交流の広場
意識生成系
― ダンゴムシからヒトへの意識の階段 ー
寺川 進
元浜松医科大学教授(細胞イメージング科学)
はじめに
人の意識というものは、ヒトという種と他の動物種を大きく区別する特性である。知性、知恵、予測、推論、創作、想像、鑑賞、学習、感情など、様々な高次の神経機能が人の意識から溌生すると考えられる。その意識の実態はどんなものであろうか。意識というものは、どのように生まれてくるのであろうか。この謎が、若い頃の私の頭に浮かんで以来、それを解くことが私の最大の生きがいとなった。これが、人間にとって最大の謎に思われ、それを解くことが、私の夢となった。若い頃には、ある種の余裕があり、それほど必死の努力を払ったわけではなく、謎が巨大すぎて、遠くから近づけそうな道をぼんやり眺めていたくらいである。しかし、長い時間を掛けて、継続的に考えるようになり、思考を組み立てる作業が次第に上手になるとともに、意外に謎解きができてきたのではないか、という感触が強くなった。そして、私の考えを言葉に表し、他人にその考えを伝えて、同意したり批評したりしてもらうことができるのか、を知りたくなった。十分に理知的な人が理解できるような言葉で、考えを表現することが大事である。私としては、人が足を踏み入れていない山奥か地の果てに出かけ、鉱脈やら天蓋やらに頭を突っ込んで、自分が眼にしたものを、人に知らせたいと思っている。

キーワード
意識の説明、 記憶、 魂、 世界のコピーを作る脳、
Consciousness Explained as a Generative Transformer, Memory, Spirit,
Brain as a Mapping System
この書における単語の定義:
差し当たり読み進めるために必要な単語について、私流のごく初歩的な定義を示す。詳細な定義は、各単語が文意を矛盾なく読み取れるような意味を持つものとして、文脈の中から自ずと定まる、と考えたい。
反射; 複数の神経細胞が、最も単純な結合をして、入力信号に応じて、最短時間で出力信号を送り出す自動的な神経反応。その単純な機構だけで、生存に重要な生理機能が実現しているもの。脊髄反射や嚥下反射などがその例。
本能: 反射を構成する神経経路が複数組み合わされ、順に働くことによって、全体としてプログラム化された生理機能。生存に必須である。クモの巣作り、鳥の抱卵、食欲や性欲などがその例。
情動: 感覚(視覚や聴覚)として得られた情報(外界からの刺激)に応じて、特異的に、短時間に生じる身体反応。本能的なものや自律神経支配の反応が多い。泣く、笑う、怒って顔が紅くなる、驚いて身体がビクッとする、音楽でゾクゾクする、うれしくて踊りだすなど。
感情: 自己の情動、外部環境、人間関係を認知することによって引き起こされる、心の反応。怒り、驚き、喜び、悲しみ、辛さ、嫌悪感など。痛い、暑い、疲れたなどは、感情ではなく、感覚である。
意識: 自分が人として自律的に考えたり思ったりする機能。また、そうしていることを自覚的に認識できる機能。本能や五感を含む感覚入力、情動反応、認知した世界の状態、自己の記憶内容などの多くの要素へ注意を払い、次の行動を適切なものとする機能。
こころ:上記に似ているが、より社会的な基準や自己の都合に照らして、価値を考慮するもの。また、意識より深い層や広い範囲の全ての精神機能が含まれる、という意味合いもある。拙文では、具体的に明瞭な場合に「心」とし、広くあいまいな場合に「こころ」を使用している。基本的には、大きな差は無い。
高次神経機構:感情、意識、心を担う働きをする脳の神経構造。
精神: 空想したり、夢を見たり、計算したり、といった意識の働きの全てを、身体(肉体)と対比して表すときの言葉。
魂; 昔から信じられてきた仮想的なもので、霊魂と同じ。意識やこころ、場合によっては身体を、駆動し制御する能力があるとされる。個体の死後にも、身体から分離して残り続ける非物理的な存在。
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下記の「アリのように思うこと」 という文章は、2026年に終活をしているときに、紙の山から出てきたものである。書いたのは2015年で、浜松医科大学を定年となり、常葉大学へ移って暫くした頃である。名誉教授の会のエッセー集に載せてもらった。今から見ると、本著作の予告編のような断章となっている。短いが、造船所の船台のような役割を果たした。本作の構想を建てながら、浮草のように流れて来た建築素材を拾い集めていた。5, 6年して、そんな材料を組み合わせた形が大きく見えるようになり、1章以降の執筆が、進水式で船台を離れる船さながらに、大海に向けて滑り出すことになった。
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アリのように思うこと
寺川 進 2015-6
研究を専門としない立場になると、これまでは自分の研究に含まれないと思って深入りしなかったような領域にも、自由に入れるようになる。そして、学生に様々な科目の授業をするとなると、様々な新しい分野の勉強を始めることになる。そうなって、やっと、自分は学生時代からこのような生活を理想としてきたのを思い出した。最近学んだことを、断片的に並べてみる。
生命を物理学の観点から見ると、「複雑系」として捉えることができる。ウイルスは、進化を促進し、生物の新種を生み出す力となっている。現生人類はすべて6万年前にアフリカを出た小数グループに由来する。ネアンデルタール人の絶滅は、原生人類の隆盛が原因である。生物の形の中には黄金率がよく現れる。最新の計算技術で、πは12兆桁を超えるまで計算されていて、1兆1千憶桁の辺りには、3141592653 が並んでいる。人間は観測可能な宇宙より大きな世界を想像できる。ヒトは、すでに、宇宙より何十万倍も大きな幾何学的な図形を描いた。磁石を使って、眠っている人の夢を画像に描く方法がある。大きさ 10 cm ほどのフグの 3 mm ほどの大きさの脳が、海底に直径 3 m ほどのミステリーサークルを描く本能を有する。男性にもオキシトシンが作用する細胞がある。脳内には、位置ニューロンがある(2014年ノーベル賞)。
小学校卒業の頃に、なぜここにある肉体の中の意識が「私」なのだろうか、という疑問に取りつかれた。以来、自我や意識に対する好奇心が、憑き物のように、答えを出せと責め続ける。この頃、死の世界が見える所までやって来たので、自分が、時間内に解答を書かなければと必死に焦る学生になったかのように感じる。原稿の締め切りが過ぎるように、試験時間は終了したのかもしれない。フェルマーのように、ページの余白に答えを走り書きしておこう。
解答: 1) 意識は時間の流れの中で生じる。2) 流れの痕跡が記憶であり、記憶の総体が「私」である。3) もし、時々刻々を記憶できなければ、主観的な意識は発生しない。4) 記憶の総体から同時に信号を受け取る「私ニューロン」が存在する(であろう)。5) 「私ニューロン」の存在を証明するためには、記憶の総体を刺激する実験が必要である。6) 死の報酬として、「私」には記憶を再生しながらそれを順に消すことが許され、「私」は消える。
これが、12歳の少年が取りつかれた疑問に対し、69歳の老教授が与えた答えである。
(題名は、デカルトの言葉: 我思う、故に我アリ のジョーク)
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上記のエッセーを書いてから5年ほどして、下記のように第1章の執筆を始めた。
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第1章 意識の降臨
第1章の目次
第1章の緒言
ダンゴムシのこころ
原始的な記憶
クオリア
パーセプトロン (幼いAI)
判別、認知、認識、理解、知識および記憶の仕組み
おばあさん細胞仮説
ジェニファー・アニストン細胞
世界の事物の神経細胞への紐づけ (脳生理学の指導原理Ⅰ)
場所細胞、時間細胞
私細胞
細胞の組織が機能を発揮する
f-MRIによる脳活動の計測
意識の未来
第1章の緒言
この賞では、主に、脳を物体として扱い、実験や測定によって、客観的に理解できるモノであるという立場から論じる。 意識の主体としての脳は、多様であり、 神秘的なモノではあるが、いわゆる科学的な研究の対象とした場合、どこまで知られているのか、そうした客観的な研究の結果に基づけば、意識と脳機能について、論理的にどのようなコトが言えるのか、という私の考えを提示したい。
「一寸の虫にも五分の魂」という諺がある。かなり魂は大きいようだ。現代人の常識としては、あまり、バッタのような昆虫に、ヒトの意識のようなものがあるとは思わないであろう。しかし、昆虫も人も、共通の生命原理の上に並ぶものである。人も、昆虫のような簡単な構造の生物から進化してきたものである以上、人の意識の原型が、昆虫時代からあったのだろう、と考えてみることは意味がある。意識の発達について、下等動物から人間までの、神経系を持つ全ての生物の違いを、論じていくつもりはない。ただ一例として、ダンゴムシにおける本能的な神経作用を見てから、イヌ、ネコに少し触れ、次いで、ヒトの脳に跳び、基本的な精神機能について、なるべくまとめて理解する。意識に関わる神経機能を、多くの側面から説明するのではなく、一つ二つの原理的な考えから説明するという道をとりたい
ダンゴムシのこころ
NHKの「又吉のヘウレーカ」という番組に、ダンゴムシにも心があるのではないかとする先生が登場した。信州大学繊維学部の森山優氏である。氏はダンゴムシの研究をしており、その行動を詳しく調べている。

