交流の広場

老成学研究所 > 交流の広場 > 【寄稿D】 > 【寄稿D】❸ 読書ノート:『ゴッホの手紙』に魅せられて 筒井 祥博

【寄稿D】❸ 読書ノート:『ゴッホの手紙』に魅せられて 筒井 祥博
交流の広場 | 2021.09.07

『ゴッホの手紙』に魅せられて

筒井 祥博

最近NHKの「日曜美術館」で“ゴッホの糸杉”に関する再放送をみた。私はゴッホの絵画が好きで何回かゴッホに関連する展覧会を上野の美術館でみた。『ゴッホの手紙』は名作だと聞いていたが、今まで読んだことがなかった。さっそく岩波文庫の『ゴッホの手紙』(上・中・下)(ゴッホ・ボルゲル編、硲伊之助訳)で読んだ。


上巻は画家で親友のエミール・ベルナールに宛てて書かれたものが19信、中巻と下巻は、弟テオドウル(テオ)へ宛てて書かれたものが、459信からゴッホが死ぬ直前までの545信まで80余通が掲載されている。ベルナール宛ての手紙は専門的な絵画論的内容が含まれているが、テオへは弟だから日常的な兄弟間の内容かと思って読みはじめたが、ゴッホの人柄の崇高さに感銘を受けた。私は高齢になりものごとに感動する感受性が落ちてきていると思うが、『ゴッホの手紙』を読んで心から感動した。


1853年生まれのゴッホは、1890年自殺し、僅か37歳の生涯を終えている。死を意識しながら短い人生を全力で生き抜きぬき、世界的な絵画を残したという点で、その長さに無関係に人生とは、死とは何かを考えさせてくれる。「それにしても人生は短いし、まして、何にでも挑みかけるだけの気力のある年齢は、さらに短いものだ」とゴッホは書いている。手紙の中の引用が比較的多く長い部分もあるが、その部分が特に素晴らしく、書き換えては価値が下がるので許して頂きたい。


ゴッホの手紙の特徴


ゴッホが弟テオに宛てて率直に自然に書かれている文章に感銘を受けた。自分の置かれている現状と絵を描くに当たって何を感じ、何を考えているか弟に語りかける様に書かれている。テオからの手紙に、生活費として100フランあるいは50フラン同封されていることにお礼を言い、絵を描くために必要な画布の種類と長さ、絵の具の一覧表を画材商に注文して送ってほしいとその度に依頼している。ゴッホは多くの本を読みそのつどどう感じたか簡単に触れている。この人生のタイミングに合った適切な読書をしたことが、ゴッホが高い知性で人間や芸術を考えた源泉になったと思う。


江戸時代の北斎や広重の絵に対する賞賛が頻繁に書かれており、日本および日本人に心から憧れている。一貫していることは、絵を描きたいと言う意欲と向上心である。絵を描くことに関して決して悲観的なことは言わなかった。大きな野心や自分の絵が評価されないことへの不満も書かなかった。ただ自分の絵が売れて、画布と画具の費用を弟に返済したいと常に思っていた。時には、お金がなくてこの数日間パンと水だけで過ごしているので辛い、少しでよいから送金してほしいと懇願している。


ゴッホの手紙はベルナールも指摘している様に、素直さ、知性、品格が感じられる。本人はこれらの手紙が後世に残るなどと全く思っていなかったので、感じたこと考えていることを即興的にありのまま書いた。相手が弟だから飾ることも、評価されるように書こうと思う必要もない、それがよかった。ほのぼのとした親しさが底流にある。ひとつの独特な文芸のジャンルだと感じる。

私はゴッホが耳を切り落としたこと、最後に自殺したことを知っていたので、その手紙がどの様に変化していくのか不安と好奇心をもって読んだが、全体としては全く聡明で冷静で調子がほとんど変わらないのにむしろ驚いた。ゴッホの手紙の全体を流れるものは、個人的感情を越えて、芸術における壮麗なもの(ベルナールの表現)を希求し、それを表現しようとする衝動に駆られた画家の思いについて書かれている。常に客観的に冷静に書かれており、その文章の中にゴッホの自我意識が全く感じられない。芸術とは、芸術家とは何かを俯瞰的に見ていると感じた。


