反応は、そこでお仕舞いというわけではなく、他の多数のニューロンにも出力され、他のニューロンによってモニターされる。信号は途切れないネットワークの中に送り込まれ(フィードバックされ)、半持続的な振動となる。こうして、ニューロン回路による複雑系が構成され、マンデルブロー集合に見られるような、終わりの無い反応が維持される。これが意識という主観的な感覚として感じられるのかもしれない。


繰り返しではあるが、同じことをラジオで考えてみよう。ラジオの回路はPCより簡単で、放送局からの電波を音声信号に変換して出力するだけである。脳はラジオに似ているが、放送局の信号を忠実に再生するものではなく、自発的に働いている。また、出力されている音声は、ヒトが理解できる意味を運んではいるが、誰もラジオそのものが喋っているとは思わない。回路が切断されたり、電源が途絶えたりすれば、ラジオは音を出さなくなる。ラジオが音を出しているとき、ラジオそのものに意識があるとは思わない。聞こえる音は空間に放散されるだけである。ヒトに意識が発生するのは、ヒトから発せられた音声が自身の耳に聞こえ、それが記憶され、学習されるからである(フィードバック)。実際には耳に聞こえない場合でも、脳内に発生した声は他のニューロン群によってモニターされている。それが認知であり、記憶されるということである。その内容は、次の思考や意思の発動のために使われるか、強弱の変調を受けて長期の記憶に送られ、後の機会に脳の活動に影響を与えることになる。この過程がラジオには全く無いのだ。



宇宙には人間がまだ知らない不思議な波が存在していて、それを脳は受信することによって、意識を生成している、と主張する人もいるかもしれない。現在のところ、そんな波は捉えられておらず、説明できないような不思議な波を持ち出して、不思議な脳の機能を説明するのは、真の説明にならない。論理のいたずらな空転である。脳の働きを量子力学的に説明しようとする試みもあるが、理解できないものを、別の理解しにくいものを使って、説明しようとするのは無駄な努力である。量子力学の位置に、神を置いたとしても、同じことである。

 

[参考1]

  ブラックホールの理論でノーベル賞を授与されたロジャー・ペンローズと、麻酔額の権威であるスチュワート・ハメロフは、神経細胞内に拡がっている微小管というタンパクの高分子重合体が、機械的でない脳の働きに重要なのではないか、という仮説を提唱している。ペンローズの予想では、α型とβ型の異性体の重合物である微小管は、相互の型のランダムな交換によって、量子力学的な重なり状態を実現しており、その確率的な状態変化が神経細胞の状態に影響を与える結果、脳の確率的な機能を生成している、とする(ペンローズ著; こころは量子で語れるか、講談社、1998)。ハメロフは、麻酔薬の神経細胞への効果を、物理化学的に理解するのが難しいことに悩み、ペンローズにその事情を説明したものと思われる。実際、有効な麻酔薬の多くは、イオンチャネルに特異的に作用するフグ毒(テトロドトキシン)などと違い、チャネル分子に対する選択的な結合サイトを持たない。それでも、かなり微量で確実な効果を現し、可逆性も高い。そこで微小管にあるのかもしれない不思議な反応に、期待を寄せたのであろう。



中山孝と私は、イカの巨大神経線維の軸索内にある微小管を、全て解離させて洗い流す実験をした。細胞質内に全く微小管が存在しない状態でも、神経細胞としての機能は完全に維持されることを証明した(Terakawa and Nakayama, J. Membbrane Biol., 1985)。微小管は、細胞の機械的な強度を高める作用や、一部の鞭毛や線毛のような細胞の部分を変形させる作用を持つ。さらに、細胞内でキネシンやダイニンに依存した顆粒の輸送に対する軌道ともなっている。しかし、細胞膜に直接結合することは無く、細胞膜(特にイオンチャネル)の活動に直接影響を持つことも無い。微小管は、神経細胞の高速な情報伝達機能に、直接関わることは無いのである。微小管に作用してその機能を阻害する薬剤として、コルヒチンやビンブラスチンがある。前者は痛風の痛みを和らげる特効薬となり、後者は細胞分裂を抑制するので、癌や白血病に使用される。しかし、共に精神機能に支障をきたすことは無い。量子論的な意識の描像は他にもあるようだが、未だ、空想の域を出ない。川の水面に時として現れる、渦巻のようなものに思える。


