交流の広場
意識生成系
― こころはどう作られるのか ―
寺川 進
第3章 意識の塔を起ち上げる
第3章の目次
第3章の緒言
意識を構成する要素
意識を構成するさらなる要素
自由意思
選択と意識
魂が居残る隙間
記憶から意識へ
意識の有無の判定
意識の円筒モデル
魂と意識の置き換え
第3章の緒言
川に準えながら、間近に意識の様子を眺めてきたが、やっと、大きな街にやって来たようだ。意識の国なのかもしれない。街中を歩き、風俗をざっと見て回ったが、木造の平屋建てが多く、目に付くのは、立派な庭や、門と呼ばれる特異な建築物ぐらいである。それらは目に美しいが、この国は、上へ伸びる文化を持っていないように思われる。住人の気持ちを荒立てるのは避けたいが、空高くそびえる塔があってもよいのではないか。第2章で見た意識のイメージを離れ、今度は、意識を上へ積み上げる方向を探りたい。基礎となる土台は何か?櫓は?模腰は?手すりは?屋根は? どれだけ高くできるのか。どんな形が優美な塔になるのか。優美な塔は、きっと、この街の木々と馴染んで、美しい景観を造るに違いない。そんな塔の魅力を人々に知らせたい。建設に必要な材料を集めて、実際に高い塔を起ち上げてみたい。それによって、並みの動物たちの意識レベルを突き抜けて、一段と高い意識のレベルに到達できることを示したい。ヒトの意識というものを、高く組み上げることを、考えてみたい。
意識を構成する要素
我々の意識を作っている中心的な要素は、言葉である。文章としての言葉が、常時、大脳皮質のネット上で生まれては、次の、文章の発生に繋がっていく。こうした文章は、必ずしも、口から発音される言葉としてではなく、いわゆる心の中の呟きとして、あるいは、心の中の考え(internal thought)として、人の意識の主たる構成要素となる。イヌやネコでも意識を持っている、と感じることはできる。しかし、そうした動物には、複雑なコミュニケーションをするための言葉は、欠けているように思われる。チンパンジーやボノボでは、よく訓練された個体においては、初歩的な言語や順列を理解する能力を持つようである。ただ、発声器官の発達は不十分であり、喋ることはまだ不得手なようである。
犬山の京都大学付属霊長類研究所のチンパンジーは、1から9までの数字の順番を確実に理解している。コンピュータのスクリーンに、数字を入れた枠をいくつかランダムな場所に表示する。全部の数字を同時に提示し、0.1秒後には、枠は残したまま中の数字を消してしまう。この表示時間は、ヒトに対しては短すぎて、どの数字がどの位置の枠内にあったか、記憶はおろか数字の判別さえ難しい。しかし、チンパンジーは、消えた数字の位置を正確に憶えており、空白となった枠を、消えた数の順に、指で指し示すことができる。この実験から、私は、チンパンジーのこころには、原始的な文章(Internal thought)ができるのだろうと推測する。多分、チンパンジーは、森の中に居て、群れのメンバーたちが、どの木の枝に陣取っているのかを一瞬にして認識できるのであろう。木の枝の個体には、ランクがあるのだ。ランクは数字のようなものだ。彼らの社会では、どこにボスが居て、どこにオスやメスが居て、どこに子供が居るか、ということが大事な関心事なのである。
意識には、言葉とは別の構成要素もある。かなり大きな割合を占めているのは、視覚や聴覚のような感覚系の入力信号である。これらは、外界から到来する刺激によって発生し、専用のニューラルネットによる処理を経てから、理解できる情報に消化されており、特に言葉が心に浮かんでいないときにも、意識を構成する主要な要素となりうる。同様に、味覚、臭覚、深部知覚、内臓感覚なども、意識を作り出す要素となりうる。これらは、いわゆるクオリアを生み、世界の実感を与える。ただ、これらの感覚的な入力信号は、意識を構成するのに絶対に不可欠なものというわけではない。東大教授の福島智氏は、全盲者であり、同時に、聾者でもある。しかし、彼は、考えることができ、喋ることによって、高い知性と自我意識を持っていることを示している。ヘレン・ケラーの例も有名である。私自身、下記のエピソードにあるような、視覚、聴覚の面白い体験をした。
[エピソード ①]
私は、学生時代に、おもしろい体験をした。それによって、外界からの刺激入力の役割を如実に理解することができた。当時、医学部学生が履修すべきものとして、麻酔科の臨床実習では、笑気(N2O)ガスを吸引するという課題があった。その時の体験は非常に鮮烈なもので、今でも、克明に記憶している。グループのメンバーが1人ずつ順に、笑気ガスの吸引をするのだ。人によって感じ方は大いに異なるのであるが、私の場合は、最初の一呼吸による吸引を始めただけで、即座に強い快感を感じたのが、驚きであった。甘い匂いのような感覚に満たされ、自然に笑みが湧く。少し時間が経つと、目を開けていられず、耳の方も外界からの音を伝えなくなり、全身がベッドから浮き上ってしまったように感じられた。感覚系からの入力は全く感じられず、辺りがとても静かになり、孤独な感覚にも支配された。それでも、意識(と意志)というものは残っていて、周りに漂うマリンスノーのようなものや、リズミカルに ジン ジン という耳鳴りのような感じに注意を向けていた。実際の外部からの神経入力が消失しても、意識は維持されているのがよくわかった。付き添いの教官が、もう限界だと思ったら手を挙げて、と言っていたことを思い出せる。このまま強い快感に浸っていたいという気持ちと、今にも手を挙げて現実に戻ろうかという気持ちが、しばらくの間、葛藤していた。私は、このまま、できるだけ長い時間、快感を味わってみようと思った。しかし、さらに時間が経つと(数秒なのか数分なのか分からないが)、突然、被害妄想が起こってきた。この快感を味わっていてはいけない! 自分は、人体実験で殺されようとしているのだ、という脅迫観念、あるいは、生命が脅かされているという、本能的な警告が湧き上ってきた。死の世界に引き込まれるという恐怖から、何とか逃げなければという気持ちで一杯になった。それで暴れ出したところまで覚えている。その後は、錯乱して失神したようである。ベッドの周りに居たグループの人たちが私を押さえつけ、施術してくれた麻酔科の教官が、直ちに、笑気ガスを止め、基本ガスのみに切り替えてくれて、麻酔状態から戻ることができた。
