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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿D】老成学シリーズ > 【寄稿D】老成学シリーズ: 「神の授けもの」 寺川進
神の 授けもの
2023-7-7
寺川 進
キーワード:
鳥肌立ち、情動、バンゲリス、夜桜美人図、葛飾応為、人生の目的、脳内麻薬、音楽用chills誘発装置
はじめに
食欲、睡眠欲、性欲は 本能に支配された基本的欲求であり、それが満たされた時には 快感、解放感。安堵感などが感じられる。特に 性的オーガズムでは 脳内に βエンドルフィン、オキシトシン、ドーパミンなどの放出が起こり 自律神経系の興奮も伴って 強い幸福感や陶酔感が生じる。いわゆる 絶頂感 である。
私は 高齢者となって初めて 音楽(ミューズ)と絵画(アート)の作品に強く刺激され オーガズムに類似した身体反応を感じることになった。そこで 大きな情動反応を伴う感動について 個人的な体験を中心に 論じてみたい。
1.鳥肌の立つ話
1.1. 一人で 作曲、一人で オーケストラ演奏
全ての作曲家の中で 私が最も好きだった人物が 亡くなった。
名前は Vangelis という。
Vangelisは ギリシャ出身のアメリカ人で 彼の曲を初めて聴いたのは アメリカから帰国した1980年、岡崎に移って 公務員宿舎に入った 5月頃である。新しくステレオ装置を購入して 部屋に置いたので よく憶えている。
FM放送で シンセサイザー音楽の特集番組があり たまたま Vangelisと Jean-Michel Jarre の二人が 登場した。Vangelisの曲は Albedo 0.39 で、Jarre のは Oxygen だった。いずれも劣らぬ強い魅力に溢れており 立ちどころに虜となった。
シンセサイザーは どんな楽器の音でも合成でき PCの力も借りて 音の大きさやタイミングを正確に制御するので プログラムしておけば 合奏曲でもオーケストラ曲でも一人で演奏できる という 究極の音楽機器である。
その完成お手本のような音楽を聴いて以来 二人の作品は 知る限りを集めて 今日に至っている。Vangelisのコレクションは CD40枚以上となった。最近は Amazonに ほとんど全ての曲が揃っているので 見逃すことは無さそうである。
Albedoとは 惑星の反射率 という物理的な恒数で 宇宙から見た地球が 太陽光を受けて輝くときの 光の反射率 である。太陽系の惑星は それぞれ異なる反射率を有し、その数値が分かれば どの惑星なのかが分かる という。遠くの光の色と点滅の様子から どこの灯台が光っているのかが分かる、というのと似ている。
その音楽は 少しジャズやロックっぽいところもあるが、宇宙的な拡がりを強く感じさせる。最後の部分ではナレーションだけとなり、‘’Albedo 0.39‘’ と繰り返しながら 次第に小さくなって消えていく。遥かな宇宙から、遠ざかっていく地球を眺めているかのようだ。
1.2. Chill が起こる音楽
Vangelisが作曲し シンセサイザーの演奏をした 有名な曲としては Cosmos、Blade Runner、南極物語などが よく挙げられる。
他にも、Chariots of Fire、Direct、China、Beaubourg、Spiral、Mask、1492年、Alexander、El Greco、Rosetta、Juno to Jupitor などがある。 どれもいい曲だ。
最も好きなのは El Greco だ。人が感じる悲しみと喜びが 最大限に表現されており、鳥肌が立ち (chills)、 涙が出る (tears) ほどの感動を覚える。恐らく El Grecoは、高名なスペインの画家のことではなく Vangelis自身を指している。
画家の Greco は ギリシャからスペインに移住し そこで 画才の花を開かせたが、故国に対する強い望郷の念を持っていたのだろう。Vangelisは 自身を画家の El Greco: the Greek(あのギリシャ人)に重ね合わせたに違いない。
ギリシャからアメリカに渡り 仕事には大成功したが 故郷から心が離れることはなかった。異国に住む寂しい暮らし、故郷の懐かしい光や風、それらが心を締め付けるのだ。その感性の下で作られた曲が 心に染み入るように響く。
彼は 作曲者として また シンセ奏者として 本名を使っていない。彼の本名は Evangelios Odysseios Papathanasiou という。
Evaは人類の最初の女性である Eve と同じで 良い という意味。Angeliosは angel と同じ 天使 という意味。つまり 天からのよい便り ということになり Evangelion というのと同じで いわゆるキリスト教福音派の 福音の意味なのだ。
天からのよきメッセージを運ぶ者、それが Vangelis 自身 というわけである。天から運ばれてきた福音が 彼の曲だ という自負を感ずる。
1.3. 作曲家の死
Vangelis は 2022年の2月に 79歳で亡くなった。それを知ったのは その年の11月になってからであった。Amazon に出ていた新曲の解説に 最後の曲 とあったのだ。
曲の名前は Juno to Jupitor。音楽が表現している物語は まるで 彼がJunoとJupitorの二役をやっているかのようだ。
Junoは 欧州宇宙機構の木星探査計画の名称であり、また その打ち上げた探査機の名前でもある。彼は この計画のために 音楽プロデュースを依頼されたようだ。
Jupitorは木星。Junoは 勿論 神話の中ではJupitorの妻だ。
Juno探査機は 科学探査完了後 次第に高度が下がっていき 最後には 木星のぶ厚い雲の中に呑みこまれて消えていく。それは 精子が卵子に融合する反応のようでもあり、男女がお互いを抱き合う姿のようにも見える。Vangelisは消えていくようだが 消えたのではなく 木星のような巨大な天体になったかのようである。CDから流れる音楽は そんな物語を語っている。
1.4. 人生最大の chill反応
年が変わって2023年、1月14日のこと、私は 妻と一緒に 浜松医療センターへ診察を受けるために出かけた。午後の2時30分頃に やっと検査と診察、それに遅い昼食が終わり、病院を出て、約束していたあるお宅に向かった。寒くて風が強い中を、二人でくっ付きながら15分ほど歩いた。目が悪い中、曲がり角の多い初めての道で緊張したが、間違わずに約束の時間に到着してホッとした。訪れた家では 以前から 研究会 と称して 時々実施している人体計測試験に参加した。音楽を鑑賞している最中の脳の前頭葉の活動を 近赤外光を使って計測するのだ。2名分の研究データを得るための標本を 提供したのである。
近赤外線は 脳内血液中の酸素化ヘモグロビンと脱酸素化ヘモグロビンの量を 同時計測することができ、神経細胞の活動レベルを表す指標を得ることができる。
妻と私の額(ひたい)の 眼の上方 4㎝くらいの位置に 光ファイバーが接着された状態で CDを再生した音楽を聴く。これは 前頭前野 という脳の領域の活動性を計測することになる。
まず ドボルザークのハンガリー舞曲を 5分間試聴。備えられているオーディオ装置は 大金を投じて オーディオ専門家と共に 10年かけて組み上げられてきたもので たいそうな音を奏でる。
おまけに いわゆる非可聴高音(約4万Hz)を合成出力するアダプターを加えたものである。このアダプターの効果のほどは 疑問なのであるが ある研究グループが発表した論文から 家の主人は 心身に良い効果をもたらすもの と確信している。
測定の目的は その効果を 実際の脳機能計測によって証明しよう というものである。
ハンガリー舞曲は悪いものではないのだが 特別な印象は残らず さしたる感動も無く 5分間が過ぎてしまった。
15分くらい休憩した後に、ただの楽しみ として持ってきた Vangelisの CD: Rosetta の頭の5分を、同じオーディオ装置で 聴かせてもらうことにした。脳活動計測用の光ファイバーは 額に着けたままである。
曲は 冒頭から いきなりの低音を鳴り響かせる大迫力である。始まると 1秒経つか経たないうちに とてつもなく大きな chill (鳥肌立ち)の反応が始まった。Chill は私の後頭部から現れ 首筋、肩、両腕、背中、腰、脚まで 閃光のように走り抜けた。身体の左右両側に 同時に起こり、その強さは 最大級であった。
一瞬、さすがにVangelisは違う、と思った。私がそれまでに 音楽でよく経験してきた chill は 一回が 4、5秒の持続時間で、ひとつ起こると しばらくは静かになり、数分後に 音楽が盛り上がると 再び起こる、というように 間隔を空けた反応となる。
