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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿C】医師 菅原一晃シリーズ > 【寄稿C】(10) 「情熱を注げること それができる人とできない人がいるのであろう」 精神科医 菅原一晃
情熱を注げること
それができる人 と できない人 がいるのであろう
精神科医
菅原一晃
パスカル・メルシエ
『リスボンへの夜行列車』
浅井晶子訳、早川書房 2012年
および
映画
「リスボンに誘われて」
ポルトガル旅行の話から始めます。
ポルトガル というとイメージが湧きにくいかもしれません。
ポルトガル料理の店が 鎌倉市大船にあり 私は 時々 訪れます。
実は ポルトガルは ヨーロッパの中で 最も米を食べる国民で(ブラジルからの逆輸入) フェイジョアーダのような豆や 肉をご飯と煮込んだもの、タコとご飯を煮込んだもの、魚介類とご飯を煮込んだもの など「炊き込みご飯」のような料理が 沢山あります。
エッグタルトで有名な パステル・デ・ナタ というデザートもありますし ワインも 白ワインと別枠で 緑ワインというものもあり…おいしい食べ物が多いのです。
ポルトガル語は ブラジルで最も話されていますが、本国ポルトガルの他、モザンビークやアンゴラなどの アフリカでも話されています。
リズムがとてもよく また ブラジルで話されている言葉とポルトガルで話されている言葉は 全然違うのですが この違いも面白いなあ と思います。
しかし 残念なことに、私はポルトガルに行ったことがありません。
ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、スイス、オランダ、ベルギー、オーストリアなど 色々訪れましたのに どうしてか ポルトガルは行き忘れてしまいましたので あくまで 私の語りもイメージ…になってしまいます。
…という中で、前々から観たかった『リスボンへの夜行列車』 及び それを映画化した「リスボンに誘われて」について書きます。
これらは 当時多くの人が勧めていました。
例えば 養老孟司氏もお勧めしていましたし 「人生」を考える上で とても評判の良い映画です。Wikipediaなどを参考にして あら筋をご紹介します。
スイスの高校で古典文献学を教えているライムント・グレゴリウスは、5年前に離婚し 孤独で退屈な日々を送っている。
ある雨の日 通勤途中のライムントは 橋から飛び降り自殺をしようとしている若い女性を助けるが 彼女はコートを残したまま 姿を消す。
ライムントはコートのポケットの中にある本をもとに 彼女を探そうとするが 本には出発間近のリスボン行きの列車のチケットが挟まれていた。
アマデウが若くして亡くなっていたことを知ったライムントは たまたま知り合った女性マリアナの伯父ジョアンがアマデウを知っている と聞き 彼を訪ねる。
駅に駆けつけたライムントだったが 彼女を見つけることが出来ず 咄嗟にその列車に飛び乗ってしまう。列車の中で本を読んだライムントは 本の内容に心を奪われ 著者であるアマデウを訪ねることにする。
これをきっかけにアマデウを知る人々を訪ね歩く中で ライムントは 1974年まで続いた独裁政権「エスタド・ノヴォ」時代のポルトガルにおける反体制活動に関わったアマデウの愛と青春を知ることとなる。
そこで 主人公であるライムント・グレゴリウスは 本の作者であるアマデウに惹かれ 1970年台当時 彼が関わった人々に興味を持ち 実際に数十年経過したそれらの人物に会いに行く。
人間というのは数十年経過しても、青春時代の…特に強烈な体験を残していた時期のことは はっきり覚えていると思うのですが この登場人物たちも、各人様々に 当時の体験を語ります。
思い出したくないこともあるでしょうし 懐かしい気持ちになることもあります。
こうして、主人公はスイスの自身の学校の授業を投げ出し リスボンで数十年前に「本の作者」が体験したことを追体験するのです。
その姿勢は非常に真摯であり どうしてここまで聞こうとするのか、追い求めるのか、と思わせるほどのものがあります。
敢えて ネタバレしないように書くならば これらの話を追い求める中で 橋から飛び降り自殺をしようとしている若い女性が 意外な形でその登場人物と関わっていきます。
また その女性が持っていた「本」は 然るべき人物の手に渡っていくことになります。
最後のシーンは リスボンからの列車に主人公が乗るシーンで スイスに帰ろうとしますが ある言葉をかけられ そこでどう決断するか…というところで終了します。
この映画 あるいはもとになる小説を読んだ人は、旅をしたくなった という感想を持つようです。
また 旅をすることで 自分を見つめたくもなる他 旅とは関係なく 自分を見つめるきっかけにもなりもする とも聞きました。
昔から 「旅物語」というのは ロマンがあります。そもそも ここで用いた「ロマン」という言葉自体 発生源がイタリアの首都ローマ あるいは 遥か昔のヨーロッパの大国であるローマ帝国からきており それを追い求めること自体が ロマンティックなことでありました。
普段見慣れた環境から外に出て 普段の生活を相対化することで またもともとの現実を振り返る役割があり 私たちは 意識的にしろ無意識的にしろ そのような活動を行っているのです。
が 実は 私はこの映画を見て あるいは 小説を読んでも そのような気持ちにはなりませんでした。
何か「物語」に憧れ あるいは 「人物」に憧れて それを追い求める…というのはどうなのでしょうか? はっきり言って 出来る人と出来ない人がいるのではないでしょうか?