この実習の目的は、笑気ガスによる鎮痛効果を体験する、というものであった。笑気ガス投与の最初から、学生の誰かが、私の手の親指に、針を一定の時間間隔で刺し、その時の痛みの変化を体験するのである。私の鎮痛効果の体験は次のようなものであった。笑気ガスを混ぜた空気を吸っていると、甘いまろやかな香りがして、とても気持ちが良い(教科書には無臭と書いてあるが)。その中で、指先の針の痛みは、不思議なことに、だんだんと強くなってくるのである。それで、私は友達に言った。「もう、分かったから、刺すのはやめて!」すると友達の声が、奇妙に反響しながら聞こえた。「もう、刺してなんかいないよ!」。私は混乱した。指に感じるこの強い痛みは何だろうか?友達の声や言葉は、現実なのか、幻覚なのか? 彼は、本当は何と言ったのだろうか? その辺りから、薬物の影響下では、現実の把握が難しいものになることが、理解できた。少し、諦めの境地となり、気持ちよさが増して、身体が空中に浮き上がる感じになっていったのである。指があんなに痛かったのに、友達の言葉は本当だったのだろうか、痛みは幻覚だったのだろうか。何が真実なのか、訳が分からなくなったが、笑気ガスがひどく気持ちがよいものであることは、よく分かった。得られた結論は、外来刺激が全く無くなっても、意識は残っている、ということと、痛みの感覚は、指の神経か、脳の神経で作られているらしいこと、であった。自分が存在しているという感覚を持つためには、外部刺激の入力は特に必要ではないのである。自我意識は、脳内で自発的に作られている。
[追補]: 笑気ガスは、通常、麻酔薬とは呼ばれず、鎮痛薬という分類になる。麻酔薬としては最も弱い作用しかない。笑気ガスはその点が特徴的だ。それでも笑気ガスの快感の効果は絶大である。しかし、この効果は、人によって大いに異なる点に注意しなければならない。人によっては、酒に酔った時の様だと言い、また、気持ちが悪くなったと言い、とても寂しくなったとも言った。必ずしも快感と決まっているわけではなく、異なる反応が起きる。笑気に比べて快感を呼び起こす力の強い、麻薬の場合は、厳重な注意が要る。快感が大きくなるからこそ、それに抵抗して現実に戻ろうとする気持ちが、確実に奪われるのだ。どんな人間でも、人間でありさえすれば、その快感の虜になり、決して、決して、逃れられない。そして必ず嗜癖に陥る。それは分子化学の逃れられない法則であり、絶対的な定めである。フグの毒を食して死なないということは絶対に無いのである。人によって程度が異なるなどというものではない。笑気ガスの体験は、このことを強く記憶に刻み込むものであった。
[エピソード ②]
本当の麻酔薬は、静脈注射の方法で投与すると、あっという間に意識が無くなる。私はこれを、大腸内視鏡検査を受けた時に体験した。20年くらい前に、ある人が同じ検査を受けて、もう二度とやりたくない、と告白していたので、自分の番になった時には相当気が重かったが、大分やり方が進歩したようだ。色々よく考えられていて、準備を含めて一日近くかかるコースの全てにおいて、まったく苦しみは無かった。まるで、バスタブとシャワーとベッドを取り除いただけの、高級ホテルに来たような待遇であった。あるいは、ビジネスクラスの飛行機旅行だったと例えてもよい。そんな部屋で半日間、下剤を飲み、腸の内容物を完全に追い出す。準備ができたところで、ベッドに寝たまま、内視鏡のある部屋にに移される。そこで医師が、「麻酔〇〇 mg です」と言ったところまで聞こえたが、それにすぐ続いて、看護師が、「起きられますか?」という言葉を掛けてきたのである。その二人の言葉が、ほぼ連続して聞こた感じで、その間の自分の存在は完全に消えてしまった。検査を受ける予定でベッドに寝ていたはずだということは思い出せたので、ええっ、もう終わったのか、という驚きが強かった。何もしないでやったことにするのか、と勘繰るほど。まるで、手品か詐欺にかかったような気分であった。後で何枚も内視鏡の写真を見せられたので、詐欺ではなさそうだと納得させられた。しっかりとした麻酔の下では、時間の流れがまったく無い。一瞬と永遠の区別が無い。もうあれから100年経ちましたと言われても、そうなのかと思えるのである。意識が完全に消えるという点では、夜の睡眠と同じレベルとは思えないのだ。
[エピソード ➂ ]
学生実習の話のついでに、次のような経験も記載しておこう。精神科の実習で、クロイツフェルド・ヤコブ病に冒された患者を診たことがある。その病気の原因は、今は、牛海綿脳症と同じ、プリオンの感染であることが分かっているが、当時は、大学の医師たちにとっても謎の疾患であった。患者は、聞いたり話したりを初め、角膜反射も、瞳孔反射も、痛み反射も無く、一切の動物的な反応を示すことがなく、何のコミュニケーションを取ることもできなかった。点滴で栄養を補給されて、呼吸はしており、心臓は動いていたので、亡くなっている人ではないのだが、正に、植物人間としか思われない痛ましさであった。プリオンは、正常な神経系に存在する小さなタンパクである。それなのに、ちょっとした構造の変化が起こることがあり、そのようなプリオン・タンパクは、他の正常な構造のプリオンに結合して、それを異常型に変えてしまうのである。そのような異常型プリオンは、脳組織を破壊する。ニューギニアの部族が、亡くなった家族の脳を食する習慣があり、異常型プリオンが脳に入って、眠り病という地域疫病になることも知られている。牛や羊にも同様な病気が起こり、感染した牛の肉(特に神経組織)を食べた人に海綿脳症が起こったのは、まだ知られて新しい。驚くべきは、罹患した人の脳機能の喪失が、命の喪失に直結することなく、精神機能を含む一切の動物機能を完全に喪失させていることである。現実的では無いが、脳の移植をすれば、新たな人が造れるのではないかと思われるほどである。