しかし この時に聴いた Rosetta の音楽では chill の波が やや引潮になっただけでも、それを 押し戻すように、すぐに 次の大きな波が寄せてきて、波と波の間の空(あき)の時間が無いままに 次々と 全身に拡がる という、とてつもなく強い反応が 繰り返されたのである。
「こんなに凄いこともあるのか!」という驚きで 一杯であった。
結局 曲の最初の部分、4分から5分近く、実際の音のうねりが静まるまで chills の大波も 完全に連続して起きることとなった。勿論 生まれて初めて 体験する身体の反応であった。
発汗、血圧、体温などは測定していなかったので、変化したかどうかは 分からなかった。自分で感じられる範囲では 呼吸数や心拍数の上昇は無かった。しかし 大感動であったことは間違いない。
オーディオ装置の良さもあったのかもしれないが、何故 そんなにも強い感動を覚えたのか は 簡単には答えられない。
自宅のステレオでも 何度かは聴いており、大きな chill が 毎回起こるのは 確かであるが、4分以上も連続的に chills の大波が起こる という反応は、初めて である。
気が付いたことのひとつは、涙は それほどは出なかったことである。
面白い事に 脳活動計測器は この最大級の興奮の間、私の前頭葉の測定部は かえって落ち着いてしまって どちらかというと 安静、または 睡眠の方向に 傾きかけていたことを示していた。
1.5. 音楽の感動
ヒトは 古来、音楽を聴くことが好きである。祝い事でも、神事でも、戦いでも、音楽がある方が 気分の高揚が得られる。
音楽の種類によっては 無関心でいられるものもあり、逆に、耳を覆いたくなるようなものもある。
多くの場合は 作曲者がいて、何らかの目標や意図に従った曲作りをしているので、それを聴く人にとっては 好ましい と感じられるものが多い。
音楽を聴くことによって生じる感動は 定量的に表すのは難しいが、簡単に段階として表すと 表1 のようになる。
1から3までは、大脳皮質における判断・弁別の能力による判定結果といえる。これに対して 4や5は自律神経系の司令による反応で、その属性は 1から3までのとは 異なるもの と思われる。
4と5は 必ずしも 上下にあるのではなく、同等の段階かもしれない。
ただ 感動の内容が 多少異なるだけ かもしれない。悲しみの感覚が強いと 涙 になり、畏怖の感覚が強いと 鳥肌立ち となる、というような。
これを 全体として図示してみると 図1 のようになる。
このような 左右への展開要素が生じると、それが 大脳皮質にフィードバックされて、感動の気持ちが高揚する。外部から 皮膚に直接入る刺激の有効性は 不明である。
身体反応の一部は 免疫系に伝わることもある。
話の展開を拡げることになるが、感動に影響を与えるような人間関係については 少し 説明しておきたい。
特に 音楽の感動に係わる人間関係としては、表2 のようなものがある。
大脳皮質の反応(すなわち 判断)で 他人へ 信号を送るための 何らかのアピールのスイッチが入り、その結果、他人からの反応(フィードバック:FB) があると 感動が高まることになる。
例えば 拍手・喝采などを受ければ、演者は 何らかの充実感を覚える というようなものがある。
あるいは 合唱の歌い手達が 互いの顔の表情を見ることによって 音楽の感動が高まる というようなこともある。
感動を高めるような刺激を発信するのは 必ずしも 音楽の送り手とは限らない。
音楽に合わせて 一緒にダンスをしている相手からでも、その動きや表情から 何らかの感動の材料を得られる可能性はある。
目、耳、鼻、皮膚(体温、圧力、ホルモン)などで、FBを捉えられる可能性がある。
これらのことは 私が 実際に体験したものではないが、情動が感動を高める という関係と 相同的な関係として、図1 に盛り込んでおいた。
1.6. Chill の生理学
Chill とは 首筋や背中の辺りに ゾクゾクする感覚が起こること である。鳥肌が立つとか、背筋がゾッとするという表現もある。英語では、chill や frisson とか shiver と言われることもある。
体表を見ると chill反応のときには 皮膚の毛が起き上がる(逆立つ)のが分かる。毛の根元の皮膚面には 小さな盛り上がりが生じ、全体として 羽根を毟られた鳥の肌のように見える。
一本一本の毛に付いている立毛筋が 素早く収縮するのがゾクゾク感の元である。立毛筋には 交感神経の支配しかなく、副交感神経は 接続していない。
しかし 皮膚全体に拡がっている感覚神経は 毛が動くのを捉え、脊髄を介して ゾクゾク感を 大脳の感覚領に伝える。
本来 哺乳動物が天敵に出会ったり、同類と喧嘩をする時に 毛を立てて身体を膨らませ、全身が大きく見えるようにするための反応 である。多少は噛まれた時の防御にも なりそうである。
また 寒冷暴露によっても 横紋筋の震えと同時に 皮膚の鳥肌立ちが起こることも よく経験される。
恐怖によっても 鳥肌立ちは起こり、ゾクゾク感が感じられる。身の毛がよだつ という表現になる。
実は そんなすごい体験をする以前から、当該の研究会で 音楽の感動について 考察する機会があり、感動したり 強い情動反応が起こって 涙腺が刺激されたり、立毛筋が刺激されたりする、ということについて調べ 発表解説をした。
日本では 比較的研究が少ないのだが、海外では 音楽聴取時の chills の研究は 大変盛んで、音楽が引き起こす大きな感動を 身体の反応から 客観的に測定するための指標 とされている。
本当か と驚いたのは 英語版のネットの情報で、chills を起こす人は全体の4,5% という記載があったことだ。日本語のサイトでは 50%程度 という記載がある。私は 誰でも同じかと思っていたが、そうではない とすると かなりの一大事に思われる。
海外の研究で MRIのトラクトグラフィー という手法で 脳内の神経線維束の太さを調べると、chills を起こす人では 側頭葉から前頭葉への 神経線維束が そうでない人に比べて 圧倒的に太い という研究結果もある。
[Matthew E. Sachs, et al. (2016) Brain connectivity reflects human aesthetic responses to music. Social Cognit. Affect. Neurosci, 11, 884?891, https://doi.org/10.1093/scan/nsw009]
そんなにはっきりした差が有るのだろうか。
これは、人種差別と同様の 人間差別 に当たるのではないか。そう思えるくらいの秘密を、見てしまったような気がする。
1.7. 音情報と自律神経反応
音情報は、蝸牛から 中脳下丘を経て 視床へ、そこから 側頭葉の聴覚領に 送られる。
聴覚領では、FFT(高速周波数分析)のような解析がなされ、その情報が 側頭葉で再統合されて、角回、上側頭回、眼窩前頭皮質、腹内側前頭皮質などに送られて、認知され 評価される。
このような大脳皮質を主とする感覚的評価の結果、「とても良い音楽である」となると、大脳基底核(線条体前方の側坐核)や偏桃体、そして 視床・視床下核へ接続する回線に スイッチが入れられ、自律神経に 信号が伝わるのである。
このスイッチが入らないと、感動は 身体の反応を伴う情動(emotion) とはならない。
どういう大脳皮質の反応が起こると 自律神経系への接続スイッチが入るのか という機構は、まだ 分かっていない。
その機構を探るために、音楽鑑賞中に、このスイッチが入らない状態を選んで、皮膚への電気刺激や冷水投与などをすることによって、立毛筋の収縮と同じような反応を惹き起こしたら、音楽的感動が高まるかどうか、を調べるのは 興味のあるところである。
確かに、chills は、意志によっては 起こすことができない。
涙の方も、通常は 意志によって直接的に 引き出すことはできない。悲しい状況を想像したり、映画の一場面を思い出すようにすると、涙を出せる という人は多いようだ。映画俳優などは それが得意な人も多いようだ。
しかし、普通の人は、唾を出すことに比べれば、涙は自由には 出せない。
Chills も tears も 自律神経の支配下にあり、それを命令するのは 交感神経系の仕事であり、意志を司る大脳皮質の仕事ではない からだ。
多くの場合、感覚器を通して 外界の状況を認知して、反射的、あるいは、本能的に 感情が湧きあがり、その程度が大きければ、大脳皮質から 基底核線条体や視床、さらに 視床下部の自律神経系へ 信号が伝えられ、交感神経を介して 身体の反応が起きるのである。
Chills や tears の反応は、心の中だけに現れる 感情的な体験とは異なり、生理学的に測定可能な 客観的なものである。
本人だけでなく、場合によっては、周りの人も そのことに気が付くことができる。
本人にとっては、自分が泣いたり、鳥肌が立つことが身体の反応として感じられる という、一種のフィードバックが働くことにより、感動していることの強い実感が得られる のである。
