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看護学生の「安楽死問題」  森下直貴
活動の実績 | 2021.10.12

看護学生の「安楽死」問題

森下 直貴


今年度(2021年度)の前期、私は三つの医療系の大学・専門学校でおもに看護の学生を相手に「倫理学」の講義をした。

(講義名称はそれぞれで異なるが、内容は基本的に同じだ)

その中で講義に関連してレポートを書いてもらった。課題は「安楽死」。

その際、私が強く求めたのは学生自身の考えである。大半の学生が条件付で安楽死に賛成した(ざっと80%程度か)。その傾向はしばらく前から顕著に現れていた。

(複数の同業者に聞いたところ、それは医療系の学生に限らないようだ)

ただし、安楽死に賛成する学生の多くも、自分の考えが医療倫理の原則と矛盾することに困惑していた。学生のレポートからは私自身が学ぶ点もあったし、そこにはまた安楽死に関する誤解も散見された。


講義の中で説明したことだが、私自身は安楽死に反対である。賛成する傾向には危機感をすら抱いている。

そのため、学生のレポートを受け取った以上、安楽死に賛成できない理由をまとめ直して提示し、いくつかの誤解を解きほぐしながら、医療者(とくに看護師)として安楽死にいかに向き合うべきかを伝える責任があると感じる。

とはいえ、300名を超える学生に別個に対応してはコメントが羅列的になり、面白くない。

そこで、安楽死に賛成しつつも困惑している学生の多様な考えを集約して一人の学生の意見とみなし、この学生に語りかけるという方式を取ることにした。この学生をNさんとする。Nさんは個人としてはどこにもいないが、逆に、いたるところにいるとも言える。

Nさんとは私であり、あなたなのだ。


Nさんへのメール


Nさん、あなたの課題レポート「安楽死問題と看護師の役割」を読みました。

講義の中で私は「安楽死」には賛成できない理由を説明しましたが、あなたはそれを踏まえつつ、『新版「生きるに値しない命」とは誰のことか』を読み込んだ上で、「安楽死」に賛成する理由を自分の言葉でしっかりと書いていましたね。

あなたが安楽死に賛成する理由は二つありました。


その一つが患者の耐え難い苦痛です。

私の講義では「役に立たない自分」という思いに焦点を合わせ、それに対する絶望の文脈で安楽死の選択を捉えていました。

しかし、あなたの考えでは、「苦痛に耐えられない」からと言って、自分を「役に立たない」とみなしているわけではありません。生きる意欲の喪失は苦痛からも生じます。その一例としてあなたはベルギーのパラリンピック選手、マリーケ・フェルフートさんの言葉、「いつでも安楽死できるという希望がポジティブな生き方を支えてくれた」を引用しました。彼女は予告通り最期は安楽死を選択しましたが、その理由は「もはやこれ以上苦痛に耐えられない」からでした。


もう一つの理由は自分の人生は自分で決めるという人生観です。

あなたの考えでは、人生の自己決定には生きることだけでなく、死ぬことも含まれます。生き方が尊重されるべきなら、死に方を選んだ人の意思も尊重されるべきです。したがって患者が死に方として安楽死を選択したなら、それを尊重するのが医療者、ここでは看護師の務めということになります。


人間にとって 苦痛と自己決定 はとても重要です。

実際、安楽死に賛成する人々の大半が持ち出すのもその二つの理由です。

私もそれらを無視していいとは考えません。耐え難い苦痛はそもそも生命維持の正常レベルを下回り、人から考える余裕と生きる気力を奪います。

他方、自分で解釈し決定することは人間のコミュニケーションにとって不可欠の条件です

講義では安楽死につなげて論じませんでしたが、ここではそれらを織り込んだ上で、

人生の最期の迎え方としてなぜ安楽死が相応しくないかを考えてみたいと思います。

これには(毎度のことですが)四つの理由があります。



一つめの理由は、苦痛に対しては一般看護を織り込んだ緩和医療によってある程度まで対処できるようになったからです。

それまでは痛みそのもの、あるいは痛みのおそれから患者は安楽死を希望していました。

緩和医療というのはあなたもご存知のように、救急救命治療や、人工呼吸器装着等の集中治療、抗生剤投与や外科手術や人工的栄養補給等の一般医療ではありません。また、そうかといって一切の治療の停止でもありません。

