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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿E】演劇研究家 遠藤幸英シリーズ > 【寄稿E】(7)〈性〉は〈生〉でもあるか 遠藤幸英
山田太一の原作を翻案したラジオドラマを聴きながら
<性>は<生>でもあるか
遠藤幸英
最近YouTubeで見つけたラジオドラマ 『飛ぶ夢をしばらく見ない』にハマってしまった。人気があるらしく過去10年で10万回も再生されている。原作を知らないまま聴いたが、老女が段階を経て幼女に変身するという設定がまずあり、さらに中年男が彼女と恋愛関係を結ぶというのも好奇心をそそる。
男である自分が言うのもなんだが、この場合の好奇心は男の視点が色濃いような気がする。だが、脚色は(劇作家や漫画原作者としても活躍する)作家岡本螢という女性だ。映画監督須川栄三が自ら脚色した映画版もあり、これに対するコメントをネットで見かけたが、おそらく女性と思えるその発言者によると、作品自体は楽しめるとはしながらも主人公の一人である中年男の言動が(好色漢じみていて?)やや気色悪いと感じたとか。ラジオドラマを聴いた者からするとこれはもっともな感覚ではある。
「NHK FMシアター 『飛ぶ夢をしばらく見ない』」
1986年07月26日放送、59分
時間を逆行し生きる女性と中年男の愛の日々
原作:山田太一(1985年) 脚色:岡本螢
音楽:吉川和夫 効果:久保光男 技術:永倉一郎 演出:松本順
出演:山本圭(=田浦修司 48歳)、岩崎加根子(=宮林睦子 67歳)、平栗あつみ
骨折で入院中の田浦の病室に列車事故にあった患者が運び込まれる。衝立越しに出会った女性患者・睦子との不思議な一夜から、信じられない物語が始まる。
タイトルは吉原幸子「夢 三」(詩集『夢 あるひは・・・』1976年、青土社 所収)から引用。
http://sugi.doorblog.jp/archives/80508580.htmlより転載(一部改変)。
物語はこうだ。
プレハブ住宅販売会社の北陸支店の幹部社員、田浦修司は単身赴任という侘しい境遇と仕事が原因のストレスからか、一人飲みに出かけた雑居ビルの外階段(2階?)から飛び降りて大腿骨骨折という重傷を負って入院。まだ傷の回復がおぼつかないある日、線路沿いにあった病院は鉄道事故の負傷者を急遽受け入れることになる。勤務先の好意で個室にいた田浦は一晩だけと説得されて女性患者の個室に移される。二人の間には衝立があり互いの姿は見えない。突発した特殊事情とはいえ闖入者みたいな居心地の悪さを感じた田浦は言い訳でもするように先住者に声をかける。そこから途切れ途切れの短い会話がはじまる。やがて上品な言葉使いの女性患者が発したひと言から田浦が予測もしなかった事態が展開する。
シテクダサイマスカ
ヘエッ?