怒ると、顔が赤くなる とか、血圧が上がる とかいう反応と 類似したものである。
情動を大きなものにするには 恐らくは 大脳皮質の神経回路の反応だけでは 不十分である。それは 反応が速すぎて すぐ終わってしまうようなものだ。
これに対して 立毛筋の収縮は 遅いものであり 全身の体毛は たくさんあるのだから より長い時間の反応となる。自律神経の司令によってchillsが起きていることを 皮膚の感覚神経を介して 大脳皮質が感じ取る という フィードバック・ループ が働くと 長い時間 大きな情動の渦が 維持されるのである。
いわば、身体の辺境に位置する皮膚を 遠くにある反射壁として使い、長いこだま(体内のエコー)を作り出すのである。
こうした情動の身体反応については 泣くから 悲しいのか 悲しいから 泣くのか という 古典的な議論が始まることになる。おそらく 両者は並行しているのであろう。
いずれが正しいにしても 自分の身体の反応を感じることで 心の反応が強くなる というのは 確かなことだ。
感動的な情動が持続すれば 大脳前頭葉皮質などの 報酬系において 快楽物質のドーパミンなどの分泌が 大きく亢進することになる と思われる。
現代人にとっては chill反応は あまり生存に関係が無いので 自然淘汰の対象とはならず 未だに 誰にでも備わっている。
研究者の多くは この反応は 不要になった反射的機能 と考えている。
実際 近くで突然 大きな音がしたりすると 反射的に 立毛筋収縮が起こり その反応は 驚く という感性の反応よりも 一瞬先に始まる。
これは 太古の時代に獲得した 神経機能のひとつ として 最早 生存のための実用性は無いものの 今でも 身体に残されている反応である。
この反応が 本能から切り離された形で 感動を高める生理機構の中に組み込まれている。
ある生理機能が 別の生理機能に役立つ形で 変形して利用される というようなことは、進化の道では珍しいことではない。
人によって 感動に伴うchillの体験が 無い ということもあるようだが それは 感動に足る音楽に出会ったことがないだけか、試聴環境に欠陥があるためかもしれない。
人によって 進化の方向や形が異なる ということもありうる。
それで 人類全体に言える話ではないが chillは 音楽感動に含まれる情動反応として 特別視される。
例えば アメリカの研究者 Jaak Panksepp は 音楽によって誘発される chill反応を「皮膚の絶頂感:skin orgasm」 と呼んだ。
[The Emotional Sources of “Chills” Induced by Music. Music Perception 13 (2): 171-207 (1995) ] https://doi.org/10.2307/40285693
Chill が起こることが 音楽を鑑賞しての 最高の感動であることを言い表しているが 文学的表現ではなく 生理学に基いた呼び方である。
実際 chill が起こると 脳内報酬系が活性化され 偏桃体や側坐核が興奮し 腹側被蓋野から始まるA10神経によって 前頭葉の広範囲において ドーパミンが放出され 強い幸福感や満足感が得られるはずである。性のクライマックスが、ある閾値を超えると 大波として押し寄せるのと 似ているというのである。
1.8. もうひとつの chill事件
私は 高校生時代から 音楽によって しばしば chill が起こるのを 経験してきた。その中から 記憶に新しい もう一つのchill事件を紹介したい。
大きな chill が生じる時の 背景を考察するのに 良い材料となるかもしれない。
日本で コロナ感染が流行する前の年の春(2019年4月)、私は バッハのトッカ―タとフーガ・ニ短調を聴いた。
月中の14日(金)の夕刻、特別な理由も無しに CDを並べた棚で たまたま手に触れた このオルガン曲を 久しぶりに プレーヤーに入れた。
曲が始まると かなり強い chill の反応が感じられた。それは いつものことで 特に 記憶に残るようなものとはならないはずなのだが 話は 3日後の17日(月)に続く。
この日 再び聴いた時 あろうことか 何倍も強いchill反応が 起こったのである。
短期間の間に 同じ曲で 2度もchillが起きた のであり しかも 2度目の方が 記憶に残るような大反応 となったのである。
それには ちょうど 間の日となる 4月15日(土) に起きたある事件が 大きく関係していたことは 疑いない。
15日は 特に音楽を聴く ということをしない日であった。早朝から 家を出て 金沢に向かった。学生時代のラグビー部のクラス会に参加するためである。
金沢市の山裾近くの一軒宿で一泊する。
かなり鄙びた宿で 庭にある1本の桜が 満開に咲いていて とても印象的であった。
世話役が 時候を見計らって 手配してくれたものだ。
一夜の夕食を 懐かしい仲間と共に 楽しんだ。
翌朝、まだ暗いうちに 一人だけ起き出して タクシーで 金沢駅に戻り 北陸・長野新幹線で大宮へ 埼京線と湘南線を使って 御殿場へ と 時間に追われながら 電車を乗り継いだ。
途中 桜や菜の花、タンポポなど、日本の春の景色が美しかった。
御殿場での用事は、富士霊園で行われた 伯父の三回忌の法要である。
霊園には桜並木があり 満開で とても見事であった。
親戚一同と会食し 何やら挨拶をさせられた。いつの間にか 長老に属する席次と なっていた。浜松の家には 夜7時頃に帰宅した。
土、日の2日間で 本州中央部を 大きく一周したわけである。
そして 月曜日の朝になって 新聞を見て 驚いた。なんと パリのノートルダム大聖堂が 火災を起こして 大きく焼け落ちた というのだ。
普通なら 遠い所の火事に 驚く必要は無いのかもしれないが そこは 2005年頃 妻と一緒に訪れた所なのだ。しかも 普通の人は入れない場所まで巡る 特別ツアーをした所なのだ。
屋上の 2つの塔の間から セーヌ川を眺めたが その時の寒さは 脚をガタガタ震えさせるほどのもので 忘れられない思い出である。
たまたま 建築科の学生の授業ツアーがあり 妻が建築士だ と言って頼んだら 一緒に回ることが 許されたのである。
工事用のエレベータに乗り 天井階や屋上階へ上がり 屋根を覆っている鉛板の上まで歩く というおまけ付きで 建物の作りが よく分かった。
その時に見た 天井の構造は 建物のほぼ全体が 石造りなのに対して 木で出来ているのが はっきり記憶に残っている。
それが 火事で燃えてしまい 鉛の屋根板は 溶けて流れ落ち 空に抜ける大穴が開き 備え付けのオルガンも 大きな被害にあった というのだ。
1.9. 千載一遇の音楽
家のCDプレーヤーの中には 金曜日から バッハのオルガン曲のCDが 入ったままである。そのCDは ノートルダム大聖堂を見学した折りに ホール片隅の机で買い求めたものである。
演奏は Pierre Cochereau で 1973年の収録。演奏に使用したオルガンは、他でもないノートルダム大聖堂のものなのである。
このCDは 大聖堂が燃え盛っている正にその時に 我が家のプレーヤーの中で 音をすぐに出せる状態のまま うずくまっていたのである。
私のCD棚には 1000枚ほどのコレクションが並んでいる。その中から たまたま選んでいたCDが ノートルダムのオルガンの曲なのである。
こんな偶然は 一生に一度しかないだろう。この千載一遇のことに気が付き 驚いた私は 新聞から目を上げて プレーヤーのスタートボタンを押した。
あの冒頭の 天から ゆっくり降りて来て あの世へ向かう扉を 押し開くような 印象的なフレーズが 流れ出た。
瞬く間もなく 経験したことのないような強さの chill が 後頭部から 足の平に至るまで 走り下りた。目には あの空色に塗られていた 天井階の壁や 梁の形が 浮かび、赤い炎が 激しく揺れ動きながら 辺りを呑みこんでいく様子が重なる。
15秒の chill が走っては 5秒ほど休み また すぐに 次の chill が始まる。そんな反応が 5,6回は続いたように思う。
3日前に聴いた時の chill より 圧倒的に 大きな chills であることに とても驚いた。
普通は 2, 3日の間隔しか空けずに聴くと chill は起きにくくなる。数カ月の間隔を空けて聴くと また大きなものに戻るのである。
まるで オルガンが 自ら 助けて と悲鳴をあげ続けているかのようにさえ 聴こえた。
ノートルダム大聖堂の思い出は 色々あったが やはり 火事になったことが chill を伴う大感動に関わっていたのではないか と思う。
1.10. Requiem
Vangelis の 音楽による感動に 話を戻したい。Rosetta を聴いた時に 生涯で最も大きな chills が現れたのは 何が背景にあったからなのだろうか。
知らない道を歩いた緊張感? 一月の寒さ? 辿り着いた部屋の温かさ? オーディオ装置のよさ?
