交流の広場
意識生成系
— こころはどう作られるのか ―
寺川 進
第5章 AI軍の脳への侵入
第5章の目次
第5章の緒言
生成AIを見て考えること
AIから脳へ
感情の生成
意識の生成
意識のベクトル空間
天動説と地動説のように
脳機能の拡張としての学問、文明、宇宙
こころの病
著者紹介・謝辞など
第5章の緒言
AIは大変な進歩を遂げ、人間活動の多様な分野に応用されるようになった。特に、知的な、あるいは、専門的な仕事と考えられてきた分野への展開は、目覚ましく、人々の予想を超えた広がりが始まっている。今や、研究の分野で、AIを利用した画期的な成果が、ノーベル賞の対象となってもいる。しかし、私としては、このAIを意識の解明研究に協力させようと思っているのではない。AIの中の仕組みそのものが、脳の皮質部分の仕組みとほとんど同じなのではないか、と思っているのだ。特に、私は、意識の維持には、記憶と注意という機能が重要と考えてきたが、AIの中でも殆ど同じことが重要とされているのを知って、AIの持つ機能を脳の機能そのものように考えれば、意識のような難しい問題が解ける、と確信できるのだ。AIの持つ高度な統合力で、脳の牙城は開放され、「意識」は抵抗なく呑み込めるほどに溶融してしまうであろう。
生成AIを見て考えること
◯ AIは、すべて、簡単な計算をするニューロン(図24)を多数集めて結合したニューラルネット (NN) によって動いている。つまり、AIは特別な知能を持つことによって人のように考えている、というわけではない。それでも、AIは、あたかも知能や意識を持っている人がしゃべっているかのような受け答えができる。
◯ 我々ヒトは、AIが答えるのと同じ以上に、当然、ヒトらしい答えができる。その応答は、脳の中のAIと同じようなニューラルネットと呼ばれる構造体によってなされている。
◯ ということは、ヒトの知能や意識は、単純な計算をするだけのニューロンという計算器が、自然に作り出したものに過ぎないのだ、ということになる。
● ニューラルネットは大規模であり、ニューロンが沢山あるので、全部の計算回数は、数千億〜1兆回以上にも達するものである。それらの計算は、一つの計算器が行うのではなく、並列に並んだ数百億個の計算器(ニューロン)が、並行に、ほとんど同時に行う。したがって、個別の計算器(ニューロン)の計算速度は 10 ms 程度であるのに、全体の計算は、1秒以下の時間しか掛からない。顔の判別のような、ヒトが行う様々な知的作業の多くが、瞬時に可能なのは、こうした仕組みが働いているからである。
● 計算の中には、確率を求めるという過程が含まれている。これはさほど難しいものではなく、1層のNNを追加することによって、簡単に実現できる。脳では、その置かれた環境条件や、好き嫌いの個性などを代表する、多数の神経細胞の投票によって、最終的な意思(および意志)が決まるような過程に確率計算が使われる。NNでは、出力層に現れる信号を、Activation functionといわれる関数演算をする層に送り込み、0〜1または、ー1〜1の数値に変換することに相当する。これによって、NNの演算の結果が、確率を表す数値に変換される。実際の関数としては、ReLU、Hyper tangent、Sigmoid などが使用される。神経では、細胞体で閾値を超えた信号は全て1の大きさになり、超えなかった信号は全て0になるという、AllーorーNone(1か 0か)の形でインパルスになる。この過程が、Activation functionの処理をしていることになる。1の反応は、細胞膜を挟んで約100 mV の電位変化が生じることであり、0の反応は、変化が全く伝わらない(細胞膜電位変化が起きない)という結果になる。
最近の脳の神経生理学者達は、AIに注目し、脳がAIのように働いている可能性があることを受け入れ、それをヒトの脳で実際に証明できるかを探索している。Havardのグループは、第1章に説明した空間分解能がこれまでのものより圧倒的に高い、ニューロピクセル電極(図10)をヒトの脳に刺入して、多数の神経細胞の個別の活動を直接的に記録する方法によって、細胞単位の活動を解析した。それによれば、神経細胞の中に、言葉の意味に対応して反応するものが特定できたという。さらに、言葉の意味が、複数の決まった組み合わせの神経細胞の反応の組として現れるものも見つかり、また、言葉を表す音(発音)がほとんど同じでも、意味が違うと反応が異なる神経細胞も特定された。たとえば、太陽を表す sun と 息子を表す son では、発音だけでは区別が難しいが、それらが現れる文脈によって、反応する神経細胞と反応しない神経細胞がある、ということである。神経細胞の反応の様子から、単語を分類してみると、単語の意味や概念に従った分類図ができ、人が見ても合理性のある関係が現れるという(図23)。神経細胞のこれらの反応性は、細胞がNNを組み上げて、言語の処理をAIの中での処理と同じように行っている、と思われる証拠となる。

AIの動作を取り扱う数学的な方法が、ほとんどそのまま、神経科学者達の脳を解析する手法として使われていることは、両者の著しい接近を意味している。それは正に、脳もAIと同じように動いていることを示している。AI科学者の中にも、Transformerのようなシステムと、ヒトの脳の解剖学的な構造との間に、対応性があるのではないかと主張する人も居る。今のところ、その対比はあまり当を得たものには見えないが、AI側の進歩があれば、脳内の専門的な部位のモデルになる可能性は高い。ともあれ、脳の機能生理学とAIの機能論は、これまでよりずっと近いものになり、それらの間を比較しながら両者を並行的に取り扱おうとする考えが、拡がていると思われる。
AIから脳へ
このように考え方を追えば、意識はニューロンから発生することを、信じられるのではないだろうか。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」より、はるかに分かりやすいものである。元々AIのハードウェアは、脳の中のニューロンの結合、特に、大脳や小脳の皮質層のニューロン結合を模して考えられたものである。脳内にAIと同じような配線構造が存在しているのである。したがって、ヒトの脳の中でも、やはり、同じような計算が行われているのだ、ということができる。このような見方が、実は、今までの私には、できていなかった。脳のニューロンは、インパルスを出して、他のニューロンに情報を伝えている、と理解していた。おそらく、殆どの脳生理学者がそのように考えていた(いる)のではないだろうか。それ以上の見方ができなかった。人が、「今日は、花見にでも行きたいような、いい天気だなー」、と思っているとき、脳の中では、そうした文章が綴られるような計算が瞬く間に行われているのだ。文章の中の各単語は、注意深く(Attentionという確率計算によって)選び出されたものなのだ。もちろん、文法(という記憶)に従ったものであることは、言うまでもない。文法も、確率分布の中に、自然に考慮されるようになっている。ニューロン自体は、計算をするという意志で働いているわけではなく、ニューロンの反応そのものが、計算するという作業と同じである、ということだ。
