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『老人と海』から考える「21世紀老人」   森下直貴
初代所長 森下直貴 作品群(2018 09〜2022 12) | 2021.12.01

©︎Y.Maezawa

『老人と海』から考える

「21世紀老人」

老成学を具体的に展開するための序論


森下 直貴

ヘミングウェイの小説に『老人と海』(1952年)がある。「老いた漁師」の物語だ。ヘミングウェイはこの一冊でピューリッツァー賞とノーベル文学賞をもらった。そこに描かれた生き様は、時代を超えて老人の生き方とは何かを問いかけてくる。『老人と海』を原点にしてそこから21世紀の老人の生き方を考えることを通じて、〈老成学〉を社会的現実の中で具体的に展開するためには何が必要とされるか探ってみたい。なお、『老人と海』は新潮文庫版を用い、数字はその引用ページを示す。


1 『老人と海』の主題(1)


老人の名はサンチアゴ。ハバナ近郊の小さな漁村に住み、メキシコ湾流で漁をしている。ここ84日間、一匹の魚もとれない日が続く。漁師仲間は老人を見て胸を痛めているが、当人はまだまだ誰にもひけをとらないと思っている。85日目の早朝、老人は大物を狙って小舟で遠海に乗り出す。やがて運よく一匹の巨大なカジキマグロが仕掛けにかかる。そこからが長い。二昼夜におよぶ死闘の末、老人は満身創痍の中でようやく大物を仕留めた。ところがその帰路、小舟にくくりつけたカジキをサメの群れに食べられてしまう。力尽きた老人の小舟がカジキの残骸とともに港に帰還したのは、三日目の深夜だった。


老いた漁師の生きがい

物語の粗筋はそのようにいたって単純だ。そして主題はもちろん「老いた漁師」の誇りをかけた闘いである。老いても仕事(広く見れば活動)は重要であり、働きがいは老人の生きがいである。該当する箇所をパラフレーズしながら拾ってみよう(以下の引用は基本的にパラフレーズして示す)。


漁師は老いて痩せていたが、目は海と同じ色をし、生き生きとしていて、まだ挫けてはいなかった(7~8)。周囲からは「変わり者のじいさん」と見られている(13、69)。綱を真っすぐに保つことにかけては、だれにもひけをとらない自信がある(33)。人間の力と忍耐のギリギリの限度をこれまで何度も証ししてきたが、いま再度それを証明しようとしていた。一回一回が新たな挑戦だった(70)。


男らしさの価値

老いた漁師の挑戦を男性特有の行動として捉えたのはボーヴォワールである。彼女によれば、「自尊心から老衰に対して精力的に抵抗する者」は、「最後の時期を一つの挑戦とみなして生きる」。その際に重要なのは「無気力の人生を拒否し、忍耐と勇気という男性的諸価値を最後まで主張する」ことだ。このような「不屈さ」はサンチアゴほど勇壮でなくとも多くの男の老人にも認められる。彼らは「老いという言葉が表現する全般的な衰頽の徴」に抗い、「いぜんとして一個の人間であることを他者にも自分自身にも証明したい」のだ(『老い』人文書院、邦訳326〜327頁)。


老人の挑戦に男性の価値を重ねるのはいかにもフェミニストらしい見方である。たしかに『老人と海』には「男の面目」12 、「一人前の男」27「男らしさ」98という言葉が目立っている。漁師の誇りは同時に男としての誇りでもある。Fishermanは何と言ってman=maleなのだから。


痛みで音を上げるようじゃ男とは言えない(87)。体中にひしめく痛みに耐え、残っていた力を振り絞り、とうに失くしていた誇りを甦らせて魚にぶつけた(99)。あの魚を殺したのは、自分が生きるため、売って稼ぐため、とばかりは言えなかった。男としての誇りがかかっていたし、漁師の本分を果たすためでもあった。(111)


老人は若い頃、腕相撲のチャンピョンとして有名だった(73〜74)。また、老人の夢にはしばしばライオンが登場する(26、70、135)。アフリカの黄昏の浜辺で子猫のように戯れるライオンの姿は、理想の男の象徴なのだろう。「男らしさ」はまた死闘を演じた相手の魚にも当てはまる。