話を元に戻そう。脳内に順序をもった記号の配列が生まれること、すなわち、自発的に言葉が発生することが、最も強い意識の生成源である、と説いた。今は、ICの中に喋り言葉を録音した信号を記録しておき、それを条件に応じて、音として再生することができる。ウチの台所のガス・レンジは。最近、不調となり、新しいものと買い換えたが、新型のレンジは、「温度が高くなり過ぎています」などと、喋る。温度計の数値が表示されるのとそう変わりは無いが、喋る能力があるだけで、多少は、親近感が持てる。しかし、このような装置に、意識があるとは誰も思わない。脳の中に自発的に発生する言葉と比較して、条件に応じて録音した言葉を選んで再生するのは、何が違うのであろうか。最大の違いは、脳では、言葉の発声と同時に、その中に作り上げている世界の模型が動くのに対し、機械では、単純に音を出しているだけだ、ということである。人が喋っているときには、脳内に置いた世界のコピーが、あたかも実際の世界の様子が変化するように、動的に変化するのである。体の外にある実際の世界は動くはずがないが、頭の中の世界のコピーは、時間に従って、あるいは、場所に応じて、あるいは、人と人との関係によって、実際の世界で予想される形に変わっていく。この脳内コピーが変化する様子が こころ なのである。この部分が通常の機械には備わっていないので、機械にはこころが無い。機械にこころを入れるには、その機械に世界のコピーを持たせ、それを動かす能力を備えさせねばならない。そして、世界のコピーは、パーセプトロンのような複雑な神経配線によって、記憶・構築が可能なのだ。


むかし、ヒトの脳は、あの世の神から送られて来る電波の様な信号を受信して、喋ったり、身体を動かしたりしているのだ、という説を聞いたことがある。神の声でなくても、いわゆる魂というような、掴むことはできないが、物質に何らかの作用を及ぼすことができる実体を想定してもよい。それが、受信機であるヒトの脳に入り込んだり、脳内にある様々な部品の状態を変えるなどして、脳から言葉(最終的には声)を出させるのだ、と考えるのも同等である。こうした説を信じるには、神や魂の存在を、ヒトの脳と関係なく、独立した実体として、証明できなければならない。ラジオの場合は、放送局や電波というものが、ラジオとは別に、実在することが証明できるのだ。脳という神経細胞の集積物そのものが体内に信号を送って、自発的に声を出させたり身体を動かすようにしている、ということが納得できるならば、存在を(物理的には)証明できないもの(神や魂)を、脳の働きを説明する議論に持ち込む必要は全く無いのである。


古来、どの文明でも、人の精神の不思議な働きを、神や仏の創造物であるから可能なのだ、と説明してきた。ジョン・エックルズは、神経細胞の電気生理学的な研究で、ノーベル賞を授与されたが、その後、脳の働きについて、物質と精神の二元論を唱えるようになった。ペンローズとハメロフは、微小管に量子的な揺らぎと重なり状態が生ずると仮定し、それが脳の働きに量子力学的な作用を及ぼすと提唱した(前述の[参考1])。神にしろ、二元論の精神にしろ、量子力学にしろ、どの主体を使っても、意識という分かりにくいものを、別の分かりにくいもので説明しようとしている。精神を物質とは独立した実体と考える科学的な根拠は認められない。精神は、物質の集合体が発揮する機能なのである。精神や魂という物質でないものが、脳という物質に対して、何らかの物理化学的な作用を持つためには、両者の間に働く分子レベルの力が必要である。電気的または磁気的な相互作用が無ければならない。魂が細胞内のタンパクにどのように、直接、指示を与え、その形や作用を変えるというのか? 魂が物質に力を及ぼすことができるなら、人が死ぬとき、なぜ、魂はその特殊能力を以て、細胞の変性を止められないのか? 人が死ぬと、魂は身体から離脱していくとされるが、そうした現象は、物理的な説明が付かない。量子論では、量子間のもつれという現象が、電気・磁気の力とは異なる奇妙な繋がりの存在を示すとされている。そのような奇妙なものを、身近にある精神や意識の説明に持ち込む必要は全く無い。細胞自体が、小さな計算器あるいはコンピュータであり、その出力や計算結果が魂を作る、とする方が思考の経済に照らして、はるかに合理的である。計算をするための道具も、やはり物質で作られた機械なのだから、機械もまた、発達すれば、いつかはこころを持てるはずである。未完成ながらも理解しやすい説と、先走った奇妙な説を比較するとき、しばしば後者が正しかった歴史が多いのは事実である。しかし、最終的に残っていくような結論を出すには、多少の時間が必要である。




