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誇り高き遊牧民、カシュガイ族との出会いに想う
時代への提言 | 2019.12.25

旅の魅力に取り憑かれて早20年を超える。

なぜ行くのか、と聞かれ自問自答するのだがいつもさして深い意味はないのだ。
旅で人生観を変えようなどという大それた目的があるわけでも、大陸を縦断したり、全ての国を踏破しようなどというストイックな目標を掲げたこともない。根本にあるのは、感じることへの好奇心だろうか。

土地独特の匂い、人々の息遣い、雑踏の喧騒、立ち込める熱気、身を潜める野生動物の気配、出向いてその場に立たない限り感じる方法がないものには枚挙にいとまがない。

もちろん視覚や聴覚は感じるための重要な要素だが、未だ文明の利器を持ってしても得ることのできないそれ以外の何かが、出かけた先で例外なく興奮と感動を与えてくれることを知った。

所詮同じ人間同士、仮に言葉が通じなくても、ジェスチャートークだけで通い合い、感じ合えることは、かなり高い確率で可能なことも知った。

それらを知ってしまったが故に、何らかの方法で得た情報によって好奇心を覚えたが吉日、興味を行動の目的に変えるということをやめられなくなってしまった次第である。



今回は、イランのカシュガイ族とのふれあいの中で感じたエピソードを1つ。

イラン・イスラム共和国、その第二の都市であるシラーズ周辺に居住するカシュガイ族。彼らは、ペルシャ湾近郊からザグロス山脈を、季節に応じて移動する遊牧民族だ。特徴的な形の帽子をシンボルとする、トルコ由来の民族である。

羊やヤギを遊牧しながら、その毛を刈り、織り機で絨毯を生産するのを生業としている。彼らのその手仕事が、豊かさの象徴とも言える、かの有名なペルシャ絨毯となって世界中に流通していく。

カシュガイの多くは、遊牧生活をせず街に滞在するが、現在でも遊牧を続けている誇り高き人々の遊牧キャンプに迎え入れられ、数日間寝食を共にする貴重な機会を得た。

滞在したテントは、ザグロスの麓、岩場が延々と広がる荒野にポツンと立っていた。それは移動を容易にするため木材で組まれたごく簡易的なもので、屋根は彼らのライフワークであるヤギの毛で織られている。

四方数キロ以内には、1軒の家すらなく電気や水道などの生活インフラはもちろん皆無である。滞在したのは9月、日中は40度近いが夜になると10度前後まで気温が下がる。

男は夜が明けると羊やヤギを引き連れ遊牧へ、女は羊毛作りに精を出す。

日が沈めば、降るような満天の星空の下眠りにつくという、まさしく自然と調和した究極にシンプルな生活を送っている。

それは文明に囲まれ、仕事に追われ、あらゆる欲に支配されがちな我々の日常とあまりにかけ離れていた。

彼らのキャンプに着くと、家長である老人は笑顔で私を一瞥するとその場を立ち去り、数分後小脇にヤギを抱えて戻ってきた。

神に感謝を捧げた後、その貴重な自分たちの家族であり、収入源、財産である家畜をさばいて振舞ってくれたのだ。

どこから来たかも知れない、言葉も通じない私に対してしてくれたその歓迎に、言葉では表現できない締め付けられるような感動を覚えた。

国境も宗教も服装もアイデンティティをも超越した、ただ’人間’であるという共通項、その’出会い’といういわばアクシデントに対する彼らの寛容に衝撃を覚え、次の瞬間、ショックを覚えた自分の小ささに気付かされた。
彼らは、全ての前置きや否定を排除し、ただ受け入れてくれたのだ。

そして滞在している間、手振り身振りで懸命に自分たちの伝統や文化、生活を教え、その魅力を懸命に伝えようとしてくれた。

常識も環境も文化も、あらゆる基準の異なる、人間同士の出会いに対する、シンプルで最大の歓迎に心から感銘を受けるとともに、自分は日本人として何ができるのか、巷でよくささやかれる’おもてなし’というワードを、インバウンドPR用の決まり文句ではなく、どのように個人レベルで昇華させる必要があるのか、考えさせられる滞在であった。

【 文章・写真:中村 僚 】

 
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