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【研究交流】寄稿・提言:④ 第二部 コロナ禍の中、介護老人保健施設の高齢者と接して 白梅ケアホーム / 本郷輝明 
活動の実績 | 2020.12.17

第2部

コロナ禍の中、介護老人保健施設の高齢者と接して

白梅ケアホーム 本郷輝明

はじめに:新型コロナが流行する中、介護老人保健施設での高齢者と会話する中で感動したこと、悩んだこと、考えたことを記載した(個人情報特定を避ける為Fさんで表し、老成学研究所HPへの発表に関してFさん本人と長女から承諾を得た)。


コロナ禍に於ける高齢者 その3:百寿者から話を聞く。100歳のFさん(女性)、お孫さんと会話できる楽しみを語る、長女さんは母親と直接触れられない寂しさを語る。そして人生最期の時間について話し合う。


 100歳以上の方を百寿者、英語ではセンテナリアンcentenarianというが、聴力が正常な方は10%前後で、大声でなら会話が可能な方が女性で17%、男性で24%である。歳を取っても会話ができることは、日々の生活を送る上で大切なことである。孫やひ孫に会って話ができるのが唯一の楽しみという方もいらっしゃる。そして人生最期を何処でどのようにして迎えるかという問題も出てくる。


 Fさんはベットで横になっていることが多いが、面会があると喜んで起き上がる。その後車椅子に移り青空面会に行く。面会中は表情も豊かで姿勢もしっかりし、会話もできる。青空面会とはコロナ禍で編み出された屋外面会のことで、長机の両端に座り、アクリル板を挟んで面会し10分から15分程度話をする方法である(もちろんマスクもする)。予定していた日が強い風や雨の日は窓ガラスを挟んで面会し話をする。11月のその日はあいにく風が強く窓越し面会であった。Fさんの次女と孫二人が面会に来ていた。孫二人はすでに結婚しFさんにとってのひ孫もいる。面会中のFさんの姿は、部屋にいるときとは異なり、背筋も立てて言葉もしっかりしている。しっかり者のおばあちゃんの姿である。その1週間後には長女と孫とひ孫(3歳の男児)の3人が青空面会に来ていた。

「孫たちと会って話ができるのがとっても嬉しいね」とそばに寄って行った私にFさんは話をしてくれた。私がその場から離れようとした時、長女さんがFさんについて話してくれた。

「母は結婚後父を追って満州まで一人で行き、そこで私を産み、私が1歳の頃終戦になり、大連から苦労して日本へ連れて帰ってきたそうです。私がいたから生きて帰れたそうです」。

100年生きていると、我々の想像を超えた苦難にも遭われたようだ。

 数日後Fさんの部屋を訪れた。Fさんは今年7月に入所してから、慢性心不全、低栄養、腎障害が進行し、食事が進まず、3−5割程度しか口にできなかった。一時腸炎を起こし病院で治療を受け9月に再入所した。最近は全身のむくみが進み、臥床していることがほとんどである。寝返りも一人ではできず、介助が必要である。


 私が椅子を持ってベット脇に腰を下ろすとFさんは色々な話をしてくれた。大正9年生まれのFさんは8人姉妹の末っ子。生家は浜松の**町にあり、農業が主体で蚕(かいこ)も飼っていた。

「小学生の頃は弁当箱を持ち竹かごを担いで桑の葉を取りに行った。そしてカゴいっぱいの桑の葉を家に持ち帰り蚕に与えるのが日課だった。桑の実は、今でいうマルベリーのことで、とても美味しかった。弁当箱に桑の実をいっぱい詰めて持ち帰った。蚕は家の二階で飼っていた。母は蚕の選別を熱心にやっていた。蚕は盛んに桑を食べ、そして繭になった。今度はそれを熱湯に漬け乾燥させた。そこから生糸を取り出すため、絹の織物工場に持って行った」。