認識するということ

 

パーセプトロンとかニューラルネットと呼ばれる3層に並んだニューロンのネットワークは、第3層にあるひとつのおばあさん細胞に、処理の結果を集約させることができる。そうなるように、中間層の接続点における伝わりやすさ(接続係数:荷重)を調節することができる。各層の間の接続具合を変える能力、すなわち可塑性があるからだ。この可塑性の制御のために働く分子的な仕組みとしては、高頻度のインパルス発生に伴う細胞内への、Caイオンの流入、AMPA受容チャネルのプレシナプス膜への移行増加、アクチンの重合、プレシナプス・ボタンの膨化などの、様々な反応が関与していることが分ってきた。しかしまだ、信号の流れの下流の情報が、どのように上流の構造を制御するか(学習に際しての教師役になるのはどんな分子か)に関しては、完全には分かっていない。それが分ったとしても、それだけでは意識は造れない。おばあさんを代表するニューロンが発火しても、ひとつの豆電球が点灯するのと同じで、それだけでは脳が認識作用を発揮したとはいえないからである。その電球の点灯が「認識」となるためには、誰か、または、何かが、その点灯を監視していなければならないのだ。結局、「誰か」が必要になる。ここに、脳内の「小人」や「魂」が入り込む余地が残される。最終的には、認識という高度な精神作用を担う実体として、肉体とは別の次元にある「魂」のようなものが欲しくなるのだ。


この困難を避けるには、第3層で点灯した電球(発火したニューロン)の位置や反応をモニターする神経系があればよい。そのような機構としては、やはり、大脳皮質に存在するニューラルネットワークしかありえない。脳内には他に特殊な実体は存在しないのだから。実際のネットワークそのものは3~6層程度しかないが、最上層に位置するニューロンの反応は、電球の場合と違って、そのニューロンの軸索やその分枝を伝わって、別の領域にあるニューロン群の下層(入力層)へ信号が送られている。これがフィードバック回路を構成し、実質上何十層にも亘る層状ネットワークを構成できる。この投射的に繰り返す接続が、全体として多様な回路を形成し、複雑で精妙な機能を実現するのである。ネットワークの各層は、直下の層の反応パターンを直上の層のパターンに投影(変換)する関数の役割をする。多層のニューラルネットは、関数の関数の関数という形で、いくらでも複雑な反応のパターンを作れるのである。


ある信号がニューラルネットに入力されると、それは、ニューラルネットの層を何度も回転するように通過して、処理され、繰返すような反応を引き起こし(Recurrent Neural Network)、時々刻々の異なる状態を連続的に作り出していくことができる。また、ある領域の反応が、隣や遠方の複数の領域に投射していくことができる。これは、丁度、マンデルブロー集合を構築する数式、すなわちZnとZn+1という2つの世代間の関係を表す漸化式が、再帰的な作用を生成することができ、無限に複雑なパターンを生み出すことができるのに似ている(世代の交代 n が時間の経過に対応する)。



[参考2] マンデルブロ (Mandelbrot) 集合

マンデルブロ集合を表わす図は次のように設定される。複素平面上で、漸化式:

Z(0) = 0

Z(n+1) = Z(n) ^2 + C

に従って、Cという複素数が表す点を置いていき、その点の位置が、原点から1の距離より遠方に発散していく場合に、そうなるまでの n の数を求める。その数を7で割った剰余について、異なる色を当てはめて2次元図形を描く。n を1ずつ増加させていっても、発散せずに原点の近傍に留まる点には、黒色を当てはめる。このような操作の結果、原点近傍に、大小2つの円をダルマのように重ねて、横に倒したような黒い領域ができ、その周囲に7種の色を持つ複雑な図形が現れる。有色領域を拡大していくと、沢山のラセン状の模様が現れ、その部分部分の形は、互いに類似性を持つことが分かる。



マンデルブロ集合が成す図形の特徴は、部分同士も、部分と全体も一見、似ていることである。つまりフラクタル性である。フラクタルとは、全体に特徴的な形状があり、そのどの部分をどれだけ拡大しても、全体の形と、正確に同じではないものの、よく似た特徴が認められるものである(自己相似性)。たとえば、険しい山々の尾根の連なりが、遠方から見ても、近寄ってその拡大詳細を見ても、似た形状になっている。他にも、ロマネスコ・ブロッコリーの表面にある凹凸や、木々の枝先と木の全体の形状の類似性、肺にある肺胞と各気管支の分岐構造など、自然界には至る所にフラクタルなものが存在する(図18)。

図18. フラクタルな甲羅を持つ亀
ロマネスコ・ブロッコリーを
鋳型にして作った立体インスタレーション。
甲羅の下の複素平面に、黒いダルマの形がある。
亀の頭は、2首の龍で、二重ラセンを作ろうとしている。
龍の口の開き方は、2体の阿吽の像のよう。
制作: 宇田川誉仁・門脇瑞砂
制作依頼と所蔵: 寺川 進



コンピュータによって、マンデルブロ集合を描画するのが容易になった。漸化式の計算を繰り返して、色の着いた点を置く作業が高速になり、n をいくらでも大きくした像を描けるようになった。ただし、大きな n に対しては、全体を拡大して、注目したい部分を拡大しなければ、図形の詳細は分からない。そこで、拡大率 p (10の べき乗指数 )に注目しながら、n を大きくしていき、図形の様子が変化するのを楽しむことになる。全体画面を表示することはできない。n を大きくしていくと、すぐに p は10を超え、100 を超え、ちょっと目を離している隙に、1000 を超えていく。そんな時、全体像の大きさは、想定されている宇宙の大きさより遥かに大きくなっているのである。



拡大した部分に現れる形は、大抵、人間が初めて見るものであり、すべての部分を見尽くすことは不可能である。そこに現れるものは、自然に見られる、花や鳥や山に似ていることもあるし、夢の中にしか現れないような不思議なもののこともある。色と色の境界線を辿って行くと、全体を巡る一筆書きとなるという。



マンデルブロ集合の図形に多く現れるラセン形状は、対数ラセンの一つである。自然界にあるその身近な例は、巻貝の殻の形である。二次元的なラセン図形の原点(中心)を、面に垂直な方向へ引き延ばしたような形をしている。対数ラセンの数学的モデルはフィボナッチ数列から得られる。中世イタリアの数学者レオナルド・フィボナッチは、ウサギが繁殖してどんどん大きな家族になっていく過程のモデルとして、次のような数列を考えた: 

1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, ・・・

1, 1の並びから始め、前の2項を足したものを、次の項として並べていく数列である。このように数が増大する様子は、対数ラセンの大きさが、次第に大きくなっていくのと一致している。多くの銀河、台風、渦巻などのスパイラルな形状が、共通原理で説明できるのではないか、という期待を持たせる形である。さらに面白いことは、フィボナッチ数列のある項と次の項の比が、数列が大きくなるに従って、次第に、いわゆる黄金比(Φ=1.618・・・) に近づいていくことである。黄金比は、二千年以上前にユークリッドによって、作図的に定義されており、西洋の建築や絵画のそこここに現れる。



ラセンの形が、回転半径が対数のように大きくならず、どこでも一定であるようなラセン構造も、自然界には多い。前述の微小管や神経原線維、また、アクチン線維などは、それを構成するモノマーが数珠のように連なり、それがラセンを成して上下に密着して、管状になっている。この構造は、折れ曲がりにくく、細胞の中で骨格となるような役割を果たしている。神経インパルスが伝導する神経軸索は、直径が大きいほど伝導速度が速くなる。軸索の内部には、不思議なラセン構造が見られ、軸索の直径を支えているかのようである(図19)。ヒトの無髄神経線維で同じような構造の有無は確定されていないが、有るとすれば、インパルス伝導速度が変化する可能性が出てくる。