シテクダサイマスカ
ナニヲデス
アタシヲオカシテクダサイマスカ
しかしお互い足腰がきかない状態でどうするのか。これはすべてひょっとすると生きることにくたびれたおのれを自嘲する田浦の幻想、幻聴かもしれない。だが、とにかく女性患者の音声上のリードによって二人はしばし言葉だけの性的行為に耽る。妄想に憑かれたかのような二人はやがて眠りに落ち、一夜があける。と、ここで田浦にとって新たに驚くべき事実が判明する。田浦を元の病室にもどし、臨時の二人部屋を原状復帰させようとやって来た看護師が目隠し代わりの衝立を少し動かした。そのとたん田浦の目に飛び込んできたのは白髪頭の老女の姿。ほとんど親子ほどの年齢差である。声から判断しててっきり中年女性だと田浦は思い込んでいたのだ。
人間の声は男女とも年齢判断がむずかしい。田浦役の山本圭はほぼ役と同年齢。一方当時50代前半だった岩崎加根子が睦子を演じるが、6歳前後の少女を演じても特に違和感はない。とはいえ、現実世界を覗き見しているのではなく、これはあくまで芝居であるという認識を前提にしないと嘘くさくなるだろう。
田浦にとってこの老いた女性患者は記憶の彼方に消える…はずだった。退院した田浦は東京本社に転勤するが、これは栄転ではない。仕事に打ち込みすぎたか何かの理由で心が壊れて戦列から外された、いわば落ちこぼればかり集めた臨時の部署に配属される都心にある本社にいながら島流しの境遇であっても、それなりに心の平安を味わう田浦である。
ところが、ある日突然睦子から電話がかかってくる。彼女も退院し、離婚して郷里である東京にもどっていた。二人が出会った病院で田浦の勤務先を尋ね、連絡してきたのだそうだ。田浦にとっては不快な思い出しかないので、すげなく電話をきる。だが、なぜか睦子は大胆な行動に出る。帰宅途中の田浦を待ち伏せ,呼びとめる。
原作(1986年、新潮社)によると、
嘘のようだった。どう思い返しても、あの朝の女は老婆であった。髪も薄く白く、土気色の肌に、はっきりと刻まれた皺を忘れることはできない。同じ女のはずがない。(59頁)
再会した彼女は40歳そこそこ。しかもいわゆる美人でスタイルもいいという設定。(どちらかといえばジェンダー・フリー思想の先駆けと思える山田太一がこんなこと考えるのか?読者を惹きつける作戦?)声だけは衝立越しに聞いた睦子のそれと同じなのだが、外見があまりに違うことで田浦は躊躇する。そんなことにはお構いなく北陸の病院での二人のエロティックな<出会い>を話題にした睦子は「夫以外の、男のひとを知りませんの」と告白し、「そう思ってましたの」とさらに恐いことを言い出す(原作 78頁)。短いながらも二人の性的関係が現実だったというのだ。
この後、二人は田浦に断りなく睦子が予約したホテルで現実に同衾し、それが何度か繰り返されることになる。しかし睦子に魅せられてはいても連絡先がわからないので田浦から誘うことはできない。一夜の出会いの後、決まって睦子は姿を消し、2ヶ月かそこらの間隔をおいて彼女から田浦に連絡が入る。その度に彼女は10歳前後若返る。彼女がいうには突然全身の激痛に襲われるのが若返りの予兆であり、そういうもがき苦しむ姿を田浦に見られたくないそうだ。田浦は睦子の連絡を待つしかない。睦子の外見は急速に若返るが、内面はあくまで上品で分別ある70歳近い老女である。こういう非現実的な状況で性交渉が可能だろうか。う〜む。
岡本螢によって翻案されたラジオドラマ版を聴いたあとで原作を読んだが、両者には大きな違いがあるように思える。
山田太一という作家の基本スタンスは 現実の人間関係を基盤にすえて時に非現実的状況が展開する。ラジオドラマ版では田浦が東京本社転勤後に同居する妻と息子の存在が極めて薄い。他方原作は専業主婦であった妻がひょんなきっかけから始めたミニコミ誌発行ビジネスが軌道に乗り、小規模ながらも起業家としてのプライドをもつことが語られる。
また大学生の息子も田浦の秘密に関与してくる。都心のホテルに若い女性(睦子)と並んで入る父を偶然見かけたというのだ。しかも人目につく場所では行動に気をつけるべきだと忠告までしてくれる。現実感覚の鋭い山田太一らしい目配りである。言ってみれば、地に足の着いた現実世界という大枠に田浦と睦子の夢想的世界が納まっている。ところが、ラジオドラマ版は現実ではありそうにない男女の関係が全面に押し出されている。二人の物語が説得力のある背景なしに宙吊りになっているようで落ち着かない。