やはり 作曲家が亡くなったのを知ってから聴いたことが 一番大きく関係していたのだろう と思う。
彼の曲は、どれも 遥かな昔と遥かな宇宙を感じさせる。その中に、人々の、闘いや冒険、そして 愛や踊りが 満ちている。
そうした人間の営みの 波乱万丈が 強い感動を生む。
彼の死のニュースは そうした大きな活動が停止し 永遠の静寂に変わったことを 伝える。まさに Requiem aeternum である。
前後関係を細かく考えると 彼は 実際は 1年ほど前に亡くなっていたのだが その死を知ってから聴くのと 知らずに聴いていたのとでは 結果が異なる ということになる。
Vangelis とは 42年に亘る 熱い付き合いであった。
長年に亘って 積み上げた鑑賞の履歴があったことが ミューズの神から 特別な賞をもらうことに 繋がったのだろう。
加えて 良いオーディオの迫力ある音も 重要な要素だったのかもしれない。
ただ 音質については 必ずしも 再生周波数範囲が広い必要はない。
以前に ほとんど 中音域の音しか出ないような 小さなラジオで シベリウスの 交響曲第2番 を聴いた時 自分が 宇宙飛行士として 軌道上の人工衛星に乗っている と想像してみたことがある。
そのような場所では 大きな再生装置は望めないのだ。窓の外、湾曲した黒い地平線の向こうから 太陽が昇ってくるシーンを 想い浮かべると 曲想とピッタリ合っている所では 十分大きな chill が起きたことを 記憶している。
1.11. Chills 誘発装置
通常は chills発生の背景として 必ずしも 大きなニュースを必要とするわけではないが、その様なものがあると大きな chills になることは、上記の2件の例から考えて、十分ありそうなことに思われる。
ところで、最近 私は 別の角度からも chills を考えさせられることになった。端的にいうと、chills を惹き起こしやすくする装置を発見(発明?)したのだ。特別な思い入れや、偶然が引き起こす驚きなどと関係なく、機械的に 感動の chill を惹き起こす方法があるのだ。
それは、chillを起きやすくするようにした音楽再生装置を使う ということである。
私の場合、オーケストラが演奏する交響曲で chill が起こることが 最も多い。
そのオーケストラが紡ぎ出す音響に、図2 に示す方法で、エコーを付け加える。すると、極めて効果的に chill が生じやすくなるのである。
このことに気が付いたのは、テレビの音を近くで聞けるようにするためのスピーカーで、Bluetooth方式で無線接続するものを、使い始めたからである。
この方式では デジタル伝送のために パケット通信を行う。その結果、伝送に 0.3秒ほどの遅れ時間が生ずる。価格によって 遅れ時間は違うのだが、どの装置でも、テレビ本来のスピーカーから出る音より、はっきりとした遅れ時間がある ということだ。
面白いことに、テレビのスピーカーと 新規購入のBluetoothスピーカーの 両方を働かせていると、音が二重になって聞こえるのだが、全体としては、ある種のエコーが掛かっているようにも聞こえる。
そのディレー(遅れ)効果で 音楽の深みが増すことが分かったわけである。ディレーを付けるより、まともなエコーを付けた方が、音が二重にならずに 澄んだものになるので、リバーブ装置を使用する方が 綺麗になる。
カラオケの歌声用マイクの回路では、エコーを付けられるようになっているが、それと同じことを、音楽を再生するためのステレオ・アンプで行うわけである。2チャンネル・ステレオ用のエコー装置(リバーブ、ディレー、コーラス等の 間系効果の発生装置)は、エレキギター用に市販されている。
エフェクターとか ストンプと 呼ばれるものである。
通常のステレオ装置は、左右2つのスピーカー用の出力端子がある。それに手を加えず、ヘッドフォン用出力端子からの信号を リバーブ装置に通して その出力を別のアンプで調節し 別の左右スピーカーに出力する。通常のスピーカーに出す信号には手を触れず、エコーを付加した音を追加のスピーカーで鳴らす。追加のスピーカーは、元の左右スピーカーの傍に置いても良いし、部屋の後方に置いても良い。
コンサート・ホールでは 残響時間は2秒としている場合が多いようである。電子装置は 好みによって変えられるが 私は4秒にセットした。
人工的にエコーを付加すると、オーケストラの音は素晴らしく 奥行きのある 良い音に聴こえる。
やや遠い所で 演奏しているようにも 聴こえる。教会やコンサート・ホールのような とても広い空間で演奏しているように 聴こえる。
さらに 小さな音量にして聴いていても かなり高い満足感が得られるところが とても良い。
全体的に まるでコンサート・ホールで 生の演奏を聴いているかのように なるのだ。
それが感動を高め chill が生じる頻度を 2倍くらいは押し上げるのである。
ピアノなどのソロ演奏でも 大きな効果が現れる。
まるで 自分の部屋に 実物のピアノが置かれていて 誰かが 生演奏をしてくれているか のようだ。
一方 同じアンプの設定で、アナウンサーの声を聴くと 当然ながら 残響の強いホールで聴いたようになり 言葉の意味を汲むには 少し苦しいものになる。
エコーの付加で 会場での生演奏のように聴こえることから分かったことは、通常のCDの録音は オケなどの生の音を 出来るだけ純粋に 記録しようとしたものが多い ということである。
コンサート・ホールの残響が あまり含まれない音になっていることである。
会場の音を 独立マイクで同時録音し、収録後の編集で混ぜることもあるようだが、一般には 会場の雑音を避けようとしているのだろう と想像する。
エコーが付加できるオーディオ装置も theater system として市販されているが、残響時間は それほど長くなく 効果が小さい。
大きな効果を得るには 安い中国製アンプやリバーブ装置を入手するのが良い。
音楽を 風呂場で聴くような感じにすると、何でも良く聴こえるわけである。
音楽を それほど聴き込んでいない妻が バッハの「無伴奏チェロ組曲」などという 難しい曲を 初めて聴いて 「すごくいい音ね!」と言って 40分間も腕組みしたまま 眠ることもなく 聴き惚れていたのには 驚いた。
日曜などに ヨーロッパの街を散歩していて 突然 教会の前に出て その中に入れた ということが 何度かある。
中では ミサなどが行われており、司祭の声やオルガンの音が 天から降ってくるように聞こえ とても敬虔な気持ちにさせられる。
これは 建物の外と中では 音響的環境が 大きく異なっていることが 関係している。教会の建物の残響は 持続時間も長く 複雑な反響経路を持つので ことさら豊かな感じがする。
教会建築 というものは 讃美歌やオルガンのための残響付加装置に他ならず 教会堂 という楽器になっている といえよう。
それとは完全には同じにできないが 私が使用している電子装置は 残響時間が長い点で 教会と共通している。それを通して オルガン曲などを聴くと 教会で聴いているように聴こえ そこらじゅうの旋律で chills が起こることになる。
セザール・フランクの「交響的大曲」は 私の最も好きなオルガンの曲である。これも確実に chills を惹き起す。
この曲に関しては、背景にある特別な物語は 全く無いが、それでも、とても大きな chills が起きる。
最近、バルセロナのサグラダ・ファミリア教会で、マリアの塔の落成式が行われ、サミー・ムーサの「Elysium」が世界初演された。これも、その表題以外には、背景となる情報はまったく無いが、秀逸である。
リバーブ装置を通した音を加えて聴くと、恐らく大聖堂の中で 直接聴いたのと変わらない と思われるような、荘厳なエコーが付いて 聴こえる。
ガウディ建築が持つ 特別な空間の雰囲気が、とてもよく伝わって来る。勿論 大きな chill反応が 重ね重ね 起こるのである。
音楽全般に、以前より頻繁に 鳥肌立ちが起こり、ベートーベンはもとより、それほど好きではなかったモーツァルトまでもが、聴いていて 飽きることが無い。
[参考]
音楽鑑賞で鳥肌が立つ という情動反応を解説する総説として 次の記事をお勧めしておく。
森 数馬、岩永 誠 (2014)
音楽による 強烈な情動として生じる 鳥肌感の 研究動向と展望.
心理学研究 85(5), 495-509.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy/85/5/85_85...
