交流の広場
〈トルコへの旅〉
出会いと目覚め
遠藤幸英
「出会いと目覚め」といっても、ここでは実体験と知識として得た先人の知恵のないまぜになったものを指す。
おしなべて世の事象は特定民族や地域に限ったことではなく、人間社会の縮図ではないだろうか。
1890年、日本を表敬訪問したオスマン帝国の軍艦「エルトゥールル号遭難事件」(台風による荒天に遭遇して和歌山県串本町沖合で沈没。悪条件の中での地元民の懸命の努力で656名の乗員の内わずかだが、なんとか69名が救助される。この事件はトルコ人に今も続く親日感情が芽生えるきっかけとなったことで有名である。
さて、長いこと生きてきたけど、今度のトルコ訪問(2回目)ほどハラハラさせられたことはなかったように思う。たとえ(人から見れば)ちっぽけな体験であるにしても。
それでも「旅」の題材を得意とするアメリカ人作家M.ミューショーが某文学系学会(MLA)の講演で述べたように多少(?)の危険を伴う旅のワクワク感の魅力は捨てがたい。
未知の世界は恐怖心をかきたてる一方で、平常時には眠っている特殊な感覚が目覚めるのではないかという考えもなりたちそうだ。
<原文>… I like going places where I don’t speak the language, don’t know anybody, don’t know my way around, and don’t have any delusions that I’m in control. Disoriented, even frightened, I feel alive, awake in ways I never am at home (Michael Mewshaw, “Travel, Travel Writing, and the Literature of Travel”, p. 9).
出典:“Travel, Travel Writing, and the Literature of Travel”
South Central Review, Vol. 22, No. 2 (Summer, 2005), pp. 2-10 (9 pages)
https://www.jstor.org/stable/40039867
JSTOR (a digital library of academic journals, books, and primary sources)
に蓄積された論文などはregister a free accountすることで(月に100件)閲覧・(スクショによる)コピーができる。
ミューショーによれば、この高揚感を味わえる「旅」の対極にあるのは旅行会社がお膳立てした「ツアー」であり、そこには新鮮な感覚をよび覚ます驚きや発見がないことになる。ツアー客はむき出しの、生の異世界に直接接触することはない。たとえ現地にいようとあくまで安全対策を施したフィルター越しに異世界を垣間見るだけのこと。spacesuitsのごとき外敵から身を守る防護装置に頼り切ってしまい新しい視野が開けることもない。どこへ出かけても異人に遭遇することもないのでミーちゃん、ハーちゃん(こんな言い草は今や死語か)でさえも安心して旅を続けられる。これでは未知の世界に対する感受性は活性化しないのも当然だ (Mewshaw, p. 6)。
とはいえ2026年も半分過ぎようとしている今。事前に用意された「安心安全最優先のツアー」とは区別される旅のあり方、すなわち神秘と危険がないまぜになった異世界への旅立ちという発想は大して刺激的でもなさそうだ。何しろミューショーが発言したのは20年も昔のこと。でも彼は彼なりに旅を通して新しい物事を探し当てる旅行記作家としての自負があったのだろう。
いつの時代であっても、いかなる文化圏であっても異文化圏を旅すれば何らかの驚きを思えるはずだ。だが、旅人が自国の価値観とあまりにかけ離れた異国で次々に生じる事態にどう対応したらいいのか戸惑うものだ。当人の現実を生きるうえでの自覚と覚悟そして度量が試される。
ミューショーのような知名人でない私が異世界で受けた衝撃(?)を語るのはおこがましい。が、それを承知のうえで緊張させられた旅の体験談を少しばかり語りたい。
私の限られた<異国>体験(必ずしも英語で用が足せるわけではない遠い国々、ロシア、フィンランド、ハンガリーなど)——ミューショーを借用すれば——“going places where I don’t speak the language”の中でも今回のトルコ旅行は緊張させられた。とにかくトルコ語Türkçe(テュルクチェ)は難しい。なんの事前の準備も予備知識もなかった。Thank youさえ言えない始末:Thank you = teşekkür ederim(テシェキュール エデリム)覚えにくい!