Fさんは高等小学校を1年で終え、その後新居の**製糸工場で働いた。そこには全国から100名以上の女工が働きに来ていた。

「製糸工場には長野県から来た人が多かった。半年で100円ぐらいの給料だったかな。その後紹介されて名古屋で女中としても働いた。24歳の時叔父さんの紹介で主人と会い結婚した(長女さんは恋愛結婚だったと言っていた)」。

ご主人に初めて会った時の印象を聞くと、

「どっかの坊やが来たな、という印象だった。兄弟が多かったので、丁稚奉公に出ていたのでしょうね、何人かの人と一緒だったと思う。」と言った。

「主人は由緒ある庄屋の家の14人兄弟の長男で、そこには大きな銭箱があり万年帳や金杯・銀盃など文政元年(1818年)からの古い宝物がいっぱいあった。主人は国鉄に勤めていて、満鉄の大連に転勤になった。12月浜松の**で結婚式を挙げ、翌年の4月に主人を追いかけて海を渡った。途中の釜山まで迎えに来てくれた。主人は大連で一時軍隊に入隊したがすぐ戻ってきて新しい社宅で生活した。大連の日赤病院で長女を産んだ。初めてのお産で親戚も親もいなくて大変だった。戦争が終わった時の帰国も大変だった。ソ連軍が来るとのことで髪を切ったりした。こおりに詰めるだけ詰めてトラックに乗って主人とともに大連を出発。母乳は出ないし、ミルクを買うお金もなかった。ジャガイモや野菜の入った汁で命をつなぎ、浜松まで帰ってきた。子供がいたので必死だった。帰ってきてからは主人の兄弟の中で子供を育てた。そこには大人と子供たち合わせて14人ぐらいいたかな。戦後食べ物は不自由で、買い出しに出かけたりした。食糧難だったので主人は土地を開墾し農業を始めた。その頃が苦労のどん底だったね。昭和23年に長男を産み、その後も二人生まれ、合わせて四人の子供を育てた。それからの生活は順調だった。主人は勉強熱心で、長男だったのでいろんな面で指導的だったね。自治会長もしたし、教育委員もした。子供には割と厳格だった。主人は大正6年生まれだから3つか4つ年上。亡くなる92歳まで一緒に暮らした。私の100年の人生、大変だったが楽しかったよ。でも年を取ると、辛いことも悔しいこともたくさんある。もうすぐ101歳になるけど、この歳になると生き続けることは大変なことだ」。


 Fさんのお孫さん達は週2回とよく会いに来てくれる。しかし長女さんは

「何回も会いに来るがこのコロナ禍で、手を握ったり直接触れたりして励ますことができなくて、もどかしさを感じます」と話された。

コロナ禍という特殊事情で仕方がない。


 終戦後満州から引き揚げてくる途中、トラックや貨車に揺られながら小さな子供が栄養不良や感染症で死んでいったという話を聞いたことがある。私たちの親たちの世代の経験である。


 Fさんと話をすると時々Fさんの両親のことが出てくる。おそらく何か心残りがあるのだろう。

「母親の兄弟の中で母だけ読み書きができなかった。母は繭の選別が得意で、また木枠の織り機で手織りをしていた。」

優しい性格で、強さもあり、Fさんの姉と一緒に暮らし96歳で亡くなった。Fさんの父親は夜魚釣りに行き、昼はお酒を飲んでいた。Fさんが6歳の時に父親は亡くなった。

「老健に入所してベットに横になっている時間が多いと、いろいろ考えたり、思い出したり悔やんだりすることがある。子供や孫たちに会っている時が一番楽しい、この施設に入る前は自宅によくみんな来てくれた。」

そんなことを語ってくれた。


 11月から話を聞き始め、早くも1ヶ月経った。12月になり、Fさんは次第に体力が低下し不整脈も増えた。全身の浮腫も増してきた。寝返りも自分ではできない。しかし会話は可能である。食事も取れなくなり、このコロナ禍でどのようにしてFさんの最期を迎えるかをお子さん4名と老健関係者(担当医の私、看護師長、相談員、ケアマネジャー)と話し合った。