何たる大物だ。食らいつき方も引っ張り方も男らしい。いささかもうろたえていない(50~51)。あれだけ貫禄があり、あれだけ立派な魚(69)。あれだけ堂々とした、風格のある魚(80)。悠然として剛毅で自信たっぷりの怖いもの知らず(88)。死を抱え込んだ魚が最後の生気をとりもどし、水上高くせり上がって、堂々たる雄姿の全容と力と美を見せつけた(99)。


老人と海の関係

他方、フェミニストとは違う見方もある。訳者の高見浩の解説には、『老人と海』は大きな意味での自然讃歌であり、壮大なラブストーリーとある(144)。ここで語られているのは人間と海(自然)との情交的とも見える共生の関係になる。これはナチュラリストの見方だ。


若い漁師や、エンジン付きの船で漁に出る連中のなかには、海を競争相手か、たんなる仕事場か、敵のようにみなし、エル・マールと男性形で呼ぶものがいる。しかし、老人はいつも海を女性、ラ・マールとしてとらえていた。海は大きな恵みを与えたり、出し惜しんだりする存在だ。ときに荒れたり邪険に振る舞ったりしても、それは海の本然である。人間の女と同じように海もまた月の影響を受ける(30〜31)。


海を女性として捉えるなら、漁の相手である魚は兄弟ということになる。


おまえみたいにでかくて、美しく、悠然としていて、しかも気品のあるやつは見たことないからな。兄弟よ、よし、好きなようにしろ、おれを殺せ。こうなったら、どっちがどっちを殺そうと同じだ(97〜98)。くたびれたじじいのおれだが、兄弟も同然のこの魚に引導を渡すことができた(100)。


2 『老人と海』の主題(2)


老いた漁師の生きがいに浸透するのは、ボーヴォワールによれば男らしさの価値であり、高見によれば自然との共生の感覚である。どちらも素直で常識的な見方ではある。しかし、『老人と海』にはそれらに尽きない別の見方も可能だ。それが老人と少年の関係である。なお、これについては訳者もさすがに見逃していない(144)。


老人と少年の関係

老人の側にはいつも少年がいた。名をマノーリンという。13、14歳くらいか。5歳のときから老人の手伝いをし、漁の仕方を教わった。「一人前の男」として扱ってくれる老人を心から慕い、あれこれと世話を焼いている。老人の方も信頼の色のこもる優しい眼差しで少年を見ている(11)。


ぼくが生きているあいだは、空きっ腹で漁になんかいかせないから(19)。最高の漁師はおじいさんだよね(23)。そりゃあない。もっとすごいのがいくらでもいる(23)。とんでもない。上手な漁師はたくさんいるし、凄腕の漁師もいるけど、おじいさんみたいにすごいのは一人もいないよ(23〜24)。


二人の会話にはいつも大リーガーのディマジオが登場する。二人にとって理想の男なのだ。ところが、少年はこの40日間、老人の舟が不漁であるため、両親に命じられてしぶしぶ別の船に乗って漁をしていた。大魚との死闘を繰り広がる最中、老人は何度も「あの子がいてくれたら」とつぶやく(46、49、54、59、87、101)。そして帰還後にはこういうやりとりをする。


お前にいてほしかったぞ(132)。また一緒に漁に出ようよ。もっともっと、教えてもらいたいんだ(132)。早く治ってくれないと困るんだ。教わりたいことがたくさんあるし、おじいさんは何でも教えてくれるんだから(132)。


漁師の本分、男らしさの価値、海への畏敬と共感。自然を相手にする漁師らしさと男らしさは不可分である。その勇姿を見せる相手はもちろん周囲の漁師仲間たちではある。「たいした代物だな。初めてお目にかかったよ」(130)。しかし、とりわけ尊敬し慕ってくれるマノーリン少年なのだ。


村のだれにも心配をかけていなければいいが。年をくった漁師たちは気を揉んでいるのが多いかもしれん。もちろん、あの子だけは気を揉んでいるだろうが。だが、おれの力はわかっているはずだ。他にもたくさんいるかもな。おれはつくづくいい村に住んでいるんだ。(121)


漁師コミュニティに支えられた老人と少年の世代を超えた関係を取り払ってしまえば、この物語はヘミングウェイ自身の孤独な魂の夢想にすぎなくなる。彼が意識していたか否かはともかく、『老人と海』の深層を貫いているのは「老漁師と少年」の関係である。


3 21世紀老人の状況


現代社会に生きる老人を「21世紀老人」と呼ぶなら、彼らはサンチアゴのように単純なかたちの生きがいを求めることはできない。直面する状況が『老人と海』のそれとでは大きく異なるからだ。両者の違いを『老人と海』の四つのテーマごとに際立たせてみよう。