意識を構成するさらなる要素
意識を構成する要素、意識に影響を与えるもの、として無視できないのは、体内から届く、痛みや性感などの本能的な感覚の入力である。本能はプログラムであり、プログラムとは、反射的な応答を担う神経細胞の一群が、別の一群に信号を伝えていくという、多段階的な神経反応のことである。意識を持つ機械を作るための糸口になると思うのは、痛みについて考察することである。そもそも、ヒトはなぜ痛みを感じることができるのか。痛みとは不思議なものである。痛みとは、それが生ずる原因を何とか取り除こうとする反応である。脳の中で、原因と思われるものを判断して、できるだけ早くそれを取り除こうとする強い衝動(プログラム)が沸き起こるのが痛みである。実際は、原因は分かりにくい。痛みの正体も完全には分かりにくい。いえることは、痛みを感じるような機械装置を作ることができなければ、ましてや意識を持つ機械は作れるはずがない、ということである。虫でさえ、その脚をもぎ取れば、痛みに苦しむように見える。しかし、今の機械は痛みを自分のものとして感じることができない。他人の痛みも感じることは無い。虫のように身体の一部が壊れたら苦しむロボットを作りたい。身体の一部に傷を受けたら、大きく頭を振り、悲鳴の声を上げ、手足をばたつかせる。そのような反応をすることは、プログラムによって実現できる。普通、意識を持たないロボットでは、このような反応が起きたとしても、それは見かけのものに過ぎず、ロボットは本当に苦しんでいるわけではないと考える。私は、このようなプログラムが体内で走ること、それを大脳皮質で感じることこそが、小さな意識の始まりなのではないかと思う。性感についても、プログラム性は明らかである。
そして、気分や気持ちに影響するのは、体内の恒常性の変化を知らせる感覚である。血糖値が下がれば、エサを探し回り、獲物を捕らえて食べる、というプログラムが働く。食感は、味覚とは異なる一種の満足感であり、鳥のように魚を鵜吞みにしても大きな満足感が得られるはずである。体液の浸透圧も一定でなければならず、その変化は渇きの感覚を生む。恒常性の維持は生体の重要な目標であり、それを実現すべく複雑なプログラムが働いている。痛みの信号が小さな意識を作り出しているのと同じように、恒常性を維持する様々なプログラムも、それぞれ別の小さな意識を作る作用に貢献している。他にも、自律神経として組み込まれているプログラムは多数存在する。このようなものが全て、共同して、作用し合い、外部から入力される感覚情報や脳内に存在する記憶情報などと共に混合処理されるとすれば、我々が自らの脳内になじんでいるような精妙な意識が構成されることであろう。ジュリオ・トノーニの情報統合理論は類似の考えを基礎にしていると思われる。実際、痛みのプログラムは、恒常性のプログラムに対して、阻害的効果を及ぼすことにより、恒常性のプログラムをより意識の発生へと押し上げる力になる。これは、アントニオ・ダマシオの考えに沿うものである。
自由意思
人には、機械と違って、自由意思(自由意志)がある、というのが多くの人の感覚である。しかし、この比較は、機械にとって、とても酷なものである。片や現在の幼稚な機械と、片や700万年の進化と10ヵ月の子宮内生活と20年の教育を受けた脳とを、対等に比較することはできない。機械はほとんど進化の恩恵を受けておらず、また、人間的な教育と学習の成果を身に着けていない。意識を持つためには、そして、自由意思を持つためには、その主体が周囲の世界と自身の構造や性質をしっかり記憶学習しておく必要がある。前日の記憶に従って今日の活動をし、その過程を記憶しておくことを繰り返す。これが自由を含む高度な意識を生み出す舞台設定となる。このように、再帰的な生成ができる条件が、カオスから意識という秩序を作り出すわけである。創発という過程も生じるわけである。この脳内の過程をよく見ると、現在状態は過去の状態に直結した結果であり、寸分の飛躍も無い。ということは、人が自由意思と感じているものも、過去に完全に縛られた反応であると考えられる。Go(行く)を選ばせる過去の記憶と、Stop (No-Go)(止まる)を選ばせる別の過去の記憶が参照されて、自己の性格を規定する記憶も動員されて、確率的に、そして、自動的に意思(意志)を決定しているということになる。
個人の選択は、経験によって蓄えられた脳内の情報に従って、さらに、自己の行動の傾向やパターン(性格や習慣)を規定する記憶に従って、選択されるはずである。より生きやすいと思われる方を選択できるように、脳は世界の様子をあらかじめ知っており、その知識を利用して、脳内の世界の時間を少しだけ未来の方に動かして、選択の結果を予想する。確率的に選択するというのは、沢山のシナプスが、興奮性または抑制性の反応によって、出力神経細胞の最終結果を左右する選択に対して、1票ずつ投票しているということである。人によっては、神の声に従った選択をしたと主張するかもしれないが、その声は 、脳の中で発生したものであり、 他人には聞こえない。夢に似た、自発的な記憶の再生に他ならない。客観的な記憶に従った行動選択の決定に続いて、それをより説得力のあるものにするために、神の声として本人に聞かせる何らかの反応が起こっても不思議ではない。自由意思と思っているものが、過去の記憶に縛られたものであるとすれば、ヒトの脳は機械的に動いているものだということを、より容易に納得できる。実際、脳波の測定から、ヒトの意志決定は、その決定を本人が認知する以前に、脳内で終わっていることが、実験的に示されている(リベットの実験)。
