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【老成学事始】 Ⅵ 老成学の考察方針:五つの柱 森下直貴
活動の実績 | 2021.02.06

老成学事始Ⅵ

老成学の考察方針:五つの柱

老成学研究所 代表

森下直貴

人生100年時代、

老人世代は保護と介護の対象ではない。

受け手であると同時に担い手であるべきだ。

社会の中でお客様に甘んじてはならない。

とすれば、

老人世代の果たすべき役割とは何か、

また、その前提として、老いの意味や価値とはいかなるものか。

この点を考察するための指針をここで改めて明確にしておきたい。


現在、老いをめぐって三つの語り方がある。

一つ目は

老いを積極的に「生き方」として語る。

これは最近にわかに注目されている。

健康寿命が延びれば定年後も元気に活動できる。いつまでも若々しくありたいし、充実した人生を送りたい。そのためには年齢で差別する社会を変えるべきだというのだ。


二つ目は

老いを消極的に「死に方」として語る。

これは根強い人気がある。

理想はピンピンコロリだ。しかし、施設か在宅かを問わず、いつかは寝たきりになり、家族の顔も忘れてしまう。だったらそうなる前に苦しまずに死にたいのだという。安楽死の許容を求める声も少なくない。


両者の語り方は対照的である。

老いの焦点が一方では生に、他方では死に置かれている。

しかし共通点もある。

どちらも本格的な老いのステージを見落としている。

身体が不自由になって日常生活に支障が出る。病気がちになって病院通いをする。その時点から本格的な老いが始まる。老いから介助・介護を抜いてしまうと、本当の意味での老いは消える。


