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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿C】医師 菅原一晃シリーズ > 【寄稿C】 (6) 「ワクチンと自己愛/去勢、そして私たちの生」 精神科医 菅原一晃
©︎Y.Maezawa
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ワクチン と 自己愛/去勢、
そして 私たちの生
聖マリアンナ医科大学 横浜市西部病院
神経精神科 医師
菅原一晃
現在の新型コロナウイルスが蔓延している生活は1年半ほどになります。どのくらいで終息するのかはもう分からず、楽観的な予想をすることがもはや許されないほどです。
私の勤めている病院でも日々新型コロナウイルスの患者を受けています。職員への感染も注意しなければならず、私も最新の注意をしながら生活しております。
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少し前は新型コロナウイルスへの決定版になると言う人も沢山いたワクチンですが、こちらも変異株が出現したことで効果は部分的であり、いつまで持続するかも分からない状況です。
日本では2回のワクチン接種を終えた人がまだ大半になっていない中で、国によっては3回目の接種を試みるところもあります。が、そちらも有効性やリスクなど分からないまま見込み発車の面が大きい状態です。
そんな中でも、以前のような厳しい制限を早く緩める国や、逆に警戒を強める国など、国によって講じる対策は異なります。それによってその国民のリスク或いは個人の自由度なども違ってきます。
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私は病院の勤務日には毎日外来診療をして、毎日数十人の患者を診ていますが、その際にはかなりの数の方とワクチンの話題になります。
「ワクチンを先月2回目打ちました」「熱が出ました」「何もありませんでした」「ようやく1回目の予約が取れました」「先生はどうでしたか」などなど。中には「先生騙されていますよ、打たない方が良かったのに」と忠告(?)してくれる人もいます。
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まあ、私は医療者なのですが、そういう「反ワクチン」の立場の人がいるのも知っていますし、いまは許容できませんが、もしかしたら10年後にはその人たちの意見が正しい可能性だってゼロではない、という風に考えた方が良いかもしれないとは思っています。
いずれにせよ、診療科としてはワクチンから最も遠い私たちの外来であっても、相当な数のワクチンについての話があるということは、もうそれだけほとんどの国民の関心ごとになっているということです。
ここであえて誤解を恐れずに述べます。
私自身はワクチンの話に関してうんざりしています。
といっても、それは恐らく他の人の理由とは違っていて、存在論的な問題としてなのです。
有り体に言えば、ワクチンを打つ行為が、精神分析的に言えばある種の「去勢行為」に思えるからです。
そしてそんな人々の、自分の健康を心配してならない様子が、思春期心性のように思えるからです。
どういうことでしょうか?
私たちは社会で多くの人々と出会い、またコミュニケーションをします。特定の集団に属しながら、それぞれのルールや振る舞い方を身につけていきます。しかし、私たちは最初からそうであった訳ではありません。
ここで精神分析ならば「幼少期のエディプス」という理論を持ち出しますが、そして実際には無意識的にはそれがより本質的だと考えていますが、話が伝わらないおそれがありますので割愛し、もっと通りやすい話にします。
第二次性徴期前後の私たちは、自分の身体や性、さらには私たちの内面を意識します。
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そこでは私たち自身に関心を持つ、或いは強く持ち過ぎると共に、恥ずかしさや、誰かに傷つけられる怖さ、誰かを傷つけてしまう怖さを意識するようになります。例えば、誰かの顔を直視することが怖くなったりします。これは、自分が見られる怖さであったり、逆に誰かに不快感を与えてしまうのではないかという怖さであったりします。
その背景には私たちが自分で自分を大事で仕方のない自己、つまり自己愛があります。これについても性的な欲動とか本能が絡んできますが、ややこしくなるので省きます。とにかく第二次性徴期には私たちの心や身体への関心が高まり、自分を意識するが故に、他人にとっての自分、他人に対しての自分の振る舞い方など、物事の見方や感じ方が変わっていくのです。
自分というのはそのように「自己中心的」です。
この状態で社会に出ていくと、他人との間で軋轢を生むのは必至、火を見るよりも明らかです。そこで、意識的であれ無意識的であれ、私たちはそのような見方、自己中心的なあり方を何らかの形で解消して、社会の側に寄せていきます。精神分析的に言えば「去勢」です。
「去勢」というのは、文字通りには性器を切除したり、その能力を失わせたりすることですが、精神分析は人間の行動の背景には性的なものがあるとみなし、その際しばしばこのような象徴的な表現を用います。