ダンゴムシはほとんど脳がなく、はしご状の神経系が身体全体に広がっているという。それでもダンゴムシはかなりのことができるようだ。ダンゴムシが真っ直ぐ歩いている先に木片のような障害物を置くと、右か左に曲がり、木片に沿って歩く。そして、障害となる木片の端に達すると、初めに歩いていた方向を覚えていてそちらの方向へ歩みを続ける(図1)。そこで、ダンゴムシを溝でできた通路のある円板に乗せて歩かせ、途中で円板を回転させてダンゴムシの向きごと変えてしまうという細工をする(図2)。この実験路に入れられたダンゴムシは、木片を回避するという図1のような反応を、いつまでも繰り返して歩き続けるが、何十回か繰り返したのち、突然、壁にぶつかったときに、向きを横にとらず、縦方向に変える。つまり木片の壁によじ登る反応を示す。これによって、無限地獄から抜け出し、新しい世界に向かって歩き出すことができる。本能によって支配されていた行動がうまく行かないと悟ったダンゴムシが、「こころ」を働かせて、新しい選択をしたというわけである。この実験をした森山氏は、ダンゴムシは、脳が無いような単純な神経系しか持たないが、それでもその神経系は機械と同じように働くのではなく、心のような作用を発揮するものなのだ、と感じたという。

さて、テレビを見た私。「ダンゴムシのこころ、ヒト知れず」というのが最初の感想。次に湧いて来た感想は、ダンゴムシには、やはり、こころは無いのではないか、という疑念のようなものである。テレビの先生は、ダンゴムシが同じ反応を繰り返しているうちに、突然、行動の形を変えることに驚き、ダンゴムシにこころの作用が働いたと、感じられたようだ。私には、この同じ繰り返しの後の突然の変化こそ、機械のように働くダンゴムシ特有の神経系の作用に思える。ムシの神経構造の中にあるのは、本物の機械ではなく、機械のように働いている生体である。つまり、疲れを知らぬ機械と違い、あるところで疲労し、諦める機械なのである。環境に追い込まれても同じ動作を繰り返そうとするのは本能である。しかし、本能に指令された活動を繰り返すうちに、脚は疲れ、体液のpHは下がり、神経系のインパルス頻度に一定性が無くなり、本能遂行が難しくなる。すると、その次に用意されている別の生存本能が働き、行動の形が変わるのである。こころが働いて、飽きたり、自由選択が起こったり、というように考えなくてもよいのではないか。
ムシだからこころが無いと卑下するわけではない。実は、ヒトもムシと同様に動いているのではないか、と思うのである。ヒトには、生来、組み込まれた本能のプログラムが桁違いに沢山あって、心(こころ)のような反応を作り出す基盤になっている。それらが複雑に絡み合っているのでちょっと見では分かりにくいが、どのプログラムが現れてくるかは、気分や体内の生化学的な状況によって変わることになる。つまり、ヒトのこころは、何千匹ものダンゴムシの寄せ集めでできている、と言える。ダンゴムシにもこころがある、というのは正しい考えかもしれないが、そのこころの量は、ヒトの何千分の一なのではないだろうか。ダンゴムシにはこころは無いがヒトにはこころがあるというのは、そのような状況を表している。
この辺りの考え方は、Gulio Tononi の情報統合理論に似ているかもしれない。
原始的な記憶
ダンゴムシが、同じ道を繰り返して歩いてもすぐにはそれと気が付かず、なかなかその道から別の道に出ることができないというのは、人間からすれば、記憶力が弱い哀れな動物の性ということになる。それでも、ダンゴムシは、それなりの原始的な記憶を持っていて、必要最低限の生活を送っているはずである。地面に落ちている枯れた木の葉や腐肉に遭遇しては、その匂いから判断して、口に入れているはずである。生息地に見つかる色々な品々の匂いを記憶して(学習して)、食べ物かどうかを判別し(認識)、前回は口に入れても大丈夫であったことを思い出して(想起)、食べているはずである(本能)。おそらく、でこぼこの地面やその表面に開いた穴の位置などの、ダンゴムシにとって重要な印を記憶していて、エサの見つかる場所に簡単に辿り着けるのであろう。ダンゴムシも、それなりに、世界の様子を把握して、生存に有利な情報を知っているもの、と思われる。
象は、渇水期に、どの辺りの地下に水が有るかをよく記憶していて、仲間を連れて、そこまで数百キロを歩くという。リスは、秋のうちにたくさん木の実を集め、それを自分の縄張りの様々な所に隠しておくという。冬になって、雪に覆われた状態でも、自分が隠した場所を記憶していて、70〜80%は、探し出して食べるそうだ。残りの実は忘れられて、春に芽吹く恩恵に与る。人間にとっても、認識や記憶の大切さは論を待たない。そこで注目されるのは、認識や記憶とは何なのか、である。それらは、神経系のどこに、どのように収蔵されているのか。
クオリア
ダンゴムシは記憶に基づいて、世界を把握し、エサを食べて生活している、と説いてきた。ダンゴムシはかなり下等な生き物であり、機械に近い反応をしていると考えても、それほどおかしなことではない。しかし、イヌやネコのような動物については、どうであろうか。そうした動物は、ヒトほど高い知能は持っていないが、彼らの身の周りの世界をしっかり把握している点については、ヒト以上の記憶力を持っている。そして、ヒト以上に、世界に対する認知を正確に行っていると思われる。周りの状況というものを、はっきり理解し、世界の性質や構造を頭に入れて、ドジを踏まないようにしている。そういう能力については、ヒトとほぼ同じ能力を持っていることは明白である。階段があれば、それを跳び上がるなり、一段ずつ上がるなり、正確に認識していることは間違いない。ボールと石を区別でき、飛んでいるフリスビーの進路を目測して、跳びついて咥えることができる。このように、世界の中の様々な対象物を実体として感じるとき、その感覚をクオリアという。
もう少し単純に考えると、世界には色々な特性や性質があり、その性質を常に同定することができるものとして認知するとき、その性質をクオリアという。たとえば、ボールの色。黄色いボールであれば、黄色を感じて、それを目標に、追いかけることができる。このとき、黄色という性質がクオリアの一つである。そうなると、世界はクオリアの集積であり、多数のクオリアの組み合わせが、何らかの世界の現実感を与えるのだ、ということになる。イヌの嗅覚は、ヒトのそれより圧倒的に感度が高く、匂い世界においては、より豊かで複雑な現実を感じている。マダニやヒルは、動物の体温を敏感に感じて、跳びつく相手を認知して、その皮膚にへばり付いて血を吸う。ヘビもピット・オルガンによって赤外線を感知し、温度分布の画像を感じることができる。これによって、温血動物の居る方向が分かるようになっている。感覚器が捉える感覚の種類をモダリティーというが、それぞれのモダリティーが脳に信号を送ったとき、脳が体験として感じるモダリティーの詳細をクオリアという。マダニの感じる哺乳類の体温程度の高い温度の感覚は、マダニにとっては、血液の実感なのである。クオリアが生じることによって、実感が湧き、脳は世界を実体のあるもの、現実感のあるものと認識するのである。
我々は、眼や耳を通して、周囲の世界の存在を実感するが、脳がなぜ世界を実感することができるのかということは、あまり理解されていない。世界は本当に存在するのか、脳が勝手に作り出した幻影なのではないか、脳内の幻影を実体として感ずるだけなのではないか、といった疑問を完全に消すのは難しい。
脳が、身の周りの世界を、現実に存在するものとして感じるのは、色々なクオリアが、心象と呼ばれるひとつのイメージにまとまるからであろう。この感覚は、意識というものが生じるための、重要な要素として働いている。しかし、この要素は、意識を豊かなものにすることに大きく貢献しているのであって、必ずしも意識が発生するための必要条件ではない。感覚器からの信号がほとんどない状態で、外部世界に起因するクオリアが無いという時にも、人は意識を持つことができる。低調な意識かもしれないが、視覚、聴覚が完全に障害されている人でも意識はあるのだ。
ひとつの感覚のモダリティーには、その中に多数の詳細な性質が含まれている。視覚であれば、赤や青の色。その明るさや形。それらの性質の一つ一つを脳が認知すると、それぞれ異なるクオリアとして捉えられる。色には何万色もあるが、それを異なる色として捉えることができるのは、次の節に説明するような仕組みが働くからである。
パーセプトロン (幼いAI)
これまでの節に述べた問いに対する答えは、1950年代に提案されている。すでに盛んになってきた脳の解剖学的研究や神経細胞の生理学的研究、さらに電気回路による論理学的な研究などの成果から、大脳の新皮質といわれる領域の理解が大きく進んだ。ヒトの学習や知的作業を担っている大脳皮質の神経回路モデルが考えられたのである。


