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井筒俊彦の東洋哲学とは何か No.4 : 森下直貴
初代所長 森下直貴 作品群(2018 09〜2022 12) | 2020.12.04

©︎Y.Maezawa

井筒俊彦の「東洋哲学」とは何か

日本形而上学と21世紀リアリティ

老成学研究所 代表  森下直貴

©︎Y.Maezawa

第四回 21世紀の日本形而上学


井筒俊彦の東洋哲学の核心は、聞き慣れない言葉かもしれないが日本形而上学である。とすれば、井筒の東洋哲学は、日本の形而上学の中でいかなる位置を占めているのか。そしてまた、21世紀のリアリティの中でどのような意義をもちうるのか。これが最終回の考察の焦点である。

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形而上学がリアリティの根拠をめぐる知的な探求だとすると、ここでいう日本形而上学とは何か。日本語で書かれた形而上学だろうか。それとも、日本人によって書かれた形而上学だろうか。そのいずれでもない。日本列島の風土の中で培われた形而上学的な伝統を積極的に継承し、これを発展させた形而上学のことだ。

人は誰しも、特定の時代と社会の中に生まれ落ちて成長する以上、当該の文化(意味解釈の連関)を継承することになるが、これは当然である。それ以外のやり方で生きることも、考えることもできない。しかし通常、自分の生活と思考の背後にある文化を自覚することは困難だ。とりわけ、文化の根幹にあるリアリティの根拠をめぐる伝統に関してはなおさらだろう。

とはいえ、そうした自覚を可能にする機縁がないわけではない。それが外部の他者(の形而上学)との出会いである。日本史上、そのような自覚はこれまで三度あった。平安時代初期から鎌倉時代にかけて形成された日本仏教、徳川時代に広がった日本儒教と国学、そして幕末から明治にかけて模索された日本哲学である。そのいずれも核心には形而上学がある。

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日本哲学に話を絞ると、その展開は三段階になる。なぜ三段階かといえば、近代化そのものが三段階に区分され、それに応じて自覚の中身が変容するからである。

近代化とは、私の考えでは、社会集団に包括されていた諸機能が機能システムとして分立し、相互に連関し合う傾向のことである。そしてその傾向は、19世紀の〈伝統的近代〉から、20世紀の〈現代的近代〉をへて、21世紀の〈今日的近代〉へと続いている。なお、時代区分の詳細については別書に譲る(『〈昭和思想〉新論』)。

〈伝統的近代〉とは、西洋の伝統と近代化(例えば蒸気機関とガス灯)が衝突した西洋近代の時代である。この衝突の中から19世紀の西洋哲学が生まれた。

次の〈現代的近代〉とは、西洋近代を脱し純化された近代(自動車と電化)の時代だ。近代の自立と純化を受けて20世紀の世界哲学が生まれた。

そして〈今日的近代〉とは、自立した近代をさらに脱した超近代(グローバル化とデジタル化)の時代だ。私見ではこの超近代の課題に応える21世紀哲学は未だ登場していない。

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日本哲学の歩みは西洋化=近代化の背後にある形而上学との格闘の軌跡である。

まず、幕末から明治にかけて人々が出会ったのは、第一段階の西洋近代である。このとき支配的なパラダイムとなったのが「西洋(近代)対東洋(日本)」という枠組みである。ただし、「西洋近代」の捉え方の深度に応じて「東洋(日本)」の捉え方も変化したため、この時代は四期に分かれる。

(1)幕末期に唱えられたのが「西洋芸術対東洋道徳」(佐久間象山)である。そこで対立するのは異次元の物質と精神だ。

(2)明治初期には「西洋文明対文明」が打ち出された。ここでは文明化という共通の土俵の上で、西洋文明を超える文明がめざされた(福沢諭吉)。哲学者の西周の場合、それはコントの学問体系を超える学問体系の構築という志向となった。

(3)明治中期、「西洋哲学対東洋哲学」が合言葉になった。ここでは哲学=形而上学を共通の土台にしつつ、西洋哲学と並ぶ東洋哲学の確立が志向された。代表者の井上円了と井上哲次郎は東洋哲学の核心を「現象即実在論」として把握したが、その「実在」は伝統的な真如や理であった。

(4)明治後期から大正期にかけての時期、伝統的な実在を経験の根底に探究した形而上学が登場した。それが西田哲学である。ここに至って「東西文化の総合としての日本」という枠組みが明確になった。