2.涙の出る話:夜桜美人図後日談
2.1. メナード美術館
ある岡崎の知人が 夜桜美人図に関する私の評論文
老成して観る「夜桜美人図」は素晴らしい
–https://re-ageing.jp/25217/ に掲載 –
を読んで 応為とその肉筆画に 興味を持ってくれた。
彼は 気配りの人で、その画を所蔵するメナード美術館のホームページを調べ、ちょうど 桜の時期を挟んで その画が公開されているのを見つけた。
早速 私に知らせてくれて、ご親切に、車で一緒に見に行こう と誘ってくれたのである。
私は 既に目が十分悪く 免許返納済み。電車を使っても 行ったことのない不便そうな所へ 行きたいという気持ちは失せていたのだが、せっかく 車を出してくれる と言うので 行ってみようか という気持ちになった。
画のイメージは すっかり 頭に入っているし、よく見ることはできないだろう と思い、あまり 期待もせず、大した感動なしに戻ってくるだろう と覚悟をしていた。
とにかく 実物を拝んでおけるのは 本当に最後か と思い、お誘いの車に 乗せてもらうことにした。
2023年3月23日。
メナード美術館のある小牧までは、高速で順調。少し雨模様ながら、大崩れではない。高速道路沿いに、早咲きの桜が あちこち咲いているのが 私の目にも 何とか分かった。
美術館は 小牧インターから近い。美術館の駐車場は 思ったより小さく、車は 少なく、それほどの人は 来ていない様子。建物は 最近の建て替え とかで、落ち着いた良い雰囲気である。シンボリックな樹が植えられた中庭を中心に、ロの字形に 周りを巡るように できている。
順路前半の部屋では かなりの有名絵画が並び、ゆっくりと 観ていった。
小さな美術館なのに 随分 お金を掛けているように感じられる。
2.2. 見えない対面
展示全体の半分を過ぎたか と思われた頃、お目当ての部屋となり、陳列されている順に 壁の作品を見て行ったが、古い日本画があるな ということを憶えているだけで、どんな画だったのか 全く思い出せない。
部屋の奥の方に 突然、応為の掛け軸の画が 現れたのが分かった。距離は2m。その途端、首筋から 背中にかけて ゾクゾク感が走った。それほど強いものではなかった。
しかし驚いたのは、ゆっくりと 画を観ようとしたのに、前触れもなく 涙が 溢れてきたことである。身体が動かない。
画は 元々 暗く描かれている上に 画を傷めぬように 照明が落とされていて、私の眼には 黒っぽい陰影としか 見えない。それなのに 画の傍に 応為が立っているような感覚さえ起こり、画の周りの空間に オーラが満ちてくる。
画を観よう としても、涙が 次々に 溢れるように 流れ出て、視野が歪み、何を見ているのか 全く分からない。こんなに 涙が出るなんて ビックリ と 自分で驚くばかり。
あまりに泣ける自分がおかしくて、かえって 笑ってしまうのを感じながら、マスクの中に ひたすら涙が流れ込む状態になった。幸い 部屋は暗いし、マスクもしているので、恥ずかしさは 無かった。それでも あまりに 涙が出続けるので、ついには ティッシュを取り出し、目頭を押さえなければならなくなった。画から ゆっくり後方へ離れて、人の邪魔にならないようにしながら、3、4分間は 立ち尽くして 泣いていた。
どうにも涙が止まらないままに、連れ達は どうしているか と周りを見ると、皆、とうに 次の部屋に移ってしまっているのが 分かった。
そこで 私も 後を追って 部屋から出ると、すぐに 涙はおさまり、やっと 普通に 画が観られるようになった。
隣の部屋に向かう廊下の壁には 北斎の凱風快晴図(赤富士)や 広重の亀戸梅屋敷の図など 見覚えのある有名な版画が在るのが分かったが、特別な吸引力を感じることができず 立ち止まる気にもなれなかった。
次の部屋に入ると 連れ達が居るのが分かった。
その部屋にも 多数の画が在ったようだったが、全く興味を惹かれることがなく、観ても しょうがないように思い、応為の部屋に戻って、もう少し しっかりと、「夜桜美人図」を 涙無しに、観ておこう と思った。
2.3. 暗い部屋のオーラ
元の部屋に戻って 今度は 冷静に 鑑賞できるだろうと 画に近づいた。
ところが 再び 画の詳細を見始めるなり、涙が 勝手に 溢れ出てきてしまうのである。画から出るオーラが むしろ 前より強くなり、私を捉えて離さないようである。応為の姿が見えるわけではない。その声が 聞こえるわけでもなかったが、和服の彼女が 画のそばに現れたような雰囲気が 感じられる。
レビー小体型認知症になると 幻視が よく起こる、などという医学教科書の記述が 頭をよぎる。部屋に居るはずの他の人々が 消えてしまい、応為と私だけが 向かい合っているような、ただならぬ雰囲気を 感じるのだ。
不思議なことに 夜桜美人図から目を逸らすと 涙はすぐ 止まるのである。それなのに 画に 目を向けると 反射的に 涙が出てしまい 止めどが無い。
これは テレビでこの画を初めて観た 2021年7月の時より 遥かに凄い。
そもそも 画によって 感動の涙が出たのは 「夜桜美人図」 が生まれて初めて であったが、 こんなに 5分も10分も 涙が止めどもなく流れる などということ自体、生まれて初めて であった。76歳のこれまで そんなに悲しいことはなかったし、大感動するようなことも無かった。音楽でも そこまでの感動を味わったことは なかったのだ。
画を まともに観ると 反射的に涙が溢れ、目を逸らすと 落ち着く というのは、本当におかしな反応だ と思った。盛大に 涙が出るのに、心の中では 笑いの感情も 一杯に起こっていて いわゆる 泣き笑いの状態 である。
さっき それを経験したばかりなのに 時間を置かずに 再び そんなことになるものだろうか と 訝しくもなった。こんなことが 老人になってから 起ころうとは 正に 驚きである。老人になっても 心は 干からびず 却って まだ余っている燃料が 激しく燃え盛る ということか。
オーラ と書いたが これは もう少し 説明を要するであろう。
実際 オーラ という言葉の意味は 簡単な辞書では把握できないくらいに広く 分かりにくいものだ。特別な人から発せられる 霊的な雰囲気 といったところが 普通の使われ方か。画から発する 光のような 特別なものが 見えたわけではなく 異様な ただならぬ気配を 感じた というべきかもしれない。
若い頃 一度だけ 夢に現れた人物に 強いオーラを感じたことがある。
その夢では 街中の 普通の通りに 神が現れた のである。あろうことか その姿は 頭陀袋(ずだぶくろ)を着ただけの 貧しそうな感じに 見えた。ひどい髪の毛と髭だらけの顔、汚れた裸足が目立つ、乞食の様相であった。
しかし 私は それでも これが 真の神の姿なのだ と 直感的に 分かってしまうのである。そこが 夢の荒唐無稽さなのだが その姿から オーラ が 発せられているのだ。あまりに凄いオーラを感じるので どんなことを命令されるのか 不安になった。私は 夢の中で とても緊張して これ以上は無い という怖さに襲われ その恐怖から逃げ出したいという気持ちのあまり 眼が醒めてしまったのである。夢の光景は 忘れられない。
普通なら 何でもないはずの 乞食のような人が 実は 神というものの正体であり それを知っているのは オーラ を感じている 自分だけ という状況。恐怖の感覚は そこから 生まれた。オーラは眠っている頭の中で 夢として 現れたものである。
オーラ というものは 実在の物ではなく 頭の中で作られるものである。幻覚 に分類されるかもしれない。
精神の病を持つ人が 他人には理解できない恐怖に 襲われることが多いが そのような脳の反応は 夢を見ている時 とか 麻薬や飢餓の影響を受けている時に 現実と非現実を しっかり 区別できない状態で生じるものなのだ。
普通の美術館の一室で 一幅の画を観ただけで 平々凡々な脳に 突然 強いオーラが感じられる というのは どう解釈したらいいのか、私にはよく分からない。差し当たり 精神には 特別な異常は無い と感じているのだが。
2.4. 眩:くらら
メナード美術館に画を観に行ってから 2週間後に NHKテレビで 「眩(くらら)」のドラマが放送された。朝井まかての 葛飾応為 を主人公にした物語である。
原作に比べると やや物足りなさがあったが 大筋はそのまま という感じではあった。やはり味わいには 違いがある。
ひとつの違和感は ドラマ中の応為が 美人であることだったかもしれない。
応為が描いた夜桜の下に立つ美人その人が 逆に 応為を演じているかのような 倒錯した感があった。色々なエピソードが 出てくるのだが それらの繋がりが 分かりにくい感じもした。
それでも おやじ殿(北斎)と娘のお栄(応為)の生活の場を テレビカメラという文明の利器を介して 覗いているようではあった。