サンティアゴ・ラモン・イ・カハール(ラモニ・カハール)は、ゴルジ鍍銀染色法によって、個々の神経細胞の形を可視化し、皮質では、神経細胞が5,6段の層状に配列していることを明らかにした(図3 -4)。コルビニアン・ブロードマンは、大脳新皮質の全体について、この層状構造を詳しく調べ、領域によって異なる層構造であることを明らかにし、異なる構造を持つ領域を、50以上の番地を付けて区別した。それぞれの領域は異なる脳機能を持つと考えられるが、多くの高次機能が、似たような層構造に依存したものだ、とも考えることができる。電気生理学の発展により、個別の神経細胞の活動性が明らかになり、神経回路の組み合わせと思われる脳の論理的な思考というものを、細胞レベルから理解しようとする流れが起こる。
こうした流れの中で、フランク・ローゼンブラットらは、図5のように反応素子(ノード)が並ぶ回路を提唱し、パーセプトロン (Perceptron) と名付けた。これは、視覚や聴覚といった感覚機能(Perception)をうまく説明できる。反応素子とは、電子的な動作をする素子 (すなわち器具:tron) の集合体である。後に、ジョン・ エクルズや伊藤正男は、微小電極を使った小脳の研究で、神経細胞間の機能的な結合の様子を明らかにし、パーセプトロンの形が実験的に正しいモデルであることを支持した。この配線の中心的な要素は、生体中では神経細胞であるが、説明のための図(下図参照)では、四角または丸で表される印となっている。具体的には、リレー、真空管、或いは、トランジスタのような、増幅機能やスイッチング機能を持つ、能動的な素子である。これらの素子は、ラジオ、テレビなどの製品や、当時、開発途上にあった(初期の)コンピュータなどの、主たる部品でもある。現在は、いわゆるICや半導体と総称される集積回路の内部に多数収まっている

上の図のような配線例では、5つの異なる信号を入力として受け入れ、4つの異なる信号に変換して出力する。5つの数字の組が4つの数字の組に変換されることに相当する。入力側の信号の数と、出力側の信号の数は、同じでもよいが、出力側の端子をより少なくすることも可能であり、情報をある程度まとめるか、分類して出力できるのが大きな特徴である。出力側の端子の数が減ることは、物事が分るとか、理解するとか、概念が形成される、などという脳の高次機能に対応した重要な働きである。入出力の端子の数が変わるなどという、大したことがない話が、判断や理解の本質であることに、注目して欲しい。以下に、そのことを納得するのに役立つ例を、いくつか示していく。
舌の味蕾という組織で作られる、甘味、酢味、塩味、うま味、苦味の5つの感覚の信号が脳に送られ、それが4種類の別の感覚信号に変換されるようなことがあれば、上図のパーセプトロンは、そのモデルということになる。実際の脳では、特に4つにまとめられるとは限らないが、もしそうなっていれば、4つの信号には別の感覚名が与えられているであろうということである。例えば、① とてもおいしい、➁ まあまあおいしい、➂ どちらかというとまずい、➃ とてもまずい、という判定が成される。これは、入力側の1〜5の端子に対して、味覚信号が有ったり、無かったり(あるいは強かったり、弱かったり)というような組み合わせが、どのようであれば、おいしく感じるのかということである。このような配線の接続の強度の分布が、個人の味に関する好(このみ)であり、また、記憶でもある。好き嫌いに関する判定基準であり、身体の安全を守る仕組みでもある。ちなみに、辛味というのは、味蕾の中の感覚細胞のひとつとして分化しているものではなく、味蕾の中の神経線維に、痛みの感覚を担うTRPチャネルという受容体タンパクが存在し、それがカプサイシンという辛味物質に反応するときの、痛みに類似した感覚であるとされている。上の図に辛味を加えるならば、入力側の端子の数を5個から6個にすればよい。
上述の味覚に関する説明は、単純化したものであり、実際には、食べ物の旨い・不味いには、他のたくさんの感覚神経からの入力信号が関与している。食物の見た目、匂い、口の中での食感(つるつる、ぬるぬる、ざらざらなど)、噛み切るときの感触、骨伝導で感じる噛み砕く音など、ほぼ総合的な知覚の能力が動員されている。さらに、食材を入手する経緯や、料理した人、食べる場所、空腹度などの要素も、大いに関係する。それらの条件は、味覚を司る側頭葉感覚野の皮質に直接入るのではなく、偏桃体、視床下部、前頭前野など、広い領域において処理され、統合された信号となっている。
パーセプトロンという名称は、感覚器の入力を処理する配線構造を指すものとしては、今でも使われているが、脳の高次機能を担う類似の配線構造は、より複雑で多層化していて、それらの全体は、もっと一般的に、ニューラルネット(Neural Net: NN)という名称で呼ばれている。ニューラルネットこそが、AI(人工知能)の本体であり、パーセプトロンは、初期のAIの幼名ということになる。ここに、AIというものが誕生し、産声を上げたのだ。
判別、認知、認識、理解、知識および記憶の仕組み
パーセプトロンは、感覚を受容する神経のネットワークとして考えられるが、その受容のポイントは、出力側にある神経細胞のいずれか一つが、入力側の信号の組み合わせに応じて反応する、という仕掛けにある。このような反応が、感覚という機能を実現しているのであるが、実は、感覚だけでなく、脳の知的な作業全般を担うことができる。時代の発展と共にそれがだんだん分かってくるので、パーセプトロンという言葉はニューラルネットに変わってきた。NNは、それほど突飛なものではなく、脳らしい脳が無いダンゴムシでさえも、ハシゴ状の神経系は有るので、実現可能な配線なのである。ヒトの大脳皮質に密集して存在するNNは、脳の精神機能を初め、高度な神経の作用を発揮する。そこで、入力信号が出力側の細胞の反応になることが、どのように認知や記憶のようなものを担うのかを見てみたい。例として、電磁波の理解と数学の公理系を取り上げる。
イギリスの理論物理学者、ジェームズ・C・マクスウェルは、マイケル・ファラデーやアンドレ=マリ・アンペールらが発見した、電気や磁気に関する法則を数式で表し、その数式を数学的にまとめることによって、電磁波(電波)の存在を予言することができた。式に含まれる自然定数である誘電率と透磁率から、この波が伝わる速さまで計算され、それは当時すでに知られていた光の速度と一致した。このことから、光のひとつの形として、電波という波が存在し、光も電波の仲間のひとつなのだ、ということが理解された。人間の脳が達成した、最大の科学的な成果である。実際にその過程を辿るには、電気・磁気に関する微分方程式と波動のベクトル方程式の数学を理解していなければならないが、下図のように、簡単な言葉を並べるだけでも、ある程度の理解はできる。電波は、マクスウェルの予言の後に、ハインリヒ・ヘルツの2台の誘電コイルを用いた実験によって、実在することが証明され、グリエルモ・マルコーニによって、実際に大西洋を越える通信に応用できることが示された。
私は、小学4年生くらいの時に、伯父から小さな鉱石ラジオをもらった。マッチ箱のようなものに、たった3つしか部品が入っていなかった。それでも、空に稲妻が走ると、そこから発する電波が、イヤホンからジャリッという音となって聞こえることを知り、見えなくても電波というものが存在することを実感できた。稲妻は、巨大な電気スパークで、その中でイオンや電子が高速で走り回り、電波を発するのである。
マクスウェルの方程式の意味するところをやさしい言葉で表すと、下図のようなものとなる。中段の「電磁場」を説明する言葉が最下段にある言葉である。中段の2つの言葉を理解できれば、最上段にある言葉が(ある程度)理解できる。実際は、それぞれの言葉の中にある単語の一つ一つを、さらに分かりやすい別の言葉を使って説明することができる。このように、難しい概念は、下に辿って行けば、子供でも分かるやさしい言葉の集まりとして、分解できるはずなのである。

