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【寄稿A】 ⑥  第三部 がんによる高齢者の死と小児がんによる子供の死 白梅ケアホーム  本郷輝明
交流の広場 | 2021.02.18

第3部

がんによる高齢者の死

小児がんによる子どもの死

(その1)


白梅ケアホーム 

本郷輝明


はじめに

介護老人保健施設(老健)で、高齢者のがんによる死亡を昨年(2020年)コロナ禍で3名経験した。

がんによる緩和医療を通常老健では行わない。

それは鎮痛剤をはじめとして苦痛に対処する薬の種類と投与方法が限られているのに加え、栄養補給や輸血ができないなどがんに伴う治療に制限があるためである。

しかし、今回コロナ禍という事情とご家族の意向、すなわち長年暮らしてきた施設、馴染みのある職員のもとで見送りたいとの希望があり、亡くなるまでケアすることになった。

私はここ白梅ケアホームに来て4年になりその間に見送った(すなわち死亡診断書を書いた)方々は49名である。

しかしがんで亡くなった方は2020年の3名のみである。その方々の死を迎える時の姿や言葉、ご家族の思いについて事情が許す範囲で記述してみた。

また、6年前に老健に勤めるまで私は小児科医として臨床に従事し、主に小児がんの治療に携わった。

その間の40年間、おおよそ320名の小児がんに罹患した子どもの治療に携わり95名の小児がんによる死亡者を見送った。

高齢者のがんによる死と比較して、子ども達の死はどのような姿だったのか、さらに子どもを見送った母親の思いはどのようなものだったのか記録をもとに考えてみた。

なお、個人情報特定を避ける為Hさん、Mさんで表し、老成学研究所HPへの発表に関して高齢者ではその家族から承諾を得た。また小児がんで亡くなった方々の言葉は、以前講演発表と大学等の教育使用に際して承諾を得ている。

高齢者の死の場合


私が受け持ちのHさん(89歳女性)が突然貧血に襲われたのは2020年8月上旬の月曜日。2日前から食欲がなくなり、月曜日の朝には顔色がとても悪くなりベッドから立ち上がれなくなっていた。診察後緊急事態が発生したと診断し、Hさんの長女と長男に来所していただき救急車で**病院へ搬送した。病院では、貧血の原因を探るべく腹部CTを施行。そこで進行胃がんが発見された。貧血は胃がんからの出血と想定された。さらに肝転移と腹膜播種と腹水が見つかった。突然の診断である。翌日胃カメラを行い、噴門部の胃がんを確認した。


診断確定後は医師より長女と長男に説明があり、現時点では緩和医療が最善の方法で、残された時間はあと1、2ヶ月程度。どこで残りの1−2ヶ月を過ごすのか、コロナ禍どのような面会方法があるのかなどの話し合いが持たれた。

また治療としてHさんは輸血を受け、少し元気を取り戻した。長年住み慣れた施設で最後を迎えてほしいという長女・長男の希望があり、我々もその提案を受け、1ヶ月後老健に戻ってきた。長女・長男の意向で本人には胃がんとその転移、病状が終末期である事は伏せられた(いわゆる病名告知や病気説明はしていない)。


Hさんが我々のケアホームに初めて入所したのは7年前である。

72歳の時脳梗塞に罹患し左半身麻痺が出現。その後在宅中心で療養していたが次第に介護度がまし82歳の時に老健に入所された。左半身麻痺があるものの言葉は比較的しっかりしており、ご自分の意思を表すことができた。診察時にはいつも丁寧に「ありがとうございます」と返事をされていた。麻痺側の足に時々血流障害を起こし潰瘍になり痛みを訴えることがあり、何回か大きな病院を受診している。

毎月2泊3日でご自宅へ戻られるのが楽しみで、帰宅時に在宅でリハビリを受け、「マッサージで下肢のしびれがなくなる」といつも笑顔でおっしゃっていた。娘(長女)さんが退職後世話することを約束していて、Hさんもその日を心待ちにしていた。


胃がんと診断後**病院から老健に帰ってくる途中のお昼、長男宅に1-2時間立ち寄り、Hさんの姉妹と息子・娘・孫など6、7人の親戚が集まり、一緒に語らったとのこと。老健に再入所した時には、久しぶりにみんなと会えて満足したという笑みを浮かべていた。そしてその喜びを入所後何度も私に話してくれた。「ここに入所する直前のお昼に家族のみんなと会えたのは最高の幸せだった」と。