 

図19. イカの巨大(神経)軸索の中に見られるラセン構造
偏光顕微鏡像。軸索の直径は 500ミクロン
撮影:寺川 進(1973: 未発表)


マンデルブロ集合は、長い間の数学研究の後に、発見されたものである。色々な部分を任意の倍率で見てみると、様々な動物・植物や宝物・怪物が見えてくると書いた。そのフラクタル性と驚くべき形状の複雑さ(カオス)は、自然に分け入って、その構造(と機能)を解明しようとするときの手がかりを与えてくれるように思われる。意識というものは形を持たないが、NNによる計算によって生成されるものである。大脳皮質には、そこかしこに漸化式に似たフィードバックの回路があり、NNはマンデルブロ集合のようなものを形成しているのではないか、と想像する。これは、まだ仮説にも至らない、投機的な考えである。数学的な理論が、不思議な自然の振る舞いを見事に記述した例は沢山あるので、どこかに手がかりがあるかもしれない。あるいは、私の直感から浮かぶだけの、意識の川の泡のようなものかもしれないし、水源の雫のようなものかもしれない。 


 


脳機能局在論からの離脱 (脳生理学の指導原理Ⅱ)

 

大脳のどこを見ても、シナプス構造以外に、さして特別なニューロン間の結合構造は見つからない。したがって、すでに知られている単純な構造を・使って魂に相当するものを造り上げるしかない。力となるのは、ニューロンの数が一千億に近い大数であるということだ。これによって、おばあさんだけでなく、知っているものすべてを、ニューラルネットの中に組み込むことができる。今、知っているもののどれとどれが、ニューロンの発火として、選ばれているのかによって、次の高次判断を司るネットワークへの入力要素が決まる。その結果が次に担当するネットワーク(たとえば隣の大脳皮質領域にあるNNの構造)へ渡されていく。これは個人的な反応であり、人によって大脳のどの領域が使われる反応となるのかは大いに異なるのだ。発育期の記憶形成によって、どの神経細胞群がどのような記憶を担うようになるかは、個人個人同じであるはずはない。


前世紀から、脳の決まった領域は決まった機能を担っている、という機能の局在性が次々に発見され、脳生理学が進展してきた。ところが、機能の解明が魂に近づくにつれて、該当する部位は大脳全体に広がらざるを得なくなった。つまり、魂の機能を担うために作られた、特殊な限られた脳領域は見つからないのだ。機能局在論を離れて、脳全体論に基づく理解が必要である。別の見方をすれば、個々の認識内容に相当するニューロン群は局在といえるような特定の領域を持たず、極めてミクロな領域に納まってしまうのだ。様々な認知事項は、離れた点に散在しており、その時々刻々の活動の組み合わせが時間とともに変化していく。単純記憶の機能と魂の機能は、共にミクロの回路群で構成され、マクロに見れば多くの機能が重なり、入り乱れたように分布している。大脳のマクロなスケールで見れば、どの皮質領域にも広がっているようなものだ。こうした予見的な考えを、私は、脳生理学の指導原理Ⅱと呼びたい。このような原理に従って脳の生理学を進めれば、これからの進歩が加速するであろう。