理解するということは、自分が理解できるやさしい言葉を使って、より難しい考えを、トーナメント図のように、新しく組み立てることである。トーナメント図の上位に位置する言葉は、下位にある沢山の言葉を寄せ集めて説明される。辞書による言葉の説明は、このような言葉の間の関係を限定的に指定することであり、言葉の定義を与えるものである。辞書や百科事典は、一つ一つの言葉に、こうしたトーナメント図のように説明を与えることにより、学習者に理解をさせるものである。
数学は、直感的に分かるいくつかの事実を組み立てて、新しい考え(概念や定理)を作り出すことで成り立っている。基本公理から、定理を組み立てる、と言われる(下図参照)。数学の学問体系は、トーナメント図の最下位にいくつかの公理を置き、その組み合わせから得られる論理的に正しいと確信できる結論を定理として、構築される。いくつかの定理を組み合わせて得られる結論を、新しい定理として、トーナメント図の上位に配置していく。このような展開を限りなく続けたものを一つの公理系と呼ぶのである。異なる公理の組み合わせから始めれば、全く異なる定理が成り立ち、その全体は異なる公理系となる。

数学の定理の中で人類史上最も高尚なものは、クルト・ゲーデルの発見した不完全性定理である。これは、本説文とは必ずしも関わりが無いかもしれないが、短く触れておきたい。人間の脳は、ここまで考えることができるのか、という驚きの知恵である。この定理は、「数学の公理系において、表現として許される定理の記述(命題)の中には、公理から導くことができないものがある」、と表現される。つまり、ある定理の様なものを適当に記載したときに、それが、実際に正しいか誤りであるか、どちらも証明できないものがあるというのだ。数学の公理系は、記述することのできるすべての命題を証明するには、不完全なものであると主張している。ほとんどの命題は、正誤どちらかの証明ができて、その決着が付くのであるが、そうはいかない命題もあるのだ。人同士が議論している問題の中には、正しいか誤っているかは、論理的には決められないものがあり得るというのである。そのように、数学体系や論理体系は黒い穴のようなものを内包しており、それについては、手が着けられないのだ。私は、学生のときに、この不完全性定理の証明法を1ヵ月以上掛けて独習したが、論理というもの自体を計算できる数値のように扱い、数学的帰納法を使って、結論を導いた、と憶えている。記号論理学でも、論証の過程を計算として解決していくのが、ユニークなことであるが、論理というものも、実は、計算という方法と無縁ではないのである。不完全性定理というものが、脳の機能、あるいは、人が論理的に考えるということに必ず欠陥があると主張しているわけではない。しかし、論理と結論や、基礎知識と高度な概念の関係に、時には不完全な関係が入り込む可能性には注意しなければならない。物理学や哲学の世界の中の辺境の地では、そういったあいまいさが多く含まれるかもしれない。
図5に一例を挙げたニューラルネットは、多数の並列入力端子を持ち、そこから多数の配線が出て、次の層(または列とか段)に並んだ多数のスイッチング素子(ノード: スイッチのような動作をする部品)に入力する。入力信号の大きさは、結合係数、または、結合荷重と呼ばれ、調節可能とする。幾つかの配線を受けた2層目のスイッチング素子は、受けた信号の大きさを総合して、スイッチを入れるか入れないかの動作を行う。この2層目の素子の出力が、多数の配線を介して3層目の素子に送られ、再度、結合係数に応じた出力が3層目のスイッチング素子の状態を決める。
入力層への入力信号のパターンは色々であるが、ある組み合わせのときには、3層目の a番の素子の反応が起こり(スイッチが入り)、別の組み合わせの時には、別の b番の素子に反応が起きるというように、全ての結合点の係数を調節することができる。入力層へ入る信号の全ての 組み合わせに対して、必ず、3層目のどれか1個だけの素子が反応するように、すべての結合係数を調節することが可能であることが、数学的に証明されている(パーセプトロンの収束定理)。こうした配線構造は、脳の中で、物事を理解したり、認知したりするための基本的に必要なものとなっている。
国語辞典のようなものは、人が使う言葉の中のほとんど全ての単語について、意味や使用法が説明されている。つまり、辞書に載っている言葉から、上述のトーナメント図のようなものが作れることになる。説明に使われる単語についても、同じ辞典の中の別のページで説明されている。それについても別のトーナメント図が作れる筈である。こうした関係を全ての単語について線で結ぶと、一冊の辞典に載っている全単語が漏れなく互いに結び付けられることになる。こうした関係図を知識グラフと呼ぶ。部分的に見れば、何らかの単語の説明であり、それだけでも知識である。何らかの知識があれば、それらの組み合わせで、新しい知識が説明され、その意味が理解され、それについての判別が可能となる。人間の知識や記憶といったものは、こうした知識グラフの形で、広大な大脳皮質の神経細胞に収蔵されているのである。
最近は、このような知識グラフは、インターネット上に収蔵されているといっていい状況になっている。特に、グーグル社の提供しているような、検索システムは、個人、学校、会社、その他の機関や団体が公開する雑多な知識や資料、そして理系と文系の専門的論文に現れる項目を取り上げて、それらの間の知識グラフを構築している。これは、人類の全ての知識を網羅的に含む、巨大な知識グラフといえる。その有用さが顕著となり、世界中に多くのユーザーがいるようになったので、知識グラフといえば、グーグル社が所有している全世界の公開情報の知識を指すほど、この言葉は、一般名詞から固有名詞に変わってきたような感がある。
昔、アレクサンドリア図書館には、70万冊の蔵書が収集されていたそうだが、現代のグーグル検索の中には、どれほどの知識が含まれているのだろうか。私自身がたった今記述しているこの文章は、Google社が提供している Google Doc という無料のワープロを使用して書いている。Google社の知識グラフのシステムは、ネットを介して、随時、私の文章を覗き見しており、この文章の中に現れる知識と言えるものを、全て収集しているに違いない。今や、他の会社のものを含めて、インターネット上の情報検索システムは、人類共有の巨大な知識であり、記憶庫である。それは、後述するAIの深層学習の材料となり、新たな知識の源泉となる。しかし、いくら知識の量が多いとしても、現在のインターネット・システムそれ自体が意識を持っているということはない。意識が生まれるには、知識が豊富であることの他にも、特別な要件が必要である。
おばあさん細胞仮説
他人の顔を見たときに得られる情報として、白髪で、垂れ目で、柔らかそうな肌で、しわが目立つ、という特徴があったとする。それらの情報は、パーセプトロンのどの入力端子に入るか選別されなけらばならないが、それらが入力されたら、必ず、3層目の g番の素子のスイッチが入る、というように結合係数をセットしておくことができる。つまり、おばあさんを示唆する入力があれば、必ず、g番の素子が反応するというわけである。これが、パーセプトロンによるおばあさんの判定機構であり、このようなパーセプトロンはおばあさんを記憶しているということができる。
脳の中でも同じように神経細胞が働いていると考えることができる。このとき、g番目の反応素子にあたる神経細胞を ”おばあさん細胞” と名付ける。n番の神経細胞は、入力の別のパターンに応じて反応する。このようにして、このパーセプトロンのモデルは、3層目にある全ての神経細胞に、それぞれ異なる入力パターンを対応させる (紐づける) ことができる。このようなモデルは、3層目にある神経細胞の数と等しい数の人物を判別し認識することができる。このモデルは、人物の記憶と認識を担う脳のモデルであり、同時に、人工的な判別装置として役立つものでもある。判別できる対象は、人物に限らない。他のパーセプトロンの配線では、動物や、飲み物や、車の種類や、その他の物の判別も可能である。入力端子の数を増やせば、一つの巨大なパーセプトロンによって、すべての対象物を判別・認知することも、原理的には可能なのである。