話し合いの結果、食事ができなくなっても病院には送らず、また自宅にも戻らず(入所前は30年以上長男宅で過ごしてきた)、このまま当施設で看取りをすることになった。

看取りになると個室あるいは二人部屋に入り、Fさんの4人の子供とその配偶者は、熱や咳などの感染症状がなければ好きな時間に来て1日1回一人のみ10分程度部屋で直接面会できる。手を握ることも可能である。もちろん受付で体温を測定し、マスク着用や手のアルコール消毒は必須ではあるが。また好きな食べ物・飲み物を一口二口、欲しい時は何口でも提供しゆっくりと食べさせてあげることができる。(但し孫やひ孫とはコロナのことを考えて面会は禁止している。会うとしたら窓越しのみである)。


 何処でどのようにして人生の最期を迎えるかは、それぞれの高齢者とって大きな問題である。成り行きに任せると悔いが残る。しっかりアレンジ(前準備)しなければならない。何を最も大切にするかによって最期を迎える場所は決まる。

自宅では、孫やひ孫と自由に会うことができ、そして自分の老いる姿を孫たちに見せることができる。亡くなる直前まで親しい人の手を握り、自宅の置物や飾りを見たり、日常の音や匂いを感じたりできる。近しい人に感謝の言葉を言いたくなったらすぐ言えるなどの安心感に満たされている。

ただし自宅の場合は、下の世話や寝返り、食事や水分補給などの世話を誰がどのようにするかを決めなければならない。訪問介護や訪問看護を活用する方法もあるがそれは日中に限られている。1週間程度と決められているのなら自宅で看取るのも可能かもしれないが、1ヶ月続くならきつい。人間の残された命の長さは誰にもわからない。

一つの家族に世話を押し付けず、日常生活の世話は施設に任せ、会うことの大切さのみを優先するなら老健で最期を迎えるのも十分選択肢に入るだろう。(しかし現在のコロナ禍では、活動性の高い孫やひ孫世代は無症状でも高齢者に感染させることがあり、その危険性を考え終末期に限らず在宅生活中でも会わないようにしている方が多い)。


看取りになってから1週間ほど経って、次第に食欲が出てきた。好きなピーチネクター100mlとメイバランスミニ125mlを1日3−4個摂取できるようになってきた。会話もしっかりしてきた。直接会うということの結果だろうか。来年の1月の誕生日を迎えることが楽しみだねと診察の都度私はFさん本人に話しかけている。

追記

Fさんは無事101歳の誕生日を迎えた。

体重も数キロ減り全身の浮腫も取れ、全身状態は改善している。食欲も出てきた。誕生日おめでとう!と声をかけると、「ありがとう」と笑顔で答えてくれた。

孫とひ孫からの誕生日祝いのハガキも届いていて、ベット横に置いてあった。本人の承諾を得て読ませてもらった。心のこもった文面だった。

「100歳の時はみんなでお祝いしましたね。また一緒にお茶と大(だい)あんまきを食べましょう。」

と書かれていた。

大あんまきは奥山の特産(野沢製菓)で、大勢来てもその人数に応じて切って食べる事ができてとても重宝していたとの事、またFさんは大の甘いもの好きとの事。「誕生日のお祝いに私から何か音楽でもおかけしましょうか?」、と尋ねたところ、おじいさん(旦那さん)がよく唄っていた詩吟を聞きたいとのことだった。一部ご自分で諳んじてくれたので、スマホのユーチューブで山行を聞かせるととても喜んでくれた。

数日後孫とひ孫が窓越し面会来たので、

「最近調子が良く会話もしっかりできますよ。先日詩吟を聞かせましたよ」とお知らせしたところ、祖父が詩吟が好きで良く唄っていましたとのことだった。その後お二人で窓越し面会を楽しんでいた。

弱った姿や元気な姿を見せたりするのも、次の世代へのメッセージだと思った。

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