身体的な痛みを和らげ、自然な形で水分や栄養を補給しつつ、精神的な苦しみを癒す治療なのです。医療者の習熟度にもよりますが、それによってかなりの程度まで効果があるようです。


緩和医療は人為的に延命することでも、人為的に延命を打ち切ることでもありません。無理やりな人為を加えず、自然な形で寿命を全うすることを目指しています。

となると問題は、どの時点で一般医療から緩和医療に切り替えるかです。

一般に食欲がなくなると人は徐々に衰弱します。それは一ヶ月前から2週間前あたりでしょうか。知り合いの医師に聞いたところ、経験を積んだ医師ならその時点の見当はほぼ間違いなくつけられるそうです。それが終末期の始まりになります。

この終末期では遠からず死に至りますから、あえて死期を早める処理は不要となり、緩和医療の出番になります。目標は身体の痛みや、痺れ、だるさを和らげ、気持ちが安らぐように配慮しながら、自然の寿命が尽きるまで温かく介抱することです。


Nさんは「安楽死」の範囲を広くとっていますね。自殺幇助のように死期を早めることや、何の処置もせずに死ぬまで放っておくこと(一切の治療の停止)、痛みの鎮静の結果として死にいたることを含め、すべて「安楽死」と考えています。

しかし、それでは賛成と反対の境界線がぼやけ、話が混乱してしまいます。

私の考えでは、「安楽死」という言葉は自殺幇助のような場合に限定すべきです。治療停止は現実にはありえませんし、鎮静処置は緩和医療に含まれます。

「安楽死」を実行するには、その直前の時点で本人の明確な意思が必要です。

意思確認の時点は死が間近に迫っている終末期ではありません。それ以前の時点になりますが、その時点がいつになるかは前もって特定できません。

また、どういう状態なら「安楽死」できるかという範囲も幅があります。

オランダの裁判所は精神的苦痛まで認めましたが、これでは一般の自殺と変わりません。あなたは自殺と区別して「安楽死」を容認する法律が必要だと書いていますね。しかし、時点もあいまい、状態もあいまいであるなら、それは困難と言わざるを得ないでしょう。


安楽死に賛成できない二つめの理由は、医療従事者に対する敬意と配慮に欠けるからです。

自殺幇助型の「安楽死」はどこかで必ず医療従事者、とくに医師の手を借りることになります。

ところが、看護倫理を含めて医療倫理の主柱は「生命の尊重」です。医療倫理の歴史では「安楽死」は「生命尊重」とは対立するものと解釈されてきました。

つまり、「安楽死」に手を貸すような医師は医療倫理にあからさまに抵触することになります。


医療や介護の現場では受け持ちの患者から「早く死なせて」と懇願されることがあります。その願いは個々の医療者を困惑させます。患者の気持ちに敏感な医療従事者ほどストレスを強く感じることでしょう。

しかし、いまここで問題にしているのは個々の医療従事者のストレスだけではありません。むしろ、個々の医療従事者の考え方や感じ方を背後から支える医療倫理であり、この医療倫理に基づく医療文化なのです。

人類がこれまで受け継いできた医療文化をどのようにして後世に伝えていくか

これが安楽死問題で問われているのです。


ただし、「生命尊重」原則をめぐる解釈にも時代の要請に合わない面があります。

従来、「生命尊重」とは延命中心の医療を意味していました。しかし、長寿化の中で終末期に求められているのはたんなる延命医療ではなく、緩和医療への切り替えです。

延命主義(生命尊重)か反延命主義(安楽死)という対立に立ち止まってはいけません。

人工的な高度の医療を制限し、自然の寿命の全うを手助けする緩和医療こそ、今日に相応しい「生命尊重」のかたちだと考えます。


三つめの理由は、人はどんな状態になってもコミュニケーションをしており、その限りで役割を持っていると考えるからです。この点を講義では強調しました。

「何もできない自分」と「迷惑をかける自分」が合わさると、「役に立たない自分」という惨めな思いが生じ、生きる意欲がなくなります。

しかし、「役に立つこと」に関して、社会集団の存続目的から生じる生産性の価値、したがって有用/無用の観点から見ることを止め、コミュニケーションでは受け手側の解釈がイニシアティブをとるという観点から見たらどうなるでしょうか。