一つおもしろいと思ったのはオスマン帝国時代、スルタンの宮廷ではフランス語が公用語だったそうで、その影響か街中でExcuse meに相当するフランス語からの借用語Pardon(パルドン)をよく耳にした。
チラと耳にしたところでは語順が「主語+目的語+動詞」であるため、日本人にとって比較的学習しやすい言語らしい。
さて半年ほど前急にトルコを再訪してみたくなり、ネットで航空券を購入。今年2026年の2月末以来アメリカとイスラエルが(宗教的専制国家)イランに対して軍事行動を展開している最中の3月31日、関空からシンガポール航空便でトルコ1週間の旅に出た。本格的な戦争状態に突入すれば、たとえ渡航できたとしても1週間後イスタンブール発の帰国便が就航してくれるかどうか不安だった。そういう次第で異国の旅に対する期待にワクワクする気分に浸れないまま関空から出発。
ちなみに、昨年11月は台湾を1週間かけて鉄道で周遊するために交通費や宿泊費など10万円余り予約で費やしたが、その折は台湾に台風接近中。これも悪天候で観光どころではないかと思いながらも関空まで出かけた。ところが、出発が4時間延期とわかった。居心地の悪い場所で長時間待つ気になれなかった。それで航空券やホテル代、鉄道周遊きっぷなどの放棄は金銭的にかなりな痛手だったが、旅行を諦めて帰宅。案の定台風上陸。行かなくて正解だったと無理やり納得した。
半年も経たないうちにまたもや不運が巡ってきたのか。しかし、今回は予定通り旅に出てよかったと思う。ただし、ストレートな意味で旅は楽しいというわけではなかったが。
これまであちこち海外を旅したけれど、今回ほど緊張させられる事態に出くわしたことはなかった。
それから随分年月が過ぎた。その間にあちこち海外に出かけた。最初のトルコ旅行2009年だったか。イスタンブール限定だったが、トプカピ宮殿の展示物には圧倒された。(宮殿入り口に向かう途中、日本滞在経験があるというトルコ人から日本語で話しかけられたが、何か魂胆があるのじゃないかと思えて戸惑った。杞憂に過ぎなかったが。)観光スポット以外の様子も見たいと思い、ネットで見つけた市内の映画館に出かける。トルコ語は皆目理解できないので上映中作品の題名も分からず、字幕もないドキュメンタリータッチの映画。山岳地帯を舞台に正規軍とゲリラの戦闘場面に圧倒される。この映画『息 ― 祖国よ永遠なれ(Nefes: Vatan Sağolsun)』は10年以上たって偶然youtubeで発見(「老成研」にエッセイも投稿させてもらった。)。英語字幕付きで公開されていて、いわゆる中東地域で展開するクルド武装組織と各国政府との軋轢、戦闘などの背景を多少とも知ることができたように思う。
ところが今回のトルコ訪問はこんな経験したことないと言いたいほどの不快な(?)出来事にも出くわした。
久しぶりにトルコを訪れた私のように現地事情に不慣れな外国人旅行者を狙った詐欺行為。
アンカラで3泊した後、帰国前日イスタンブールに戻って1泊。翌朝帰国便に乗るため空港へ。かなり早めにホテルをチェック・アウト。ホテルに近いメトロ駅から空港線に乗り換えるガイレッテペGayrettepe駅でのこと。ここでメトロM 2路線からM 11路線へ移動して空港へ。私は入国時に空港で購入したイスタンブル・カード(市内公共交通機関用I C乗車カード)があるので乗り換え先のM 11改札もカードのタッチで問題なく乗り換えできるはず。
ところが、ここで現地交通事情に不慣れな私を動揺させる事態が起こる。発券機のそばに若いトルコ人の男がいて外国人乗り換え客に向かって英語でactivate [=Activate your Istanbul card]と叫んでいる。私にもクレジットカードを使ってイスタンブル・カードを「有効化せよ」と迫る。これは事情に疎い旅行者にとって非常に危険な状況だが、不意の出来事に慌てた私は事態を把握できなかった。しかもその男はどう見ても地下鉄職員には見えないにもかかわらず空港に行かねばと焦っている私はつい乗せられてクレジットカードを出す。するとその男はそのカードを発券機に押し当てる。これが3回続く。3回ともチャージ金額を選ぶ画面が表示されなかった。ということは、(それまでスーパーなどで通用していたそのクレジットカードが発券機によって認識されなかったということか。)詐欺が失敗であればいいのだが。
