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『今、国学の呼びかけるもの』シリーズ: 「真淵が生きた江戸時代中期」 その9
時代への提言 | 2026.05.26

©︎Y.Maezawa

真淵が生きた江戸時代中期

その9

橘千蔭(たちばなのちかげ)は 伊勢松坂から江戸に出て 町奉行・大岡越前守の組与力として出世をした父・橘枝直(たちばなのえなお)の後を継ぎ 江戸町奉行の与力として 活躍した幕吏であり、県門の四天王と言われた真淵門下の多才な弟子でした。

真淵の弟子 橘千蔭(たちばなのちかげ)

老中 松平定信

真淵は 1742年(寛保2年)2月、46歳の時、茅場町に千蔭の父親である枝直に地所を借り 家を構えました。門人が多くなり、来客が増え、生活も安定してきたからです。


真淵研究者 小山正氏は 真淵の弟子 村田春道(村田春海の兄)と親交があった縁で、枝直は真淵を家の近所に招き寄せ、自分の勉強と千蔭の教育に当たらせたのではないか と推測しています。

その後 千蔭は 老中 田沼意次の側用人として 長い間、 司法与力として事件や訴訟の裁定に敏腕を振るいました。書家としても名高く 千蔭流の流祖でもありました。

田沼時代が終わった後の老中・松平定信は、幕政を断行し 田沼時代をことごとく否定しました。千蔭の前妻(故人)の実家 深谷氏が田沼意次の側近であったことにより、千蔭は松平定信から何かと睨まれ、遂には 50石減俸、百日閉門を命ぜられるのです。

1758年(宝暦8年)9月25日付 梅谷市左衛門宛賀茂真淵書簡(浜松にいる真淵の息子への手 紙)に、「第一地主加藤要人(かなめ:枝直の名)か妻は、田沼の用人深谷市郎右衛門娘に候 へば…」(賀茂真淵全集23巻) とあることによっても 加藤家が田沼意次と近しい間柄であっ たことが分かります。

閉門の憂き目に会った千蔭でしたが、その後 『万葉集略解(まんようしゅうりゃくげ)』32 冊(版本)の「万葉」全巻注釈書を手がけまし た。これは、『万葉集』の注釈書で、契沖をはじめ、 真淵や宣長などの今までの説をふまえた分かり やすい注釈を加えたため、『万葉集』の入門書と して人々に広く読まれました。


【千蔭画像 東京国立博物館所蔵】
老中が田沼意次から松平定信に代わると、田沼時代の役人を多く罷免するに及んで、千蔭は自ら病と称し 職を辞することになりますが、逆境に屈することなく 和学や歌文などに本 腰を入れ、文芸の世界で幅広く活躍しました。

【万葉集略解 賀茂真淵記念館所蔵】

©︎Y.Maezawa

※より詳細な情報をお求めの方は 

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©︎Y.Maezawa

浜松市立賀茂真淵記念館 

URL: http://www.mabuchi-kinenkan.jp

尚、当シリーズにおきましては、賀茂真淵に関連する資料/画像、及び内容解説に至るまで 浜松市立賀茂真淵記念館(一般社団法人 浜松史蹟調査顕彰会)の許可とご協力のもと、展開させていただいております。

この場をお借り致しまして その多大なるご尽力に感謝申し上げます。

(編集:前澤 祐貴子)

 
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