ゴッホは当時の画家やそれ以前の画家について感想を述べているが、モンチセリ(1824-1886)とドラクロア (1798-1863)が好きで、ミレー (1814-1875)を尊敬し、母国オランダの巨匠レンブラント(1606-1669)を崇拝した。ゴッホは他の画家を批判するようなことは書いていない。


ゴッホが好んだ南仏アルル


ゴッホは南仏アルルへ移って、照りつける太陽、のどかな田園風景をすっかり気に入った。ゴッホにとって喧騒のパリを離れて南仏へ来たことは、画家としてのテーマの選択であったと思う。


「黄色と紫の花が満開の野原で囲まれた小さな町、まるで日本の夢だ」と書いている。

さらに「深い青の空にはコバルト色の基本的な青よりももっと深い青の雲が飛散していた、それらはもっと明るい蒼白い天の川の様なものも。青を背景にして星が明るく輝き、緑がかり、黄色に、白く、かすかに紅く、われわれの故郷やパリよりも一層、宝石のように輝いている —— 猫眼石、エメラルド、瑠璃。ルビー、サファイヤのようだった。海は非常に深いウートルメールで — 岸は紫がかった調子の淡い焦茶色のようだった。砂丘の上の雑木の茂みはプルシャン・ブルーだった」と書いている。


アルルに近いプロバンスについて「紅い大きな美しいプロバンスのバラや、葡萄や無花果のあるここの農家の庭は、まったく詩的だ、そうして永遠に強烈な太陽、その光にめげず青草はいよいよ緑だ」と書いている。さらに、「もっと地中海沿岸のサント・マリーまできて書いている。地中海の鯖のような色で、たえず変わりやすく、緑か紫か、常に青かどうかも定めがたい。一瞬後にはばら色や灰色に変わっている」。

ゴッホの手紙をそのまま引用したが、南仏の魅力が実によく表現されている。これらの表現を読んで、ゴッホがその地で書いた絵を見るとその感動が伝わってくる。

明るさ、温かさ、のどかさと言った平凡な表現以上の壮麗さ、調和、癒しを感じさせる。


ゴッホが受けた日本画の影響


ゴッホは日本絵画に強い衝撃を受け、一貫して日本美術および日本に対する憧れを、手紙の中で頻繁に書いている。ゴッホだけでなく当時のヨーロッパの印象派の画家達が北斎や広重の版画や絵画に影響を受け、例えば、クロード・モネは、オランダの旅行のときに世話になった家で日本版画を見て、それを手本に自己の画風を築き上げ一連の作品を残した、と言われている。ゴッホが南仏のアルルを選んだのは日本に似ているからだと書いている。ベルナールは序文の中でアルルからのゴッホの便りを引用して「(アルルでは)水は景色に豊かな青を添えエメラルド色の斑紋は、まるで日本の版画を見るようだ」と書いた。またゴッホは手紙の中で新しい芸術の将来は日本に似た南仏にあるようだと書いている。


ゴッホは江戸時代の版画を見て、それまでのヨーロッパの絵画になかった構図や色彩の斬新さ、特に点や線による単純さ、簡素さ素朴さから日本人の生き方、考え方を理想化している。「日本人の芸術を研究すれば、誰でもがもっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ」と書いており、ゴッホの精神を支えている中核の一面は日本の江戸時代の版画などから類推される日本の理想像であった。ゴッホは単に日本の版画や絵画から影響を受けたというだけでなく、あらゆる点で日本を理想化している。ゴッホが何かで見た日本の茶室の様な部屋の簡素さシンプルさにも強い印象を受け、ゴッホの絵は晩年単純化させようとしている。ゴッホがまるで日本に取り憑かれているように書かれている。


ゴッホの読書


ゴッホの手紙を読んでまず感じることは、絵画の世界および人間そのものを客観的に理知的にとらえていることである。その基盤をなしている要因のひとつは単なる教養でなく、生きる上で必要な時に適切な読書をしたことだと思う。ゴッホの手紙に書かれているものは彼の読書のほんの一部だと思うが拾い出してみる(1886年から1890年までの4年間の手紙の中から)。ベルナールは、「ゴッホは沢山の本を読み、現代作家のなかでは特にユイスマンとゾラに影響された」と書いている。以下手紙の中に書かれているゴッホが読んだ本に関する記述を拾ってみた。