私は そのようなことが出来ない人間であることを はっきり自覚しました。
例題① 誰か師匠を持ち そこに弟子入りするか
学問の世界にしろ スポーツや芸能…何でもよいです。何かを「学ぶ」ということは その先駆者の知恵を学び また真似をすることから 多くは始まります。
「学ぶ」という単語は一説には「まねぶ(真似ぶ)」から来ていると聞きます。
その上で、「弟子入りする」ということがあります。これは文字通り というよりも 精神的な面での「弟子入り」ということが大きい と思います。
例えば 憧れのスポーツ選手がいて その選手のポジションやら技術やらを真似したくなる という人もいれば 確かに憧れの選手はいるし 凄いと思うけれど 決して真似をしたいとかではなく 別の形でやろう という人もいるでしょう。
学問でも 例えば 哲学などは顕著ですが 「ヴィトゲンシュタインを生涯かけて学びたい」 とか 「カントの専門家になりたい」 という方もいれば 「カントは勉強するけれど それは あくまでとっかかりの上で 別に専門家になるわけではない」ということで 広い意味での専門はあるけれど 誰かに心酔するわけではない 狭い意味での専門はない という方もいるでしょう。
精神科の領域でも 例えば 精神分析などは 誰か先生を探して その先生から教育分析というものを受ける みたいな制度があります。
そこに何百万円 あるいは 一千万円とかをかけ その弟子になった ということをしたい人もいれば そういうこと自体にうさん臭さしか感じず 意味がない と切り捨てる人もいるでしょう。
私は いずれも後者の立場で 誰かに 何かに惹かれて それを自分も追い求めて、というタイプではないです。
私にも 哲学の師匠や医学、精神医学の師にあたる人はいますが その人のやっていることを 同じように自分もやりたいというタイプではないです。
こういうことを言うと 私に関わって育ててくださった先生方で悲しむ方もいるかもしれませんが 先生方を尊敬する気持ちとは別に はっきり「傾向」「性向」などといったものだ と思います。
例題② 宗教を持てるか、巡礼できるか
日本人は「無宗教」が多い と言います。
実際には 葬式なら仏教、正月や七五三には神社、クリスマスにはキリスト教…など 多くの宗教が絡んでいるので節操がない と言われます。
ただ 例えば 「先祖の墓参り」とかに関しては なんだかんだで お参りしたくなる方も多いのではないでしょうか?
