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井筒俊彦の東洋哲学とは何か No.2 : 森下直貴
活動の実績 | 2020.12.04

井筒俊彦の「東洋哲学」とは何か

日本形而上学と21世紀リアリティ

老成学研究所 代表 森下直貴

第二回 東洋哲学の世界

井筒は、東洋哲学を整理するために設定した共時的構造モデルに基づき、「普遍的本質」の実在を軸にして東洋哲学全体の分類を遂行する。本書では必ずしも明確でない部分もある。そのため私の考えで思い切って整理し直し、普遍的本質の実在を否定する立場(N)の三タイプと肯定する立場(P)の三タイプにまとめてみた。併せて、分かりやすさを考慮して私が作成した概念図を添える。

まず、普遍的本質を否定する立場(N)から始める。これは、表層意識の次元を突き破って無極という意識のゼロポイントに立ち還り、その視点から表層意識に捉えられた分節のリアリティを迷妄として否定する。この立場には、大乗仏教の第一タイプ(N1)、ヴェーダーンタ哲学(とくにシャンカラの不二一元論)やイブン・アラビーの存在一性論の第二タイプ(N2)がある。

両タイプは、表層意識を迷妄とみなし、普遍的本質を否定する点では一致するが、無極の捉え方が対照的だ。大乗仏教の場合、絶対無分節的無の見地から、現象界は縁起的であって自性を持たないとされる。対してシャンカラやイブン・アラビーでは、絶対無分節的有が経験世界のすべての個物に内在・具現しており、自体的な個物という姿は仮象・影・幻にすぎないとされる。つまり、絶対無の思考と絶対有の思考の違いである。両タイプ(思考)を図2、3に示す。

そのほか、禅と類似するタイプに、シャーマニズム(後述する肯定の立場の第二タイプ)を哲学的に突き詰めた荘子の哲学がある。これは寓話による幻想イメージを駆使しながら、すべての事物事象は夢幻にして相対的であり、いかなる確固たる本質もないとみなす。これを第三タイプ(N 3)の寓話の思考としよう。これを図4に示す。

続いて普遍的本質の実在を肯定する立場(P)に移る。これにも三タイプがある。

まず、第一タイプ(P1)の典型は中国の朱子によって大成された宋学である。朱子は静坐と格物窮理を通じて意識の無極に至り、無極の表面である太極を万物の理として捉え、この理が表層意識の次元の現象のうちに(性として)内在することを確かめる。理とは万物が固有の目的を有して完成に至り、有機的な宇宙を織り上げることだ。これが理の思考だ。図5に示す。

第二タイプ(P2)は、意識の始原(無極)からアーキタイプ(元型)が生じ、これが元型イメージとして想像され、この元型イメージが顕現する中で表層意識のリアリティが成り立つとする。ここに属するのは、神秘主義、シャーマニズム、真言仏教のマンダラ、陰陽五行の易、カッバラーのセフィロート等、詩的神話的想像力を駆使する思想である。これらが元型の思考だ。図6に示す。


第三タイプ(P3)は、深層意識のゼロポイントにまで行かず、したがって深層意識の次元ではなく、あくまで表層意識の次元で普遍的本質を正しく捉えようとする。この典型はプラトンのイデア論であるが、東洋哲学でそれに当たるのが孔子の正名論であり、またヴァイシェーシカ派の存在論である。正名の思考と呼ぼう。図7に示す。



井筒は本書の「後記」の中で、共時的構造化による東洋哲学の分類は自分の仕事の第一段であり、その上で主体的な視座の構築という第二段階に移る必要があると語っている。

その場合、日本人は、明治以降の受容・吸収の中で表層意識に西洋的なものが定着しつつ、その深層意識に東洋的なものが根付いている。だから、東西の二軸をもつ日本人なら、自己の中の東洋的なものを吟味することによって、現代の世界の状況に向けて「東洋哲学」を打ち出せるという。このような捉え方は、後述するように、「日本哲学」を担った井上哲次郎や西田幾多郎によっても語られていた。井筒の東洋哲学は「日本哲学」を受け継いでいるのだ。

それでは、日本人としての井筒は何を自分の主体的な東洋哲学的視座にしたのか。

日本の形而上学的な伝統のうち、井筒が注目するは、東洋哲学は禅(N1)と密教(P2)の二つである。禅も密教も身体修行が前提にある。その哲学上の立場は頭で捻り出したものではなく、研ぎ澄まされた意識によって身体経験を言葉にしたものである。

禅については本書で詳しく説明されている。無分節存在という深層の極点から見られると、表層意識に映る有「本質」存在のリアリティは一挙に流動化し、非「本質」存在のリアリティが立ち現れる。このように深層と表層の二重の視線を重ねてリアリティを見るのが禅の思考だ。鈴木大拙はこの思考を「即非の論理」と呼んだが、井筒によって見事に言葉で論理的に表現されている。

禅の極点は日常の言葉を用いて言葉を超える言語道断の境地だ。これとは対照的に、日常の言葉とは異なるコトバ(真言)の次元、したがって表層意識の言葉=存在を超える深層意識のコトバ=存在があり、これを開示するのが密教である。密教の元型の思考について井筒は別書(『意味の深みへ』)の中で、意味分節理論に基づいて以下の大胆な解釈を行っている。

リアリティの根源は、意識のゼロポイントに生じる純粋なシニフィアン(阿字)である。これが振動してシニフィアンの群に分節する。そしてこの分節群の周りに明確な形を持たずに浮遊していたシニフィエ群が呼び寄せられ、そこに可能的な意味連関(シニフィアン=シニフィエ)を形成する。それが言語アラヤ識における元型である。続いてこの元型は種々に分化し、元型のイメージ(シンボル)群になる。それが例えば想像世界の真言マンダラだ。そして最終的に、それらの多様多彩な元型イメージは表層意識に顕現し、目に見えるリアリティになる。

以上の解釈は、空海が現代の言語哲学者として登場したかのように斬新だ。井筒自身は禅の絶対無の思考にも惹かれているが、東洋哲学の視座として選んでいるのは元型の思考の方であろう。日本思想といえば海外では禅に注目されるが、日本人の身体と感性に織り込まれている点で見ると、密教の伝統は根深くて持続的である。空海は古代の東アジア世界に充満する呪術的感性(シャーマニズム)を哲学的に洗練させた。井筒の形而上学はその空海の蘇生・復活だといえるだろう(続く)。

 
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