ジェニファー・アニストン細胞
実際には、ヒトの脳において、おばあさん細胞はまだ見つかってはいない。しかし、2005年に、ジェニファー・アニストン細胞が見つかった。ジェニファー・アニストンは、米国の美人女優で、テレビ・ドラマのシリーズで主役を勤め、人気を博したという。ある神経疾患の患者に必要になった脳手術に際して、切除をする脳の範囲を厳密に決める目的で、摘出予定境界領域に電極を入れた。その状態で患者は麻酔を解かれ、写真を見たり、話したりした。医師が、J.アニストンの写真を患者に見せると、電気反応(インパルス応答)を示す神経細胞が見つかった。アニストンの横顔でも、別の服装の顔でも反応した。しかし、他の女優の写真や建物の写真では、弱い反応しか見られなかった。面白いのは、アニストンのサイン(署名)を見せても大きな反応が現れたことである。

この測定結果は、1人の被検者から得られただけのもので、一般性は無いものである。患者が、たまたま、彼女の大ファンであったことが、こうした神経細胞(J. アニストン細胞)を持つことになった理由と考えられる。実際に、おばあさんを想起したときに反応する細胞は、まだ、人の脳で証明されていないことを前述したが、おそらく、人によって、その存在位置は決まっておらず、予想した所に発見するのは難しいのであろう。

最近になって、神経細胞の電気的な活動(インパルス信号)を記録する方法が、一段と進歩した。ニューロピクセル(Neuropixels)という商品名の新しい電極が発明されたのである(図10)。長さ 10 mm ほどで、太さが 0.1 mm のシリコン製電極で、表面にチェッカーボード(市松模様)のような電極パターンが作られている。一個の市松の大きさは 20 µm ほどで、神経細胞1個の大きさより小さめになっている。個々の市松からは、独立した電気信号が記録でき、個別の神経細胞のフィールド電位の反応を捉えることができる。全体では900個以上の別々の細胞からの信号が同時に捉えられるという。

この電極を、ヒトの脳の側頭葉の上側頭回において、脳表に垂直に刺入し、喋り言葉の鼻音(m や nに対応する発音)に特異的に反応する、単一の細胞を検知したことが、発表された。8人の人間の脳から同一の結果が得られたとしされている。これは、物や人といった分かりやすい対象だけでなく、音の振動波形という複雑な対象に対しても、区別して反応する神経細胞が在るということを示している。さらに、最近、言葉の意味に対応して特異的に反応する神経細胞も発見されたことが報告された。この発見は、意識を考察するに当たって、大変重要なものであり、その意味については、第5章において論じるつもりである。
世界の事物の神経細胞への紐づけ [脳生理学の指導原理Ⅰ]
おばあさんに限らず、実世界に存在する個別の認識対象は、神経細胞そのものによって記憶されている、と考えると、記憶仮説はどう表現できるであろうか。我々が認知している、または、学習して知っている対象物(花、車、星、日本、地球、産業、アール・デコ、量子力学など)の全ては、それらを代表するように名札が付けられた神経細胞に紐づけされている、というのはどうであろうか。我々は、子供の頃からの学習で、実に沢山のことを覚えてきた。それらひとつひとつを代表するように、名札が付いた神経細胞が在るのだ。実際に名札は付いていないが、多数の神経細胞で構成されるニューラルネットが、一つの特定の神経細胞のスイッチを入れるように働いているということだ。電気的な測定をすれば、どの細胞がインパルスを生ずるかが分かる。認知できる対象は、具象物であろうが抽象物であろうが、名称があり、単語化されている。各単語は、いずれかの神経細胞が責任者として対応づけられているのである。
人が使う言葉のすべては、辞書や百科辞典に載っている。ということは、辞典に載せられているすべての見出し語の数以上の数の神経細胞が存在することになる。脳の皮質にある神経細胞の数は、恐らく、数百億であるから、記憶すべき対象の全てを、脳内の記憶として収蔵することは容易であろう。辞書の項目として並んでいる言葉は、他の、比較的分かりやすい言葉を使って、説明されているのである。この関係は、必要な神経細胞の全体の数を減らし、その代わりに、パーセプトロン(ニューラルネット)配線の係数決定の過程(それが実は学習に相当する)を、複雑で時間のかかるものにする。しかし、それは不可能なことではなく、実際的な時間のうちに終息するものである。一言でいえば、我々の記憶は、それぞれ個別の神経細胞によって、保持されているのだ。もちろん、1個の細胞が独立した形で記憶するのではなく、ニューラルネットの配線のように、多数の神経細胞が層状のスクラムを組むことによってそれが維持されているのを、忘れてはいけない。実際の脳内では、ある細胞を最終的に興奮させるには、広い層に散在している決まった組み合わせの細胞群が同時に興奮するのである。世界の事物は、すべて、ヒトの認識するところとなっているが、認識されているものは、皆、脳にある特定の神経細胞に対応していると考えることができる。世界の認識対象と大脳皮質内の神経細胞はそのように紐づけされているのである。私は、これを、脳生理学の指導原理Ⅰ、と呼びたい。
皮質内に在りながら、まだ紐づけに与っていない無垢の神経細胞も、多数、存在するはずである。そうした無垢の細胞が、これからの経験や学習内容を記憶するために使われる。その数は膨大なものであり、人の一生の何倍もの時間がかかっても、使い切ってしまうというようなことにはならない。ただし、壮年期を過ぎると、神経細胞は毎日10万個以上が死滅していくという推計もなされており、その中には、すでに記憶を構成していたものも含まれる可能性はあり、老化に伴う記憶力の低下に関与している可能性は高い。そのような消耗の過程があっても、新しい記憶のために使われる無垢の細胞は、十分足りるだけ、若い頃に作られている。
記憶がNNのスクラムの上に載せられていると理解すれば、アイスクリームとソフトクリームは、似た者同士なので、同じNNの配線体を使って区別して認知されるるであろう、ということになる。そのときに反応するNNの中の細胞群は、おそらく、各層において類似の分布パターンを示すであろう。両者を最終的に区別する第3層の2つの出力細胞は、互いに近い所に存在している確率が高いであろう。シュークリームやクリームソーダなどの他のクリームを代表する、それぞれの神経細胞たちは、互いに近い分布域に散らばっていると考えてよいであろう。見たり、聞いたり、触ったりして判別されるもの、あるいは、認知されるものは、感覚に応じて、脳内の一定の所にある神経細胞が反応するか、しないかによって、判別されるものと考えてよい。それらが、実際に脳皮質のどの場所に存在するのかということは、個人の経験と教育の時と場所によって、それぞれ異なるのは、自然なことであろう。
場所細胞、時間細胞
脳には、自分が居る空間内の位置を認識する ”場所細胞” がある。これは、2014年度のノーベル医学生理学賞を授賞したモーザー夫妻とオキーフらの研究の結果であり、事実と認められている。ヒトでもネズミでも、自分が今どの辺りに居るのかを認識するための神経細胞がある。部屋の隅に居ればインパルスを生ずる細胞や、真ん中に居ればインパルスを生ずる別の細胞があり、全体として、海馬の神経細胞が、居場所の格子的な位置を分担して紐付けしていることが分かっている(格子細胞として存在が証明されている)。
場所細胞が特定されたことから、ネズミのような動物でも夢を見るのだ、ということが証明された。場所と夢の間に深い繋がりがある、というわけではない。場所細胞の反応を見ることにより、ネズミ自身が、今、部屋のどこに居ると認識しているか、が客観的に分かるということを利用する実験手法なのだ。いつもネズミが居る部屋をAとする。それに繋がる少し狭い部屋をBとし、その両側にCとDの部屋がそれぞれ繋がっている。各部屋の間には透明な仕切板があり、その板は実験中に開けたり閉めたりすることができる。Dには、定期的に、エサを置く。実験者は、ネズミがDの部屋に居るときにインパルスが出る場所細胞を同定し、その電極の応答を連続的に記録する。時間になったとき、実験者は、Dの部屋にエサを置く。しかし、BとDの部屋の間の仕切りを閉じておく。ネズミは、Bの部屋まで来るが、Dの部屋に入れない。Dの部屋にはエサがあることは分かるが、どうしても食べられない。しばらくするとネズミは諦めて、Aの部屋に戻り、しばし眠り込んでしまう。このとき、ネズミの脳内にあるDの部屋を示す場所細胞が活発にインパルスを出すのである。ネズミは夢を見ていて、夢の中では、Dの部屋に入って行くことができてエサを食べている、としか考えられない。
我々は、夢の中で、ある知っている場所に行っていた、という夢を見ることは多い。しかし、まったく知らない場所や新しい場所の夢も見る。場所細胞に登録されていない、どこか知らない場所のイメージを作り出すことは、色々な記憶を組み合わせれば可能なのであろう。場所細胞が脳内に作られるには、記憶の組み合わせだけでなく、実際のその場所に行き、色々な随伴要素を体験することが大事なのであろう。たとえば、浅草という場所に対応する神経細胞ができるためには、人混みや、鐘の音や、線香の香りなどを、実際に、そして同時に、体験したりすることが重要であろう。自分の脚を使って出かけることも強い入力要素となる。ネズミにとっては、食べて満足する感覚が得られることが、場所細胞形成には最も重要なはずである。
この世のすべての認知対象に対して、それぞれ紐付けされた神経細胞がある、という仮説は、完全に証明されたものではないが、理論的に不可能なものではない。むしろ、数学的帰納法に近い尤度で確実にありそうなことである。そこで、仮説を基に思考の飛躍をしてみたい。私の思考飛躍は、場所細胞があるならば、 ”時間細胞” もあるに違いない、というものである。遠い過去、近い過去、現在、近い未来、遠い未来などという札がけられた神経細胞があり得るし、あるほうが便利に違いない。格子細胞のときと同じように、年号を札として持つ細胞も在ってもよい。私は、ヴェサリウスの解剖図譜「ファブリカ」が出版された年を1543年と覚えている。それは、1543年と札付けされた神経細胞を(ある学習によって)作ったからで、簡単なことである。