ゾラの『夢』を読んだ。ユイスマンの『世帯持ち』を激賞した。モーパッサン『ピエールとジャン』を読んで楽しんだ。ヴォルテール(1694-1778)『カンディード』より、パングロス先生ほど偉大な哲学者はいないと書いた。バルザックの『セザール・ピロトウ』を読んでいる、バルザックを全部読み直したい。ユーゴの『恐ろしい年』を読んだ。 そこには希望がある、その希望は星の中にある。僕はその通りだと思う。名言だし、すばらしい言葉だと思う。ギリシャ人や昔のオランダの巨匠たちや日本人が、別の星の中で輝かしい流派の仕事を続けていると考えることは魅力的だ。ゾラの『大地』と『ジュルミナール』を読んだ。そうして我々が農夫を描くのは、この読書の結果がいくらかでも我々の肉になっていることを示したいからなのだ。ゾラの『貴婦人たちの幸福』をまた読み返してみたらだんだんよくなった。ストウ夫人の『トム小父さんの家』、ディッケンス『クリスマス・キャロル』読みなおした。トルストイについて『わが宗教』で神のことを考えた。しばらく前に、ダンテやペトラルカやボッカチオやジョット、ボッッチェッリに関する小論文を読んだ。こうした人たちの手紙に強い印象を受けた。


ゴッホは発作を起こしてからでも病院の中で、ヴォルテールの『ザデングまたは運命』を愉快に読み直した。世の中のことを賢者の思い道理にならないとの話しに同感した、ヴォルテール『カンディード』を読み直したと書いている。ピエル・ロチ『お菊さん』(岩波文庫があったが絶版)を愛読し、テオに読むことを何度も勧めた。

これらは「ゴッホの手紙」の中のたった4年間に書かれているもののみであるが、読書傾向が分かり、本格的であったと感じる。ゴッホは単なる教養でなく生きる支えとして真剣に読書したのだ。


発作を起こしてからのゴッホの手紙


ゴッホは何回もゴーギャンがアルルへ来て一緒に暮らし、絵を描くのを楽しみにしているとテオへの手紙の中で書いている。その頃ゴーギャンはパリの近くで貧しく病気がちな生活をしているとゴッホは聞いていた。ゴーギャンがこの南仏の明るい太陽の下へ来れば病気など治るとテオに書いている。ゴーギャンのためにもうひとつベッドを「黄色い家」に用意し、2人で生活すれば安くあがるはずだと書いている。


1888年10月遂にゴーギャンはアルルのゴッホの家にきて2人の共同生活が始まった。二人で暮らしてみると、絵画の方法など、何もかも意見が合わなかったと、後でゴーギャンは回想している。ゴッホの手紙の中で、ゴーギャンは空想し、あるいは思い出して描くことをゴッホに勧めたが、ゴッホは実際に対象を見て描かないと気がすまなかった。ゴッホはゴーギャンと共にモンペリエの美術館を訪れている。そこでドラクロアの絵などに強い印象を受けている。ゴッホはゴーギャンとドラクロアやオランダの巨匠レンブラントについて烈しい議論をした。


ゴーギャンと一緒に生活したのは約2カ月足らずであった。ゴッホは自分の耳を切り落とす発作を起こして市立病院へ収容され、地元の新聞記事にもなった。ゴッホが耳を切り落とした時、ゴーギャンは近くのホテルに泊まっていたが、すぐパリへ移ってしまった。ゴッホはゴーギャンと共同生活のストレスが発作の誘因になりこのような発作が起きたと考えられる。

アルルの市立病院へ収容されている時、「弟よ、いずれ近いうちに監禁されなくていいくらい全快すると思う。たとえ治らなくてもここに慣れてきたし、もし病院に長くいなければならないにしても、そのとおりにするし、描く題材もみつかると思う」と書いた。そして、「幸い天気は晴れていて太陽は輝いているので、幻想が湧く」とも書いている。ゴッホは自分のおかれている状況を少しでもよく解釈しようと努め、そんな状態でも絵が描きたいと弟に書いた。