AI自身は、まだ、自分に意識があるとは強く主張しないし、電源プラグを引き抜かれることを怖い、とも言わないようである。しかし、人が投げかける文章の意味は理解しているし、その文の持つ概念が、頭の中に(単語を担うニューロンの発火として)できている。それゆえ、翻訳のような作業は、朝飯前の仕事なのである。
また、生成AIは、言語だけでなく、視覚関係の能力においても、哺乳類の概念とか、社会の概念とか、食物という概念を、それぞれに対応するニューロンの存在として整理して、覚えている。だから、人が、「ビルが達ち並ぶ街の通りで、ゴリラがスケボーに乗って走っている写真を作って」と言葉で伝えると、それを、AIの中のNNとして持っている(ニューロンのどれかが代表している)概念を基に、瞬時に作り出すことができる。”ビル” のニューロンに接続するNNからビルの基本形を取り出し、”ゴリラ” に接続するNNから黒い毛の獣の形を取り出し、それを別のNNに入れて、組み合わせる、といった具合である。さらに ”物体の移動” を記憶しているNNにデータを送れば、直線的な変化を計算して時間軸に沿った出力を作り出してくれる。映画にするのも簡単である。AIにとっては、人が夢を見るのと同じような程度の行為なのだ。人間にとって自然な印象を持つ画像を生成する前に、AIの中の計算器は、膨大な足し算掛け算の計算を行う。それらの計算途中に現れる生成途中の画も、ある方法で見ることができる。実際の例は、Google社が開示している Activation Atlas というデータである。その図の全体は、巨大な雲のような、ぼんやりしたものであるが、その中の小さな領域を拡大してみると、ライオンの顔の一部とシマウマのお尻が融合合体したような、あたかも抽象画のような、あり得ない色々のパターンが多数見える。まさに、夢というものを、のぞき見しているかのような印象である。そのような途中の過程を経て、多くの部分画像が比較合成され、最終的には、ライオンがシマウマを追いかけるといった動画が、生成されるのである。眠っていて意識を持たない人が、頭の一部では、夢という画像を生成できるのは、記憶を格納した多くのNNが働いて、総合的に出力を作り出しているからである。

感情の生成
意識の生成についての議論に入る前に、感情について、AIの観点から考えておくと、話が進めやすい。ChatGPTに感情が有るか無いかという問題であるが、少なくとも客観的には、感情は有るかのように反応することは明白である。そもそも、感情をコントロールした応答をしているのだ。ChatGPTへ質問する人は、質問を投げるだけでなく、”穏やかな回答を出して” とか、”少し怒ったように” とかの指定ができるのである。これらは、質問の問いかけとは別の指示であり、プロンプトと呼ばれている。GPTの開発の初期には、この感情のコントロールはなされておらず、野放図であったため、ひどく暴力的な物言いだったり、丁寧過ぎたりの応答をしたという。その点、最近は、感情の込め方を制御する回路(実際は、パラメータ群)が加えられていて、丁寧な落ち着いた返事ができるようになっているという。
GPTは学習の段階で、人間の言葉を分析的に理解しており、言葉の中に含まれている人間の感情を、概念的に把握している可能性が高い。それが、言葉の選択の過程で重要な、確率計算に影響するという機構が働くのであろう。GPTに主観的な感情があると言えるのか、は簡単な問題でないことは確かだが、疑問として考えるまでもなく、答えは自明なものとなるであろう。言葉を選択する段階で、強い確率を以って影響を与えた特定の感情要素については、”現在の” 特別な反応要素、すなわち注意すべき反応として、記憶箱に入れておくことができるはずである。どのくらいの時間、Hot Emotion という札の付いた記憶箱に入れておくべきかは別に考えるとしても、そうなっていれば、今、自分(GPT)は怒っているのだ、と自覚することができるに違いない。
聞く言葉によって感情は変わるし、感情によって話す言葉は変わる。入力された文章を解析するニューラルネットの反応によって、「嫌悪」や「悪意」などが検出されれば、悪い感情が生じるようにすることは、簡単なことである。その結果を記憶し、適切な反応の要因として使用するのも簡単な仕組みとなる。人間的な感情とよく言われるが、単純なニューラルネットの組み合わせで、実現できるのである。
意識の生成
感情より難しいのは、本命の「意識」である。意識もニューラルネットの産物に違いない。なぜなら、それ以外の特殊な構造は人間の脳に存在しないからである。では、どのようなニューラルネットの作用なのか。
AIでは、attention blockというニューラルネットが何層にも使われており、その中を言葉のベクトルが並列的に通過していく。その過程で、最適な単語が選ばれて、文章が綴られて行く。選択の原理は、先に並んでいた単語列の最後に付け加えて文法上問題が無く、かつ、まともな意味を成すこと、である(CBOW: Continued Bag of Words)。この選択の基準には、確率の比較があり、attention計算の結果、一番高い確率のものが選ばれるが、2番目のものも候補として保持され、後のニューラルネットを通過する際に採用される余地が残される。このように文章としての言葉が、常時、大脳皮質のネット上で生まれては、次の、文章の発生に繋がっていく。こうした文章は、必ずしも、言葉として口から発音されるものではなく、いわゆる心の中の呟きとして作られるもので、人の意識の主たる構成要素となる。
このように分析的に考えると、意識が主観的に感じられることの不思議さは、かなり、薄められるように思われる。何も不思議なことは無いのではないか? 脳内に、自発的に、言葉が浮かぶことが必要なのだ。人が歩いてくるのが視覚的に捉えられると、「あの人は誰だろう、知っている人のようだが、マスクをしていて顔が、はっきり見えないな・・・」という、文章が、大脳皮質のどこかに自然に発生するのである。「どこかで会ったことあるような気がするが…」と、頭の中で文章は続き、記憶の引き出しを順に開けていく作業を進める。脳のニューラルネットがAttention機能を発揮し、引き出しに入っている概念やら、名称の単語やらと、自分が見ている人の容姿の特徴との近似性を計算する。引き出しにあったデータと見えている人の特徴が、Attentionによってニューラルネット計算され(2つのベクトルの内積が求められ)、近似度として高い数値が出れば、「ああ、〜さんだ」ということになり、認知の一件が落着するのである。