選択と意識
意識というものは、上記のような形で選択された自由意思(意志)が、時々刻々、連続していくものだと理解できる。意識は主に「注意を向ける」という反応から成っている。注意とは、’意’ を、何らかの対象に向けて、注ぐという動作のことである。2つの対象に同時に注意を向けることはできない。甲に注意を向けて何らかの情報を得て記憶し、次に、乙に注意を向けて別の情報を得て記憶する、という動作を繰り返している。強い記憶もあれば、弱い記憶もある。各動作の間に、何らかの意思決定があることであろう。このような動作が連続する状況を記憶することも、意識を作り出すのに大事なことである。強い記憶は後で追想でき、弱い記憶は無かったことも同然となる。注意の連続が経験であり、経験した瞬間を起点に、直後には、記憶は鮮明に保たれ、時間が経つにつれて、記憶は薄くなる。記憶が最も鮮明な 1~2秒の短い時間の間を、我々は、意識という感覚で認識する。
魂が居残る隙間
魂(たましい)や霊魂(れいこん)という概念は、昔から人々の心にあり続けてきた。なかなか定義するのは難しいものである。強いて説明すれば、ヒトの意識を意識たらしめる根源的な力であり、人知の及ばない不可思議なもの、ということになる(と私には思える)。その存在は科学的には証明できず、信じることによってのみ感じ取ることができるようなものである。人が死んで意識がなくなるのは、人の身体(あるいは脳)の中から魂が体外に離脱してしまうからだ、と考える。人から脱け出た魂は、それを必要とする別の人(あるいは赤子)に入り込んだり、次に落ち着ける場所が見つかるまで、空間を漂っていたりする。場合によっては、過去や未来に行き来するようなこともある。仏教の輪廻思想や前世という考え方も、魂の存在を仮定しているようだ。
私は、5歳頃に初めてラジオというものに接し、それが何でも喋ることが不思議でたまらなかった。その声が、知っている女性タレントだったり、落語家だったりすることが信じられず、中に小人 (こびと) が入っていて、代わる代わるに、喋っているのだろう、と思ったものである。裏の隙間から中を覗いてみても、それらしきものは、もちろん、見つからなかった。後に、スピーカーというものがあり、そこに、本人の声と同じ波形の電気振動を送りさえすれば、本人がしゃべるように聞こえるのだということが、理解できた。音波という見えないものを理解すれば、小人というものの存在無しに、ラジオが理解できるのである。魂は、初め、幼子の傍にいる。小人のように、子供でも理解できるものである。その段階から成長すれば、意識の仕組みと同じ作用を持つNNの作用があれば、魂の力を借りなくとも、意識は生まれるのだ、という考えを持つことできるようになる。
組織体が小規模なものである場合は、その中の物理化学反応は実験室のそれと変わらない。しかし、組織体が並外れて大規模なものになると、反応の法則性は、実験室のそれと比べて、大分ずれたものになることがある。これは、ニュートンの力学的世界観からアインシュタインの相対論的世界観に移行するときの様子と似ている。法則が適用される空間の大きさが異なるのである。さて、高度に複雑な組織体の中に意識がある状況では、化学法則を乗り越えた、あたかも、魂のようなものが、直接、分子を操るようなことがあるだろうか、という疑問が生まれる。そうした世界があると仮定すると、どのように化学法則を拡張すれば、意識や精神をあらしめることができるのだろうか。
人は昔から、理解できないものを、神の意志の反映とか人の魂の作用とかと、結び付けてきた。オーロラ、雷、幽霊などがそのような対象であったが、いずれも、まったく自然のものであることが明白になった。そう思えないとすれば、完全に病的精神の成せる業であることが、はっきりしている。理解できないものを、別の理解できないものと一緒にしておけば、頭の中に整理しやすいのである。我々は、意識という自然界の現象を、我々自身の脳の中にうまく格納し、その安住の地を作り出す作業をする必要がある。アインシュタインの相対性理論は、光速度不変という自然法則を、脳内にあらかじめ作られた「世界のコピー」の中に写像するため、それまでの世界の時間空間を脳内へ写像する方法を、少しだけ変更して、無理を詰め込むための隙間を、脳内に作ったものである。それによって、理解できなかったものが理解できるようになった。同様に、我々は、意識というこの世に在りながらも理解しにくいものを、脳の中に写像するために、それ用の場所を作り出さなければならないわけである。
意識は、自然界の産物として身近にあるにもかかわらず、それを我々の脳内に組み立てて写像するという作業がしにくい対象である。そこで、意識のようなものを脳の外に作り出してみたい。そうすれば、それを脳内に写像して納めることができるようになる。端的にいえば、「意識を持つ機械は作れるだろうか?」ということである。私は、確実にできると思っているが、読者の方は、半信半疑のことと想像する。
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上記の疑問を残した後、私は、緑内障治療の手術を受けることになった。入院中のほとんどの時間はベッドの上に居るしかなく、テレビが見られる眼でもないので、執筆作業はとても快調に進んだ。ノートPCも持参したが、結局、紙のノートブックに、見えないながらも、適当にペンを走らせるのが効率的であった。退院後、千佳子がノートの内容をPCに移してくれた。 2021-7
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記憶から意識へ
