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【寄稿A】 ③ 第二部 コロナ禍の中、介護老人保健施設の高齢者と接して  白梅ケアホーム   本郷輝明
時代への提言 | 2020.11.16

©︎Y.Maezawa

第2部

コロナ禍の中、介護老人保健施設の高齢者と接して

白梅ケアホーム 本郷輝明

はじめに

新型コロナが流行する昨今、介護老人保健施設の入所高齢者と会話する中で感動したことや、悩んだこと、考えたことを記載した(個人情報特定を避ける為Eさんで表し、老成学研究所HPへの発表に関してEさん本人とご家族から承諾を得た)。

コロナ禍における高齢者

その2:あと3年早く生まれていたら明治生まれになったに!笑いの絶えない105歳Eさん

©︎Y.Maezawa


 100歳を超えて生きる人のことを百寿者というが、日本には百寿者は7万人ほどおり、その88%は女性である。ただし杖歩行あるいは歩行器歩行ができ、認知症や視聴覚障害がなく、ほとんど自立できている百寿者はその二割程度とのこと。今後は元気な百寿者が増え、笑いが絶えない高齢者が増えてくるのだろうか。

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 105歳のEさん(女性)が入所してきたのは9月上旬。一緒に暮らしていた70代の娘さんが腰を痛め治療することになり家で面倒を見る人がいなくなったためだ。3ヶ月程度の期間限定で入所してきた。105歳でも会話はできるし、杖(つえ)歩行もできる。それだけでも感動である。理想的な歳の取り方である。本人は、もう3年早く生まれていたら明治・大正・昭和・平成・令和と5元号を生きたことになるに、と笑いながら話をされた。元気な105歳の方とお話するとエネルギーをもらえるのが不思議である。Eさんの歩行訓練を指導しているリハビリスタッフも、笑顔が自然と出てくる。不思議である。

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赤ん坊や幼児の場合、存在自体がエネルギーの塊で、その子のそばに一緒にいるだけで我々大人は生きるエネルギーをもらうが、元気な高齢者に接してエネルギーをもらえるという経験は初めてである。私が医師になりたての24歳の時、何科に進むかと考えた時、エネルギーを奪われそうな高齢者相手より、エネルギーをもらえる子供相手の方が楽しそうだと思い小児科を選んだことを思い出した。エネルギーをもらえる高齢者と接する機会は、これから増えるだろうか。

©︎Y.Maezawa

 リハビリ室でEさんは、昨日は転倒しないように歩幅を指導され、付き添われながら歩く速度を調整されていたが、今日はリハビリ用ベッドに仰臥位になり下肢を持ち上げる訓練をしながら、リハビリスタッフと会話をしていた。今日は初恋の話である。リハビリスタッフ(女性)が、「Eさんの初恋はいつ?」と聞くと、笑いながらEさんは「二十歳かな」と答える。「遅かったんだね」とスタッフ。笑いながら、「当時はそんなもんだよ」とEさん。「**町にある醤油工場で女中奉公をしていた時に会った男の人、相手は**の人でその時の初恋の人と結婚したね、縁だね」。そして(話題をそらし)「そのころ1年間働いて100円の給料だった、1日一銭のお小遣いをもらえたよ、一銭で飴玉7個買えた。そこでは食事、住むところ、着るものなどがついていて生活は困らなかったが、お休みはなかった」など話が弾む。脳トレも兼ねているのか、会話と笑いが主体のリハビリに移行していた。浜松引佐の、今でいう竜ヶ岩洞近くの***で生まれ育ち、結婚後は清州城のある清須で過ごしたことなどを語っていた。話しながら笑いが絶えない。この笑いを絶やさないことが、乳がん手術、再生不良性貧血、大腿骨骨折、糖尿病などに罹患してもしっかり克服してきた秘訣だろうと思った。「105歳なんてすごいね、会話もできるし、歩行もできるし」と声をかけると、「全然だね、ただ生きているだけさ」と気楽に応えた。

©︎Y.Maezawa

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 長生きの秘訣の話を聞こうと承諾を得て4人部屋のEさんのもとを訪れた。ベッドにはPHPの本が置いてあった。題名は「苦しいとき、つらいとき『笑い』が心を強くする」という冊子であった(H29.6発行)。本を読むんですか、と聞くと「笑うことぐらいしか能がないですから。笑うには学(学問)はいらないですよ」と答えた。100歳を超えて元気な理由を、「自由に好きなことをして、好きなものを食べてきたことかな」と話してくれた。