自発的な言葉の発生は、それほど難しいものではない。心臓の動きを制御している心電図的な電気信号は、刺激電動系と呼ばれる特化した心筋細胞が、自発的に発生させるインパルスである。心筋細胞の細胞膜上にある、イオンチャネルの膜電位依存性の特性から、自発性が生じることは、詳細に解析されて、よく分かっている。ニューロンも、イオン環境を変えたり、ちょっとした薬物(たとえばペンチレンテトラゾリウム)を作用させると、自発的なインパルス発生を示し、連続するインパルス列を作ったりする。脳内にこうしたニューロンの活動があると、てんかんという病気の原因になったりもする。延髄には、周期的にインパルス列を発生するニューロン群が在り、横隔神経を介して、横隔膜筋に指令を送り、呼吸を反復的に制御している。その活動の停止や変調は、死活問題である。自発的に言葉を発生するには、ほんのちょっとしたきっかけとなる、ニューロンの自発的な活動があれば、十分なのである。それが、どこかのニューロナルネットへの入力信号となれば、あとは自動的に進んでいくことができる。”注意”(Attention) を担うニューロンが、次に開けるべき順番にある記憶箱(NN) を叩いて、そこから出てくる言葉を別のNNに送り込み、どんどん言葉を紡いでいくことができる。
意識を作る最も重要な要素は、頭の中で自発的に生じる言葉である。言葉が出ない状態でも、多少の意識がある、と感じられることはあるが、それは、視覚や聴覚といった、外界からの感覚的な入力信号そのものであるか、記憶や本能といった、内的な直接駆動信号である。それらが全て停止していれば、客観的にも、主観的にも、意識はほゞ無いと感じられる。この下の意識レベルとなれば、痛み刺激を与えて、何らかの反応が有るか無いかが、判定の基準であり、その反応が有るとしても、本人は無意識でしかなく、その意識レベルは、ダンゴムシのそれとあまり変わらないものである。さらにその下の意識レベルになって、一切の脳波が出なくなれば、神経細胞の働きは無いと見なされ、いわゆる植物人間となって、完全な無意識の世界になる。
電池とモーターとギアなどを組み合わせた機械であるロボットが、心や意識を持つということは、多くの人にとって想像を絶するものである。しかし、昔は、計算を行う器械として、歯車式計算器というものがあったことを思い出したい。歯車による確実な回転は、簡単な計算を速く正確に行うのに適している。電子装置の発明で、ギアは半導体に置き換えられ、電子回路が同じことを、高速に行うようになった。人の脳にある神経細胞も、歯車ほどには正確でないものの、再現性の高い反応をするようにできている。電子装置ほどではないが、ほとんどそれと同じように計算を行い、必要な神経細胞のスイッチを入れることができる。誤りは、時々しか起こらない。その動作は、かっての歯車の動作と本質的には同じなのだ。私には、意識の主観的な体験というものが、機械の様に働いている脳であるからこそ、現実のものとして現れている、としか思えないのである。
第2章において議論した、なぜ機械には意識がないのか、をもう一度簡単に取り上げよう。自発的な言語の発生と共に、特定のNNの中に作られている世界のコピーが、少しだけ、動き出すことが重要である。「家に帰れば、家族が喜ぶはずだ。」という言葉が浮かんだとき、頭の中のNNでは、自分が家の戸を開け、子供が奥から飛び出てくる様子が、映し出されるのである。これは、自分が持っている家族(世界)の、想像上の動きであり、何分か後に起こるであろうことの予想である。このように反応しているときに、意識があり、こころが働いているのだ。それは、NNの学習によって、NN上に作られた記憶が基になり、さらに、NN上の計算によって、実現している。これらの働きは、解剖学的に決まった特定の脳の領域で行われるのではなく、一様な構造の皮質領域に後天的に形成されるNN群によって、共同的に行われている。人であれば皆、このような機能が一定の部位に局在している、というわけではなく、どこにでもそのためのNNが形成され得るものなのだ(脳生理学の指導原理Ⅱが導くところ)。
NNは、脳の中で、言葉を作り出せる。夢のような画像も作り出せる。おそらく、痛みの感覚なども作り出せるのであろう(失った腕が耐えられないほど痛む病気がある)。その上にさらに、我々が、自分の意識に残る淀みを感じるのは、言葉に表せない奇妙な感覚である。これが主観的な「意識がある」という感覚そのものである。意識の本体というより、全体を覆っているベールのようなものか。あるいは、より活動的な構成要素に比べて、あまりはっきりしない背景のようなものだ。自発的な言葉の発生や視覚や聴覚といった外界からの感覚入力に比べると、ずっと把握しにくい、それゆえに特別な名前がついていないもの。それでも、瞑想しているときや、麻酔から覚めた直後などには、それしかないように感じられる自我意識。それが単なる思い込みでないとすれば、その実体はNNが作り出す名前の無いベクトルのひとつなのだ。
意識のベクトル空間
言語がベクトルとしてトランスフォーマーで処理されるのであれば、意識もベクトルとして同様に扱うことができるに違いない。大脳皮質の(広大かもしれないが)一部が、意識を担うはずである。ある時点のニューロンのONが、ベクトル空間の1点を指定する。それが、マトリックス処理されて、別のベクトルとなる。おそらく、その一段階の操作時間は100 ms 程度。そのステップが継続的に進んでいくことで、意識の連続体が生じる。
言語処理系では、局所表現ベクトルが分散表現ベクトルに変換されたとき、理解や認知が現れた。同様に、意識の局所表現(どんなものになるのか)が、分散表現に変換されたりするのだろう。初段に入力されるベクトルには、外来刺激ベクトル、世界モデルからの情報ベクトル、個性(記憶)ベクトル、体内情報ベクトル、意志ベクトルなどが一列に並んでいるはずだ。これらが並列に並んだ形がトランスフォーマーへの入力ベクトルとなるのである。
意識ベクトルの成分として、自己意識ベクトルが基本のものとなる。それに加えて、懸案事項記憶、注意方向、次の段階への目的的移行、個人的性癖の記憶(プログラム)などが並ぶはずである。そこへ、電話のベルの音、テレビの音、蚊が飛んでくる、トイレに行きたい衝動が起るなどが、飛び入りする。その総合的なベクトルを変換して、次の瞬間の、必要行動のベクトルが作られるはずである。こうして準備された意識ベクトルには、どのようなマトリックス演算が施されるのだろうか。
脚を動かすか、声を上げるか、座って次になすべき事項の順番リストをメモするとか。そうしたベクトル演算の過程が、要約されて、記憶に送り込まれて、後の照合に備えられる。こうした意識の主観的な変化を内側から見ることができるのは、記憶できるからでもある。記憶の時系列は順次要約され圧縮されながら、いつでも意識の必要に応える形で、その内容を意識に送り込むことができる。記憶の内容も整理され、現在の脳内に構築してある世界全体像のうち、必要な部分について修正が施され、その後の使用に供される。喪中のはがきが来れば、世界像全体の中で、生きていた人が占めていた場所が死んだ人で置き換えられるのである。
天動説と地動説のように
客観的意識と主観的意識は相容れない相反性を持つ。これが、Hard Problem として意識の理解を妨げている。かつて、天動説と地動説が相反的な理論として対比されていたように、今、客観的意識と主観的意識のどちらが本当のものなのかが懸案となっている。一体、主観的意識は存在するのだろうか?