まず、老人の働きがい(生きがい)は、長寿の老人が増える中でますます切実に求められている。しかしいつまでも健康ではいられないため、それが長く続くと生きがいの追求も困難になる。

次に、男らしさの価値に関しては、今日では男/女の性分割を強調する差別とみなされ、支持されない。そこにこだわる老人は時代錯誤として嗤われるだろう。


他方、自然との共生に関しては、今日では失われているだけに目標として掲げられているが、人工化された環境の中で実現することはなかなか難しく、理念に止まる場合が多い。

そして最後の世代のつながりに関しては、家族の自助が低下し、周囲の互助が薄れ崩れる中で、コミュニティ再興の課題として受け止められている。しかしその手がかりは容易には見出せない。


以上のように対比するならば、21世紀老人が働きがい(生きがい)を追求する際には、サンチアゴよりもはるかに複雑で困難な配慮を求められることが見えてくる。彼らは、一方ではジェンダー差別に敏感に対応し、他方では自然との共生を考慮しつつ、世代のつながりを意識して共助コミュニティを立ち上げるという、ほとんど不可能なミッションを引き受けることになるからだ。


ところがさらに、そうした配慮を云々する以前の問題として、そもそも働きがい(生きがい)の追求自体を困難にする現実がある。残念なことに、現在の日本は人々が将来の希望を持てない社会となっているからだ。一方に働きがいのある仕事が見つからず夢を持てない若者たちがいて、他方に教育・住宅・介護の負担と自分の老後の心配に押しつぶされ疲弊している中高年たちがいる中で、老人たちもまた認知症や寝たきりに怯えながら安心して死ぬこともできないでいる。長期に及ぶデフレ現象は不安を抱えた人々の生存防衛の結果である。


人々の意識と行動様式が萎縮している時代背景には、しばしば指摘されることだが、バブル後の長期停滞、非正規雇用の増大、金融破綻(リーマンショック)、東日本の津波・震災・原発事故がある。また、社会そのものの老化とも言える少子化・高齢化の進行もある。さらには昨今のコロナ禍が追い討ちをかけている。最近では非正規雇用の若い女性の自殺や、年齢の区別を問わない無差別の暴力が目立っている。総じて人生と社会に対する絶望感が漂っているかに見える。


将来に希望の持てない社会の中で、それでは21世紀老人はいかに生きていけばよいのか。生きるのが社会的現実の中である限り、老人の生き方を考えることは、同時に社会のあり方を考えることでもある。とすれば、21世紀老人は社会に対してどのように関わっていけばよいのか。


4 社会的現実の中の老成学へ


老成学は、老人の視点から21世紀の人生と社会について考え、人々の生き方と社会のあり方にとって拠り所となるような思想を提案する、独自の研究プロジェクトである。このプロジェクトの構想段階から一歩を踏み出し、老成学を実質的に展開するには、21世紀老人の生き方を老年期一般として論じるだけなく、今日の社会的現実の中に位置づけ、具体的に捉え返すことが求められる。以下、まずはこれまでの研究成果を確認し、その上で老成学の実質的な展開にとって何が必要か探ってみたい。


思想としての役割と世代責任

人生100年時代における老年期は、50代の準備期を別にすれば、60代の活動発展期、70代の活動維持期、80代の活動縮小期、そして90代の最晩年・終末期というように四つの段階に区分できる。ただし、ここに示した年数はあくまで目安であり、もとより個人差がある。


老人の生き方(老い方)は、人生の最期の瞬間すなわち死に至るまで連続している。その間、老いと呼ばれる身体全体の修復力の漸次的低下が進行する。これは遅らせることはできても回避することはできない。そのため老いの進行に伴って老年の各段階の生き方が異なってくる。


老いの各段階のうちとりわけ重要なのは、最晩年の終末期の生き方である。なぜなら、そこでの生き方のイメージをしっかり持つことができれば、それを目標にしてそれ以前の段階の生き方が数珠つなぎのように具体的にイメージされるからだ。このような考えから私がまず取り組んだのは最晩年の終末期であり、そこではおもに安楽死や延命治療のあり方を考察の対象としてきた。