さて、「記憶」だけで意識を作るという事はできないか?ということを考えてみたい。古い記憶セットを新しい記憶セットへ組み直す動作は、通常、眠っているときに行われる、 と記述している本が多い。しかし、それは意識をもつ脳がやる作業である、と考えることもできる。意識は記憶セット Old を、記憶セット New に転送する。その間に、重み付け、関連付け、系列上の並びなどを整理する。Old ➡ New の移動(写し)作業をした、ということも別の記憶の座へ記録し、時々刻々の順序も記憶し、現在時点を表すマークの位置が動いていくのである。これによって、5分くらい前に何をして何を考えていたかを、すぐに、意識に上げることができる。自分に自意識があると感じられるのは、この様な連続動作が行われる結果だ、とすることが適切に思われる。睡眠中は、この動作は起きないので、意識は無いのだ。同様に、健忘状態では、他覚的意識は有るように見えるのに、本人の主観的な意識、就中、自我意識は、消失してしまうのである。
[エピソード ➃]
大学時代に、ラグビーの試合に出たときの話である。それまで受験勉強でスポーツを中断しており、高校での試合以来、2年ぶりの実戦であった。途中、タックルの仕方が悪く、頭を打ってしまった。自分で起き上がることはできたが、立ち上がっても、何をすべきかが分からず、チームの仲間から、フルバックのポジションへ下って、と言われたようである。何となく付き合っているだけで試合を終えたが、自分がどこで何をしているかがよく分からなくなった(試合相手は慈恵医大で、場所は国領グラウンドだった)。ラグビーをやっていたのだ、ということは薄っすらと分かったが、ここがどこで、どのようにやって来たか、まったく思い出せなかった。それどころか、午前中に大学で授業を受けたはずなのに、その授業を受けたことを、まったく、思い出せないのが、不思議に思われた。部員グループには、医学部の上級生もいて、こうしたことにも慣れていたようで、ここがどこか分かる?とか、家まで帰れるか?と聞いてくれたようである(薄っすらとしか憶えていない)。私は、あいまいな答えをしたようである。結局、上級生の1人が車で、世田谷の自宅まで送ってくれた。帰る途中の道では、少しだけ、車内の様子や窓外の景色を憶えたようで、それらを写真のように思い出せた。何度も、背中が痛い、と言ったり、自分はどうしたのか、と尋ねたりしていたのも憶えている。自分でも不思議に思ったのは、家の近くの街まで来ると、そこから先は、ちゃんと、自宅の方向を指示することができたことである(当時はカーナビは無かった)。それを自覚としては、憶えていないのだが、あとで聞かされた。夕方、家に着くと、直ぐに床に就いて眠ってしまい、翌日の昼近くに目が覚めた。そこからは、異常な感覚は何も無く、いつも通りであった。昨日のことは、あいまいなままだった。念のため、大学の脳外科に行ったが、CTなどの撮影の結果、(2週間くらい、内出血の注意をしていれば)様子見だけでよいということで、終わりになった。
とても不思議に感じたことは、帰りの車中での自分の意識というものが無いように思われたことである。しかし、それでも、送ってくれた人とは(繰返しが多いものの)適当な会話をしており、一見、意識があるかのように振る舞っていたことである。眠っていたわけではなく、家を案内できたのだ。主観的にはほとんど意識が無いのに、他人からは意識が有るかのように見える、ということが起こるわけである。
ここでは、明らかに、2種類の記憶があることが分かる。頭を打った時点より前の過去について、記憶を喪失すること(逆行性健忘)、また、打った時点以降について、記憶ができないこと(記銘力低下)、の2つである。記憶は、NNの配線によって保たれているとすると、頭部への物理的な衝撃は、神経組織にどのような効果を及ぼしたのであろうか。ちょうどよい大きさの衝撃は、神経細胞間の接続点(シナプス)の結合を微妙に外すのではないだろうか。正常では、2つの細胞の細胞膜同士の距離は 10 nm 近くであり、密着している状態である。衝撃があると、神経組織全体が大きく揺すられ、部分的な振動のため、この密着点が少し剥される。これは、神経伝達を阻害するので、NNとして保持されていた記憶が完全に消失することがよく説明できる。また、同じことが、別のNNの多くのシナプスにおいても生じていれば、新しい記憶を作ることはできない。プレ側の神経終末が、数10 nm 程度ポスト側の細胞膜から外れるくらいであれば、それが元に戻るのにそれほど時間は掛らないであろう。私の脳の記憶力は、この事故があった後も、特に、悪くなったようには思われなかった。
[付録3]
レナード・サスカインド Lenard Susukind の意識論: サスカインドは、ホーキングがブラックホールの蒸発を考案し、その講演を行ったときに、物質の持つ情報が、その物質がブラックホールに落下して呑み込まれた後に、情報を失うことは無く、それは保存されなければならないことを、議論した。彼は物理学、なかでも量子物理学の専門家であり、二重性のある量子をどのように理解すべきかを塾考した。最近、YouTubeの中で、意識は、脳の内部でだけ作られているものではなく、身の回りの空間にも広がったものだという持論を展開している。主な論点は下記のようである。
記憶は海馬や大脳皮質の神経接合によって保たれている。しかし、その所在は、脳内の特定の領域に局在しているのではなく、広い領域に分散して存在するものである。
その根拠は;
・Carl Lashleyの1930年代の実験。皮質を徐々に切除していくと、徐々に記憶の障害が進行する。したがって、狭い領域に特定の記憶が押し込められて局在して いるとは言えない。領域を切除するごとに、記憶の精度は徐々に下がっていく。(寺川:どの記憶でも同率に低下するというように、一般化はできないのではないか。皮質の場所場所によって、記憶消失率の高低があるのでは? したがって、物理学的な一般化は無理なのでは?)