江戸のあの時代では 女性が自由に生きることは とても難しかっただろうに よく あの画が生まれたものだ と思う。
北斎が 人に見せる画を描いていたのに対し 応為は 自分が魅かれたものを 描いていた と思う。そこが 近代的な女性を 感じさせる。北斎は 色と形を 我が物とし、応為は 光と陰を 手中にしたのだ。
私は、NHKドラマを観ながら やっと 「眩(くらら)」という表題に 納得できた。眩 の字は 眩暈(げんうん)のように めまい を意味しているが 同時に 眩しい(まぶしい)とも 読むのである。応為は 眩しさに くらくらした というのだろう。
現代のように 光が 溢れている世界、テレビやネットが 光で 送られる時代、そこまで 見通せなくても 江戸時代の蝋燭や行燈の生活から 未来である明治の方向を見透し 葛飾の長屋から 永代橋の向こうに 西洋の様子を 想像したはずの応為。さぞ くらくらしたことであろう。
光の存在に 気が付いた彼女には 遠くの光や夜の光が ことさら 眩しく感じられた ということを表しているのであろう。
2.5. 生成進化
明治から昭和にかけて活躍した日本画家、横山大観は 「生成流転」 という大作を 手がけたそうだ。
長さ 40 m におよぶ巻紙に 山に落ちた雨の雫が 次第に集まって 渓流となり 野原や田畑を潤す川となり 大海へ注いでいくまでの様子を 連続的に 描いたものだ という。
話を聞くだけでも その壮大さが 感じられる。
このような規模の画に比べると 応為の「夜桜美人図」は 縦が 90 cm しかない 掛け軸の画であり ほんの小さなものに 思われる。
しかし そうではない。
そこに描かれているものは 夜空に光る星々、地上に咲く桜や小さな草花、そして 花模様の着物を着た若い女性、女性の持つ筆と短冊 なのである。
実は この世には これほど雄大なものは 他に無いのだ。「夜桜美人図」に 私が強く魅かれるのは その構図が 想像を絶する 巨大なものだからである。
この世の全ての物は 過去の星々が 核融合反応を進めて合成した原子で できている。軽い原子は 水素から始まる核融合で、 鉄より重い原子は 星が死ぬ時の超新星爆発で 作られる。
超新星爆発で 宇宙空間にまき散らされた 全ての物質は 長い時間の間に お互いに引き寄せ合い 新しい太陽系を作り上げる。
「夜桜美人図」の画の上の方に描かれた星々は そうして 出来たものなのだ。
星々と共に 地球も出来て その地上には 自然 と呼ばれるものが 生まれる。45億年の時間を経て 自然は 進化し ヒトが現れる。
ヒトの活動が 文明 を起こし サイエンスやアートを生み出したのだ。
宇宙が生まれてから 138億年が 現在の時点である。
「夜桜美人図」の画は この長い、長い、時間の全景を 写し取っている。
宇宙からヒトに至る「生成進化」の流れが 夜空の星から 桜の枝となり ヒトが詩を書こうとする場面までの 上から下へ向かう流れと なっている。
たった 90 cm の幅に この世の歴史の全景が 収まっている!
2.6. 特別な賞
応為自身が 星や地球の物語を知っていた とは思われないが ヒトの頭の中に 漠然とした 宇宙全史の流れが感じられることは 想像できる。
前に書いた評論では 私は 「夜桜美人図」に描かれているものは 脳の機能の要約のようなもの と纏めた。
ここでは その表現を 少し変えて 次のように 記しておきたい。
ヒトの脳の中には この世の歴史の全体の痕跡が 朧げに 刻まれていて それらが 夢 のように 意識されることがあるのかも知れない、と。
あんなにも素晴らしい画を描いておきながら 栄誉や富を追わなかった 葛飾応為。
2023年の春に 美術館に収められた自筆の「夜桜美人図」の傍に来てくれた 葛飾応為。
桜吹雪のように 私の前に現れ、何かを伝えたい という表情を 見せてくれた。
ヒトは サイエンスとアートに 命を捧げればよいのだ という 私の信念に対して 大きく頷き 涙の特別賞を与えてくれたかのようだ。
止めることができなかった 私の涙は アートの神からの 賜りものだったのだろう。
3. 神からの賜りもの
3.1.人生の目的
Vangelisの音楽で 怒涛の chills を 味わうことになった。
また メナード美術館の「夜桜美人図」で 止めどもない涙を 流すことになった。
いずれも この歳になって 初めて体験した 大きな出来事である。
これは ミューズの神と アートの神が 作品を深く鑑賞した人間に授ける賞なのではないか と思う。
私は 神というものを信じているわけではないが 人から貰う賞ではない と言いたいわけである。
私は ここに至るまで かなり長い人生を過ごしてきたのは 確かである。この長い人生が無かったならば このような 大きな体験をすることも 無かったであろう。
もしそうであれば 人生は 若い頃から 特別な目的を持って生きなくとも 目標 というものを 必死に追いかける という生き方をしなくても やはり 生きるに値するものだ ということが 言えることになる。
つまり ある程度の長さの人生を生きてみて初めて ミューズや アートの神々から 授けられるような 特別な オーガズムの褒賞を 受けることができるのかもしれない。
私は 10歳くらいから思春期を迎え とても早熟な小学生となった。
5,6年生の頃から 先生よりも背が高くなり 体毛も生え 頭の中も 子供の世界から離れていった。
中学生になると 成績優秀、生徒会長、部活大好き、にも関わらず 厭世観に憑りつかれ 人生に 疑問を持つようになった。
特別 暗いわけではなかったが 中学時代後半は しばしば 踏切に飛込んでしまいたい誘惑に 駆られた。
それでも 勉強や部活を辞めることはなく 何かに押し流されるように 中学時代を過ごし 高校へ入学することになった。
高校での生活は 人生を大きく変えるものとなり 死の誘惑からは 脱することができたのだが 中学時代までの 死への強い願望は しっかり 記憶に残るものとなった。
死への 強い憧れを持ったことについて 後に ワクチン接種と同じようなものだったのだろう と考えた。
未成年のうちに 死にたい願望 という病原体に曝しておくと 精神的な免疫系が 十分に活性化され 抗体のようなものができて 大人になって 二度と死にたくなることが無いようになるのだ。
長い人生の間 ずっと持ち続けられる不死願望を 強く植え付ける仕組みになっている。
そんな風に考えれば 無理なく 納得できた。
ただ 人生を生きようとするためには 人生には 大きな意味がある と感じられなければならない。すなわち 何らかの 強い動機や目標が 必要であり、その目標は 簡単には 定まらないのである。
人は誰でも 自分の人生を 意味のある、立派なものにしたい と思う気持ちが 植え付けられている。
多くの人は 他人から褒められ 賞賛されることで 大きな満足を感じる。何らかの賞が 授与されることを 名誉 と考える。
私自身は あまり 他人から 褒められたり 賞を受けたりすることを 求めなかった。他人に 褒められても その褒めてくれる他人自体には どんな価値があるのか。ノーベル賞は 貰えればいいに違いないが 貰えることは ほぼほぼ 運 に左右される。ヒトから与えられる賞を貰って、歴史に名を残すことに どれほどの意味があるのだろうか。大衆の耳目に残らなければ 己が人生に意味が無い というわけではないだろう。
生きるための目的が分からないと 自殺まで考えたりする。
他人のために役立つこと、社会の問題を解決すること、世界平和のために尽くすこと、偉大な発明や発見をすること…などの よくある答えでは 満足できなかった。
もしそうであるならば 他人、社会、世界平和、発明発見などは 何のためにあるのか。
その目的が はっきりとは 答えられないのである。強いて言えば 人々が善き人生を送るため ということになってしまう。
謎と その答えが 循環してしまうのだ。
この先 何十年かを生きようとも 十代で あの世に行ってしまおうとも 五十歩百歩であろう としか思われない感覚は その後もあまり変わらなかった。
それでも次第に 意識 と ヒトの心の不思議 に 魅かれるようになり 人生を生きる目標として それらの解明を 目指す以外にやることはない と得心した。
他人のために生きるのではなく 人類の代表の一人 として 自分が知りたいから この世の謎に挑むのだ。
世の中には 人のために尽くしてくれる人が 沢山 居る。それを 甘んじて受けて その人たちが出来ないことをやりたい。そうでなければ 人類は 一人では届かない所へ 登っていかれないのだ。
この世の 一番の難問を解くには 高度な学問を 勉強し 最新の科学技術を 理解しなければならない。それが 恩返しだ と悟った。
何が 将来の研究に役立つのか、その正確な答えは 分からなかったけれど、これまでに 人類が築いてきた数学や物理学は 全て マスターしておくべきだ、と思われた。