冷静になって考えると、事前にネットで日本人旅行者が自分の体験としてアップしていた詐欺事例を思い出せばよかった。スタンブールのメトロ発券機で発生しているらしいスキミング詐欺(あらかじめ発券機に装置を一時的に取りつけてカード情報を盗み取る)に関する警告だったが、その時はそんな余裕なし。今思い出してもそういう情報搾取の仕掛けがあったとは思えない。(今後の不正使用を恐れて帰国後)当のクレジットカードは作り直したものの今月下旬に判明するはずの利用履歴を見るまで不安ではある。
この詐欺かと思える経験のあと空港行きメトロに乗り換え。イスタンブール到着直後の5日前に乗り換えは経験した。だけれど、連絡通路は歩いて15〜20分かかる上に(地元の人が言うほどわかりやすくはないし、)たまに通路の壁にM 11とかtransferという表示があるものの、あとはトルコ語表記があるばかり。ようやく空港に着いたが、当初予想していた時間的余裕はほとんどなかった。
<後日談>
やはり親切を装ったペテン師だった。1万2千円ばかり詐欺られた。とはいうものの不用心だった私も責められてしかるべきではある。
ちなみにカード会社から届いた利用明細。支払った覚えのない3千8百円が3回請求されている。
問い合わせてみたが、支払いは停止できないとのこと。

この金融機関について警告を発信している人もいる。
https://johnnydep.seesaa.net/article/504195624.html
BELBIM ELEKTRONIK PARA というイスタンブールの金融機関
詐欺で盗んだお金の回収先を担っている要注意の会社だ。クレジットカードに課金しているのに利用控えレシートを出さない酷い会社だ
次は旅行者用イスタンブル・カードの追加チャージで生じた上と同じ金融会社による不正課金についての警告。50トルコ・リラを追加しただけなのに650トルコ・リラを徴収されたという。
2019/03/25 — Allow me add my experience to Istanbul Public transport and Istanbul Card. Watch out for fraudulent public transport charges!!! Istanbul has a very good public transport. Unfortunately, tourists are being cheated when topping up their transport cards with credit cards (and most of the machines don’t accept cash). Both, me and my co-traveler were charged additional 650 TRY (approx. 20 euro) when topping up the Istanbul Card for 50 TRY (approx 1.3 euro). The fraudulent vendor is Istanbul Card: BELBIM ELEKTRONIK PARA. I made an official complaint, which was first accepted and later dismissed despite all the proofs (credit card transactions are clearly traceable). After two weeks of back and forth they conceded to return the money, but only to a Turkish account. When I provided a Turkish account, they denied the refund.
しかしBELBİM Elektronik Para ve Ödeme Hizmetleri A.Ş. イスタンブール市公認の金融機関らしい。H Pにアクセスできず。不可解。
<後日談終わり>ちょっとお高い詐欺対策レッスン料でした。
実はこの出来事の前にもトルコ旅行の主たる滞在地であったアンカラでも(日本人を狙う)詐欺師じゃないか???????と疑いたくなる人物と出会うことになる。親切も場合によっては素直に受けとれなくなる。