コロナ禍でなければ、日常よくある密であるが、このご時世では親しい人に会うということも遠ざけられている。そのことが一層、今回会えた喜びを増すことになったのだろう。


Hさんの病状は入所後日に日に悪化した。

食べたいという意欲が全くわかない。食事が喉を通らない。日に日に衰弱していく。点滴で補えるのは水分のみである。再入所2週間後には全身の疲労感と衰弱が増し、話もほとんどできなくなった。

「おはようございます」と声をかけると、目を開けて頷くがその後は静かに目を閉じる。「痛いところはありませんか?」と聞くと、「痛いところはないがとてもだるい。毎日だるさの中で生きている。やっと生きている。こんなにだるいのは初めて」。

そして次第に顔の表情も失われていった。


長女・長男が揃って(あるいはどちらかの一人が)毎日夕方面会に来たが、その時には目を開けて「ありがとう」と言うが会話は少ない。ただ長女・長男が来たときは、食欲が少し出てくるのか嬉しそうに好きなアイスクリームを少し口にし、ヤクルトも数口のまれた。

「話はしなくともそばにいるだけで安心ですから手を握ってあげてください」とスタッフは声をかけた(もちろんマスクは必須で手を握るときはアルコール消毒をしてから握る)。

娘さんはHさんのそばでむくんだ腕や足をマッサージし、30分ほど座っていただくことが3週間続き、Hさんは息を引き取った。



Hさんからは病状の疑問や病気の説明などは診察中一度も求められなかった。再入所直後から倦怠感に襲われ、ご自分の死後の世界について表現する力が湧いてこなかったか、あるいは表現する必要がなかったというのが私の印象である。

89歳という年齢と胃がんによる腹膜播種と腹水による浸潤で生命力が徐々に失われていった。全身倦怠感に耐えて日々を過ごしているのが精一杯というご様子だった。

そんな中でもHさんをベッドのままエレベーターで移動し、窓越しに姉妹、孫などに会ったときは嬉しそうな笑顔を見せた。そして窓越し面会の時の集合写真を拡大してお部屋の壁に貼ってあるのを、時々目を開けてベッドから眺めていた。

人と会い語らうというのが人間の本質なのだとコロナ禍で強く思った。


亡くなって数ヶ月後、長女と長男のお二人から最後の3週間について伺った。

**病院に入院して1ヶ月後、白梅ケアホームに戻れた時は、「ここに戻れて良かった」と言って安心していたこと、長女と面会時はスマホ映像を見ながらHさんの姉妹や孫などとお話ができたこと、職員みんなが声掛けしてくれたことが嬉しかったと話してくださった。

ただ心残りは、その日によってもっと長くそばにいたいと思ってもそれが叶わなかったことで、それが辛かったとのことだった。

娘さんが帰る時は、「明日も会いに来る?」と必ず聞いていたとのこと。


これは、子どもも同じで、母親が病気の子どもを病院に残して帰る時には、子どもは必ず聞く「明日も来る?」と。

親しい人と明日会えるというのは、命を削られている人にとっては最も大切な絆で、大切な希望である。

子どもの死の場合


中学1年生のMさんが小児科病棟に入院してきたのは、右腕にできた腫瘍が「骨肉腫」と診断され化学療法目的のためである。

約1年間の闘病の末、多発骨転移と肺転移で亡くなった。

とても多感な思春期の少女で、いろんな疑問をぶっつけてきたが、病気の名前は直接聞いてこなかった。

当時(1970−1980年代)は小児に対して病名告知や病気説明はまだなされていなかった。

Mさんは文章を書くことが好きで、右腕にできた腫瘤の手術による生検前後に以下の文を書いている。


一度しかない人生

(略)

私たちはこんなにも不確実な安全性の中にたった一つの命を守って一生けん命に生きている。

病弱な者は 細くてもいい、長くいきたいと祈る思いで、手術の日の知らせを晴れぬ気持ちで待っている。

人の命の大切さを知る者なら、せめて確実に近いもの、いわゆる人々が気をつければ、守れるもの、直せるもの、これだけは粗末にしないでせっかくの一度だけの人生をもっと大切に生きたいと思っているのです。

(略)