ミューズ や アート を 深く理解し 大きな感動を受ける というのは 全くの 受動的な反応である。
私には その受動的な出来事は 神から賜った 特別な賞なのだ と感じられる。
この特別賞の価値は 全く 個人的なものである。
その価値は 貰った者だけに 分かるもので 他人には あまり理解できない。受賞祝いのパーティーも 開かれることはない。そのことが この賞の 独特の価値を示している。
このような特別賞は 多分 若い頃には 貰いにくいものなのだろう。
私自身は 若い頃から 音楽を聴くことで 小さな chill や tear は 頻繁に起こることを 経験していた。
しかし 絵画の分野では (私の場合) 身体の反応を伴う ダイナミックな感動は 起きたことが無かった。
それが 今回の「夜桜美人図」の一件で 必ずしも 私には起こらない と決まっていたわけではないことを 思い知ったのである。
歳をとれば 誰でも 必ず 貰えるもの とまでは言えないかもしれない。しかし 他人や自然が 造ったものに対する感動が 大きな身体反応を伴う情動として体験されることは 偶然にでも 起こり得るのだ。だとすれば 誰にでも アートの刺激により 脳内報酬系の活動が 極端に高まることが 起こりうる。
それが 神からの褒賞 と言えるようなものに なり得るのである。
若い頃に設定した 人生の目標は 「意識やこころが どのように 物質から 発生するのか を解明する」 というものであった。
約40年間の研究生活の間に その目標だけを 追い続けたか と言えばウソになる。
研究 というものは 何をやっても面白いのだ。他人から頼まれる研究もある。研究資金を得るための研究もある。研究室に来てくれる人には それぞれの目標がある。そんなわけで 研究業績のリストを見ると 人生の目的に向かうにしては 大きな遠回りをしている感が強い。
しかし 後悔は無い。無駄な研究は無く 全て 生命の秘密に近づくヒントを 与えてくれたのだ。
それらは 最終目標に近づくための能力を 養うものでもあった。そして 最終目標自体を 忘れてはいない。
今こそ 集中できる条件が 揃っている という自覚がある。
そうは言うものの 答えは 決して一つではない であろう。
実際 人生の目的は 誰でも はっきり決まっている とは思われない。あまり 意識せずに 生きている人の方が 多いだろう。特に 若い時には 世界が分からず 目標を決めにくいのだ。
そもそも 人の命は 全くの受動的な過程を経て 与えられたものだ。歳をとってから やっと それが 自分のもの と感じられ しっかり 的が絞られる。その結果として 神からの褒賞を 受動的に 体感できるようなこともある というのが 案外 正解だったのかもしれない。
3.2. 感動を人類の記憶に残す
アートの創作活動は 体外に 何らかの形ある物体を残すこと である。
その物体が 何千年もの間 この世に存続し続けることが アーティストの目標である。
自分の命を削り 落ちた粉を集めて 可能な限りの力を加え 出来るだけ 長持ちする作品に 固める。
それを目指して 演奏したり、描いたり、彫ったり というように 外部に対して 能動的に 仕事をする必要がある。
絵画や彫刻などの 偉大なアート作品は 作者の身体の外部に 他人が認知できる 具体的な物 として 存在することになる。
研究活動をする人も 研究成果 としての論文が 長く残ることに 満足感を覚える。
作者が死んでも そのもの は保存され 長く 残っていく。大事なものが 世に遺るのだ。
そのことを 価値 と捉え そのような能動的な活動をすることは 人生の目的に設定するのに 良い選択肢であろう。
興味を惹かれるのは 能動的な活動によって 何かを創造する時 その過程において どのような情動反応があるのだろうか ということである。
演奏家が ステージ上で 泣きながら 演奏しているというのは 見たことが無い。
親友の演奏家に訊くと 自分の演奏中に chillが起こることは無いし 涙が溢れることもないが 演奏後に大きな達成感や安堵感を感ずることは多い と言う。
演奏前や演奏中の緊張感、不安感 そして 一種の恐怖感は 手や体が震えるほどだ と言う。
多分 それは 命を懸けて 戦いに向かう武士が 経験する 武者震い と同じである。
極度の緊張が 自律神経に伝わるのである。
こうした緊張が 演奏中に出たくなるかもしれない咳を 抑えているかもしれない。
世界的オーケストラで 主席演奏者を務めるのは 並大抵のことではない。音楽を楽しむ などというのとは 次元の違う話 なのであろう。
作曲家や演奏家が 能動的な活動をしている最中に受ける 高揚感 については 残念ながら 私の体験としては 語れないので 論ずるのは控えておこう。
人が アートの作品を観て 何らかの刺激を受け 大きな感動を受ける とする。
その 感動 というものは いかに大きくても 具体的に残っていく様なものではない。この辺りをよく考えてみたい。
ヒトが感動する という反応をした時 実は その人間の身体の内部に 大事なものが 残されるのではないか。
作品そのものは どれだけ長い時間 残り どれだけ多くの人間に 賞賛されるか が重要視される。
これに対して 作品から受ける感動は どれだけ深く どれだけ大きいものか が大事であろう。
これは 作品の持つ力だけでなく 鑑賞する人間の感性や個性にも 依存する。
作品 と 個人の出会い がなければ 始まらない。
いわば この世における 巡り合わせ が 最終効果を決定することになる。
多くの人は この 巡り合い を求めて 旅行をしたり 美術館やコンサートに 足を運ぶ。冒険や科学的探索も それらと同じような動機に 動かされていることが多い。
これまでの歴史の中で 人間は 作品を創ることに 熱中してきた。エジプトのピラミッドから Vangelisのシンセサイザー音楽まで…
そのようなことに 人生を捧げてきた人が 大多数である。
それらの造作物から どんなに強い印象を受け 畏怖と感動に包まれても その反応は 夢のように消えてしまうのは どうしたことだろう。
感動は 個人の頭と身体の中に 限られて現れるような電気化学反応だから 仕方が無いのである。ほんの少しの時間がたてば 水面の波紋のように 消えてしまうのだ。せいぜい 個人の記憶としてしか 残らない。個人が死ねば その記憶も霧散して 残らない。
少し 人間活動の分野が異なるが スポーツの世界はどうであろうか。
心と身体を使って 最高の身体運動を達成するのが スポーツマンの目標である。
他人より秀でていることが 記録として残される。人気者は 子供たちの憧れ であり 普通の人には 考えられないような高給を 貰うことが出来る。
その活動の結果は アートのような 未来に残る具体物ではないが どこかの大会記録に残る数字となり 大きく言えば 人類の記憶 として残される。現代では その活躍の様子を ビデオとして残すことも 可能である。
昔は 音楽の演奏も 実演 でなければ 楽しめなかったが 今は デジタル記録 として 再生出来 何度でも 鑑賞することが出来る。
音楽も 本来は 演奏が終われば その場からは 霧散して 消えてしまうものであるが 技術的工夫によって 長時間残すことが出来るようになった。
エジソンが 蝋管レコードを売り出した時 人々は とても喜んだに違いない。
私は 感動 という 霧散しやすい反応を 数字でも良いし デジタル記録でも良いので 消えないものの形で残すことはできないのだろうか と夢想する。
感動 を惹き起こす作品の 原物が無い状況でも その反応自体を 体内に再生することは 出来ないのだろうか。
誰の身体にも 明らかな形で いつでも どこでも 環境的制限なしに 体験出来るようにしたい。
それは 人類にとって 新しい種類の記録となり 次の進化の礎 となるのではないだろうか。
ヒトの身体の生理学を想うと 神の考えた 身体の設計方針には 深い狙いが 込められているように感ずる。
人類は まだ それを はっきり認識していない。
極めて 荒っぽい話かもしれないが 体毛に繋がる立毛筋の収縮度を 経時的に記録すると 情動 を客観的に記録することにならないだろうか。
ネット上に公開されている 資料やビデオへのアクセス回数が その人気度の指標となり 資料の提供者が配当金をもらっている。この方式は 作品の価値を 数値化する 一つのやり方である。
オークションで落札される価格が アート作品の価値のように思われているが もっと信頼性の高い評価法があるとよい。
作品を鑑賞する者の感動を 客観的に記録再生することが出来れば 作品の価値は より客観的に評価付け出来る。感動が 定量化され スポーツ記録のように 人類の記憶の中に 刻み込まれていくはずだ。