サン・レミの精神病院


アルルの病院から30キロのサン・レミの「精神病院」移った時も、「ここへ来てよかったと君に告げたい。こんな動物園のような所で、いろいろな狂人や頭のおかしい人間の実態を見ていると、わけのわからない心配や発狂への恐怖を感じなくなる。しだいに狂気も病気の一種だろうと感ずるようになった。環境の変化は僕にとってよいと思う」と手紙に書いている。この病院は私立であるが公立の精神病院へ入院したら一生出られない可能性があるという。ゴッホが楽観的なことを弟に書いたのは、本心なのかテオを心配させないようにしようとする配慮なのか分からない。しかし、絶望的な態度を示さなかった。

私は『ゴッホの手紙』の中で最も感動したのは、次の記載とその後のゴッホの心境である。


「新しい患者が入所してきた、とても暴れて、何でもこわすし、夜もひるも騒いで、あらゆるものを破壊し、食事等をひっくりかえしてしまう。見ていてとても悲しくなる」。こんな時に、同じ手紙の中で、「よく考えているうちにだんだんと、今まで以上にドラクロア、ミレー、ルソー、デュプレ、ドビーニ等の永遠の青春を、そして今の若い人達や、将来現れてくり芸術家たちのことを今ほど信じたことはない」と書いている。ゴッホは自分自身の運命でなく、芸術家の将来のあるべき姿を考えていた。


そして、「今朝、日の出のだいぶ前から長い間、窓から田園をみていた、とても大きく見えた暁の明星以外に何もなかった。ドビーニとルソーはこれを描いた。それに親和感と、偉大な平和と、威厳の表現、それに痛ましい、実に個人的感情まで追加したのだ。この情緒は悪くない」と書いた。「なんと美しい土地、見事な空、すばらしい太陽なのだ!まだ庭と窓からの景色しか見ていないのにそう思える」と書いている。まるで独房に入れられた囚人が小さな窓から見える景色に感動しているかのようだ。さらに「花は一時的に黄色の麦と入れ代わる。それをアルルの時代よりうまくつかみたい。季節風 (ミストラル)はアルルよりひどくなさそうだから、いつでも何かきっと出来る」と書き、ゴッホは自分のおかれている最悪な状況を越えて絵画の世界のことをポジティブに考えていた。

こんな状態でも、画布と画具を送ってくれるようにテオに依頼している。ゴッホは悲惨な状況の中で、そのことに絶望することなく、絵が描きたいという自分の内部から湧き上がってくる衝動につき動かされていた。サン・レミがアルルより絵の画題として、また絵を描く野外の環境としてのよい点を見つけ出そうとした。また屋内では、何か芸術的なことに接していたいと思いテオよりミレーの複写を送ってもらい、それを模写した。「僕は芸術的なものを見ないとたるんでしまう。元気が出た」とテオに書いた。


私はゴッホがサン・レミの精神病院へきてから書いた『ゴッホの手紙』の部分に最も感動した。

置かれた状況の狂気と自分の病気から生じる発作への不安の中で、ゴッホの精神の崇高さを思い本当に天才だと感じた。


ゴッホの自殺


サン・レミの精神病院へきてから、「冗談のつもりではないが発狂への恐怖は、傍で気の狂った人をいつもみていると、自分でも今に簡単に罹れると思うせいか、すぐ消えてなくなる。」さらに、「われわれと同じ天職に携わる者で、トロウィヨン、マルシャル、メリヨン、ジャント、M・マリ、モンチセリその他大勢のものが発狂して死んだことを思えば、なんだか失望してしまう。僕もそんな状態に陥っているとは夢にも想像しなかった」と書かれており、自殺への予告であったのかも知れない。モンチセリはゴッホが最も好きな画家のひとりであった。


1890年5月テオの世話で、ゴッホはサン・レミの病院からパリから北西30キロのオーヴェル・シュル・オワーへ移った。ゴッホの最後の手紙(死亡1890年7月29日)は投函せずにゴッホが持っていた。その内容は、弟テオの家族がアパートの5階に住んでいることを、子育てが大変だろうと気遣っている。テオは単なる画商ではなく、ゴッホを通じて多くの絵の製作に携わってきたわけだから破産したとしても落胆することはないと書き、「僕は自分の仕事のために命を投げ出し、理性を半ば失った。君は画商らしくなく、君は仲間だ」と書き、そのあとに「だがいったいどうすればいい」と謎めいたことを書いている。しかし、遺言とは思えない。資料によるとこの手紙の前にテオから悩みを相談するような長い手紙を受けとったという。