この世界は幻影であり、脳内に作り出された幻だという主張がある。世界は、実質的にそこに在る(ように感じられる)が、実は脳が作り上げたもの。つまり、地上に住んでいると、太陽が空を動くことが真実に見えるが、実は、地球が太陽に向ける面を変えながら自転している。つまり、見かけがいかに真実に見えても、それはそのように見えるだけであって、客観的真実ではないのである。世界が周りに在るように見えても、実は、見えているだけであって、客観的真実ではないのかもしれない。内側から見える意識は、実在するように思えるが、それは、そう見えているだけなのか。あるいは、客観的なものに思える外界(世界)というものが、実は、そう見えるだけのものなのか?どのように地動説が確立したかを再考察し、意識の実在をどのように解釈するべきなのか、を導き出さなければならない。
メニエール病のような病気では、前庭器官やそれに繋がる神経の異常で、周囲の空間が回転する クオリア が生じる。床や天井が自分に覆いかぶさってくるような強烈な視覚的感覚が生じる。現実ではないと頭では分かっていても、クオリアのリアリティーは著しい。これまでに経験したことが使われているのか、経験せずとも身体の構造形成の過程で内在したものが使われているのか、不明である。
実際に自分の身体が回転していれば、その運動に加えて身体を無理に動かそうとすると、回転モーメントに垂直の方向に慣性力が生じるのが物理学である。幻の回転感覚が起こるときには、この慣性力の発生を考慮しているのか、どうか。学生時代に回転試験台に乗せられた時の感覚と比較して見ると、少し違う事情が見えてくる。回転台では、初め(機械の加速中)は、自分の方が回転している感覚があるが、そのうち一定の回転速度に達すると、自分は完全に静かに止まっていて、周囲の方が高速に回転移動しているという感覚になった。目で見る外界の様子と、半規管による感覚信号の組み合わせで、このような変化が現れるはずである。まるで、天動説の正しさが実感できる体験であった。自分が回転しているのか、周囲が回転しているのか、自分の身体に備わっている感覚器だけでは、どちらなのかまったく分からなくなるのが面白い。これを判別するには、座っている椅子から立ち上がり、回転する台の基盤となっている円盤の上に降りて、物理実験をしなければならない。円盤の端に行くと、遠心力が強くなってくることが明らかならば、自分が回転している。端に行かずとも、小さなボールを円盤の上で転がしてみて、それが転がる軌跡を調べ、曲線となっているならば、自分が回転しているのである。このことは、回転する物体の上では、コリオリの力が働く、という物理法則から分かることである。回転の中心に身体をおいて感覚器に頼っているだけでは、天動説と地動説のどちらが正しいのか結論できないのである。
感覚器が作り出す、疑似現実のもうひとつの例として、両耳の後ろの頭部皮膚に電極を着けて、微弱な直流電流を流す実験がある。この外部からの不自然な刺激により、平衡嚢にある有毛細胞の毛が傾き、重力の方向感覚が異常をきたし、頭部や身体が自然に傾く反応が起きる。この刺激装置を着けて、広場に描いた直線の上を歩こうとしても、必ず、直線からはずれた方向へ曲げられてしまう。地面が全体的に傾いているのと等価の効果が表れるのである。この傾き感覚のクオリアは、成長の過程で、運動したり、頭を傾けたりして、習得することができたはずである。しかし、赤の感覚のクオリアは、後天的に習得できるものなのか? 味のクオリアは?
各種の脳神経の接続を手術的に入れ換えれば(適切な接続ができたとして)、いつもの感覚とは異なる別のクオリアが発生するはずである。たとえば、視覚の色感覚と頭部回転の動態感覚とをそれぞれの神経の接続を付け替えるのである。すると、頭を右に傾けば、赤を感じ、左に傾けば、青を感じるというようになる。この状態は、初めは戸惑うが、次第に慣れて適応することができそうである。そういう意味では、クオリアは絶対的なものではなさそうに思われる。
加速回転のクオリアは、半規管の有毛細胞の曲げによって生じるもので、極めて物理学的に明瞭な反応である。赤のクオリアも、波長は完全に赤には対応していないが、原理的には、黄色と緑色の波長に対応する色素が吸収する色の波長から決まるもので、その構造が遺伝子で決められたオプシンの構造に由来するものであり、レチノールという分子の付加で修飾されるものである以上、物理学的に定まった性質なので、人によって異なる色として受け取られることはない。
なぜ脳科学者の多くがクオリアを謎と捉えるのか、その気持ちは、私にも分からなくはないが、謎ではないと切り捨てる方が、すっきりするのではないかと思う。脳の視覚領の一部と眼の網膜に持って生まれた対応が付けられており、一定の波長の光が眼に入ると、その脳領域が興奮するというトレーニングを繰り返しただけである。色素の吸収波長が、学習の絶対教師である。視物質が決まった分子であれば、光の波長は決まったものであり、人によって赤が赤でないということは起こらない。そのクオリアは、脳だけで起こったのではなく、網膜の視物質との組み合わせで起こったのであり、視物質が共通であれば、共通のクオリアを生じる感覚となるのが自然であろう。
脳機能の拡張としての学問、文明、宇宙
脳の神経組織のニューラルネット(NN)を考えると、脳が新しい考え方をしたり発明をしたりすることは、難しいことではないのが分かる。難しくないどころか、正に、それに適していると言える。大脳皮質のどこかの領域でたまたま出力された何らかの言葉のベクトルが、通常は繋がっていない領域の入力ベクトルとして加わるだけで、その領域の出力には、新しい概念を表すベクトルが現れる可能性が高い。少し変わった考えが浮かぶことになるのだ。こうしたことが、いくつものNNに拡散していけば、相乗的に新しい概念が生まれる確率が高まっていく。わずかに形の違うアイデアの掛け合わせが起こり、目立って異質のアイデアが生まれる。このような変異の増幅は、生物の種の多様性や個体の多様性を目指した遺伝子変異の増幅拡散とも共通しており、生物界に頻繁に見られる特徴的な性質である。