時間細胞は、時代区分をするようにあるのか、年号ごとにあるのか、その両方なのか、さらに、別の分類を示す名札がついているのか、色々、考えられる。通常は、遠い過去に属するほど、時間の単位は大きなものになる。遠い過去になってしまったことに対しては、1秒、2秒の時間間隔はあまり意味をなさない。せいぜい年単位の区別に対して紐づけられていれば、十分ということになる。そんな所まで考えたわけであるが、大筋は私の想像で作り上げた話で、実験に基づく科学理論ではない。実は、私の不勉強で、時間細胞の存在は、私が定年退職に近づいた2008年くらいから、いくつか提唱され始めていた。
Pastalkova, E. et al., Internally generated cell assembly sequences in the rat hippocampus. Science 321, 1322-1327 (2008)
MacDonald, C.J. et al., Hippocampal “time cells” bridge the gap in memory for discontiguous events. Neuron 71, 737-749 (2011)
これらの論文は、海馬の神経組織内に、起こったことの間の数秒の時間間隔に対して発火するような神経細胞がある、ということを報告している。意識がすぐに認識できるような範囲の時間差を、計測するような仕組みが存在するわけである。こうした神経細胞があれば、昨日と今日のような時間差を認識するような細胞ができることはすぐ想像できる。ただ、ちょっと前、だいぶ前、大昔などという、ざっくりした時間の前後を区別するのは、事柄をグループ分けして、記憶するという、分類機能によってなされているのではないかと想像する。時代というグループわけのための概念を作り、あの事件は〇〇時代に起こったことだと記憶すれば、歴史の流れとしての世界を、頭の中に、コピーとして保存することができる。場所細胞と違って、時間細胞は、時間差を与えるだけで、定量的な情報である。方向という定性的な情報が無いため、時間が1次元のものとしてしか認識できないことになる。
時間にしろ空間にしろ、正常な人の脳では、はっきり認識されており、日常的に混乱することは無い。しかし、他の記憶や認知が、比較的単発的に欠損していくのに対して、時間や場所の認識は、全体的に大きく混乱することが多い。これらはオリエンテーションと呼ばれ、ある種の脳疾患では、欠落する機能となる。たとえば、アルコール依存症に伴うコルサコフ症候や認知症のような状態では、オリエンテーションが大いに損なわれる。これらの機能が、海馬という比較的狭い領域の活動に依存しているためであろう。
私細胞
私の想像力は、さらなる飛躍の羽根を伸ばすことができる。この飛躍は、大きなものかもしれないが、決して、無理なものではない。むしろ、上記の脳生理学の指導原理Ⅰに従えば、必ず理論的に帰着する結論である。それは、大脳皮質のどこかには、必ず、”私細胞” があるに違いない、というものである。なぜなら、私というものは、この世界の中に居て、他の事物と同様に、我々自身の立派な認知対象となっているからである。私細胞は、私に関連している諸々の事実や情報が入力されたときに、インパルスを発生させて反応する細胞である。誰かが、自分の名前を呼んだとき、誰かが自分の噂をしているとき、また、自分で自分の生い立ちを思い出しているとき、自分の顔写真を見ているとき、その細胞は興奮する。「これは私だ」と思う(判断する)のは、写真に写っているいくつかの特徴が、入力信号となって、私細胞が反応する結果である。その細胞は、簡単に死んでしまっては困るような極めて大事な細胞であり、安全のために多数の集団をなしている可能性が高い。このような細胞(群)が萎縮したり損傷したりすると、「私は誰?」ということになってしまうのである。「私」という主観的な感覚は、その細胞(群)の活動が起こったときに生じるはずである。私細胞が無ければ、私というものを認識することができないはずである。私細胞の存在は、意識やこころの発生に、本質的に重要な役割を果たしているものと思われる。