 ゴッホは拳銃で左胸を撃って自殺したが弾は心臓を外れていた。連絡を受け駆けつけたテオは、ゴッホが死ぬまでの1時間くらい一緒にいた。二人は何を話したのだろう。


ゴッホの弟の妻ジョハンナ・ボルゲルについて


今年の4月 (2021年)ゴッホの弟テオの妻であったジョ(ジョハンナ・ボルゲル)に関する長い評論がNYTに載った。1994年アムステルダムのゴッホ美術館の学芸員であったハンス・リジテンは美術館に保存されていたゴッホに関する手紙903通を調べて、2009年6巻におよぶ本を出版した。その過程でゴッホの作品と手紙が世界的に評価されるようになったのはテオの妻であったジョの努力が決定的であったことを知った。1925年ジョが亡くなって以来ゴッホの家族が門外禁止にしていたジョの日記を曾孫に依頼して見せてもらうことが出来た。その資料を基にリジテンは10年かけて2019年ジョの伝記『全てヴィンセントのために』をオランダ語で出版した。


ジョは1889年テオと結婚してテオが死ぬまでのたった21ヶ月の結婚生活であったが、ゴッホから送られてくる絵と手紙からその天才性を見抜いていた。ジョはテオの死後パリを離れて故郷オランダへ帰ったとき、パリの美術家にゴッホの作品を残していくように勧められたが、ジョの直感ですべてオランダに持ち帰ることを決断した。これはゴッホの作品を四散させなかったジョの最初の大きな功績であった。


最初ゴッホの作品を評価しなかった有力な美術評論家ジャン・ベスを粘り強く説得して理解させた。ジョはゴッホの手紙はゴッホの作品の一部であると確信し、膨大な手紙を整理・編集した(これが岩波文庫『ゴッホの手紙』の原本)。そしてゴッホの作品を当時のヨーロッパの美術展に送り続けた。拠点をニューヨークへ移し、そこで開催された展覧会にゴッホの作品を加えてもらい、アメリカでもゴッホの作品をアピールした。ニューヨークの出版社にゴッホの手紙の出版を依頼したが、縮小版でないと出せないと言われ、断ってオランダへ持ち帰った。これもジョの判断の優れていた点である。


ジョはドイツ語、フランス語、英語などの語学力を生かして、ゴッホの作品をパリ、ベルリン、コペンハーゲンなどの美術館や画廊へ展示する交渉を続け、ゴッホの作品とゴッホの名声がますます高まっていった。ジョはこれらの活動と出版社との交渉を続けながら、一方では発症したパーキンソン病によって健康が次第に悪化していくことと闘い、そして1925年63歳で亡くなった。ジョはテオと結婚する前オランダの炭坑で生活する体験をし、婦人参政権などの社会正義に目覚め、テオの死後オランダへ移ってからも政党の党員として社会主義的信条を貫いた。今年の4月のNYTの記事では、「世界の目をゴッホへと開かせた女性」というタイトルであった。


テオがゴッホの作品と手紙を保持し、ジョがそれを受け継いで、その才能でゴッホの作品の評価を世界的に高め、ゴッホの手紙は作品と一体化したものであるとして整理して残さなかったなら、ゴッホの世界的評価は生まれなかったであろう。

(2021年8月1日)

* ご意見・ご感想など是非下記コメント欄ににお寄せくださいませ。

尚、当サイトはプライバシーポリシーに則り運営されており、抵触する案件につきましては適切な対応を取らせていただきます。


  • 本郷輝明 : 2021.09.09 2:33 PM

    とても興味深く読みました。今度ゴッホの手紙の読書に挑戦してみたいです。アムステルダムのゴッホ美術館に3-4回訪れているので懐かしく読みました。「ゴッホの最後の手紙(死亡1990年7月29日)は投函せずにゴッホが持っていた。」の文の年号は1890年の間違いだと思います。

  • 著者 : 2021.09.10 12:30 AM

    御指摘有難うございました。当該箇所、修正させていただきました。

  • 寺川 進 : 2021.09.22 1:42 PM

     短い人生を一途に駆け抜けた画家の魂が、私の机の側にやって来てくれて、束の間の交流ができたような気がしました。100年以上前の会ったこともないフランス・オランダの画家、ゴッホの人となりを、とてもリアルに感じることができました。それは、著者がゴッホの人となりに感銘を受けているからこそ、だと思います。強い感動を感じるためには、そのための準備や経験が必要です。著者にはそれらが十分にあり、微弱な電波を集めるパラボラアンテナのように、随所に隠れた感動の素を鮮明に組み立てて、届けてくれました。