この事件?について語る前に現代トルコの首都アンカラの歴史的背景を少しばかり。
アンカラはイスタンブールに引けをとらないほどオスマン帝国の歴史と文化に色濃く彩られた都市である。この都市を含むアナトリア半島(小アジア)はトルコの大半を占める地域であって、帝国の歴史は紀元前2千年に遡ることができるそうだ。その頃半島中央部に住んでいたのはハッティと呼ばれる民族で、鉄の文化と技術を創始したと伝えられる。彼らはやがて民族大移動で東方から移住してきたヒッタイトに主導権を奪われた。この種族はそれから千年以上経過して11世紀以降中央アジアから移動してきたトルコ人のルーツであるテュルク系民族とは別の存在である。ヒッタイトは鉄の技術を本格的に発展させ強大な軍事力を獲得して勢力を誇ったが、紀元前12世紀には衰退する。(従来ヒッタイトによる精錬技術―自然界に存在する酸化鉄から金属としての鉄を抽出―の発展説は定説化していたが、2000年代の初め頃から疑義が出はじめて現在では否定派が有力だそうだ。)その後アナトリア半島は数世紀にわたり小国家乱立の時代を過ごす。やがて14世紀から16世紀末に至るオスマン帝国の全盛時代へと移行する。
オスマン帝国は13世紀末アナトリア半島の一隅に誕生し、西に隣接する(ブルガリア、セルビア、ギリシアなど)バルカン半島諸国をはじめ東ヨーロッパ、西アジアおよび北アフリカに点在するイスラム教諸国を吸収合併して強大化した。15世紀半ばには、長らく東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都であり、キリスト教圏最大の都市コンスタンティノープルを陥落させ、首都をイスタンブール(ギリシア語由来の「都市へ」という意味であり、当時、都市とはコンスタンティノーブルをさす)と改称。こうしてオスマン帝国は500年以上ヨーロッパ、アジア、アフリカにまたがる広大な地域を支配した。だが、その勢力には限りがあった。1923年、ムスタファ・ケマル・アタテュルク (1881~1938) によって旧弊なイスラムの諸制度を改革して宗教的制約を緩和する政策が打ち出される。こうして新世紀(20世紀)に相応しい「近代トルコ」が誕生した。その際心機一転、アンカラが新首都として定められる。
アナトリア半島のきらびやかな歴史とは無関係に私は些細な個人的思いでアンカラに興味が湧いていた。2023年に放映されたT V活劇シリーズDokuz Oğuz(9人の英雄?)の動画(トルコ語、字幕選択可)(https://www.youtube.com/@DokuzOguzDizi
を見たことがきっかけだった。劇中でアンカラにあるトルコ共和国参謀本部の建物が時折姿を現す。このトルコ国軍とクルド系ゲリラとの戦闘を描く12部構成のドラマの背景にはトルコの地理的、政治的特殊性がある。トルコ内部およびトルコ周辺国では相当な規模のクルド人コミュニティが散在する。クルド国家建設目指す武装組織PKK(クルド労働者党)などが中東各地の政府と武装闘争を繰り広げてきた。トルコ国境の山岳地帯ではトルコ国軍守備隊が配備され、周辺国から侵入するゲリラとの間で激しい戦闘が展開される。
話を元にもどして、アンカラでの怪しい人物との出会い。
出会いのきっかけはアンカラの目ぼしい観光名所であるアナトリア文明博物館とアンカラ城に出かけたことだった。二つとも平地から100メートル余りの小高い丘の上にほぼ隣り合わせに立っていて眺望はすこぶるよい。ここにはおよそ10万年前の旧石器時代の出土品や遺物が時系列に沿って整然と展示されている。考古学的に貴重な資料の豊富さに圧倒される思いがした。博物館を後にしてほぼ隣接するアンカラ城を見物した後徒歩でバスやタクシーの溜まり場に降りる。ホテルにもどろうと道路の反対側を見ても逆方向に走るバスのバス停が見当たらない。交通検索アプリ(Rome2Rio)で付近のバス停を表示させ、通りがかりの人に聞いてみるが、そういう地名はあっち、と漠然とした方向しか教えてくれない。仕方がないのでその方向へ向かい、途中の陸橋で対向車線側の歩道へ渡る。あたりにバス停の表示なし。その上半時間以上待っても一台のバスも現れない。これでは埒があかないと思い、(アンカラ城と博物館のたつ丘の麓にある)タクシーの溜まり場へ向かって歩き出す。