交流の広場
老成学研究所 > 時代への提言 > 『今、国学の呼びかけるもの』シリーズ 賀茂真淵記念館 > 『今、国学の呼びかけるもの』シリーズ:〈27〉「万葉集」裏話 日の目を見なかったかもしれない「万葉集」

『万葉集』裏話
~日の目を見なかったかもしれない『万葉集』~
『万葉集』は、奈良時代末期に成立した日本最古の和歌集です。
天皇や貴族から農民、防人まで、様々な身分の人が詠んだ歌や作者不詳の歌 約4500首が 20巻に収められています。
歌の類別の主なものとしては 宮中の祭式などの機会に歌われた公的な雑歌、 男女の恋愛を主とする相聞歌、死者の埋葬や哀傷の挽歌などがあります。
歌の形態は 五七五七七の短歌を基本としつつ 長歌中心となっています。
表記に関しては この時代には日本固有の仮名文字がなかったため すべて漢字を用いた万葉仮名となっており、成立に関しては 大伴家持が編纂に関わり 783年頃に完成した とされています。
しかし 『万葉集』はその後約20年間、人の目に触れることがありませんでした。
それは 藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に端を発します。
785年 大伴家持の死後、長岡京造宮監督中の藤原種継が矢で射られて暗殺される という事件が起こりました。藤原種継は 平城京から長岡京へ の遷都を計画・実行した中心人物です。この遷都に賛成する勢力と反対する勢力との権力闘 争でしたが、種継と対立していた早良(さわら)親王も事件に関与した罪に問われ命を絶つ など、皇室を巻き込む大事件にまで発展しました。
これは その後の長岡京から平安京への短期間の遷都になった要因の一つ とも言われています。

大伴家持は既に亡くなっていたにも関わらず
この暗殺事件に関与していた とされ、 官位を剥奪されてしまいました。
そのため 『万葉集』の最終的な完成は 家持が恩赦により罪 を許された806年以降 とも言われています。
実は、この恩赦がなければ 『万葉集』は日の目を見ずに終わった可能性があった和歌集なのです。
もしかしたら 真淵が生涯をかけて研究した『万葉集』は存在せず、宣長が35年の歳 月をかけた『古事記伝』も完成に至らなかったかもしれません。

藤原種継は 奈良時代末期の官人で 桓武天皇の信頼厚く、政務をほとんど決断した と言われます。また 造長岡京使に任ぜられるなど 平城京から長岡京への遷都に関わる中心人物です。しかし 専権のため 皇太子 早良親王と対立したり、遷都に反対する諸臣の嫌うところとなったりして 785年に大伴継人(つぐひと)、佐伯高成(さえきのたかなり)らにより殺されました。
大伴家持は 奈良時代末期の官人で 三十六歌仙の一人に数えられた歌人でもあります。衰運に向かいつつあった名門大伴家の首長として 一心に苦難を背負いました。家運挽回の望みをかけ 桓武天皇の皇太子である早良親王に近侍しましたがうまくいかず、785年 死の25日後に 大伴継人、佐伯高成らによる藤原種継暗殺事件が起こり 関与していた主要な 罪人 という理由で名籍(みょうせき)を除かれました。息子である永主(ながぬし)らも流罪に処せられました。その後 806年に罪を許され 本位に復帰しています。
早良親王は 桓武天皇の弟で皇太子でしたが 785年の藤原種継暗殺事件に関与したとされて捕らえられ、絶食し 淡路に移される船の中で絶命しました。その後、皇太后、皇后など皇室関係者が相次いで死亡したり、皇太子が流行した悪疫にかかったりしましたが、これを 早良親王の祟り と恐れた桓武天皇は 早良親王に崇道(すうどう)天皇の称号を贈ったり その墓を改葬したりしました。
参考:『日本歴史大辞典(河出書房)』『日本史大辞典(平凡社)』『日本古典文学大辞典(岩波書店)』

※より詳細な情報をお求めの方は
是非 下記 浜松市立賀茂真淵記念館アカウント にアクセスくださいませ。

浜松市立賀茂真淵記念館
URL: http://www.mabuchi-kinenkan.jp
尚、当シリーズにおきましては、賀茂真淵に関連する資料/画像、及び内容解説に至るまで 浜松市立賀茂真淵記念館(一般社団法人 浜松史蹟調査顕彰会)の許可とご協力のもと、展開させていただいております。
この場をお借り致しまして その多大なるご尽力に感謝申し上げます。
(編集:前澤 祐貴子)