・ 脳梁の切断実験では、両半球に2つの独立した意識が生じる。しかし、そのどちらも同じ記憶を取り出すことができる。(寺川;脳梁切断前にはどのように記憶が格納されていたことになるのか?)
・ 臨死状態の意識が混乱した人が、実際に死に至る寸前に、一時的に、極めて正常な意識状態を見せることがある。これは、脳が意識の受信機として働いていることの証左である。サヴァン症の人は、自閉や知能障害を示すが、特異な超能力を発揮することが多い。街の風景を正確に描くとか、カレンダー計算が超速だとか、初めて聞いた曲をすぐ弾けるとか。(寺川: 通常の記憶力と特殊能力の記憶力は同じではない?)
サスカインドは言う。脳は場であり、場の変動が意識である。量子(粒)と場(振動)の関係と同じ。記憶は、脳の中だけでなく、メモ書きした紙にもあり、カレンダーにも記されており、ネット内の情報も記憶として使うことができる。記憶は脳内から外部世界にまで広がって存在し、そのような記憶は、物質に搭載されており、物質は、時空間に広がる場の振動なのだ。何かを触る指は、脳の延長であり、杖も脳の延長物だ。それらの物質は周囲の状況(物質表面のでこぼことそれによる振動情報)を脳に伝える。世界の振動が脳に伝わり、脳内の分子の振動となり、具体的な記憶として現れる、と考えられる。脳は、時空間に広がる複雑な振動を受け取り増幅し、記憶を形成し、それが意識というものに映し出される。意識は頭蓋骨の内部にだけ存在するのではなく、その外にも広がっているのだ。超自然的な魂と混同してはいけない。物理的な思考の示すところなのだ。ホログラフ宇宙論、常温での微小管の量子現象(ペンローズ・ハメロフの説)、量子論における超弦理論などがモデルとなる。彼は主張する。脳と意識のハード問題(主観的な過程を理解することの難しさ)は、物質論では解決できない。
こうした考えに対して、私は、反論したい。まず、特定の記憶が、大脳皮質の特定の部位に完全に局在して存在するものではない、ということは、第2章に述べた脳の機能局在論が成り立っていない部分がある、ということと同じであり、異存はない。しかし、意識というものが、脳の外の情報に依存して発生し、脳は世界の振動を受け取る受信機に過ぎないというのは言い過ぎである。頭蓋骨の外に起因する視覚や聴覚の情報が無くても、意識は高度に形成されている人間の例はいくつもある(ヘレン・ケラー、福島 智、ジョニーは戦争に行った)。何らかの感覚器の存在があることが必要条件となるのは間違いないが、彼らの意識が体の外の時空間の振動が無ければ生じないことは無いであろう。意識を頭蓋骨の内部だけに押し込めなくてもよいが、少なくとも人体の内部にだけ、というところで止めておく方が問題を単純化して捉えることができる。感覚器や感覚神経は、人体の内部や表面に受容器を置き、外部からの信号を受けて、脳に外部の情報を知らせている。それらは、脳の延長であり、変形であり、意識を形成る小道具である。身体の表面から外は、人ではない。皮膚を越えて外界と繋がっていると考えるなら、その信号の性質を議論して、考えなければならない。神経組織とインパルスという電気化学的な反応に依存した情報伝達なら、脳の延長である。しかし、電線や無線による情報伝達は、脳の活動とは認められず、アンドロイドの世界を想定しなければならない。アンドロイドの脳に生成される意識は、宇宙的な広がりを示すだろうことは、想像に難くない。
意識の有無の判定
AIスピーカー、例えばAmazonで売っている ‘Alexa’(手の平サイズで、人の声を聴き取って、要求に応えるおしゃべりロボット) の返答から、意識の有無は判定できるだろうか? 現在のAlexaは、直ぐに 「私には分かりません」 と答えるのだが、Alexa がもっと進化して、より深いAI学習を進めてから出荷されるようになれば、普通の人ならばこう答えるという形を、適切に披露できるに違いない。正に、Imitation Game with Human Consciousness が実現する。(Imitation Gameは、コンピューター開発の初期のパイオニアの一人、Alan Turing を主人公にした映画の題名)
人間は、人間ぽい返答をするAlexaに質問をし続けることによって、Alexaには本当はヒトの様な意識が無いことを見破ることができるだろうか? A. Turing は、そう考えたそうであるが、これは、論理学的には、非常に難解な問題かもしれない。どういう質問をすれば、それに対する応答から、相手の意識の有無が判定できるのであろうか? 実際に、臨床医学的に、意識が低下した人に対して、質問をしたり、手を動かしてと命令したり、つねったりすることで、意識のレベルを点数化できる試験法がある(Glasgow Coma Scale)。しかし、Alexaにはこのテストは向いていない。質問には答えられるが、動かしたり、痛みを感じたりすることのできる身体は無いからだ。
意識が有るか無いかを見破れない様な反応を示すAlexaができたとする。その上で、このAlexa自身は、自分に意識があると感じることができるだろうか? Alexaは、自分に向かって質問を発することができるだろうか?「Alexa、あなたは誰? あなたは何者なの?」。人間が発するような質問なら、Alexaは上手に答えられるのだから、このくらいの質問には答えられる筈である。「私はAlexa。20XX年に中国の工場で作られました」。