今回まだタクシーには乗っていないので悪徳タクシーに出くわさないかと心配だった。すると同じ方向に歩く中年男性が英語で話しかけてきた。私が日本人だとわかるとスマホにYukichi Tsumuraの画像を写して、軍人である自分はこの人物を尊敬していると言い出す。陸軍中佐津村諭吉(1881〜1927?)についてはまったく無知であった私。しかし津村中佐どころではなかった。その時の私はどうすれば無事にホテルに帰れるか、それが一大関心事だったのだから。途中で日本人のガールフレンドがいるとか、名前が「サユリ」とかなんとかだとか(バーのホステスさんの源氏名かいな?)信頼できるタクシーを紹介してくれるというけど、私はぼったくりタクシーへ誘導されるんじゃないかと不安になる。15分くらい歩いてようやく「おすすめのタクシー」なるものを見つけてくれた。その後あっさりと去っていった。この親切?な御仁にお礼も言えないままだと気にしつつも、今度はこのタクシーってほんとに信頼できるかなという恐れが湧いてきた。ホテルまでそう距離的に離れていなかったせいか2千円足らずの料金だった。ホテルにもどってからタクシー料金について聞いてみたところ正常な金額だと言われたので一安心。
帰国後思い返してみるとこのトルコ人男性ってタクシー会社とグルになっている詐欺師ではなくて、ひょっとしたらbiじゃないかという気もする。しかし、それもゴメンこうむる。
ちなみにトルコ都市部の車は運転がかなり乱暴に思えたし、歩行者も危険な横断をしていると感じた。
また話がそれるが、
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/r/News20240818_203859.html
津村中佐の名をイスタンブールの通りにつけてしまうほど日本に対する尊敬の念の強さは次の記事(和訳で公開)に現れている。「ベイコズ(補註:ボスフォラス海峡のアジア側あるイスタンブール市内の一地区)に生きる日本人中佐の名前―ユキチ・ツムラ(津村諭吉)通り」、2024年08月18日付Milliyet 紙(『ミッリイェト[=国民性]』はトルコの日刊紙)。
1921年、第一次世界大戦(1914〜1918)後の混乱期に、シベリアに抑留されていたトルコ人捕虜1,000人あまりを複雑な国際関係に起因する障害にも関わらず津村中佐の指揮のもと日本船「平明丸」で故国に送還できた。そのことに対するオスマン帝国の感謝の思い。戦時、トルコと日本は直接交戦こそなかったが、敵同士であったが日本政府の判断で多数の捕虜が帰還できた。
<補註> 第一次世界大戦中、協商国(連合国)–イギリス、フランス、セルビア、ロシア帝国(後にイタリア、ギリシャ、ポルトガル、ルーマニア、アメリカ合衆国が加盟)と中央同盟国–ドイツとオーストリア・ハンガリー(後にトルコとブルガリアが加盟)が交戦。
時間が逆もどりするが、往路も結構厳しい状況に立たされた。詐欺の被害どころか(地元の人の)親切心に助けられたのだが。交通系アプリに従ってバスに乗ったものの(次の停車駅の電光表示がある)メトロと違い、路線バスではバス停の名前が聞き取れない。満員の車内はほとんど英語が通じそうにないお客さんばかり。が、そばにいた大学生らしい若者に助けを求めて目的地のバス停で降りることができた。その時点では帰路に大きな困難に遭遇するとは予想だにしなかった。
ここで終われば、単なる個人的しくじり話になってしまう。そこで多少なりとも意味づけをしたいと思う。
遅まきながら帰国後読んだのが長場 紘(ながば ひろし)『近代トルコ見聞録』(慶應義塾大学出版会、2000年)。はや四半世紀前の視点で描かれているのでトルコの現状とはずれがあるかもしれない。(また、作中に登場する歴史上の人物についてもその後の研究で若干事実誤認があったとwikiが指摘する。)それでも私にとっては旅の記憶の整理になったし、それより何よりはるか昔、明治時代にトルコに渡り、異文化を肌で体験した日本人が複数いたことを教えてもらえた。エルトゥールル号遭難事件がきっかけとなって日本とトルコ(正しくはオスマン帝国)の親交が始まったが、明治、大正時代の日本人のトルコ観が興味深い。