すると、世話をする側が語りかける限り、「語りかける役割」とともに、世話をされる側の「語りかけられる役割」があることに気づきます。

つまり、「役に立たない」人など誰一人いない ということです。


一般に、世話をする側は病気の家族がどんな状態であれ、最期まで生きていてほしいと願うものですが、世話の日常はけっして楽ではありません。時には投げ出したくなることもあるでしょう。

他方、世話をされる側にとって献身的に面倒を見てくれることは嬉しいのですが、その反面で心苦しく感じ、屈辱的で耐え難いと思うことも事実でしょう。そこでもし両者がドライに割り切ることに一致すれば、「安楽死」が選択されることになります。

しかし、それはコミュニケーションを断ち切るものです。

最期の最期まで世話をして看取るという経験、また世話を受けて看取られるという経験は、生きるとは何か、死ぬとはどういうことか、病気とは何か、老いとは何かを見つめ直す機会を人々に与えてくれます。

死ぬ姿を見て人は人生というものを学びます。逆に、見られているという意識が見られても恥ずかしくない生き方を生み出します。

そのようなコミュニケーションは死をもって終わるのではありません。

語りかける側がいて語り続ける限り、死者とのコミュニケーションは続いていきます。

安楽死や自殺の残念な点は、語りかける側の後悔の念がいつまでも後を引き、死者とのコミュニケーションが滞ってしまい、人々が前向きに生きることにつながらないことです。

Nさん、あなたは私の考えを現実離れした綺麗事だと批判しました。役割があるとするのは特定の考え方の押し付けではないか。生き様を見せたくない人もいるだろう。結局は家族の意向に患者本人の意向を合わせることにならないか。