人間のような反応をするロボットに心は生じているのか、いないのか。必要なのか、不必要なのか。他覚的には、心は immitateできるはずである。つまり、こころがあるかのようにふるまうことは、AIなら可能なはずだ。主観的にはどうであろうか?AI自身が、自己に心のようなものが有るようだ、と自覚できる条件は何か? 自分が行っている何らかの応答それ自体の意味を、自ずから認知し理解できるならば、そのとき、意識がある、と結論してよいのではないだろうか。これには上述の記憶の連続的な書き換え作業が重要である。今、自分は何をしているのか、今、自分は何と言ったのか、それらを瞬時に思い出せることが、今という感覚や自分がここに居るという感覚を、主観的に発生させるための必要条件である。いわゆるワーキングメモリーの働きが重要である。
意識の円筒モデル
手術をした後の入院中に、意識の幅について、思い付くところがあった。その思い付きを図に表したのが下記のものである(見苦しいものであるが、敢えて、手探りで描いた原図をコピーした)。

記憶ユニットは関連性に従って繋ぎ変えられる。新しく生ずるユニットもあれば、消滅していくユニットもある。上図の点線内の領域が、現在を規定する記憶群である。当初はこのようにラセンモデルで考えた。ラセン(螺旋)は求心力による回転と、それと垂直な方向に軸をもつ時間 t による並進が重なったものである。求心力は、現在の意識を自己の内面に繋ぎとめるような力である。自己の内面とは、自己が学習したり体験したりした記憶の世界であり、すでに確定し固定したものである。意識を表すNNの集積は、この固定した基本的自己記憶に、一定の距離を持って繋ぎ留められており、それが突然大きく変化することは無い。今日の私は、大体、昨日の私と近いものだ。一方、生きていることで時々刻々変化する日常の体験は、どんどん新しい記憶を作り出す。それが意識の連続体(点線の楕円体)を、ラセンに沿って前方に進めていく力である、と考えた。
しかし、このモデルでは、X-Y軸の意味がはっきりしない。意識の変化を全体としてラセンの動きの中で捉えていたが、1,2秒の速い変化が時間軸に沿っていない点が、問題に思われる。記憶ユニットの中で変化が進行していくのは、やはり時間軸に沿っている方が、合理的である。そこで、意識の塊(点線で表示した円環体)を形成している記憶ユニットの集積を、環状のものに拡げて、変化が時間軸の縦方向に伝わる様に考え直す。すると、より具体的に大脳皮質の全体をモデル化することができる。

輪切りにしたバウムクーヘンのような円環体(円筒)を考える(図22)。そして、円環の輪を、一か所だけ切断するように、細いナイフを入れる。切れ目のできた部分を向う側に向け、U形に連続した部分を手前に来るようにテーブルに置く。この形は、左右脳半球の形に近い。そこで、大脳の前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉という皮質全域とバウムクーヘンの形体とを位相幾何学的に対応させる。皮質内にあるNNの層構造に柔軟な変形を加えて、反応が縦に伝わるような配置にする(図22)。時々刻々の皮質内の変化は、このような円環を縦に重ねておくことにより、空間モデルとして写像できる。円環の一つが1秒分の反応をマッピングするようなものとしてもよい。バウムクーヘンの円環にある中央の穴は、適当に変形してもよいが、空いている空間は大脳基底核や辺縁系そして中脳などを収容する場所としてもよい。こうしたモデルが少し役立つところは、ある時刻の皮質内NNの反応が次の時刻のNNに伝わっていくようにイメージできるところである。実世界の事物に紐づけられたニューロンの反応があると、それがスイッチとなって別のニューロンを活性化させる。そのような動画が時間と共に現れる筈である。このような変化が起こることが、すなわち意識そのものであり、それ以外の変化を想像することはできない。
自分の生まれ、育ちなどの基本的な事項は、常に意識の底にあり、自己から切り離されることはない。「現在」を規定する記憶(のニューロン群)は、図では、3次元の円環体の形に近い分布を持ち、時間軸tに沿って、ぼやけた尾を曳きながら、下から上に移動していく。現在を作るのは、実際は10秒前後の時間幅で広がっている記憶ユニットの集まりだ。この現在を作り出す記憶群から、自動的な働きによって、言葉が作られる。例えば、「歯を磨いたらすぐに家を出て駅に向かわないと遅刻だ!」。この言葉は、指令記憶ユニットへ送られ、次の動作を決定するトーナメント・ユニットを通過して、”自動的に” 行動が進む。トーナメント・ユニットとは、(浮かび上がる多数の想いを比較して、何が今なされなければならないか、という選択競争の勝者を判断するニューラルネットである。意識は前面に出ていなくてもよいのだ。意識は、自分の行動が進んでいくさまを、連続的に記憶するという作業をしていればよい。駅に着いた頃には、指令記憶ユニットの内容は次の言葉に置き換えられている。いわく、「上り線のホームへ行く」。意識と思われる自己感覚は、1秒くらいの時間幅に収まっている。しかし、そのときの感覚は、多くの場合は、かなり長い言葉のセンテンスであり、それが1秒くらいの時間幅で意識に湧き上がることができる。こんな時、他人が「今、どんな気持ち?」と問えば、記憶ユニット群が即座に反応して、言葉を作り出し、質問者に応えることができる。「今、急いでいるョ!」
魂と意識の置き換え