残念ながら、抗がん剤投与にもかかわらず病状は進行した。

そんな時期に、次のような言葉を発したことが母親からMさんの死後知らされた。


「お母さん、先生はとっても優しいし、何を言おうとしているか、よく分かっている。そして私の為だと分かっているけど、おっしゃることが全部おためごかしだね。」


鋭い感性を持っている思春期の少女である。

病名をしっかり伝えていないこと、抗がん剤投与にもかかわらず病状が改善せず進んでいることに対する説明が不十分でどこかで逃げていて、表面的に繕っていることがわかるのであろう。


またこの頃、母親に対して以下のような言葉を切羽詰まって言った、と後ほど知らされた。


「病状が進んだ頃にこんなことを私に向かって言いました。『お母さん 一緒に死んで!』

私もすかさず、あなたが望むなら、お母さんいつでも覚悟は出来ているよと言いました。」

するとそれっきり、私につらいとか、いやだとかは一言も言わなくなりました。

私もそのとき、あれ以上**が求めればいっその事と思っておりました。」


病気治療中で病状が悪化した時の、母と娘のやり取りである。

こんな緊張関係を通過しながら母と娘の深い絆が築かれていったのだろう。

病気の事と病気進行をMさんはいつ頃察したのであろうか。


母親の話からは、亡くなる4ヶ月前からのようだ。

「娘が、いつだいたいの事を知り、その不安から立ち直ったかも知らないでいた不甲斐ない親ですが、かつらの支度や『私がいなくなったらこれを渡して欲しい』とパネルやボーイフレンドへの詩、旅の詩人への頼み、文集の中の『私がこの世から消えた日』などから見て、自分を諦めたのは亡くなる4ヶ月前頃だと思います。」


さらにその頃Mさんがこんな事も言っていたと話された。

「『お母さん、最近ね、頑張れ、きっと直る、と言われるより、お母さんのように、辛い時は辛いね、痛い時は痛いね、と一緒になって言ってくれる方がいくら嬉しいか分からない』。」

亡くなる3ヶ月前には、母のことを心配して次のようなメモを残している。


「お母さん ごめんね 

 いつもわがまま ばかりいって 

 お母さんをこまらせてばかりして

 でもわたしは だいじょうぶ 自分をもっているから

 自分の道はしっているから 

 お母さん からだをだいじにしてね 

 わたしのお母さん いつまでも夢を人生を大切にしてね

      **より 19*9.*.* PM*じ*分」


そして、次第に病状が進行した時に次のような色紙を書き残している。

この色紙は亡くなった後(須永博士の文字と絵入り「小さな夢の展覧会」として)私の元に届けられた。


ー わたしがこの世から消えた日 ー

 あなたにおねがいがあります

 誰もいない海へ行って

 一日中わたしのことだけを想って

 時間をついやしてくれますか


このMさんの残してくれた思いはとても大きかった。私自身がその後小児科医として、さらに小児がんの治療医として歩む方向を後押しした。

それは、子どもと真剣に向き合うこと、真実を隠さず伝えること、そしてどんな不安にも寄り添い付き合うこと、死を乗り越える時にはそばにいて欲しい人が必ず傍にいられるように約束すること、そうすれば死を乗り越えられること、これらを(その子の関心度合いに応じて)わかりやすくしっかり伝えれば病名告知や、病状説明は可能であることを教わった。


その後の35年間は、子ども達にもわかりやすい言葉で病名告知・病気説明を行い、向こうの世界を知りたい時、あるいは死について知りたい時は「葉っぱのフレディ」などの多くの絵本を用意したり読みきかせたりし、死後の世界を一緒に考えるようにした。

二つの死、二つの思い


高齢のHさんの最後の4週間をそばで見させていただき(もちろん診察はしっかり行った)、次のような思いが伝わってきた。

「もう十分に生きた、病名など知っても知らなくともどうでも良い、静かに向こうの世界に行きたいが、だるさが覆いかぶさり簡単には行けないな。」

そんな思いが十分に伝わってきた。


それに対して、Mさんの場合は、13歳の思春期という生命が躍動する時期で、もっともっと生きてみたい、という叫びが伝わってきた。

Mさんが残した「波濤万里」(この作品は海の子作品展で知事賞を受賞している)という書を見ていると、あと30年や40年は生きて活動したい、太平洋の波の向こうのまだ知らない国に行ってみたい、世界をもっともっと訪ねてみたいという強い生命力のあふれた思いが伝わって来る。

静岡県知事賞

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