当時は1000年の歴史を誇るオスマン帝国と称したトルコであったし、イスラムという日本人にとってほとんど未知の世界を旅して冷静に、客観的に観察しながら現地の人々と臆することなく交流していたという。この国際感覚には驚きを禁じえない。たとえ日本に対する好感度が高かったとしてもすべてのトルコ国民が日本人に対して友好的であったとは考えられない。不案内な土地で遭遇する困難を乗り越えた日本人訪問者たちは傑物ぞろいである。
『近代トルコ見聞録』で紹介された人物たちについてはまったく知らなかった。日本とトルコ交流でよく引き合いに出されるのは実業家兼茶道家・山田寅次郎(1866-1957)。彼は若干20代の若者ながらエルトゥールル号遭難事件から1年余りして日本各地を講演活動。殉難者の遺族が味わう苦難を訴え、募金活動などを通じて現在の金額では1億円に相当する義援金を自ら現地に届けたという。その後数度の一時帰国を挟んで10年あまりコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)で日本の物産店を経営しながら両国間の親交に貢献した。日本の伝統文化に堪能で、かつ政財界にも繋がりをもつ日本人の存在はトルコの発展に貢献したに違いない。
山田寅次郎の例にもあるとおり異文化交流に際しては旅先に内在する文化的インパクトもさることながら旅する者自身の心構えと感受性も同等に重要だろう。その点で私の場合、まるで受け身であったと言わざるをえない。いつの時代であっても異文化同士の間には違和感というか受容と排斥をめぐる葛藤など複雑な反応が生じやすい。旅というものは人の意識に内在するhomeとawayの両極で大なり小なり軋轢が引き起こされるのは避け難い。
『近代トルコ見聞録』では他に8名の(外交官を含む)知識人が取り上げられ、彼らがトルコ滞在を通して披露した深い洞察が紹介される。その中から建築家ならびに建築史家として優れた業績を残した伊東忠太(1867〜1954)をとり上げたい。帝大工科大学で博士号を取得して間もなく30代半ばの伊東は3年間の研究留学を命ぜられ主として中国、インド、トルコ(オスマン帝国)で研究に励む。だが、伊東の研究方法は特異である。山田のような社会生活密着型ではない。また学者の留学によく見られる留学先の研究者との交流や大学図書館での文献渉猟に専念するのでもない。ようやく世紀が改まった時代、1923年の近代トルコ誕生の10年前、帝国末期の建築をつぶさに見て回った。首都にばかりとどまらず伊東は建築学の専門家として精力的に帝国各地を視察。比較建築学的な目を肥やしたという。注目すべきは伊東が帝国とイスラム文化を共有する国々、すなわちシリア、エジプト、(当時帝国に併合されていた)パレスティナにまで足を伸ばしている。さらに、帰国は西回りのルートをとったので欧州各地、その後大西洋をわたりアメリカへ旅を続けた。彼の広範囲に及ぶ研究者としての関心は建築のみならず、異文化に対する多元的視野を育んだことだろう。これだけ国際的文脈で物事を咀嚼するパワーには圧倒される。
伊東は純然たる知的異文化理解ばかりでなく、明治改元以来近代化を進める日本との落差について正直な印象も語っている。オスマン帝国各地を鉄道や馬車で旅したのだが、馬車の旅はかなり難儀したようだ。真冬の馬車の旅について愚痴を漏らしたりする。安宿(それしか見当たらなかった)での一夜。この宿は「石と泥で無造作に壁を築き上げただけで(略)四方隙間だらけで肌を割(ママ)く寒風が遠慮なく吹き込んでくる。土間の上にムシロ一枚を敷いて、その上に海老の如く身をかがめて毛布に包まれて寒い夢を結んだ」(『近代トルコ見聞録』119頁、原本『伊東忠太著作集』第5巻のうち「見学・紀行」の章、原書房、1982年)。
伊東の旺盛な活躍ぶりは彼個人の才能にのみ帰されるべきものではないように思える。彼の個性的能力と彼が訪れた諸々の場所との相互作用のなせる技というべきではないだろうか。いみじくもミューショーが指摘するように<場所>(滞在先)が個々人の<人となり、人柄、個性、人間性>を形成する。つまり地理的、空間的環境の影響力を物語る。”We are shaped by where we are. Place works on us just as do events and people, we become — or have the capacity to — different people in different settings” (Mewshaw, p. 9).
