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老成学研究所 > 時代への提言 > 『今、国学の呼びかけるもの』シリーズ > 『今、国学の呼びかけるもの』シリーズ 〈16〉 「真淵の生きた 江戸時代中期とは」
真淵の生きた 江戸時代中期とは?
真淵が誕生したのは 1697年(元禄10年)3月4日 でした。
時は 綱吉が5代将軍となって 12 年が経過した頃でした。
この時代は 元禄時代 と言われ、
「文治政治」の風潮が 最も盛んに なった頃です。
5代将軍 綱吉は 学問を好み、
その興隆に力を尽くした と言われています。
尚 1702年(元禄15年)、赤穂浪士が吉良義央を討った のは 真淵が5才の時の出来事でした。
真淵が生きた江戸時代中期とは どのような時代だったのでしょうか?
平和を目指す「文治政治」とは
君臣父子の別を知り 下の者は上に従うべし
という 秩序形成を第一 とする政治です。
つまり 法と文書によって基礎づけられた政治体制 でありました。
武力で 物事を解決する時代から
法と文書で 解決する時代へ
と 移行したのです。
これに伴って 文書を管理 する役人(官僚)が 必要となり、
法の理解が 人々に求められるようになりました。
その基礎 となるのが 読み書きであり、
この教育こそが 江戸時代を作り上げた
といっても過言ではありません。
更に教育に力を入れたのは 8代将軍 吉宗でありました。
優秀な藩官僚が養成されても 社会を維持する法度が効力を持つには
庶民の側にも それを理解する能力が必要です。
時代 劇では 高札場に掲げられた「御触書」を読めない農民がいて、通りがかりの浪人、庄屋、 僧侶などが読むシーンがありますが、
実際は 寺子屋の普及もあって 町民や農民たちの多くは 文字の読み書きや計算も出来たのです。
勿論 庶民の能力は武士に劣り レベル差も大きかったので、庶民を対象にした触や達は 平仮名が多くありました。
出来るだけ多くの庶民が 直接 読むことを前提に 法度を出して いたのです。
言葉が通じず コミュニケーションができない方が 社会は不安定になり、
皆が賢く お互いに理解できる方が 安定する
と 考えたのです。
だから 幕府は 教育を奨励したのです。
各 地に 藩校や私塾ができていましたが、藩士だけでなく 町民や農民にも 学ぶ機会があったのです。子供を 寺子屋や私塾に積極的に通わせ、お金がない家は 野菜を持たせて 手習いに行かせることもありました。
貧しくても 自分のために積極的に学べる環境が 江戸時代中期にはあったのです。
真淵が生きた江戸時代中期には
国学が発展する素地が 十分用意されていたのでした。
江戸時代中期 庶民の知的水準は 世界的にすでに高かったわけです。
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浜松市立賀茂真淵記念館
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(編集: 前澤 祐貴子)
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