もう一点構成上の見逃せない違いがある。山田の原作とはちがい、(岡本螢によって翻案された)ラジオドラマ版では 後日談として二人が別れた2ヶ月後、最初の出会いから1年後の田浦の思いが綴られる。もう二度と叶わない逢瀬を思い返して感慨に耽る。
私見だが、こういう結末は非現実的な体験をした人間が現実世界に引きもどされたときにいかにも言いそうなセリフだ。何かしらセンチメンタルというかメロドラマっぽい。
原作の結末は情に流れやすい場面描写に抑制がきいている。短い情景描写で物語が閉じられる。老婆だったはずの睦子が一年という時間が経過するうちに次第に若返り、ついには4、5歳の幼女へと変身する。久しぶりにかなった睦子との逢瀬と別れ。睦子の永遠の別れの言葉に答える田浦。
「さよなら」
睦子はその私を見上げ、少しうるんだ目でうなずくと、思い切ったように駅の方に歩きはじめた。
人々がすぐに睦子と私の間をさえぎりはじめる。夕方の雑踏の中を遠くなる睦子は、いかにも無力に思えた。薄桃色のワンピースが、大きな背広姿や女たちの間を点のように揺れて、やがて見えなくなった。(239頁)
これで物語が閉じられる。
このような夕暮れの都会の雑踏に表象される生身の人間が懸命に生きる現実社会があってこそ作者山田太一特有の柔軟さと鋭利さをあわせもつ叙情性が醸し出されるのではないか。ラジオドラマ では<切なさ>がむき出しになっているので余韻を十分味わえない。原作にはない内面の直接的な吐露は湿っぽすぎる。1970年代から80年代にかけて放映されたTVドラマで高い評価を得た山田の特色は地に足をつけた詩的情緒であったはずである。
ちなみに、映画版(須川栄三監督・脚本、細川俊之・石田えり主演、1990年)の結末も気になるが、視聴できそうにない。動画レンタルがなく、オークションでDVDが1万円あまりで落札されたり、唯一入手可能なDVDが5万円近くしたりする現状だ。
さて、ラジオドラマ版を聴いたときから気になっていたが、原作以来のタイトル『飛ぶ夢をしばらく見ない』とはなんのことだろう。好奇心を刺激するような曖昧さを含んでいてあれこれ解釈したくなる。原作者が種明かししているように、これは詩人吉原幸子(1932〜2002年)の詩の一節に由来する。
『夢 あるいは…』のうち「ゆめ 三」
“とぶゆめ” をしばらくみない
といふはなしをしたら その夜
ひさしぶりに “とぶゆめ” をみた
(中略)
泳ぐゆめならみたわ
でもとぶゆめなんて一度も——
とあの人が言ったとき
わたしはふと胸をつかれた
(日常が そんなに重くて?)
反対かもしれない
日常が重いからこそ
わたしたちはゆめでとぶのかもしれない
それに とぶゆめといふものは
蝶のやうにいい気持とは限らない
むしろ たいていは怖いゆめだ
(『現代の詩人12 吉原幸子』、1983年、中央公論社、156〜158頁)
山田太一の原作に戻るが、吉原の言う「飛ぶ」行為が契機となって山田は、夫との関係に虚しさを感じたらしい睦子が駅のホーから飛び降り自殺未遂、そして田浦の意味不明の飛び降りを考えついたのだろうか。この点は明示されているわけではないのであくまで想像である。しかし日常の桎梏から逃れようと人は飛ぶ夢を見るのではないかと推量する吉原と、主人公二人に<投身>させる山田とは発想が似通っているような気もする。
もう一点気がかりなのは飛ぶ夢を「しばらく見ない」とはどういうことか。当分見たくないという意思表示なのか。あるいは、見たいけれども残念ながら見ることがかなわないという現状認識なのだろうか。いやどちらでもいいことだ。むしろ解釈の多重性こそ意味がある。
ところで、原作者があえて吉原幸子を意識しているとすると、睦子の苦痛を伴う<若返り>という設定も吉原の第一詩集『幼年連祷』(1964年自費出版)と関連づけたくなる。(「連祷」とはギリシヤ正教で司祭補佐と聖歌隊が歌い交わす形式をさすそうだ。)
喪失ではなく
大きくなって
小さかったことのいみを知ったとき
わたしは “えうねん” を