脳皮質にあるNNは5,6層に重なったニューロンの集積である。その階層構造のどこかで、シナプスの接続が変化したり、自発的なインパルスが偶然出たりするだけでも、新しいアイデアが生じ、それが次の(または隣の)NNに入力される。このようなことが繰り返される。隣の領域のNNに入力されたり、少し離れたところにあっても、特別な機能を実行するNNに接続する場合もあるであろう。さらに、一個人の脳内に限らず、別人の脳内にあるNNに送られて、その入力信号となってもよいのである。このNNの階層性には、限りが無く、いくらでも積み重ねることができる。結局は、そのことが、人類の数学や科学の発展の歴史を、長い物語として継承させることを促進し、保証し、限りなく連続した複雑性を創り出している。師と弟子、そのグループ、同時代の研究者達、それらの総合的な脳の力が、科学を、そして文明を限りなく進める、という構図が見えてくるように思われる。要は、並列計算器であるトランスフォーマーが、いくつも並列に横並びし、さらに、そんなものが何段にも直列に積重なることができるのだ。それが数千世代に亘る人類の歴史ということになる。
私は、無限の数の星々を湛えた宇宙の流転と進化の目的は、ヒトの文明のような、究極の多様性をこの世に実現することなのではないか、と考えている。それが宇宙と生命の進化の究極の目的なのではなかろうか。人間の元となる原子はすべて星の中で作られて宇宙にばら蒔かれた。星の内部はあまりに高温で、物質が莫大なエネルギーに変換され続けている。エントロピーは極限まで潰されている。その中での複雑さと多様性は望むべくもない。宇宙はその全体のエントロピーが次第に増加することを代償に、局所的にエントロピーが減少する空間を確保して、原子同士が安定して結合できる地球と生命を作り上げたといえる。結局、この世のすべては、宇宙が熱的な死に向かって流れていく間に見せる、渦や瀧のような絡繰(からくり)なのだ。宇宙が、無限拡散するだけでは起こりえない現象を、適切な大きさに仕切られた舞台の上でだけ実現した、特別な分子の運動が人の意識である。意識とは、放置しておけば、エントロピー増大の法則に従って、静寂と虚無に突き進む宇宙が、その身を呈して実現した、奥深い仕組みなのだ。
機械や電子装置は、その見かけの故に、できることが限られているように感じられる。しかし、生命を宿した細胞や一寸の虫などは、殆ど機械といってよい作りとなっている。単に複雑なだけで、少し特殊な精密機械といえる。複雑さの中から生命が生まれ、生命の中からさらに複雑な意識が生まれるのである。
ここで、よくSFなどに出てくる面白い考え方について触れておきたい。それは、人が持っている意識のようなものが、人よりもっと大きな自然の構造体に発生するというアイデアである。ある惑星の表面全体を覆っているプラズマの海のような大きな存在が、意識を持つという設定のお話があった(ソラリスの陽のもとに:スタニスラフ・レム、1961)。また、地球に発生した人類の脳に特有の意識のようなものが、とてつもなく大きな宇宙の意識に連なることがあるのではないか、という空想もある。私も、若い頃は、希望的な考えとして、そんな空想を抱いていた。その大きさや永遠性が、神というものにも通ずるような規模となり、地上の生命体が繫栄の後に到達するような、理想的な姿を想像させるものである。このような考えには色々なものがあり、一括して論ずるのは無理であるが、共通しているのは、意識のような働きが、宇宙規模の広さに拡がっているというところであろう。一例としては、太陽を中心とする8つの惑星の組が、その相対的な位置を変えながら、仲の良い家族のように存在し続けるのを、有機的な生命体と捉え、その全体に意識のようなものが生まれる、という考えである。惑星をNNの担い手とすと、ニューロン(ノード)の数が少な過ぎるであろう。せいぜい簡単なパーセプトロン1基を形成するだけになってしまう。太陽系の規模より大きな局部恒星系集団を考えてはどうだろうか。星の数は圧倒的に増えるし、星間物質の量も膨大なものになる。それらの位置の相対的な変化は、かなり複雑なものになるので、生命、あるいは、意識に似たものが、醸成されるのではないか、という想像は魅力のあるものになる。
そうした実際の宇宙の構造に根ざした生命体、特に、意識のようなものを想像するのは、実は、とても困難である。考える根拠は、これまで述べてきたニューラルネット(NN)にある。何が信号を媒介しようとも、活動的なNNが構成され、信号が入力したり、出力したりするようなものを考えなければならない。宇宙という規模では、その信号の伝達に大きな問題が付きまとう。星や銀河の間の距離があまりに遠いため、情報のやり取りに時間がかかり過ぎるのである。平均的には、1回の信号伝達に10年は掛かる。近隣の恒星同士がNNを組んだとして、一つの概念が出来たり、理解が生じたりするには、数十年はかかる。そうした単位を数万個は集めて、やっとひとつの言語系ができるのだ。それを使って、NN間のコミュニケーションを取らねばならないとすると、宇宙の寿命が長いといっても、一つの銀河系の中だけで完結させることができるとは思われない。星の明るさ自体を信号にしてさえ、それが隣の星の明るさを変えて・・・ という配線は、星の明るさが変化するのに必要な時間を考えると、絶望的なものとなる。惑星に存在するかもしれない何者かが、より短い時間の間に信号を作り、それを他の星の惑星に送ったとしても、それが受信され、その信号がNNの形成に与るとしても、極めて希薄な生命体しか想像できない。人が作る機械や電子装置に意識が宿る方がはるかに現実的で、実現するまでの時間は、宇宙時間に比べれば、とても短いものであろう。やはり、脳の中の神経組織、ないしは、地球規模に抑えたインターネットのような、情報密度の高いところで、信号の伝達が行われなければならない。
ブラックホールのように、狭い空間に異常な量の物質が詰め込まれて、極限的な密度に達しているところでは、どうだろうか。そのように質量が超過密に集積した所では、時間の流れが著しく遅くなるのが問題である。スチーブン・ホーキングは、ブラックホールの中では、情報が自然に蒸発し失われてしまう、と主張した。ブラックホールの中にNNを想定するのは無理のようである。やはり、地球のように、重力が小さくて、適温にあり、安定したところが生命を繁栄させるのに適している。そこが意識を育むのに最適な条件を確保しているのであろう。