次に、大正後期から昭和期にかけて人々が出会ったのは、第二段階の、西洋を脱した純粋近代である。このときの支配的なパラダイムは「近代対東洋(日本)」である。日本哲学の継承者たちは近代を超える原理を探究した。

和辻哲郎は、資本主義=個人主義=利己主義の近代に対抗して、間柄の関係主義と風土に基づく共同体を拠り所にした。

田辺元は、身体に根ざした共同体(種)を基盤にしつつ、これと特殊同士の利害対立とを否定的に媒介する普遍=国家を理想とした。

三木清は、古代の実体主義(手仕事)と近代の機能主義(機械技術)とを弁証法的に統一する社会技術に注目し、これによる社会変革に賭けた。

高山岩男は、ヨーロッパ中心主義=白人至上主義=合理主義=人間中心主義の近代に対抗するため、天人合一の境地と東アジア共同体に日本国家の活路を求めた。

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それでは、第一の問い、井筒の東洋哲学=日本形而上学は日本哲学の展開の中のどこに位置づけられるのか。

井筒が切り拓いた「東洋」は「精神的東洋」、すなわち意識の深層次元である。それは身体経験によって開示される世界だ。そして身体=自然リアリティは20世紀の世界哲学の基盤であった。和辻の風土、田辺の種の論理、三木の技術、高山の天人合一は、すべて身体=自然リアリティを支えとしている。そうであれば、井筒の東洋哲学の位置は、近代化の第二段階、つまり20世紀の現代的近代に対抗するパラダイムの内部に位置するといえる。

井筒の東洋哲学=日本形而上学は、身体=自然リアリティに基づいていた限り、20世紀の世界に対して一定の実践的な意義を有していた。それは、意識の深層次元から表層意識の世界を見つめ、既成の規範的・価値的なリアリティを流動化する。具体的には、欲望から発する対立や争いに対して寛容と平和を押し出し、死の恐怖や愛するものとの別離に対しては鎮魂と慰霊を用意し、自然環境に対しては共生を推進する。こうして幸福の意味の問い直し、心の安らぎをもたらす。それは20世紀後半を生きる人々の願いであった。

ところが21世紀、グローバル化とデジタル化によってリアリティが変容する。このとき哲学に求められるのは、何よりも、身体=自然リアリティとデジタルリアリティとを統合する新たな枠組みである。この枠組みの中でAIロボットと動物と人間との競合的な共生や、死後の魂とのコミュニケーションが捉え直されなければならない。

とすれば、第二の問い、井筒の東洋哲学=日本形而上学は、21世紀のリアリティの中でいかなる意義を有するのか。もはや役目を果たし終えたのだろうか。

私はそうは考えない。井筒の深層意識の次元をもう一歩徹底すれば、21世紀のリアリティにも十分対応できると思う。

井筒が切り拓いた深層意識は、意識=言葉の次元とは異なるコトバ=区別の次元である。この次元は、空海や道元の日本仏教から、仁斎や徂徠の日本儒学をへて、井上哲次郎や西田の日本哲学に至るまで、すべての日本思想を貫いている形而上学的伝統だ。井筒はそのような伝統を広く東洋哲学全体の中に位置づけ、構造化し論理化して見せた。これは井筒の功績である。とはいえ、そこからもう一歩突き進み、コトバ=区別の次元が虚空に浮かんでいるのではなく、もの同士のコミュニケーション中でやり取りされているという地点まで行かなかった。

コミュニケーション一般の観点から眺めると、生き物同士のコミュニケーション、物体同士のコミュニケーション、臓器同士のコミュニケーション(人体)、細胞同士のコミュニケーション、物質同士のコミュニケーションと並んで、意識もまたコミュニケーションとして見えてくる。意識=言葉の世界の土台はたんなる身体=自然のリアリティではない。もの同士がコトバをやり取りするコミュニケーションのリアリティなのだ。

「もの同士のコミュニケーション」という一般的な見地は、物理学の超弦理論でいうメンブレーン(膜)であれ、西田哲学のいうもの同士が働き合う場所であれ、それらを<もの同士のコミュニケーションのネットワーク>に読み換えることを可能にする。そして、コミュニケーションの内側からシステムが形成されると考えるとき、そこに文系理系の学問を包括するプラットフォームが浮上する。21世紀の哲学はそのコミュニケーションのシステム理論を展開する方向に見えてくると考えられる。


* 以上の井筒論は、構想中の『近代「日本形而上学」とは何か——西周・井上哲次郎・西田幾多郎・井筒俊彦』に収められる予定である。

(編集:前澤 祐貴子)


 
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