     高齢者になることの特典のひとつは、想いの中で時代や国に捉われず、誰とでも対等に話す気持ちになれることです。ほとんどの人は、自分より若く、長い歴史を知らず、最新の科学や宇宙像も知らないのです。相手がどんなに偉い人でも、話したくなるようなことが一杯あります。著者のお陰で、偶然にも私の机の側にやってきてくれたゴッホに、ちょうど話したかったことがありました。実は、眩(くらら)という題の本を読み終わったばかりなのです。この本は、葛飾北斎の娘、お栄を主人公にした朝井まかての小説です。それを読みたくなったきっかけは、1カ月ほど前に、お栄が描いた画に北斎の画以上の感動を覚えたからです。それもゴッホの絵と比較しながら。眩では、お栄が抱えていた、ゴッホのとは違う苦労が書かれています。以下、江戸長屋もの小説の調子でゴッホに話しかけてみたところです。

     「ゴッホさんや、江戸後期の日本の絵画にホレなすってるってね。北斎の版画なんか確かにいいよね。富獄36景、中でも神奈川沖浪裏は最高だ。あの画の富士は波に比べてひどく小いせーやな。それでも、富士の存在感は格別だ。どうしてだか分かるかえ。これは自分で発見したからこその感動モノなんだが、実は、あの画には仕掛けがあってネ、目の前に大きな富士が描いてあるのさ。富士は波に負けないくらい大きいのヨオ。それが、見る者の眼に入るから遠くの富士に迫力が出るって訳だ。すごいねー。ウソだと思ったら自分の眼で確かめてごらん、本当に大きな富士が描いてあるよ。でも、おいらを驚かせた画は、あれじゃーねえ。この歳になってやっと出会えた画なんだが、生まれて初めて画を見て涙が出たもんよ。自分でも驚いた。今まで色んな画は見たけれど、涙を引き出された画は無かったんだ。音楽ではよく涙するけど、画ではねえー。ゴッホさん、あんたの画もいいが、正直、涙は出ねーな。その画はな、北斎が描いたというわけじヤーねえーのヨ。北斎の娘のお栄が描いたものなんだ。「夜桜美人図」っていうんだ。北斎の娘は、葛飾応為(おうい)という雅号まで持つ珍しい女流画家だアね。知ってたかい?評論家は、彼女を東洋のレンブラントなどと呼んでるぜ。レンブラントはあんたも尊敬しなすってたってね。応為は、画に星を描いているのさ。おいらはすぐにあんたの星の絵を思い出したよ。東洋と西洋の違いだね。あるいは男と女かなア。不安と達観かも。あんたが耳を切った後にでも、この画を見ていたら、死ぬことはなかったんじゃねえーかねー。恐らく、富士越の龍の方を見ちまったんだろうな。あの画はいけねー。あれを見た絵師は皆筆を折っちまうんじゃねーかと心配になるぜー。あんたの手紙を読ませてもらっても、どんな肉筆画を見たのかは、分からねーようだな。色々説明したいとこだが、あんたが消えちまう前にやめておこう。一言だけ、夜桜美人図みたいな画は、親父の北斎には描けねー画なんだ。おいらにはそれが分かる。お栄は親父の肩に乗って立ち、北斎を超えたんだ。北斎が龍となって「不二」を越えたようにナー。それで、夜桜美人図、あんたは見たのかい?」

     ゴッホの応えはよく分かりませんでしたが、顔を真っ赤にして涙ぐんでいるようでした。アルルにヴィンセントが居て、パリにテオやヨハンナが居て、そして浜松に筒井氏が居て、私の側にゴッホが訪ねて来てくれたのだと思いました。時を超えての人と人は、偶然のように継ぎ足された糸と糸で繋がれて初めて、感動を伝えられます。あの世に行けば、直接伝える機会もあることでしょう。私は今、お栄にも伝えたいです。「貴女の画は完璧だ! 150年後の私に涙させた画ですよ。当時の西洋人にも見せたかった。」と。

 
一覧へ戻る
© 老成学. All Rights Reserved.
© 老成学. All Rights Reserved.

TOP