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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿B】教育者 岡本肇シリーズ > 【寄稿B】《16》「人格論」 西遠女子学園 学園長 岡本肇
人格論
西遠女子学園 学園長
岡本 肇
渡辺和子、元 ノートルダム清心女子大学 学長・ノートルダム清心学園 理事長、を知ったのは 「置かれた場所で咲きなさい」という著書を読んでからのような気がする。十指に余る本の中から 回想録の 「強く、しなやかに」 や 人格論講義録の 「『ひと』として 大切なこと」 など 読んでみると、女史のことを もっと前から知っていたら と悔やまれる。
そこには 人生や教育の指針がいっぱい述べられていたからである。
今、世の中は というより 人類は 大きな曲がり角の中にいるからである。
人間が 今まで繰り返してきた戦争や経済活動だけでなく、 人工知能やチャットGPTなどの 生成AIの出現によって 人間を上回るかもしれないものが 出てきたのである。今、世の中にある仕事の半分は 機械がすることになる と言われている。
学校でも 生成AIやオンラインの自宅学習がもっと普及すれば 今までと教育も変わってゆくだろう。学校では 何を教え、教師の役割はどうなるのか。今まで 人間 対 人間 の間で行われてきた教育に コンピューターや人工知能が介在したり、 代わりをするようになった時 最後に残るのは 「人間らしさ」 のように思う。
渡辺女史の「人格論」は 「『ひと』として 大切なこと」として 優しさ、愛、幸せ、自由、尊厳、孤独、死 などについて 語っている。これらは 他の動物にもない 人間だけのものだからだろう。
そして 「人格論」は 学問として 学説の中から出てきたものでなく、彼女の波乱万丈の人生体験から 生み出されたものである。
彼女は 自分の出生について 父 53歳、母 42歳 の時の子供で 母は世間体を気にして 出産をためらったが 父が 「何の恥ずかしいことがあるものか。産んでおけ」 と言ってくれたから 自分がここにある と書いている。
「父は 遅がけの子とは 長く一緒にいられない と思ったのか 目に入れても痛くないほど 可愛がってくれた」 と 言っている。
また 幼い頃の思い出として 家族揃って 食卓を囲んで 食事をしている時、「お母様だって 美味しいものが嫌いではないんだよ」 の父の言葉が忘れられない と言っている。
母が そっと 子供達の方に 押しやってくれた美味しいものを さも 当たり前のように食べている 私たちへの 父からの注意であり 母へのいたわりとねぎらいの言葉だった と思います とある。
私自身 思い返せば 高校生の時 叔母から 母が私を産んだ時のことを 聞かせられたことがあった。
母は 体が弱く 姉二人を産んだ後 一人を流産しているので 私の出産を 周りが 随分止めたらしい。何ヶ月も 寝たままで 東京から 医師を呼んで 帝王切開で 私を産んだ と聞いた。
また 戦中、戦後の食糧難の時代、 痩せて 肋骨の浮き出た母の体を覚えている。母は 三人の子供に食べさせて 自分の身を削っていたのだろう。私も 全て 当たり前に食べて 当たり前に育ってきたが この歳になって 振り返ってみれば 母も大変な苦労をして 辛い思いをしただろう と思う。
優しい言葉も 感謝の言葉も 言っていないことを 悔やむばかりである。
渡辺和子女史は 9歳の時 父を亡くしている。
父は 陸軍大臣だったが 非戦平和を唱えていたため 1936年2月26日に 青年将校達の襲撃を受けた。二・二六事件である。
「死の間際に 父がしてくれたこと、それは 銃弾の飛び交う中、側に寝ていた私を 壁に立て掛けてあった座卓の陰に 隠してくれたことでした。
かくして 父は 生前可愛がった娘の 目の前1メートルのところで 娘に見守られて 死んだことになります。」
「生まれて初めて この手で触れた死は 最愛の父の死でした。
機関銃に乱射され、天井に 血肉が飛び散っての 無惨な死。
無念さは いかばかりだったろう と思います。」
「だからこそ 私の血の中にも 『大将の娘』としてのプライドが流れている。
軍人の家に育ったが故の厳しさは 今でも 持ち続けているつもりです。」
と書いている。
その後 戦中に 雙葉高等女学校を卒業して 1951年に 聖心女子大学を首席で卒業した。
1956年に 29歳で ノートルダム修道女会に入会して 宗教者の道を歩む。
教会から ボストンの修練院に シスターの修行をするよう 派遣され、さらに ボストンカレッジの大学院 教育学の博士課程を取るように命じられる。
3年かかるところを 2年半で学位を取って、 「人生の中で あの時以上はない というほど 勉強したことはない」 と回顧している。
修道院の世界に入って渡米し、博士号を取得して 東京に帰るまでの 30代前半の人生は シスター見習いとしての 修練と学問に明け暮れた6年間だった。
ここで学んだことは 「人間は 辛いことを感謝に変える力を 持っていることでした。」 と言っている。
次に 修道会から 岡山の ノートルダム清心女子大学で 教鞭を取ることを命じられ、 慣れない土地に赴任して すぐに 米人の学長が急逝して 36歳で 学校長に任命される。
それまでも 大変だったが ここから 女史の本当の試練が始まったのではないか。
私も ある事情で 親戚も知人もいない地方都市で 突然 私立高等学校の校長をしたことがあった。教職員も戸惑ったし、親はほとんど年上で、 孤軍奮闘の気分の4年間だった。後になってみれば 自分の人間性を一番鍛えられた時だったかもしれない。
とにかく 年齢の重みがなく 知らない土地で仕事をすることは 大変である。
ましてや 大学の学長ともなれば 人事や財務や諸会議、電話、来客と多忙な上、「人格論」と「道徳教育の研究」の授業も持っていたのである。会議などでも しばしば 糾弾の矢面に立たされたが、自らの信念は曲げず、いつも ニコニコ笑って 「貴重なご意見を有難うございます」と 頭を下げていた。
ある本の中に
「私の笑顔の質を変えました。チャーミングポイントとしての笑顔から 他人への思いやりの笑顔 さらには 自分自身の心との戦いとしての笑顔の始まり となったのです。
相手の出方に左右されることなく 私の人生を笑顔で生きる という決意であり、主体性の表れ としての笑顔でした。」
と 言っている。
50歳の時は 過労のため うつ病になり、 70代では 膠原病にかかり 治療の薬の副作用で 身長が 14センチ縮んだ。
現役を退いても 苦難の連続だったが ライフワークの 「人格論」の講義は 未完のものとして 毎年 講義ノートを作り直し、 常に 修正を加えて 晩年まで続いた。
2016年、89歳で亡くなったが、彼女の人生を振り返ってみると 18歳で洗礼を受け、 29歳で修道院に入り、 すぐ ボストンに派遣され、 そこで 学位を取り、 日本に戻って ノートルダム清心女子大学の学長に 36歳の若さで就任するという道筋は あらかじめ 何者かによって 用意された路線のように見える。
彼女は どこかで 「運命は 冷たいけど、 摂理は 温かい」 と言っているが、 彼女の人生こそ 神の摂理だったかもしれない。
キリスト者として 「神は 真実の方ですから あなたが耐えることのできないような試練に合わせるようなことは なさいません」 という聖書の言葉と、 信念を貫いて 非業の死を遂げた軍人の娘 としてのプライドが 彼女を 神の摂理に従わせたのではないだろうか。
(編集: 前澤 祐貴子)
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