性欲だけではなく、私たちの欲望というのはあらぬ方向に進んでしまうことが往々にしてありますが、それを場に相応しい形に合わせていくということを「去勢」と言っていると考えてください。
「去勢」は現実的な話であり、歴史的な話でもあります。
中国やヨーロッパでは古代・中世から馬や牛などが交通手段の他に車の動力として使われましたが、それらの馬や牛は去勢されて手懐けられていました。
その一方で日本ではそれらの動物の去勢は技術的に無かったのかは不明ですが、とにかく去勢がされませんでした。従って馬や牛は獰猛でコントロールしにくく、交通手段や家畜として使われるのみで、戦車として(例えば鎌倉時代の「元寇」の絵を思い出してください)使われることはほとんどありませんでした。
去勢というのは家畜や私たちの欲望をいかにコントロールするか、ということと関係しているのが分かると思います。
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さて、ここまで書いておいたのは、まさにワクチンを打つ私たちが、去勢をして或る集団の世界に入ることに臨む私たちのように思えるからなのです。私たちは思春期、他人との距離が分からず、他人を恐れていました。他人に見られる怖さ、或いは他人を見ることで傷つけてしまうのではないかという怖さを感じていました。最近は比較的あまり聞くことがなくなりましたが、自己臭恐怖も思春期特性であります。自分の汗や体臭を感じ、それが他人にも嗅がれることで相手を不快にさせてしまったり、それで自分が恥ずかしい思いをしたりする怖さという病理です。最近はデオドラントのスプレーなど技術的にカバーできるから減ったのかもしれませんが、やはり自己の病理であるのは間違いありません。
そうです、ウイルスを他人から貰ってしまうのではないか、或いは他人に伝染してしまうのではないかというのは、まさに思春期の自己愛の病理と一致するのではないかと思います。思春期、私たちの自己愛は可視化されない。だからこそ、それは肥大化し、必要以上に自分を苦しめることになります。ウイルスも同様に、手を洗ったり消毒したりするけれど、可視化はほとんど不可能です。誰が感染しているか不明であり、自分すら感染していることが分からない代物なのです。
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つまり、ワクチンというのは一つの去勢のようなものです。何故自己愛を去勢するかと言えば、社会に参加するため、社会に相応しい形に自分で振る舞うために、自己中心的な振る舞いを控える行為だからでした。他方、ワクチンを打つのも社会に参加しやすくするためでした。ワクチンを打つことでウイルスに対しての抗体を作る。それによってウイルスを気にせずに行動範囲を広げられ、社会生活を送れるようになるという意味がありました。ただし、人によってはワクチンを打ちたくないという方もいます。この場合は、思春期的な自己愛を封じ込めたくない、できれば自分が目立って社会とはまだ切り離した存在でいたいという人たちがいるようなものでしょう。
しかし、ワクチンを打って「めでたしめでたし」、社会的に去勢されて感染症を気にせずに社会参加がしやすく、行動範囲が広がるはずでしたが、現在多くの人々がご存知のように、ワクチンを打ったからといって、幾ばくかのリスクは下げられるかもしれませんが、万全ではなく、決して安心できないのです。
これは「去勢」の文脈で言えば、自分の欲望を抑え、自己愛を抑えたからといって、すべて社会に受け入れてもらえるわけではないのと同じです。
ある規範を身につけたとしても、別の会社や業界には別のルールがある。言ってみれば「一回の去勢」で事足りるなどは到底言えないのです。
その意味では、このグローバルに蔓延している新型コロナウイルスを「一セットのワクチンセット」で抑えられるなどとは思わない方が良いのでしょう。
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現在、多様化し、生きる目的や作法なども複雑化している私たちの世界において、新型コロナウイルスというのは私たちの世界のあり方そのものに思えます。
単一のルールすなわち去勢方法で通用することが無いように、単一のワクチンで通用することは無いのかもしれません。
新型コロナウイルスのワクチンの話になると、ここに述べたようなことを最近は考えずには居られなくなりました。私たちの世界の複雑性そのものと向き合わねばならないことを考えると、眩暈がしてきます。
このウイルスはただの感染症とだけで捉えない方が良いでしょう。私たちの生の在り方そのものに対する挑戦でもある訳です。一人ひとりがどのように社会と距離を取り、いかに参入していくか。
このウイルス禍でも同様の問いが突きつけられています。新型コロナウイルスに感染した場合はもちろん命に関わりますが、私たちが社会に参加することそれ自体も、そもそも必死で命懸けであったのではないかと思います。
私たちは新型コロナウイルスのせいで何もできないと不平不満を言いながら過ごしていますが、それでも生は毎日、毎時刻、変わらず時を刻んでいます。
その中でどのように成長し、いかに生きていけば良いのか。
私たちには今こそ人生そのものの見直しが必要になっていると感じます。新型コロナウイルスとワクチンの関係は私たちに存在論的な問題を突きつけているのです。
(編集:前澤 祐貴子)
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