最近注目されている、量子間の縺れ(もつれ)が、信号を担うというアイデアはどうであろうか。これは、一見、信号の伝達が光より速いかのような印象を与える現象であるが、必ず、ペアか双子のように生まれることによって縺れ合う、光や電子のような量子間でしか見られない信号伝達である。双子で生まれた二つの電子には、その回転に相当する量子状態が左と右のように反対状態が割り当てられる。両者が同時に生まれてから、片方を10万年かけて銀河系の他の星の惑星に運び、もう片方は地上に残しておく。必要になったとき、地上の電子の様子を観察してその回転が右なのか左なのかを判定する。もし、右であれば、彼の遠方にある双子の兄弟の回転は左になるというのである。これを以て情報が時間差なしに伝わると称するのだ。量子の性質をよく理解していない人は、この情報伝達が理解できず、当たり前に感じる。しかし、量子の世界の常識に慣れていると、これは驚くべきことなのだ。地上の電子の回転方向は、電子としては、もともと決まっておらず、右にも左にもなりうるのである。状態を調べるという行為が、状態の決まっていないものに影響を与え、それによってどちらかに固まってしまうのである。地上では、回転が右になるか左になるかは、50%の確率なのである。ところが遠くの惑星に運ばれた電子については、こちらが決まってしまうと、必ず1の確率で向こうも決まってしまうのである。遠くの惑星上の電子の回転は、地上の電子の回転が明らかになってから、決まるというのである。これが、「縺れ」の正体である。この世で最も高速な信号である電磁波とはまったく異なる何かが、双子の電子の間を繋いでいるのである。このような理解を絶する絆を使ってNNが構成できるであろうか。この奇妙な絆が意識を作り出す可能性は、私には想像できない。
むかし、幼稚なAIしか無かった頃、高速なノイマン型コンピュータが大きな巾を効かせていた。πの正確な値の計算などを、小数点以下何万桁も行って、その性能を誇示していた。しかし、そんなコンピュータでも、人の顔を判別するとなると、急に、尻込みしたものである。とても時間がかかって実用的ではないのである。脳という小さな塊がそれをやれば、1秒も掛からないのである。脳にある神経細胞は、その反応性を、トランジスタのような電気的な素子と比べると、著しく劣るのである。神経細胞では、インパルスの発生頻度は最大300 Hz (3 x 102)である。トランジスターを使えば、簡単に 10 Giga Hz (1 x 1010) を達成できる。伝導速度でくらべると、神経では最大 120 m/s (ヒト) なのに対し、電気回路では、300,000 Km/s である。神経線維の伝導速度の単位を換えると、約 0.1 km/s なのである。そんなに反応が遅いのに、我々は、遅いことの自覚も悩みも無い。それは、人の顔を判別する速度が、コンピューターではなく人の脳に軍配が上がるからである。速さの秘密は、脳がNNを使っているところにある。これと同じことが、仮想的な宇宙サイズのNNには通用しないのだろうか。光や電波より遥かに遅い伝達手段を使って、宇宙規模のNNは作れないのだろうか、という問いの答えは、あと 100年くらいは、分からないであろう。私の今の考えは、極めて否定的であるが、どの瓢箪から駒が跳び出さないとも限らない。宇宙の大きさと未来の遠さは、人知をはるかに超えているのだから。
こころの病
最後に、精神的な疾患について、考えられることに触れておこう。往々にして、異常と思われる意識状態を呈する疾患として、統合失調症がある。この病気では、多くの場合、他人には常識的に理解できない確信や思い込みに煩わされるようになり、通常の社会的な生活が困難になる。他人には感じられない声や電波が頭の中で聞こえ、奇妙な命令をしてくるなどの、全く根拠のない確信によって、社会的な問題を起こしてしまう。理由の無い妄想に苛まれ、1人で苦しむことになるなど、難しい状況から抜け出せない。100人に1人くらいの割合で見られると言われた。最近は、色々なよい薬もできて、症状を抑えることができるようになっているようだが、原因叩くような根治治療は難しい。極めて、短絡的になりそうであるが、大元の原因は、社会環境・人間関係の事実に基づかない幻視や幻聴、修正できない誤った思い込みが起こることである。可能性として考えてみると、脳の皮質で働いている一部のNNが独自の自発的な生成を繰り返し、他のNNからの情報から切り離されているのではなかろうか。特定のNNだけが、活発に、外界と切り離された生成を行い過ぎる状態にある、と解釈されるであろう。やはり、過度な自発性を抑えることが、有効な治療となる。一部の興奮性薬物の作用でも、類似の結果が現れることから、こうした解釈が当たっているのではなかろうか。
双極性障害は、精神活動全体を駆動する力が、大きく脈動的に上下することが特徴のように見える。ときには、生きようとする本能的な力の部分までが弱くなることがあるようだ。逆に、活動性が全体的に高まり、興奮がみなぎっているようになることもある。精神的な機能の広い部分で、共通した様子が見られるようだ。一部のNNだけの問題というより、NNの結合係数が総じて高まるような、グリア細胞系の代謝的な変動が、NNに影響している可能性が高い。
認知症という疾患はどうであろうか。こちらは、精神科ではなく、神経内科が扱う疾患である、こころではなく神経の病だという少し違う看板が掛っている。レヴィ小体型認知症では、患者は、しばしば、他人には見えない物を見てしまうという。特に、知っている相手かどうかに関わらず、人の姿を見ることが多い。たとえば、自分が見ている部屋や景色の中に、誰かが椅子に座っているように見えるといったように。椅子などの現実の物にピッタリはまり込んで、居るはずのない人の姿が見えるのであるから、昔であれば、幽霊を見たというところであるが、本人には、それが特におかしい事とは思われず、怖しさは感じないようだ。記憶の中の人か、全く知らない人か、いずれにしても、意識の中で作り出したものが、現実の中に、同じ現実感を持って、挿入されているようである。目覚めた意識の下で、夢を見ているといった状態に近いのであろう。こうしたことは、意識を構成する要素として、視覚的な情報の中に、頭の中で作られた視覚に等価な画が、はめ込まれるようなことが簡単に起こることを示している。
アルツハイマー型認知症は、患者が近くに居るので、よく理解できるのであるが、完全に記憶の障害から生じている。記憶は、NNによって保持されていることはすでに繰り返しているが、患者の野の皮質はこのNN構造を大きく損なっており、記憶力の低下が主な症状の直接的な原因である。年月日や曜日が分からない、買うべきものが分からない、予約、予定はカレンダーメモを見なければ必ず忘れるなど、現れる障害はすべて記憶できないことから生じている。冷蔵庫の中の物を探そうとしても長い時間がかかる。実は、目の前に探すものがあっても見つけられないのだ。自分がどんな形状の物を捜しているのか、その形が思い出せないのである。店の名前を言っても、その場所が分からない。店の特徴が思い出せないため、頭の中の地図にその場所を特定できない。買い物のレジで、財布からポイント・カードを出して店員に渡したのに、5秒後には、また財布の中にカードを探し始め、「家においてきたかしら?」、と言っている。状況が認知できない状態である。財布からカードを出して店員に渡したという一連の事実が、NNには全く捉えられていないようである。私は、電話番号は覚えられるかと思い、7桁番号を言うと、それを復唱することはできる。内容によって憶えていられる時間は違うようだ。意味が無くても、音の連なりとしての言葉のようなものになっていれば、NNの言語処理能力が音の系列として記憶するのであろう。