MRIによる視覚機能の研究は大きく進歩した。今では、ヒトが何を見ているかを、MRIのBOLD反応(脳局所の血流の増減変化)を解析することによって、再構成画像としてディスプレー上に描くことができる(第1章、f-MRI; Brain DecodingI)。この再構成像を作るには、MRI装置にAI装置を結合させ、あらかじめ被験者の脳のBOLD反応のパターンを調べておくのだという。つまり、被験者の脳反応を、事前にAI学習しておく必要があるのだ。そうでないと、その個人がどのような画像を見ているのかを言い当てることはできないのだ。したがって、AIによるBOLD反応の学習は個人個人について別々に行わなければ、MRIによる読解の正答率を上げることはできない。何千枚もの画像をひとりの被験者に見せて、それぞれの画像ではどのような脳のBOLD反応が生じるのかを、AIがあらかじめ学習する必要がある。それを学習してからならば、MRI-AIマシンは、その個人のBOLD反応から、その人が見ている画像を当てることができる。面倒であるが、この研究では、被検者ごとにAIの学習をやりなおさなければならない。人によって反応(するニューロン群の位置)は異なるからだ。誰でもおばあさん細胞を持っているはずだ。しかし、それぞれの人のおばあさん細胞の脳内位置は全く異なるのだ。それは当然のことで、いつどこでおばあさんというものを覚えたのかは、人によって異なるからだ。おばあさん細胞の下層を構成する多数のニューロンが担当する単語(年寄、女性、やさしい、白髪、メガネ、料理上手、等々)の存在位置も異なるのだ。大脳皮質全体の反応も、まったく違うものになることは明白である。

 
機能局在論から離れることにより、脳の理解は新たな段階に移ることが期待される。ニューラルネットワークの層構造はフィードバック回路を備えており、多様な機能を多重に果たすと考えなければならない。おばあさん細胞は、ある時点においておばあさんを提示する細胞であるが、次の瞬間には、異なるニューロンの組み合わせの一部に組み込まれ、別の機能を示す細胞群の一員としても働く。脳の神経細胞が魂の機能を発揮できるのは、この膨大な広がりと多重性があればこそである。巨大な数のニューロンがこのように働くのだ。単純な数式に基づく動作であっても、たちまち複雑な機能を現すものとなり、まさにカオスの領域に達するものとなる。これによって初めて、先に述べたような記憶に基づく順列的な意識の営みを実現することができるようになるのである。PCの中で次々に処理を実行していくCPUのようなものは、脳では、こうしたフィードバックに裏打ちされた巨大ニューロン集団によって演じられている。それが次に何をすべきかを膨大な記憶のリストから、確率の高さに従って選び出し、必要とあれば順列的に配列し、吟味、判定し、実行する。睡眠中を除いて、この過程がヒトの一生の間継続する。その結果、意識や個性が出現する。




脳の精神的な機能のまとめ

 

第1章と第2章に述べたことをまとめて、脳が生成する精神機能を整理してみよう。

事物を表す単語や概念を表す言葉には、それらに対応する(紐づけされた)ニューロンがある。 (脳生理学の指導原理Ⅰ)

ニューロンはニューラルネット構造を作って結合し、すべての認知対象と概念が階層性を以って組み立てられている。

脳は世界の様子をニューラルネットに投影(写像:mapping)している。

人である自分自身が世界の中に位置を占めていることも、同様に投影されている。

したがって、私細胞(自分細胞:self cell)ができることになる。(脳生理学の指導原理Ⅰにガイドされて道を進めば、確実に到達する地点)

私細胞は、世界の中の自分を客観的に見たときにインパルスを出すが、同時に、頭の中にできた世界のコピー(沢山の事物を代表する多くの細胞の集まり)において作られている私の概念としても、反応する。私細胞にはこの二重性があり、いくつかの細胞を介在して、私細胞の出力が回りまわって入力に接続している配線が存在する(フィードバック回路がある)。

私細胞が発する信号(インパルス)は、ニューラルネットにフィードバックされ、カオス性とフラクタル性を合わせ持つ。

このため、無限の発展性と複雑性が生まれる。

自我意識は、私細胞を含む神経回路の興奮であり、必ずフィードバックがあるので、残響のような発振の波が生じ、他の一般的な認知対象とは異なる感覚が起こる。

膨大な記憶は、多重に働くニューラルネット(NN)によって担われており、生来決まっているような特定の局所領域に収蔵されているものではない。

意識を担う脳組織は、世界のコピーを保持するNNであり、特定部位の脳組織に局在するものではない。(脳生理学の指導原理Ⅱ)

  主観的に感じられる自我意識は、このようにして、発生する。

 

 
一覧へ戻る
© 老レ成 AGELIVE. All Rights Reserved.