©︎Y.Maezawa

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生まれは大正4年3月、7人兄弟の一番上の長女で、今は御自分一人が兄弟の中で残っているとのこと。家は農業で、田んぼの手伝い、畑の手伝いをしたが、長女だったので子守が多かった。尋常小学校を卒業した後も田植えを手伝い、田んぼに入り雑草取り(この時よく蛭に吸い付かれたと話された)、稲刈り、棚掛けの手伝いをした。二十歳前後に女中見習いで醤油工場へ行きそこで会った男性と結婚。ここでEさんの人生観が出てくる。「結婚や長生きなどは『縁(えん)』だね、縁があって生きている、長生きしている」。

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「旦那との関係は悪くなかったが、なんせギャンブル好きでお金が入ると、競艇、オートレース、パチンコに使った、5万円が財布に入るとそれを1日で使ってしまった、ギャンブル好きがなければ優しい人なんだがね」と笑いながら述懐されていた。ご主人は、戦時徴兵されずに遠州の軍需工場で働き、戦後は漁業関係の仕事をしていたとのこと。ご主人と一緒に旅行はしたことはない。ご主人は6歳年上で、生きていれば110歳になるが、82歳で亡くなった。ご主人の死後30年間、娘夫婦と暮らしている。本人も戦後は漁業関係の工場に10年勤め、その後ホテルに勤めた。今までの人生の流れをお聞きしていると、「人生は縁だね、縁があって人と結びつき、縁があって長生きができる」と話されていた。「笑い」と「縁」はEさんの人生を豊かにさせている鍵だと思った。

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 老成研究所HPへの投稿の許可を得たので原稿を送ろうとした矢先の早朝にケアホームから緊急の電話がかかり、Eさんが朝起きられなくなり左半身麻痺が出現しているとのこと、すぐに救急車を呼び二次救急病院への搬送を依頼した。二次救急病院では発作性心房細動による脳梗塞との診断で治療を開始した。治療後2週間して我々の施設に戻ってきた。左半身麻痺が残っていた。笑いは減少していたが、わずかに残っている。発語もゆっくりだが可能だ。しかしベッドからの移動はできず歩行も無理だった。食事は御自分で取れたが左側の空間が認識されず左側にあるものに気がつかなかった。「9月に入所してから2ヶ月間はエネルギーをもらいながらリハビリをしていたので、今度はエネルギーを与えます。リハビリを少しずつ開始しましょう」と若いリハビリスタッフ(女性)はベッドからEさんを車椅子に移乗しながら話した。

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 再入所時娘さんと話をしていて、玄孫(やしゃご)が今年6月に生まれたが、コロナ禍でなかなか会えなかった。生後3ヶ月になり窓越し面会を予定していた。しかしその当日入院になりできなくなり、とても残念とのこと。私は「時間はあまり残されていないので急いで都合をつけて会うように」と面会をお願いした。1世紀を隔てて孫の孫に実際に会えるなんて奇跡だと思う。親はいつまでも生きているという感覚を我々は持ってしまうが、やはり人間である、限界がありいつかは命が途絶える。その前に無理してでも会う算段を取る必要がある。会ったという事実が、その後のその子の人生に影響を与えるはずである。世代間の交流は見えない形でも繋がっていく。

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【Eさんの後日談】

前回記したEさんが先日106歳を迎え、さらに玄孫(孫の孫)と窓越し面会が実現した。Eさんに笑顔と会話が戻ってきた。12月の寒い晴れの日、若い両親に抱えられて6ヶ月の男児が106歳の曾祖母の母(高祖母)に面会にきた。赤ちゃんが笑ったり窓越しにジーと見つめたり、びっくりして泣き出したりする姿を、両親とEさんはニコニコしながらみていた。この姿を私は俵万智風に表現してみた。


 コロナ禍で

 106歳嫗と赤児が窓越しに見つめ泣き笑いあう

 生きててバンザイ 生まれてバンザイ  


そして3日後Eさんは、麻痺していない右手で絵筆を持ち、玄孫の名前を半紙に2枚書いた。1枚は今度面会に来た時にひ孫に渡すという。100年の年月が横たわる世代間交流だと思った。

(編集:前澤 祐貴子)


©︎Y.Maezawa

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