繰り返すことになるが、脳の中には、J. アニストン細胞と同じように、私を想い表す神経細胞が存在するはずである。なぜなら、脳は世界のすべてのもの(知っていること)を脳内のどれかの神経細胞によって代表させているので、世界の中にまちがいなく存在する「自分」に対しても、対応する細胞を必ず作ることになるからである。私細胞は、脳が作る世界の模型の中に(犬や隣の子供を表す他の細胞と同列のレベルに)存在する。しかし同時に、この細胞は、時間空間体験のすべてを認識する細胞としてニューラルネットの高次の位置にも存在する(図12)。時間の区別が必要な事柄、たとえば、昭和21年生まれ、という情報は、私に紐づけられていなければならない。つまり、私細胞の特殊性は、ニューラルネットの階層的結合の上位にも在り、必要情報として下位にも在る、ということだ。これは、配線が巡回するような回路を成しているということであり、フィードバック・ループを構成する重要な能動素子として存在していることである(図13)。すでに、脳は外界の様子をコピーして、それを記憶として所蔵している、ということを述べたが、その世界のモデルの中に、当然、自分の居場所があり、家族、隣人、級友や、職場、環境などとの関係が築かれているわけで、その結合関係が、それぞれ紐づけられている神経細胞の結合として固定化されている。さらに、私細胞は、自分の好きな飲み物、好きな本、生まれ故郷、姓名、役職、住所など、ありとあらゆる個人情報が、それぞれ紐づけられた個別の神経細胞とも繋がっていて、必要に応じて、意識に上らせることができる。質問されれば、適切な答えをするための材料として、思い起こすことができる。私細胞は、「私」を認識する細胞であると同時に。認識の対象としての自己に紐づけられているので、自己細胞(Self cell)と呼んでもよい。
脳には、上記以外にも、顔という物の一般形に反応する細胞、顔の向きに反応する細胞、自分の顔に反応する細胞(ミラー細胞)、二つ黒い点が並んだもの ● ● に反応する細胞など、色々な特性を持った神経細胞が多数見つけられている。多くは、微小電極を用いた電気生理学的な研究の結果である。
細胞の組織が機能を発揮する
脳の中にある神経細胞、特に皮質にある細胞は、人が認識の対象とするこの世の事物に紐着けされている、と述べた。そのようになっているのは、個々の神経細胞が、他の多くの神経細胞と細い神経線維を介して連絡し合って、信号をやり取りするように組織を成しているからだ。組織の中の個々の細胞を見てみれば、それらは、様々な機能を持っており、あるものは、外界からの入力信号(刺激)を直接的に受け取り、あるものは、他の組織で処理された信号を受け取る。こうした組織が数えきれないほど多数あれば、いくらでも複雑なことができそうである。何でもできるとは限らないし、すべてが一瞬でできるとも限らない。しかし、相当なことが実現できる。各組織が独立して働かなければならないわけではない、各組織がすべて同時に働かなければならないわけでもない。休んでいる組織のメンバーである細胞が、一時的に、他の組織の応援に入ってもよいのだ。細胞間の接続関係が、自在に組み立てられたり、組織間の線引きが自由に変えられるようであれば、最適な組み合わせが模索でき、組織体全体の能力が高まるのに都合が良い。このような結合の柔軟性と、全体の働き具合を調べてより適切な方向へ変身していく機能があれば、組織群全体の能力をいかなるものにも育てられるのではないだろうか。意識という不思議なものは、脳という神経細胞の組織体が、どんな機能でも実現できるという準備を整えたとき、その底しれない器の中に降臨したのだ。
降臨という言葉を使うと、その主語は神の様なものということになる。私は、意識が、神や魂と同じように、物質とはかけ離れた神秘的な存在である、と考えているわけではない。ただ、意識や精神といったものが、神に近いほどの無限の力を秘めた不思議なものだ、と思っているだけである。それは、本来、どこにでもた易く現れるものではない。多くの奇跡的な物理現象の結果として出現した太陽系の第3惑星が、45億年かけて、極めて少ない確率の下に醸成した自然環境で、ほぼ特権的にヒトの脳だけに現れた、極めて特異な現象なのである。本著作では、この不思議な現象を、物質の組み合わせとしての細胞が演じる物理化学的な反応として説明することを目指している。この第1章では、神経細胞の果たしている基本的な働き具合を提示した。それらが、脳に意識というものを降臨させる場を創っているということである。
現代では、教育の場でも、日常的なテレビや新聞の場でも、細胞というものが登場し、身体を造り、それが健康や病気の基礎を成していることは、常識的になっている。誰でも、細胞の働きの詳細を知らないとしても、細胞と身体の関係を怪しむものはいない。それなのに、意識や心が細胞の働きによって生じるものだと説明されても、それを丸呑みして納得できる人はほとんどいないのである。
細胞には、前述した神経細胞の他にも色々な種類があり、全体を理解するのはなかなか大変である。しかし、全ての細胞に共通した性質もある。細胞膜で袋状に囲われている、内部にたくさんのタンパクや脂質、その他の有機分子が存在する、核、ミトコンドリア、ゴルジ装置、細胞内小胞系などの共通した細胞内構造を持つことなどである。主にタンパクの種類によって定まる機能に専門化しているが、ほぼ共通しているのは、あたかも一定のプログラムによって動作しているコンピューターのように働いていることである。核内の遺伝子にプログラムが格納されており、外部からの入力信号を総合的に処理して、適切な形の信号を出力するのである。そのCPUは、酵素作用を持つタンパク分子の集団である。出力される信号は、細胞によって特異的に決まっており、神経細胞であれば、伝達物質やホルモンが出力であり、筋細胞であれば、細胞長の短縮が出力に相当する。また、化学合成であったり、分解であったり、それらによる細胞自体の分裂であったり、発熱であったりというものもある。こうした反応から、どのように意識という機能がもたらされるのかは、多くの人にとって想像を絶する難問である。実際、これまでのところ、スーパーコンピュータなどがあるのに、それが意識を持つという話は無い。
細胞は一個一個がスーパーコンピューターである。そして、一個一個は小さい。そこで、膨大な数の細胞が集合し組織化することができる。要するに、これが難問の答えである。集積化することによって、細胞1個では成しえなかったことが、実現する。意識を創り出すことは後の章に譲り、生命を創り出すようなことを、多細胞化によって解決している例を見てみよう。
細胞が、多数、集まることが、神秘的な機能を発揮するのだ。湿った森の倒木などに2センチほどの背の高さを持つ、ムラサキホコリという名前の変形菌がいる。通常は、単細胞の形で存在し、アメーバ運動をして移動し、バクテリアなどを食している。それが、生活環境が悪化したり、エサとなる菌が得られなくなると、細胞同士が集まって、互いに接着する。一体化して、一匹の小さな原生動物のようになり、アメーバ運動によって、森の中を這い回る。その後、適当な場所に落ち着き、細胞集団の一部が盛り上がりを作り、それが上に向かって細く伸びて2センチほどになると、先端に子実体とよばれる細長い球体を作る。この球体の中で細胞は分化し、胞子を作れるようになる。できた胞子は、効果的に風に飛ばされ、かなり遠くへ運ばれる。その場所は、元の場所より環境や栄養条件が良い可能性があり、胞子が発芽成長して配偶子となり、配偶子同士の接合によって、遺伝子の組み換えをした上で、新しい変形菌の細胞を造って、森などに散って行くことになる。要は、一つの細胞ではできないことを、無数の細胞が集まることによって可能にする、ということである。
多細胞化することは、飛躍的に高い能力を獲得することに繋がり、それが、生物種の多様化と進化をもたらした。いわゆる高等動物に繋がるような膨大な数の細胞の集合が可能になったのは、コラーゲンというタンパクの誕生によるところが大きい。この線維性タンパクが細胞同士を絡めて集積することが、多細胞動物発生の鍵を握っている。植物における多細胞化は、動物のそれより先行しているが、やはり、同様な線維状分子であるセルロースの誕生によって、丈夫な茎や木の幹ができるようになった。
f-MRIによる脳活動の計測
電気生理学的な手法に対して、MRI(磁気共鳴画像法)は、電波を使って頭蓋内の脳の構造を、実にきれいに可視化してくれる素晴らしい技術である。このような技術が実用化されたことは、最高の英知が結集された快挙といえる。電波という波長の長い波を使っても 数ミリ程度の空間分解能が得られるというのは、正に驚きの技術である。この計測装置を使うと、脳の解剖学的な形態を、まったく被検者に害を与えることなく、観察できる。これによって、脳を初めとする体内の詳細な観察ができ、それに基づく臨床診断が可能となる。脳腫瘍、脳梗塞、脳動脈瘤、くも膜下血腫、動静脈吻合、水頭症など、全ての脳疾患の鑑別と治療に劇的な力を発揮する。さらにそれだけでなく、神経細胞が興奮してインパルスを出しているという機能的な状態が画像化できる(functional MRI: f-MRI)。神経細胞が興奮すると、より多くの血液の流れを必要として、その辺りの血管が拡張する。それが、酸素化ヘモグロビンの量の増大となる。これは、相対的に、脱酸素化ヘモグロビンの減少である。脱酸素化ヘモグロビンは常磁性体であり、その存在はMRI信号を乱す。したがって、酸素化ヘモグロビンの増加は、MRI信号(BOLD信号)の増加を引き起こすのである。