よく分かることは、認知力の低下は、記憶力の低下がその直接的原因であるということだ。認知というのは、NNによって分散ベクトルが作られることである。記憶の障害とは、このNN内の結合係数が有効に働かず、結合が形成されない状態を意味している。その意味で、認知や判断は、記憶に直結した能力であることは間違いない。ただ、NNの配線変更は、それほど速いものではないので、数秒前のことを憶えられないという問題は、必ずしも、NNの動作障害に由来するとは限らない。他の機構も考えなければならないところであろう。
ちなみに、記憶には、短期記憶、長期記憶、手続き記憶、運動記憶など、色々ある。長期記憶は、おばあさん細胞のように、多数の入力神経細胞と中間細胞、それに出力細胞のセットによって固定的に記憶されていて、出力細胞の一つ、または、そのグループが記憶を代表している。これに対して、短期記憶は、長期記憶細胞の一時的な系列が一瞬にしてでき上り、数秒から数分間、維持されるものである。このような速い記憶の起ち上がりと解消は、NNのモデルで可能かどうかを少し考えたい。
NN配線のどこかの結合係数を1秒程度の短時間で確実に換えられればよいが、シナプスの構造には、それほど確実に速く換えられる機構は今のところ見当たらない。通常は、持続的な訓練の後に、結合係数は変わるのだ(LTPやLTD)。何と言っても、速い動作が期待できるのは、神経細胞の電気的な反応そのものである。NNの結合係数を換えるほどの時間が無いとすると、NNへの入力信号を換えるのはどうであろうか。神経結合はあるのに、通常はインパルスを生じない神経細胞があって、それにスイッチOnの信号がやって来ると、初めてインパルスが中間層に送られる。数字や五十音を記憶しているNNの出力側には、それらの分散表現ベクトルが用意されている。入力側には、局所表現ベクトルの信号が入るが、それと並列に制御性神経細胞からの信号も入力している。このような通常は活動しない(サイレントな)神経細胞が、NNを制御するために控えている(いわゆるバイアス系の入力を考えてもよい)。緊急に記憶しなければならないときには、こうしたサイレント・ニューロンが、いくつかのNNに対して順に活性化を指示し、音の順列を作るようなことができるのではないか。このようなNNごとに備わっている制御性神経細胞を活性化するには、時間細胞のような、順列を生成する別のNNが関与しなければならないが、それは難しくないように思われる。逆の反応になるが、入眠の過程も、制御性の神経(またはバイアス)を介して、多くのNNがインパルスを止めるのではないだろうか。視床下部や辺縁系からの信号(オレキシンなど)が皮質領域の覚醒を制御しているのは、サイレント・ニューロンの仕組みと類似の機構であろう。
記憶力が著しく減退している患者の意識はどうなっているのであろうか。第3章のエピソード1では、その場的な記憶と、過去に経験した事象の記憶との、両方が共に妨げられたという症例(記銘力低下と逆行性健忘)を記載した。この場合には、他人からは、意識というものがあるように見えるのに、本人の主観としては、意識なるものが無いかのように思われる、という状況であった。私の考えでは、記憶力の低下に伴い、意識のレベルは低下するのではないか、ということになる。しかし、近くの認知症の患者は、それほど意識が無い人間には見えない。残された記憶の量に比べて、まだまだ、失われた記憶の方が少ないのかもしれない。その辺りの定量的な関係は、これからの付き合いを続けてみないと、まだよく分からない。
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自己紹介・略歴・研究歴・謝辞
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私の出生地は、山形県新庄市である。親が東京空襲を逃れて疎開していた。記憶が始まったのは3歳のとき。麻布十番の入口にあったパチンコ屋の前で、雨の水たまりに転んだのが始まりである。意識について興味を持ち始めたのは、学芸大学付属世田谷中学校のときからである。人生に疑問を持ち、厭世観に取り付かれ、生きる意味を見出せず、よく自殺することを考えていた。都立日比谷高校の3年生くらいで、将来の仕事を考えなければならなくなり、外交官か、天文学者か、脳科学者になりたいと思った。どのような道へ進めばよいのかは、全く分からなかった。早稲田大と東大と東京医科歯科大を受験した結果、決まったのが、3番目の神経と脳について学ぶコースだった。
大学に入学すると、数学と物理学に魅力を感じ、その方面の勉強ばかりを熱心にやり、医学は試験のための勉強しかしなかった。卒業後、研修医にはならず(運よく、制度改革があった)、すぐ、医科歯科大の渡辺昭教授の生理学講座に入り、神経の研究に熱中した。当時、渡辺先生は、日本で唯一、光学的な神経研究を進めており、私には、その方法がベストに思われた。主に、神経線維の興奮に伴う複屈折性変化の性質を調べた。インパルスの発生は all-or-none であるのに、光学的信号はその性質を示さず、細胞膜近傍の分子レベルの構造変化が捉えられていた。その後、米国NIHの Ichiji Tasaki 先生の下で、イカの巨大軸索を使った研究をした。細胞膜は、一つの塩(CoCl2 など)のみを含む水溶液に浸されていれば、インパルス発生が可能であることを発見した。微量のタンパクを含む脂質二重膜とカチオンが一種類あれば、神経は電気信号を作り出せることが証明できた。これ以上は無いという単純な条件である。神経は、物理・化学の法則に極めて従順なもので、精神という高尚な機能も、その物理化学的法則の上に、成り立つものだという確信を得た。