例えばLISの患者に対しても生き続ける役割があると言えるのか等々、いずれも鋭い指摘だと思いました。

たしかに患者の置かれた事情はさまざまです。それを一律に捉えるべきではありませんね。


しかし、倫理とは人類の英知を繰り込みながら時代にふさわしい生き方と死に方の理想を掲げ、それによって人々の迷える思いを方向づけるものです。

また、世話をすることも世話を受けることも大変ですが、これに関しては周囲の支援が不可欠です。その仕組みについてはもっと充実する方向で考えていく必要があります。

これからの課題ですね。

そこで最後に、倫理や仕組み・取り組みを支える根本的な理由を取り上げます。


四つめの根本的な理由は、人間には世代として責任がある と考えるからです。

人は誰しも一定の生物年齢を持ち、ライフサイクル上の特定の段階に位置し、代々つながる家族集団の一員でありつつ、同出生年齢集団の一人として同時代を生きています。

私の考える「世代」はそれらの四つの側面を総合したもので、先行する親世代集団と後続する子世代集団のあいだで、価値観や文化を洗練し継受する世代集団のことです。

たんなる個別の親子間のコミュニケーションではなく、親集団と子集団の集団コミュニケーションの担い手なのです。

そしてこの集団間コミュニケーションの核心にあるのが責任という観点です。


世代としての責任の観点から見直すと、前述した対面的コミュニケーションにおける役割が、社会的文化的な意義を帯びてきます。

そして同じ世代に属する年代には特別の役割が与えられます。

例えば、老人にしかできない特別の役割は、若い世代の人々にありのままの自分の生き方と死に方を見せ、そこから人生や、老い、死などを学んでもらうことです。

その役割はたとえ寝たきりであっても、また語ることができなくても可能です。さらに、それらを通じて親子の文化や医療の文化を次の世代に伝えていくことです。

このような「見せる/見られる」という関係が老人の生きる姿勢を正し、尊敬に値するものにするでしょう。

シェークスピアをもじれば、人はみな世代という歴史の舞台の役者なのです。


世代としての責任という根本的な観点が、安楽死に反対する理由のすべてを背後から支えています。

痛みに耐え、

医療文化を受け継ぎ、

世話と看取りに意味を認め、

生きる目標と生きがいを見出すこと

を可能にするのです。

__

私はここまで、人間の最期の生き方や死の迎え方として安楽死が認められない理由を説明してきました。

要するに、緩和医療、医療文化、コミュニケーションの中の役割、世代としての責任の四つの理由です。

これらの理由から、安楽死は若い人たちに見せる好ましい生き方の手本ではなく、後続する世代に引き継ぐべき文化ではない と考えるのです。

しかし、この私の考えを他者に押し付けるつもりはありません。呼びかけるだけです。また、生き続けることにどうしても耐えられないケースもあるはずです。その際は倫理の原則を念頭に置きながら、個別かつ柔軟に対処するほかないでしょう。

以上を踏まえて看護師の役割について考えてみます。

一見して浮かび上がるのは、看護師(看護学生)が直面するジレンマの状況です。


まず、誰もが自分の価値観、とくに人生観を持つことを推奨され、また、相互に他者の人生観を尊重することを要求されます。

とするなら、看護師(看護学生)であっても、個人としては自分の人生観を持ち、他者の人生観を尊重することが求められます。

他方、看護師には職業倫理があり、その原則は生命尊重です。そしてその上で患者の人生観を尊重し、患者に寄り添うことが責務となります。

問題は「生命尊重」が従来の解釈では「延命」を意味してきたことです。


患者があくまで延命を希望すれば、看護倫理の生命尊重とは一致しますから、対立状況は生じません。しかし、患者が「安楽死」を希望すると、患者の意思の尊重と看護倫理が対立します。

ここで看護師に注目すると、個人的な人生観が安楽死に対して賛成反対のいずれであっても、ジレンマが生じます。もちろん三者が延命に一致すればジレンマは消えますが、今日それは期待できません。看護学生のあいだでは安楽死肯定派が多数を占めているからです。


ジレンマを解消するためには、生命を尊重するとは何であり、患者の意思を尊重するとはどういうことかを問い直す必要があります。

生命を尊重するとは前述のように、人生100年時代の終末期では延命治療ではなく、緩和医療であるべきでしょう。

それでは、患者の意思を尊重するとはどういうことでしょうか。

それは、「早く死にたい」という希望に応えてあげることではなく、死を急ぐ理由を知り、それを和らげてあげることです。

この点はあなたのレポートの中で私がもっとも感心した箇所です。

患者に寄り添うとは、緩和医療を施しながら最期まで生きる目標と望みを持ってもらうことです。最期まで生き抜くように励まし、人生を全うしてもらうことです。

それが終末期の看護の役割だと私は考えます。


生命の尊重と患者の意思の尊重に関して時代に相応しい捉え方を導くのが、私の信じるところ、世代としての責任という観点です。

ところで最近、終末期をめぐってACP(人生の最期についての話し合い)を導入する動きがありますが、何らかの共通の土台がなければ、話し合いは進みませんし、一方への同化か、合意の幻想で終わってしまいます。

私の考えでは、その共通の土台の候補の一つが世代としての責任の観点です。それが共通の土台になるかどうかは、公共的な場、つまり多世代コミュニケーションが支えるコミュニティにおいて議論されるべきです。

Nさん、予定に反して長々と書いてしまい、疲れました。ここでひとまず止めます。

それにしても、人生というのはなかなかすっぱりと割り切れるものではないですね。安楽死問題ではとくにそう感じます。

勉強やバイトで忙しいことでしょう。余裕がある時で構いませんから、あなたの疑問や反論を送ってください。

お待ちしています。

 
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