その延長線上にあるのが「信仰」であり 更には「巡礼」というようなものだ と思います。
一神教の宗教…キリスト教やユダヤ教、イスラム教がその代表ですが これらは「聖地」があります。これらの宗教では 例えば「エルサレム」「メッカ」などに多くの人が巡礼します。人生に1回でも行ってみたい という人がいます。
ここで「聖地」という名前を出しました。
好きな音楽家だったり スポーツ選手だったり で その生家や墓に行ったり 極めて特徴的なエピソードを持つ場所に行く などの行動は 多くのファンが行う と思います。
最近は聞きませんが 日本でもそのような土地巡りを「聖地巡礼」と言い その言葉が流行り 今では「どこどこに行った」などで インスタグラムに載せるなどの行為は しばしばある と思います。
例えば キリスト教なら 聖地であるエルサレムやバチカン あるいは サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼、イスラム教なら メッカ巡礼 などがあります。
それらの行為は「始原」を求める 非常に魅力的であり 宗教自体にとって根源的な行為である と言えます。
また 最近 徴兵を終えた若い韓国人の青年たちが キリスト教の聖地を巡礼するケースが多い と聞きます。精神修養や自分探し などの目的も 巡礼にはある と思います。
しかし 正直なところ 私はそういうことが出来ない人です。
よくSNSで 「どこどこに行った」などを載せますが それは旅行で行ったり たまたまそこの近くに行き 名物や記念的な場所があるのを知っていた というようなケースがほとんどです。
実際のところは 目的をもって…というより 情熱をもって どこかの場所を目指す ということは 殆どないです。
ということで 私は この映画や小説の主人公の行動に関し 共感する要素が非常に乏しかったです。
勿論 話自体は よくわかります。
現在でも 多くの戦争がありますが 戦争が起きてしまうと これまでの人間関係が変わってしまうこと…例えば 「政府側」と「反体制側」に分かれてしまうことなどに やはり直面させられます。
また 主人公が追い求めていた アマデウ という青年は医師なのですが 対立する独裁政権側の人間の命を救います。医師なら当然の行為ですが そのことで多くの仲間、反体制側との関係が悪くなったりもします。そういう意味で 医師の使命ということについても 考えさせられたりしました。
が、私であれば この「本」を書いた青年のことを ここまで知ろうとすることは出来ない でしょうし その結果 知ることはないでしょう。
当然 その青年を取り巻いていた人々に会おうとすることはない でしょう。
では このように「何かに取りつかれる」「情熱を持つ」ことが出来るかどうか というのは 一体どういうことが 関わっているのでしょうか?
何が その分かれ道、境目なのでしょうか?
このことに関しては 私ははっきりわかりませんが 幾つかの補助線を引きたい と思います。
補助線①
哲学に プラトン主義(理想主義) と アリストテレス主義(現実主義) があります。
真善美 というものだったり 理想と言ったり いろいろなものがありますが…その追求の仕方 あるいは それをどうやって叶えていくか ということで 人それぞれ 方法が違います。
一つは 現実世界の中に そのような理想はなく しかし それ追い求め 追求することに価値を置く方法 があります。
プラトン主義、理想主義です。
社会が混乱した時 や 堕落した時 などに 理想を引っ提げて登場するヒーローがいます。大体そういう人物は この「理想主義」といって良い と思います。
それは 従来のやり方を一掃し 新しいやり方を政治や社会にもたらしたりする原動力になります。
一方 従来のやり方を信奉する人間と軋轢を生じたり 高邁な理想を掲げるものの 実行不可能なことであった というリスクもあります。
いずれにせよ、このようなタイプの人たち というのが 情熱を持ちながら 何かに憑依し 何かを信じ それに突き進むポテンシャルを持っているのであろう と思います。
一方で そのような現実から離れた理想を追求などせず 現実の中において 実際には変わりゆくものやそのポテンシャルを見出していく方法 もあります。
アリストテレス主義、現実主義です。
当然ながら 理想主義者に比べると ロマンは乏しく 変革の契機は少ない です。
「暗黒の中世」と言われるような時代は ある意味 この現実主義中心であり 教会と政治がくっついてしまったり アリストテレスの古い知識の踏襲に終始していた など…悪しき風習に縛られていた面は否定できません。
しかし一方では その中からも 古いものの中からポテンシャルを見出していく要素も 皆無ではありません。
例えば 「暗黒の中世」の後に来る ルネサンス というのは 理想主義的な要素が強い とは思いますが 実際には 急に出たものではなく 古いものの中からはみ出す要素が適宜あり それらが 然るべき時に噴出した と考えれば 現実主義的なものの創造性も馬鹿にはならない と思うのです。