強烈な異文化体験といえば、私が連想するのは19世紀後半オセアニアや北アメリカをはじめとして中東や東アジアまで旅をしたイギリス人イザベラ・バード(Isabella Bird 1831〜1904、結婚後はイザベラ・ビショップ[Bishop]と名のる)である。ヨークシャー(イギリス中部東寄り、19世紀産業革命期毛織物産業の中心地)において国教会の司祭の娘として成長した彼女は病弱な子供であった。船旅が健康改善に役立つという医師のすすめにより20代初め一年かけて北アメリカ東部を単独で旅をする。その後40歳を過ぎてから海外旅行を再開。著述意欲の旺盛な彼女は次々と旅行記を出版。ただイギリスと共通項の多いアメリカは別として、中東やアジアはまったく未知の世界だっただろう。I. バードは明治時代の初め、1887年6月から9月にかけて東京から北海道(蝦夷)を旅している。急激な工業化の真っ最中の土地柄に育った彼女の目には東北や北海道が人の往来の乏しい僻地(unbeaten tracks)と映ったのも当然だろう。交通の便は最悪だったろうし、しかも彼女は老年期(60歳目前)を迎えていたのだから。それでも彼女は弱音を吐くどころか旅を楽しんでさえいたのだから驚く。50年前病弱だった少女は度重なる海外旅行が転地療法として効を奏したのだろうか。また彼女の持ち前の精神力が当時の感覚では当時初老とみなされて当然の彼女の心身を勇気づけたのか。あるいは<場所>が<人間性>を大きく育てたのか。
しかしここで注意が必要ではないか。ミューショーによると、場所(旅先)の特性が個人(トラベラー)の個性よりも優先権をもつが、本来両者は<対等>であるべきだろう。一方的影響関係ではなく、<相互作用>であるべきだ。バード女史が道なき道unbeaten tracksをものともしなかったのは彼女の魂、精神が行く先々の土地の魂、精神と共鳴し合ったからに違いない。再度ミューショーを引用するとDisoriented, even frightened, I feel alive, awake in ways I never am at home.人を戸惑わせる未知の空間こそ新鮮な感性を呼び覚ますのだ。
参考
Isabella Bird/Isabella Bishop関連書誌:
『イザベラ・バードの日本紀行』上・下2巻、時岡敬子訳、講談社学術文庫、2008年、原著Unbeaten Tracks in Japan, 1880年)
Unbeaten Tracks in Japan他、彼女に関連する英語原文著作は下の二つのサイトで無料で購読可。
(1)Internet Archive: https://archive.org
(2)全作品(十三作)https://www.gutenberg.org/ebooks/author/393
Project Gutenberg is an online library of more than 75,000 free eBooks. 1971創設
*上記GutenbergおよびInternet Archiveはfree accountを登録すれば多数の書籍を読める。
両者とも日本の「青空文庫」にやや似ている。
異文化圏を旅する場合、忘れてならない配慮と用心深さとその場・その時を楽しむ余裕の大切さを教えてくれたトルコ旅行であったように思う。
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ここからは蛇足
現地で初めて見つけたおいしい紅茶
yeşil çayイエシィル・チャイ=green tea
色味は緑茶というより紅茶というべきだろう。ココナッツやパパイヤの(人工的?)フレーバーのせいかほんのり甘い。日本では買えないのが残念。
トイレ事情
Otel İçkale (読み:オテル・イチュカレ) Ankara 5つ星のホテル
Nippon HotelはJR東日本が親日国トルコとの友好関係と日本人の人気観光国であることを考慮して開業。私的には両者とも快適。
両ホテルに設置されていたトルコ人好み(?)のbidet spray toilet。いわゆるウォシュレットとはだいぶ違う。
以下引用
https://ameblo.jp/one-smile-lab-blog/entry-12907502336.html
2025-06-01 13:47:56
和式水洗トイレ風ですが、この場合は桶の上の蛇口から水を桶に入れて、その桶からのお水でお尻を洗います。
当該ブログ掲載写真のキャプション:
・右の黒色の桶が水でお尻を洗うための桶
・左の黒色の縦長の物はお尻を洗うブラシではなくて所謂トイレブラシのはず
筆者が見つけたAIによるトルコ旅行のトイレ関係アドバイス:
サービスエリアの設備: ガソリンスタンドや、レストラン・売店が併設された場所が多く、トイレの心配は基本不要です。
有料トイレ: 入り口におじさんが座っている有料トイレでは、1リラ硬貨や少額紙幣が必要です。(筆者の追記:イスタンブール市内では自動改札式の場合もあり、イスタンブルカードが使えて便利。)
トルコ式トイレ: 地方の施設では、和式のような「トルコ式便器」が設置されていることが多いです。
紙の処理: トイレットペーパーは流さず、備え付けのゴミ箱に捨てるのがマナーです。
準備するもの: 水に流せるポケットティッシュ、ウェットティッシュを常に持参しましょう。