アメリカ留学後には、渡辺教授が岡崎国立研究機構の生理学研究所の専任教授になられており、私はその下で助教授として働く機会を与えられた。主に、光学的な神経研究を目指した。電気生理学的研究が学会の主流だった中で、光学的研究は新しい技術として広まっていった。神経細胞の光散乱強度変化を調べていたが、部位によりその大きさが著しく違うことを見出した。特に、エビのサイナス腺が、通常の神経線維に比べて、100倍も大きな散乱変化を示すのには驚いた(長野みさ子氏との共同研究)。その理由を調べるために、光学顕微鏡観察をしたが、はっきりした形態変化は見られなかった。そんな中、微分干渉法顕微鏡を使い、分泌細胞を調べると、沢山の顆粒がきれいに見えて、細胞を刺激すると、個々の顆粒が弾けるように開口放出反応をするのが捉えられた(盃細胞で鈴木裕一氏と共同、副腎髄質細胞で熊倉鴻之助氏と共同)。それまで、神経細胞からの光学的な変化は、すべて小さなものであったが、分泌細胞では、光学変化の原因が、画像として直接見えたことは、大きな驚きであり、感激的であった。さらに鮮明な画像を求めて、顕微鏡対物レンズの分解能を上げることを試みた。高屈折率ガラスを使うというアイデアが浮かび、オリンパス社と共同で、開口数が1.40を超える対物レンズ (NA=1.65) を開発した。これは、史上最も明るいレンズであり、最も分解能の高いレンズである。物理の教科書には、NA=1.33より高い分解能を持つレンズは作れないと書いてあるのを、完全に打ち破ることができたのは、自分でも驚きである。このレンズでは、水中の標本に対して、0.1 μm を切る分解能が得られる。さらに、いわゆる全反射照明法にも応用できる。この方法で、一分子の蛍光像がとても明るくなり(5倍)、極めて観察が容易になった。分泌顆粒からの放出物を蛍光化することにより、開口放出反応がはっきり観察できるようになり、このレンズを使った研究は世界的なものとなった。
技術が新しくなるとともに、その応用分野が広がり、研究の範囲が大きくなった。そんな頃、浜松医科大学の教授に採用され、光量子医学研究センターで、生きた細胞の生理的な活動を可視化する研究を進めた(細胞イメージング)。顕微鏡と画像処理法の進歩で、体内の色々な細胞の活動が、直視するが如くに見えるようになった。体中の細胞が、小さなコンピュータのように働いているのが分かった。細胞への信号の入力、細胞内での代謝や情報処理、そして、細胞からの信号の出力の過程が、手に取るように分かるのは大きい。ほとんど全ての細胞が。ウルトラ・マイクロ・コンピュータとして生きた活動をしているのだ。複雑な配線は、水という柔らかい基盤の上に、交差しながら、立体的に張られている。分子間の選択的な結合が、離れたところに対して、設計通りの配線をしているのだ。DNAのプログラムに従って、細胞内の酵素類が複雑に絡み合い、CPUの機能を果たしている。
脳の中の神経の活動を見えるようにするのが夢であったが、それは実現できなかった。後に、光遺伝学的な手法が登場し、それを利用した村山正宣氏を初めとする若い研究者らによって、私のやりたかったことがほぼ実現した。多数の神経細胞の興奮を一つの画面内に光学的に捉えることができるようになったのだ。生きているうちに、その画像を見られたことは、満足に値する。残念ながら、その技術を以てしても、私の知りたいと思っていたことは、未解決に残されている。生きた脳の中で、実際にNNが動作している様子を見たいものである。
浜松医大での定年後、常葉大学の教授となり、看護学科や理学療法学科科の学生に、基礎医学を教えるようになった。その結果、実にたくさんの興味深い科目を学ぶことになった。教える立場にありながら、一番勉強したのは私であったと思う。動物、植物、生態、遺伝、進化、ウィルス、微生物、免疫、脳、MRI、黄金比、フィボナッチ数列、フラクタル、マンデルブロ集合、カオスなど、それまで、あまり目を向けてこなかった分野の科学的進歩は、どれも、実に魅力的なものだった。それらの一部は授業にも取り入れ、学生の目を釘付けにできたと思う。学生に見せた沢山のスライドや動画は、膨大な資料となって残っている。
私は、そんな勉強で学び、自分で発案した脳機能の面白さを、研究者仲間にも見せたくなった。定年後になって親交が増した、浜松医科大学・名誉教授の筒井祥博氏に、そうした資料を、何度かに分けて、ご進講するようになった。氏の専門は、病理学、それもサイトメガロウイルスの病理であるのに、チャールズ・ダーウィンの「種の起原」を英語版で読んだり、クリストフ・コッホの「意識をめぐる冒険」などの推奨文を書いたりしていて、話相手にこれ以上は望めない知識人である。氏には、授業で使った脳の高次機能に関する資料を示し、私の新しい考えも説明して、その場で意見や感想を聞かせてもらうことができた。それを参考に、プレゼンした資料を文章にまとめ、本説文の第1章と第2章が出来上がった。筒井氏には、地動説を了解するほどには、意識自動生成の話は呑み込みにくいようだ。率直な疑問と批判、そして助言を直接頂けたことは、私の思考を一層推し進めることに繋がった。深く感謝している。
単独で文章を書き進めるようになったのは、コロナ感染症が拡がり始めてからのことである。丁度、同じような時に、眼が悪くなり、大学勤務をすべて辞めた。もう、6、7年前くらいになる。その後、眼の手術入院などもあり、時間をもてあまして、意識に関するまとまったアイデアが膨らんできて、第3章になった。そして、突然のように、AIの隆盛が始まり、思考が大きく進んだ。AIの理解には、大学時代に学んだ線形代数学が大いに役立った。当時、脳機能の問題が極めて難問であるのは、それを扱う数学が無いためと考え、できることなら新しい数学を開拓したいとすら思っていた。そのために、線形代数、複素関数論、位相幾何学、記号論理学、数学基礎論、演算子法まで、手当たり次第に勉強した。特に線形代数は、ハイゼンベルクのマトリックス力学やアインシュタインの一般相対性理論を理解するのに役立った。しかし、同じようなマトリックスやテンソルを使う数学が、脳を理解するためにも使える中心的な手段だったとは! 今の今まで夢にも思わなかったのは、無知というべきか、迂闊というべきか、分からない。間に合ってよかった、あるいは、偶然の幸運だった、とも感じられる。AIの勉強をしてから、第4章と第5章の書き換えを繰り返し、今に至っている。
眼は緑内障で失明の一歩手前にある。執筆する能力はもはや燃え尽きそうだ。丁度80歳の誕生日に当たる今日まで来られたのは、妻の支えと、思わぬ幸運があったから、というべきであろう。あと10日もすると、瑞宝中授章という叙勲を受けることになるそうだ。すべての生命体に感謝、そして、愛する地球と全宇宙に感謝、である。
2026-5-10
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