考察を通じて二つの思想が浮かび上がってきた。その一つは、人がたとえ語れなくなっても、コミュニケーションの相手がいる限り、語りかけられるという役割があるという思想である。またもう一つは、先行世代と後続世代のあいだでコミュニケーションを通じて価値観・を継承する責任があるという思想である。これら役割と責任の思想から最晩年の老人の生き方を見直すとき、ありのままの姿を若い人たちに見せ、人生について何かを学んでもらうという方向性が浮かび上がる。


この生き方の方向性は、たとえ寝たきりになろうと、あるいは認知症になろうと変わらない。さらに、食べる力が衰え始める終末期でも同様である。そこでは高度の人工的な延命治療を止め、水分を適度に補給しながら痛みを抑え、不安な心を和らげる緩和治療の中で、最期の死にゆく姿を見てもらうことになるからだ。


もちろんその際、以上の方向性を前もって家族や周囲の人々と話し合っておくことは老人の責務となろう。また、医師の手を煩わせて死期を早める安楽死については、コミュニケーションを断ち切ることになるため推奨しないという結論になる。


思想としての生活

『老人と海』の老漁師と少年の関係のように、生き方は相互的なコミュニケーションの中に示される。そして相互的コミュニケーションは社会環境の中では多次元の人間的活動というかたちで繰り広げられる。この人間的活動の総体を広義の「生活」と呼んでみよう(この概念については改めて論究する)。


「生活」は生き方と生きがいを他者に見せる人間的活動の舞台である。一般には社会システムの経済領域を構成する生計・消費の分野が生活と呼ばれるが、こちらは狭義の生活になる。ともあれ、最晩年の終末期の生き方だけでなく、老年期の全体、いや人生100年の全体の生き方が繰り広げられる舞台、それが広義の生活なのだ。


21世紀の今日、「生活」を左右する社会環境の土台は資本主義経済である。資本主義では価値増殖が本性となっているため、「物象化」による労働と人間の疎外が避けがたく生じる。他方、社会システムの観点から見れば、包摂の裏面には排除が伴い、経済を含む社会システム同士の相互調整が機能しないため、一つのシステムから人々が排除されると他のシステムからも連鎖反応的に排除されることになる。そうした構造的な疎外と排除の結果、先に言及した時代背景と相まって、将来に希望の持てない社会が出現する。


現在、社会構造の抜本的な見直しが政治課題となっている。人々が求めているのは安定した仕事(職)であり、働きがいを含む生きがいである。それを可能にする社会に要求されるのは、持続可能な経済成長の中で、雇用・教育・貧困に対処する実効性のある政策であり、またそれを支える住宅・各種サービス・医療・保健・子育て・介護・年金等の社会保障の充実である。老成学も今後は政策や制度の問題に取り組んでいく必要がある。


社会環境にはまた偏見に基づく差別があり、これが生き方に影響を及ぼしている。差別は社会集団が自己の存続をめざす限り不可避であり、それは例えば近代社会にも資本主義経済にも還元できない。とくに老人の生き方にとって重要なのは老人差別(エイジズム)とジェンダー差別(セクシズム)である。21世紀老人は根深い差別と向き合う中で、自分の生き方と生きがいを模索しなくてはならない。


他方、生活に影響を及ぼすのは社会環境だけではない。物理環境もまた社会環境を通じて目に見える形で影響を与えている。物理環境にはナチュラルな自然環境と人工的なデジタル環境があり、前者の地球規模の温暖化や後者のヴァーチャル文化は、目下、社会の仕組みと人々の意識や行動様式を大きく変えつつある。とりわけデジタル技術によって生命システムや、誕生と死、老いと病気に対する操作(編集・改変)が進む中で、生命価値を拠り所にしてきた伝統的な価値観(文化)が揺さぶられ、解体の危機に瀕している。


結びにかえて

人間的活動の総体として、自己の生き方を実現し、かつ他者に見せもする舞台である「生活」は、老成学の基礎にあるシステム倫理学にとってはもともと、生きがい・幸福との関連から最重要の概念であった(拙著『システム倫理学的思考』第8章)。とはいえ、資本主義経済や、種々の差別、生命価値の解体といった社会的現実の中で具体的に捉えられていなかったため、生活はなお抽象的な水準にとどまっていた。しかし、『老人と海』に始まる考察を通じて、生活はいまや相互的コミュニケーションにおける役割、世代間コミュニケーションにおける責任と並んで、老成学を支える思想の柱の一つとなった。社会的現実の中で「生活」を捉え直すことが今後の考察の焦点となる。

 
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