三つ目が

主流の、老いをもっぱら介助・介護として語るものだ。

人生百年時代、生き方を楽しむステージや、死に方に思い悩むステージだけが延びるのではない。

むしろ、それ以上に延びるのが本格的な老いのステージである。

     ただし、このステージには暗い話ばかりが纏わりついている。

     寝たきり、認知症、引きこもり、施設と病院のあいだのたらい回し、老老介護と自殺や心中、介護暴力と介護殺人、遠距離介護や介護離職といった話を

     耳にしない日はない。


現状では、老い=介護のステージに対する人々の感情は芳しくない。

介護される側は生きがいを持てず、介護する側もやりがいを失っている。

なぜそうなるのか。

その理由は、

老人であることの意味や老いの価値が見えなくなっているからだ。


背景には 二つの固定観念 がある。

一つは、

老人がもっぱら 介護の受け身 にされている ことだ。

これには老後の人生の短さだけでなく、介護の関係者や専門家の視点も大きく影響している。

もう一つは、

老親の介助・介護が優先的に 子世代に託されている ことだ。

もちろん公的サービスはあるが、それでも主たる担い手が、仕事や子供の教育やパートナーとの関係といった悩みを抱える息子や娘であることに変わりない。


とすれば、

老人の意味と老いの価値を再発見するための鍵は、

介護される側が受け身ではなく同時に担い手になること、

そして、

家族を超えて(業者でも行政担当者でない)身近な人たちが介護に関わること

になろう。

両者を重ね合わせると、元気な老人を含めて年齢幅のある老人同士が介護し合う関係、つまり老人仲間の互助が浮かび上がる。


老人仲間の互助の輪がつながると、その先はどうなるか。

在宅と施設の垣根を超えた世話の場が開かれる。

世話の場が開かれると、そこを核として例えば育児中の母親、母子・父子家庭の子供、引きこもりの青年を支援する輪がつながり、共助のネットワークが立ち上がる。

共助のネットワークが広がると、そこに様々な業種の人々が参入し、新たなコミュニティが形成される…。


実際、老人仲間の互助に近い形なら、全国津々浦々で毎日ひっそりと営まれている。

          さらに本格的な互助の実践例があるし、共助のしくみづくりの試みもある。

          お寺などの文化資源や風土を生かした地域の取り組みがあり、

          コミュニティ論も盛んだ。

しかし、大事なことが不足している。

それらの多様で単発の企てを相互に連関づける包括的な枠組みがないのだ。


ここで 老成学 が登場する。

老成学が提案するのは、まさに 互助・共助・コミュニティに関わる包括的な枠組み である。

老いには、

元気で活動できる第一ステージ、

介助・介護を受ける第二ステージ、

死に方を考える第三ステージ

の三つがある。

三ステージの全体を引き受ける「老い方」の中に 生き方と死に方 が統合される。


その際、基軸となるのが 「老成」という視点 だ。

     老成という言葉は一般に熟成とか完成を意味するが、ここでは老いを完成ではなく、たえず意味づけ直され、変容し続ける「生成」として捉えられる。

この「生成」の意味が込められた「老成」の視点から、

老いのステージの全体を老い抜くための

一貫した心構えと、ステージごとに異なる役目が

明確にされることになる。

それをどこまで具体的に描き出し、さらに実践につなげられるかはもとより難題であるが、挑戦する価値はあるだろう。


以上を踏まえると、老成学として考察すべき柱は以下の五つにまとめられる。


第一の柱。

人生における老いの位置を考え直す。

人生五十年や人生七十五年を前提にした老人観では老いの現実が隠され、

人生百年を標榜する老人観では老いの現実が無視されている。

そこで老いの経験を考察して現実を直視することで、人と人をつなぐコミュニケーションという見方を提示する。

老いの三つのステージは誕生前から死後まで続く人生全体の中にある。


第二の柱。

老いのステージ全体を支える心構えを考える。

ここではタブー扱いされている老人の「性」を取り上げ、欲望との折り合いのつけ方を吟味する。

必要とされる自制心の拠り所は、

一つは他者とのつながりを水平的に支える美意識、

もう一つは世代を超えたつながりを垂直的に支える責任意識である。

両者が人間的魅力、したがって老人の意味と老いの価値を生み出す。


第三の柱。

老いの第一ステージにおける二つの役目を考える。

一つは次世代の後継者を育成する役目。社会のさまざまな領域ごとにその具体例を挙げる。

もう一つの役目は第二ステージに備えた仲間づくりだ。元気な老人たちが参加することが老人仲間の互助の成否を決める。

以上の役目を遂行するためには、定年や働き方・余暇の過ごし方を含めて制度全般を見直す必要がある。


第四の柱。

第二ステージにおける役目を考える。

在宅でも施設でも受け身をやめることが老人仲間の互助への第一歩だ。

そこでキーワードは世話=世間話。

互助の輪ができると、その周囲に多様な共助のつながりが引き寄せられる。さらに共助以外のコミュニティ機能も引き込まれる。老人仲間の互助からコミュニティ形成に至る展開を構造的に論じる。


第五の柱。

第三ステージにおける二つの役目を考える。

一つは最期まで老い抜く様を若い世代に見せる役目。

     安楽死の論争を取り上げながら、在宅か施設かを問わず、安らかな最期を迎える条件を探る。

もう一つは死んだ後もコミュニケーションの中で語られる役目。

     死後の世界とは「次世代が生きるこの世界のことだ」という死生観を提示する。

(続く)


※  ”第五の柱”については、拙著 『新版「生きるに値しない命とは誰のことか」』、『システム倫理学的思考』にて論ず。

※ ”第四の柱”については、前号(老成学事始Ⅴ)にて「認知症老人をめぐる互助」にて考察。

【添付:原文】

老成学事始Ⅵ

老成学の考察方針:五つの柱

森下直貴

人生100年時代、老人世代は保護と介護の対象ではない。受け手であると同時に担い手であるべきだ。社会の中でお客様に甘んじてはならない。とすれば、老人世代の果たすべき役割とは何か、また老いの意味や価値とはいかなるものか。この点を考察するための指針をここで改めて明確にしておきたい。


現在、老いをめぐって三つの語り方がある。


一つ目は老いを積極的に「生き方」として語る。これは最近にわかに注目されている。健康寿命が延びれば定年後も元気に活動できる。いつまでも若々しくありたいし、充実した人生を送りたい。そのためには年齢で差別する社会を変えるべきだというのだ。


二つ目は老いを消極的に「死に方」として語る。これは根強い人気がある。理想はピンピンコロリだ。しかし、施設か在宅かを問わず、いつかは寝たきりになり、家族の顔も忘れてしまう。だったらそうなる前に苦しまずに死にたいのだという。安楽死の許容を求める声も少なくない。


両者の語り方は対照的である。老いの焦点が一方では生に、他方では死に置かれている。しかし共通点もある。どちらも本格的な老いのステージを見落としている。身体が不自由になって日常生活に支障が出る。病気がちになって病院通いをする。その時点から本格的な老いが始まる。老いから介助・介護を抜いてしまうと、本当の意味での老いは消える。


三つ目が主流の、老いをもっぱら介助・介護として語るものだ。人生百年時代、生き方を楽しむステージや、死に方に思い悩むステージだけが延びるのではない。むしろ、それ以上に延びるのが本格的な老いのステージである。ただし、このステージには暗い話ばかりが纏わりついている。寝たきり、認知症、引きこもり、施設と病院のあいだのたらい回し、老老介護と自殺や心中、介護暴力と介護殺人、遠距離介護や介護離職といった話を耳にしない日はない。


現状では、老い=介護のステージに対する人々の感情は芳しくない。介護される側は生きがいを持てず、介護する側もやりがいを失っている。なぜそうなるのか。その理由は、老人であることの意味や老いの価値が見えなくなっているからだ。