このように 理想主義、現実主義という対立構造があり これは 一人一人の人間や社会、さらに時代や歴史、地域それぞれにおいて もっているものだ と思います。
停滞している時期や革新的な時代などによっても 個々人が理想主義として振る舞えるか あるいは 現実主義の中でやり繰りするか も違ってくるでしょう。
補助線②
人間 というのは 「遺伝」と「環境」で決まる面が あります。
最近は 遺伝子か環境か ではなく、遺伝子自体も環境の影響で変わっていくことが常識になっています。いわゆる エピジェネティックの話 です。
つまり 同じ遺伝子を持った人間でも その後の環境によって発現している遺伝子が変わり その差が積もり積もって 全く異なる人間になっていく のです。当然ながら 考えも。
故に 時代や地理、気候などによって 人間の思考が変わっていくのは 当然なのです。
4-2-4の法則というのがあります。
これはあまりにも大雑把な話ですが 新奇性追求 つまり 新しいことをすることを望むかどうか に関して 新しいことを追求できる人が4割、絶対にしたくない人が4割、あとの2割は状況に応じて どちらかについていく柔軟あるいは優柔不断なタイプです。
この割合も 正直どこまで信憑性があるかは不明ですが 時代や地域、その他の環境によっても変わっていくはずです。
とんでもない話で言えば 理想主義的な考え、現実主義的な考えに関しても このような遺伝子の配分、当然ながら 遺伝子を持っているだけではなく 発現するかどうかによって 変わってくるという風に 考えることもできるのではないか と考えています。
補助線③
更に 追加して述べるならば 私は人間の認知行動に関して 視覚、聴覚、言語などの要素があり 物事の認識が人それぞれで変わってくる と考えています。その配分によって 視覚認知優位、聴覚認知優位、言語優位など と変わっていきます。
例えば 学校の勉強で 先生が言ったこと…とか 友達と勉強して話したこと…は理解し よくわかるけれど 自分で本を読んで…とかだと 全然頭に入らないという人がいます。こういう人は 聴覚優位です。
授業の光景や勉強のシーンを覚えていて それに関連付けて覚えていたり 黒板で書いた雰囲気とか 場合によって そのまま覚えている…など 視覚優位の人もいます。
あるいは 人が話していて…とか 黒板に書いてあること…だと なかなか頭に入らないけれど 自分で教科書を読んで…とか ノートに書き写して…とか やる方が頭に入る…とかですと 言語優位です。
本を読んだりするのが得意なタイプでもあるので 言語優位のタイプですと 勉強ができ 成績も良くなりやすいです。
もちろん人それぞれでタイプが違うし、極端な発達障害でない限りは完全にどれかが飛びぬけて、別のが弱すぎる、などはないはずですが、実際に医者やその他の世界でも、試験とか勉強はできるけど実際の臨床や実務の総合的な判断が全然ダメ…とかの人もいます。自分で勉強をするタイプである言語優位に特化していて、かつ視覚・聴覚認知が低いと、そういうパターンがあり得ます。
私の経験則にすぎませんが 「言語優位」の人で、この映画や小説の主人公のように 突然 何かを思いついて 情熱を持って向かっていくような人が しばしばいる気がします。
「言葉の力」に最も影響されやすい認知特性 とも言えると考えます。
視覚認知優位や聴覚認知優位の方が 衝動性や判断がよくも悪くも早い場合がありますが、 一方で 言葉そのものに導かれて…というところで 言語優位の人が 例えば本の書かれた内容で動いていく…ということがあるような気がします。
勉強ができる人が 何やら宗教に惹かれて…みたいなこともしばしばありますが それはその人の社会常識云々というよりも むしろテクストに書かれている「言葉の特性」に反応・影響していることが大きい のではないでしょうか。
まあ これも人それぞれで 決して認知特性のみに還元はできない とは思いますが その人の行動の 一つの要素は説明し得るのではないか と考えます。
以上 この映画で どうして私は感情移入できないのか というところから 人間の認知特性や行動面に関して考えてみました。
人間はいろいろな状況で影響を受け 感情を持ち行動していきます。その積み重ねが人格を作り、そして 人生を歩んでいくのですが そこでは その個人個人が持つ生まれ持った要因と その周囲にある環要素を 影響として受けています。
それが 旅への態度にも影響しているのであろう…と この映画をみて感じたのでした。
私は旅に出ることがとても好きで 気まぐれでも 予定してでも どちらでもあります。
私は 自分が見たものや感じたものでなければ なかなか納得できないところがあり その意味では この小説の主人公とは異なる振る舞いをしたであろう と思ってしまいます。が このような「旅」を主題にした物語において 自分と主人公の違いについて考えるのも 面白いのかもしれません。
読書経験が 自分が何者かを知る「旅」になる と言えるのだと思います。
(編集:前澤 祐貴子)
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