3.3. ヒトを動かす絶対的な仕組み
人間社会の様々な賞に比べて 身体の内部に発生する 特別甘美な感覚のある賞は どんな価値を持つのであろうか。
例えば 性のオーガズムは 動物の繁栄と進化を 力強く導いてきた 基本的な駆動力である。
食の満足感と同じで 生きる という本能と 直結した 根底的な報酬である。
脳内麻薬 と言われる快楽物質の放出を介して 種の繁殖が図られる機構 となっている。
Chills や tears という 身体反応を伴う大感動は 賞状やメダルとは 全く違う 強い脳内痕跡を残す。
恐らく ドーパミンやセロトニンなどの 脳内報酬系の伝達物質が 大量に放出され 甘美な記憶に係わる神経系に 新たな回路や接続点が構築され 何らかの神経機能が 強化されるはずである。
これは ヒトの身体に生来備わっている 受動的ながら 環境に適応するための反応である。自然淘汰を前にして 生命存続を期するために不可欠な 絶対的仕組みが 脳の中にあるのだ。
痛み という原始的な感覚も ヒトの逃避行動を促す 強い力を持っている。
ヒトは それから逃げるために 出来ることはないか と模索する。
脳に引き起こされる 甘美な感覚と 逃げ出したくなるような 痛みとを 並べてみると 正負の方向は 真逆であるが その駆動力は 同じように強い。
それでは 死ぬ時には どちらが 主に働くのだろうか。
痛みが 強いか、甘美さが 強いか。
立花隆の「臨死体験」の探索によると ヒトは 死に臨んだ時に 脳内麻薬が放出され 甘美な感覚に包まれながら あの世に行くのではないか とされる。それまでの人生において 頑張ったことに対する 神の褒賞 というわけだ。彼は 既に亡くなったが 彼はそれを 体験しただろうか。
実は一年ほど前 私も簡単な死を 体験したようだ。家の中で 何となく テレビを立ったまま 見ていたところ 急に 横隔膜より下の 下半身が とても不快になり 立っていられなくなった。
痛みとしては 軽かったものの その不快感は 表現しようのない大きなもので どうにも耐えられない。ひどい車酔い とも違う。傍のソファーに倒れ込むのがやっとで 全身の脱力感に襲われ 一体 何が起こったのか 全く分からなかった。
脈を取る という 簡単なことさえ 思いつかない。横隔膜より上には 異常が感じられず 放散痛などもない。起立性低血圧なら 視野がチラチラして 青くなることが多いが それも無い。大腿部より下方だけに 何やら魔物が覆いかぶさったのか と思われ 逃げたいのに 脚が全く動かない。その強い不快感から逃げなければ と思っているうちに 意識が遠くなっていった。「ああ、これが死ぬという過程なのだ」と自覚した時 下半身の不快さが 感じられなくなっていくのがわかった。死ぬ ということは 苦しみから開放されることだ というのが分かった。そうした心の平静さを認識したのが 最後の意識であった。
完全に意識を喪失してから ほんの10秒か20秒で 眠りから醒めるように 意識が戻ってきた。朝の目覚めと変わらない。身体中に 何の異常も残っていなかった。
医学的に 何が起こったのか 私の知識では 診断出来ない。時々 不整脈もあったので 心臓でできた血栓が どこかに跳んだのかもしれない。自作自演の催眠術にかかったのか とも思われる。この時の経験だけから言うと 死とは 感じる能力の著しい減退であり それによる 苦痛からの開放 という側面が強い。
死に際して 人は 恍惚感の爆発 といった 神からの褒賞 を感じるように できているのだろうか。
死に近づけば 全ての感覚能力が低下するので そのようなことは 起きないのではないか と思う。
臨死体験をした人の中に 恍惚感や幸福感を感じた という人がいるようであるが それは 一種の夢を見ただけのことではないか。
臨死状態で 脳内麻薬の放出が起こるのは 神経細胞の異常興奮が起こる時 である。脳に酸素が不足すると 神経細胞の静止電位は 直ちに脱分極を始め それが 制御不能な伝達物質の放出に繋がり 脳内麻薬の充満に至る という可能性は 完全には 否定出来ない。
問題は それが起こる前に 正常な感覚や認識を担う神経細胞のネットワークの働きも 同様の脱分極の作用で 壊滅してしまう ということだ。
多分 死は それほど特異なものではなく 通常の入眠と変わらないものなのではないか と思う。いわば 人間は 毎日 死の練習をしているのである。
現代では この問題に 決着を付ける方法がある。
誰か有志に依頼して 核磁気共鳴画像装置(MRI)というドーナツ形の医療測定器の中で 死んでもらうことだ。誰か 死につつある人を 測定器を通して 観察し続ければよいのだ。
今では この装置で 脳活動をデコーディングする という技術が開発され 測定対象の脳が どのような景色を見ているのか を把握できる。
例えば 眠っている人の夢を スクリーンに描き出すことが可能である。また 目を覚ましている人では 頭の中で どんな場面を想像しているか どんな文章の展開を考えているか などを ある程度 捉えることが出来る。他人が 頭の中で考えていることを 知ることが出来るのである。
この方法で 死に際して 脳内報酬系の活性化があるかどうか 分かるはずである。この方法を使えば あの世への扉を 完全にくぐり抜け 二度と戻ってくることのない人間が 扉の向こう側で どのような光景を見ているのか コンピュータ・ディスプレーを通して 見えるようにすることが出来る。死ぬ人の脳を カメラにして あの世の風景を撮影することが 可能なのだ。死の世界に足を踏み入れる時 人は どのような気分を味わうのか、本人の言葉を借りなくとも 分かるのだ。勿論 脳細胞が 完全に脱分極してしまうまでの 数分間にすぎないが…
アートを鑑賞して感動する という反応は 身体 という構造物の内部にだけ 現れる反応である。
その反応した という記憶も また 時間と共に 消えていくようなものである。
そうした反応は この世に存続する物体とは異なり 他人の目には あまり触れない。
しかし オーガズムが 子供を産むことに繋がるのと同じように その 感動 という反応は 人類の未来を左右するような 何らかのものを生み出すのに 重要なものであるに違いない。
少なくとも サイエンスとアートを生み出す 強い牽引力となり それらの発展に資するものとなる に違いない。そのことが 遠い未来の世界における 大きな価値に繋がり 宇宙における ヒトの出現を 大いに意味のあるものにするはずである。
ミューズやアートの神々から贈られる 特別な賞は ヒトを含む宇宙全体が 複雑さの極みを目指して歩むことを 力強く奨励するものとなるのである。
それは 人生の目的の ひとつの候補となるものだ。人類は 宇宙繁栄の絶頂点に向かって 長い進化の階段を 一段ずつ上っている。神から贈られる褒賞は その一段を上り切るごとに与えられる オーガズムなのだろう。
おわりに
2023年の1月と3月に 立て続けに 忘れられない出来事が起こり 私を大変驚かせた。
それらの出来事を振り返って 日記のような文章にした。
自分の身体の内部に起こったことを 科学的な報告書のように 書き残しておきたい と思った。
重要さの大小に関らず 繋がりのありそうなことを記録したので 冗長な点は お見逃しいただきたい。
書き進めてみると それらの出来事の意味についても 考えざるを得なくなった。
少ない例数から導ける結論は 堅固なものではないが 人生について ひとつ 私が見通せていなかったことがあったようだ。それを書き遺しておきたかった。
2023年5月10日の 77歳の誕生日に 脱稿としたものを さらに添削した。生成AIによって 書かれた文章は含まれていない。
本稿を終えるに当たって 謝辞を記しておきたい。
日比谷高校時代の級友で ロッテルダム・コンセルトヘボウの主席チェリストであった 田中雅氏 と 東京医科歯科大学時代の級友で 元ドイツ・グラモフォン社副社長の 千勝泰生氏 とに 様々な示唆を受けたことを感謝する。
浜松医科大学名誉教授の 筒井祥博氏 には 繰り返してのコメントと激励を頂いたことを感謝する。元基礎生物学研究所技術課長の 服部宏之氏 にも深く感謝する。氏の美術館へのお誘いが無ければ 本稿は生まれることはなかったであろう。さらに (HP)老レ成 AGE⤴︎LIVEの 前澤祐貴子氏 にアップロード編集の労を取ってくれたことを感謝する。高校時代に私に生きる力を与え 以来 長い人生の旅路を共にしてくれた 妻の 千佳子 には 特別な感謝を捧げる。
《本稿 前編》
【寄稿D】 老成学シリーズ
「老成して観る夜桜美人図は 素晴らしい」 寺川 進 著
(2022 04 20 脱稿・2022 06 10 公開)
(編集: 前澤 祐貴子)
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