背景には二つの固定観念がある。一つは、老人がもっぱら介護の受け身にされていることだ。これには老後の人生の短さだけでなく、介護の関係者や専門家の視点も大きく影響している。もう一つは、老親の介助・介護が優先的に子世代に託されていることだ。もちろん公的サービスはあるが、それでも主たる担い手が、仕事や子供の教育やパートナーとの関係といった悩みを抱える息子や娘であることに変わりない。


とすれば、老人の意味と老いの価値を再発見するための鍵は、介護される側が受け身ではなく同時に担い手になること、そして、家族を超えて(業者でも行政担当者でない)身近な人たちが介護に関わることになろう。両者を重ね合わせると、元気な老人を含めて年齢幅のある老人同士が介護し合う関係、つまり老人仲間の互助が浮かび上がる。


老人仲間の互助の輪がつながると、その先はどうなるか。在宅と施設の垣根を超えた世話の場が開かれる。世話の場が開かれると、そこを核として例えば育児中の母親、母子・父子家庭の子供、引きこもりの青年を支援する輪がつながり、共助のネットワークが立ち上がる。共助のネットワークが広がると、そこに様々な業種の人々が参入し、新たなコミュニティが形成される…。


実際、老人仲間の互助に近い形なら、全国津々浦々で毎日ひっそりと営まれている。さらに、本格的な互助の実践例があるし、共助のしくみづくりの試みもある。お寺などの文化資源や風土を生かした地域の取り組みがあり、コミュニティ論も盛んだ。しかし、大事なことが不足している。それらの多様で単発の企てを相互に連関づける包括的な枠組みがないのだ。


ここで老成学が登場する。老成学が提案するのは、まさに互助・共助・コミュニティに関わる包括的な枠組みである。老いには、元気で活動できる第一ステージ、介助・介護を受ける第二ステージ、死に方を考える第三ステージの三つがある。三ステージの全体を引き受ける「老い方」の中に生き方と死に方が統合される。


その際、基軸となるのが「老成」という視点だ。老成という言葉は一般に熟成とか完成を意味するが、ここでは老いを完成ではなく、たえず意味づけ直され、変容し続ける「生成」として捉えられる。この「生成」の意味が込められた「老成」の視点から、老いのステージの全体を老い抜くための一貫した心構えと、ステージごとに異なる役目が明確にされることになる。それをどこまで具体的に描き出し、さらに実践につなげられるかはもとより難題であるが、挑戦する価値はあるだろう。


以上を踏まえると、老成学として考察すべき柱は以下の五つにまとめられる。


第一の柱。人生における老いの位置を考え直す。人生五十年や人生七十五年を前提にした老人観では老いの現実が隠され、人生百年を標榜する老人観では老いの現実が無視されている。そこで老いの経験を考察して現実を直視することで、人と人をつなぐコミュニケーションという見方を提示する。老いの三つのステージは誕生前から死後まで続く人生全体の中にある。


第二の柱。老いのステージ全体を支える心構えを考える。ここではタブー扱いされている老人の「性」を取り上げ、欲望との折り合いのつけ方を吟味する。必要とされる自制心の拠り所は、一つは他者とのつながりを水平的に支える美意識、もう一つは世代を超えたつながりを垂直的に支える責任意識である。両者が人間的魅力、したがって老人の意味と老いの価値を生み出す。


第三の柱。老いの第一ステージにおける二つの役目を考える。一つは次世代の後継者を育成する役目。社会のさまざまな領域ごとにその具体例を挙げる。もう一つの役目は第二ステージに備えた仲間づくりだ。元気な老人たちが参加することが老人仲間の互助の成否を決める。以上の役目を遂行するためには、定年や働き方・余暇の過ごし方を含めて制度全般を見直す必要がある。


第四の柱。第二ステージにおける役目を考える。在宅でも施設でも受け身をやめることが老人仲間の互助への第一歩だ。そこでキーワードは世話=世間話。互助の輪ができると、その周囲に多様な共助のつながりが引き寄せられる。さらに共助以外のコミュニティ機能も引き込まれる。老人仲間の互助からコミュニティ形成に至る展開を構造的に論じる。

第五の柱。第三ステージにおける二つの役目を考える。一つは最期まで老い抜く様を若い世代に見せる役目。安楽死の論争を取り上げながら、在宅か施設かを問わず、安らかな最期を迎える条件を探る。もう一つは死んだ後もコミュニケーションの中で語られる役目。死後の世界とは「次世代が生きるこの世界のことだ」という死生観を提示する。


以上のうち第五の柱については、これまで『新版「生きるに値しない命とは誰のことか」』や『システム倫理学的思考』の中で不十分ながら論じてきている。また、前回の老成学事始Ⅴでは、第四の柱に関連して認知症老人をめぐる互助について考察を開始した。次回以降も引き続き、同じテーマを掘り下げてみたい。


 
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