ふたたび もった
こんどこそ ほんたうに
はじめてもった
誰でも いちど 小さいのだった
わたしも いちど 小さいのだった
電車の窓から きょろきょろ見たのだ
けしきは 新しかったのだ いちど
それがどんなに まばゆいことだったか
大きくなったからこそ わたしにわかる
(「幼年連祷・三」『現代の詩人12 吉原幸子』、24〜25頁)
すでに成人した吉原は幼年期を「喪失」したものとみなす。だが、その輝かしい時期のまばゆさは時間を振り返ることではじめて納得できるとも言う。
第一連にあるとおり「わたしは “えうねん” を / ふたたび もった / こんどこそ ほんたうに / はじめてもった」と言う確信を得るのだ。大人になることで「喪失」した「幼年」は成長が完結する時点に達してこそその意義が明らかになる。だから喪失は喪失ではなく逆説であって、真に獲得するための不可避の体験なのではないか。ある種の「痛み」を伴うのも納得できる。
山田の場合も同様である。睦子の若返りは「幼年(えうねん)」の段階で終わる。そこまで達するためには、吉原の逆説的な「喪失」あるいは覚醒に部分的にせよ苦い思いが伴うように、睦子は若返りが進むたびに他者(田浦)に見せられないような苦悶のあがきを避けて通れないのである。新しい境地に達するには加入儀式を必要とする古代人の知恵に通ずるものだろうか。
タイトルを吉原の作品から拝借したとはいえ、山田が執筆に際して吉原詩集を何冊も熟読したとはかぎらないだろう。けれども二人は同世代——山田が2歳年少——である。そのうえ詩作が中心の吉原と違って山田は多様な文芸ジャンルを股にかけ、嗜好が分散する享受者を相手に活動してきた経歴を考慮すると、以前から吉原(ばかりでなく他の詩人も含め)の詩に親しんでいたことも十分ありうる。若返りの着想が吉原の『幼年連祷』と意図せずして呼応していても不思議ではない。
こう考えてくると、主人公二人の性的関係に凝縮したラジオドラマ版が与える印象は それが原作から独立した作品だ ということである。原作と切り離せば、これはこれで傑作である。これに対して 原作は山田の本領である人間ドラマ、生きることの喜びと悲哀をないまぜにして人間社会を浮き彫りにする。性的な関係もその重要な要素のひとつである。すでに触れたように人間ドラマという大枠 あるいは 広大な宇宙の中で(恒星の光を反射しながら) 夢想はきらめくあまたの惑星ではないだろうか。そういう夢想中で <性>のドラマは人間にとって大いなる関心事である。<性>のドラマは <生>のドラマでもあるのだから。
余談になるが、原作を読んだおかげで長らく忘れていた詩人たちに出会えた。とりわけ次の金子光晴の詩は 実体験できなかった時代の複雑な事情に触れた時の かつての自分自身の思いが蘇る。
作中で言及される富岡多恵子や金子光晴など懐かしい。原作で言及されている次の詩は実に久しぶりだった。
洗面器のなかの
さびしい音よ。
くれてゆく岬(*タンジョン)の
雨の碇泊(とまり)。
ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。
人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。
洗面器のなかの
音のさびしさを。
[筆者注] * タンジョン → タンジュン・ピアイ(Tanjung Piai)=マレー半島最南端の岬、シンガポールの西隣り。
(金子光晴「洗面器」(『女たちへのエレジー』1949年)
余談の続き。
もうひとつ 山田太一原作(1987年)のラジオドラマにもワクワクさせられた。NHK オーディオドラマ『異人たちとの夏』(2017年放送。2019年再放送)。
四十代のシナリオライター原田。すでに亡くなった両親が彼の子ども時代の姿で現れたり、年下の女性ケイと恋仲になったり…。彼女は同じマンションの隣人だが、数ヶ月前孤独を苦にして自殺していた。つまり原田は幽霊と関係を結んだのだ。出演は国広富之、鶴田真由、松田洋治、雛形あきこ他。国広の声の演技がみごとだ。
(編集: 前澤 祐貴子)
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