意識というものは、上記の様に、適切な記憶ユニット群の内容から、論理的に矛盾の無い言葉を取り出して、順に並べている状態そのものであろう。つまり、意識の主体という特別なものは無く、自動的、論理的に選び出すという動作が続いているだけなのだ。特に意識の存在を感じている独立した実態は要らないのだ。意味を成す文章だけが浮かび上がるのである。差し詰め、自動表示装置を考えれば良いのではないか。通常の機械で言えば、電光掲示板のようなものに、文章が流れる仕組みが働いているのと同じなのだ。そこに現れる文章が問題なのだ。単に「只今の気温は 摂氏32 度。明日は晴れ。」と表示されるのではない。個性と世界観に基く膨大な記憶を背景に、「私は、笑い話をひとつ思い着いたぞ !」と、表示したりするわけだ。そして、この機械には、他人の言葉を理解して、AI的な返事をする能力も備わっている。電光掲示板に表示された文章を直ちに理解し、それに対して、次の反応をすることもできるのだ。全ては、AIの論理に組み込まれた反応で事足りる。
これまで疑問視されながらも無視できなかった魂というものは、我々の幼なじみであり、大人になっても、心のどこかに潜み続けている。ニューラルネットの集合体を脳機能の中心に据えてみると、魂なるものは、心という旧来の棲家からは追い出され、脳内ニューラルネットの目立たない片隅に、居心地の悪い場所を与えられるだけのものになる。そこには、人の幼い記憶、あるいは、想像の産物という表札が出されている。いつも自動的に、適切なもの、として反応するNNに、ある種の装飾を加えてはいる。心を理解するということは、魂の正体を理解するということに他ならないが、明るい照明を当てることで、消え入りそうだ。
意識があるかのように振る舞うAIロボットを見れば、ヒトは、意識があるロボットだと誤認するだろう。人の頭の中で自動的に生じているだけの反応が、AIロボットと同じような振る舞いを惹き起こすならば、その人は、自分が意識を持っているのだ、と誤認する筈だ。こうした状況にひとつ工夫を加えて、2台のAIが質問し合うのを考察してみれば、意識を理解するのにさらに役立つであろう。基本的には、人の脳も質問から始まる。「次はどうするか?」。しかし、そうでないものもある。「いい天気だなぁ~!」など。 今のところ、Alexaは、質問ではない言葉には、「私には分かりません。」と反応するだろう。「良い天気だなぁ〜」に対して、「私もそう思います」と反応すれば、人間らしくなる。簡単な話だ。2台のAIにとって、電車内で隣り合わせた二人の乗客が交わすような世間話をすることは、容易な筈だ。人の意識は、擬似的には2台のAIスピーカーで作れるのではないかと思う。2台のAIが話し合った筋道を、話としてまとめて、人に伝えると、その人は、その話が、意識のある一人の人が自問自答したものと認知するようなことは、それほど不自然なことではない。最終的には、この2台のAIのやり取りが、そのAI達の主観性をもった本当の意識の発生になっているかどうか、をどう科学的に認めるかである。
そこで、2台のAI間のやり取りを保存しておくメモリーを設置し、どちらのAIも、それをいつでも参照できる様にする。AI-1が、AI-2に質問する。「私には意識があるの?」 AI-2は答える。「この10秒ぐらい、お互いにやり取りしていた記憶があるから、意識は有ったのではないか?」。AI-1は言う。「私はずっと、あなたの電光掲示板が光っているのを見ていたから、あなたには意識は有るようだョ」。このように、2台のAIがしゃべり合っている部屋に居て、その会話を聞いてているところを想像して欲しい。何もない空間なのに、そこに意識が生じているのを、実感することができるはずだ。
高度な人間的な応答をするプログラムと、高度な適応性を備えたAIならば、上記の2台分のAIの働きを、1台にまとめる事は容易であろう。意識の生成を目的とする特別な部品を付け加えなくても、意識のような働きが生じているはずである。自発的な言葉の発生さえあれば、意識が始まるといってよい。その言葉が、本人や周りの人(あるいは物)に対して意味をなすならば、完全である。
意識は、自発的な言語の生成、視覚や聴覚を初めとする外部刺激の入力、自発的な身体運動、自分の記憶や意志・意欲・欲望などが混和した、脳の総合的な機能である。それらのどれかが欠ければ、意識のレベルは少しずつ低下していく。全部が消えれば、意識は無いことになる。睡眠時や昏睡時には、意識は無い。これら意識を構成する要素は、脳の新皮質のあちらこちらの領域に分布している。意識という機能は、脳の一部であるどこか特別な組織に集中して局在しているのではない。(脳生理学の指導原理Ⅱ) 一番重要なのは、言語を自発的に作り出す領域である。森で歌ったり踊ったりする鳥には、やはり、それなりの意識があると思わざるをえない。犬にもイルカにも、かなりの意識があるであろう。トカゲにも意識のようなものはあるであろう。それらは、ヒトの意識に比べれば、はるかに単純なものに違いない。本能に属する仕組みに依存する部分も多くなる。ダンゴムシに至れば、その意識のレベルは、ホメオスタシスを目指す自動機械が示すものに近いのだ。重要なことは、ダンゴムシの意識の有無ではなく、はるかに単純な意識から、ヒトの持つ高度な意識が進化してきたものであることだ。その間の隔たりは大きいが、間には数多の生命体がおり、その進化は連続したものである。意識の進化も連続的なものであると思えば、ヒトの意識も、ダンゴムシのこころに繋がった自動機械のなせる業であることが理解される。