BOLD(血中酸素レベル依存性)信号の測定から、大脳皮質が捉えている対象に反応する神経細胞の検出(同定)が行われている。ジャック・ギャラントらは、短編動画を見ている人の大脳皮質全域の反応を、数ミリの空間分解能と数秒の時間分解能で連続的に記録した。得られる反応は、細胞一個一個のものではなく、数ミリの大きさの小領域に含まれる多数の細胞から生じるものである。走査に時間を要するので、実時間よりゆっくりした変化となる。彼は、このような脳計測を Brain Decoding と呼んでいる。脳神経細胞が見せる独自の反応パターンを読みとり、人間が理解できる(言葉などの)パターンに変換して、その暗号を解読するという意味である。動画の中のシーンに応じて、脳皮質に現れる反応は特徴的なパターンとなり、それがシーンの中の何(花や車などのどれ)に対応しているか、が分かるのである。一種の、読心術が可能になったことは、驚きである。同じ手法を使って、神谷之康(かみたに・ゆきやす)は、眠って夢を見ている人の頭から、夢に現れた画像を取り出すことに成功した。夢を見ていることは、眠っている被検者の眼球の動きから判定できる。f-MRIの測定の最中に、特徴的なパターンが現れた時、被検者を目覚めさせて、夢の内容を聞いてみると、夢当ての正答率は80%に達したという。個々の細胞が、一つ一つの事物に対応しているというより、複雑な視覚情報の場合は、それらが反応する細胞が示す、空間的な反応のパターンを、読みとることが大事である。その空間パターンは、複雑で、個人ごとに異なり、MRIに接続したAIを以て解読するという(図14)。
このようなSF的な研究を知って、私は時代の進歩を感じたが、自分のアイデアも試してみたくなった。夢の画像を、脳から、本人の告白無しに、記録し表示できるなら、臨死体験も、助かってからの事後報告としてでなく、それを見たり聞いたりしている最中に画像化できるのではないか? さらに、どうしても助けることのできない人について、f-MRI検査装置の中で臨終の時を過ごしてもらえれば、その人があの世に行って見ている画像を記録することも可能なのではないか? 死に行く人の脳そのものをカメラにして、あの世行きの道中の実況中継を、この世から見ることができるのではないか? 人は、心停止後も5分程度は、脳がある意味で機能していると考えられる。この世には決して戻ってこない人の脳が、臨終の最後のときに見る夢のような風景は、どんなものなのであろうか。
意識の未来
意識の発達を眺めるとき、気になるのは、過去だけでなく、未来である。これからの人類の意識というものは、どう変化し、どう進化していくのだろうか。本来は、この話題は、最後に置かれるものであろうが、この章で説明したことを延長するだけなので、敢えて、この場所に記すことにした。
この章では、主にダンゴムシとヒトの神経を扱ってきた。意識に未来の形があるとすれば、どの動物からも、その形に行きつく可能性はある。しかし、差し当たりは、ヒトがその形に一番近い所にいるのであろう。そこから進歩していくべき方向は、指導原理によってガイドされる。すなわち、世界の事物と神経細胞は一対一対応しているという原理を追って、脳を考える。世界の中で、事物Aと事物Bが組み合わされて事物Cになっていれば、脳皮質の神経細胞もそれに対応した接続をしているわけである。そうする中から色々な概念を専門的に担う細胞が現れ、脳の知的レベルが上がっていく。これを促進するものは学習であるが、学習には時間が掛る。おそらく未来の意識を高めるためには、より短時間の学習によって、より複雑な細胞の結合が実現できるようになるのではないか。相対性理論を学習する代わりに、相対性理論の通りに構築された盆栽のような神経細胞組織を、脳皮質に移植すれば、手術の翌日には、理論の隅々までが理解できてしまうというように。神経組織の移植が難しければ、SSD(個体記憶装置)のような外部記憶装置と脳の間のインターフェースを進歩させ、考えるだけで、必要な情報が脳内の神経細胞群に送り込まれるという便利な手段はどうであろうか。知識だけでなく、本来は、自分で体験して思い出を作らなければならないところを、SSDからのアップロードで、疑似的に体験し、記憶できるような皮質細胞の接続の改変も考えられる。意識が注意を払わなければならない対象は、確実に増やすことができる。
神経細胞そのものには、どのような進化が考えられるであろうか。インパルスの発生に重要なイオンチャネルのアミノ酸配列を人工的に改変し、より高速にインパルスを発生できるようになる可能性はある。実は、ヒトのイオンチャネルの動作は、動物の中での最速というものではない。私は、中国の徐さんと共同で、クルマエビの有髄神経の研究を行ったことがある。不思議なことに、この神経は、ヒトの神経より、インパルスの伝導速度が遥かに高く、チャネルの活性化・不活性化のダイナミクスも高速である。その目的は、腰を折り曲げる動作が速くなって、速く逃げられるようにというものである。そのインパル伝導速度がヒトのものより2倍以上も速いことは、徐さん自身が若い頃に発見した。私は、どのようにそのような高速性が実現しているのか、仕組みを解明する手伝いをした。一言でまとめると、興奮膜と髄鞘の関係性が哺乳類のものとまったく異なり、軸索はとても細いのに、それを取り巻く髄鞘の内径が異様に大きいのである。そして、軸索膜の微小な部分のみが、髄鞘に開いた窓のような構造(図15)に露出しているのだ(cf. Saltatory Conduction of Nerve Impulse in the Shrimp, Xu and Terakawa, 2013, Springer)。ここで、ヒトがクルマエビの神経を模倣して、脳に類似の構造を持つことができたら、頭の回転が2倍も速くなるだろうかという疑問が湧く。残念ながら、この課題は、否定的な答えで終わるであろう。想像でしかないが、クルマエビの神経系をヒトの脳に生育できたとすると、ヒトの頭は漫画に出てくる火星人のように、2倍以上巨大なものになってしまうのだ。折角の時間の短縮が、脳が大きくなることによって、キャンセルされてしまうであろう。クルマエビの神経線維はその髄鞘の太さを巨大なものにすることによって、伝導速度を音速近くにまで高速化しているのである。太い神経線維は、ヒトには馴染まない。

ヒトにおいて、神経の動作速度が何らかの方法で高まるとしたら、どうであろうか。イオンチャネルに対する遺伝子変異が実現して、その動作速度が速くなるとしたら、意識はどう変化するのであろうか。スポーツには有利かもしれないが、いわゆる知的な作業にはあまり影響がないようにも感じられる。5分考えて分かるか、10分考えてから分かるのかは、あまり質的な違いが無い。いくら考えても分からないというのは、質の違うものであるが、その時は、何か別のことを考えるのが生物学的な適応であろう。
神経細胞に強制的な遺伝子変異を起こさせて、それが、高度な知能に繋がるとしたら、どうであろうか。さらに、その変異が子孫に伝わるとしたら。こうなると、ヒトという種の進化が起こったことになる。変異型の人間と、旧来型の人間とは、種として違うことになる。その間に交雑が起これば差は連続的になり、断絶が起これば種の間の闘いに発展する可能性がある。2つの種の間の意識の違いは、どのようなものとなるであろうか。超人類達の意識を想像することは、難しいであろうが、想像力を無理に働かせると、超人類は口で話すことなく、顔で話すのではなかろうか。微妙に速く表情を操れるはずなので、わずかに表情を変えることで、複雑な意思を、喋ることなく伝えられそうである。一方、種の進化だけでは、テレパシーのようなSF風の伝送法を使えるようになるといった可能性は、望むことはできないであろう。
エビは高速伝導する神経線維を造るための遺伝子を持っている。その遺伝子が、ウイルスなどの媒介でヒトに転移するようなことが起これば、運動神経の伝導速度を上げることには役だつ可能性はある。一方、脳の働きを高度化するためには、脳全体の神経線維の伝導速度を上げることは諦め、現在、ボトルネックとなっている一部の線維だけを置き換えるように、形体進化が起こればよいのではないか。そんなことが起りうるとして、どこの機能を進化させれば、未来の形体として成功するであろうか。
5つの感覚モダリティの中で、最も高速の動作をしているのは聴覚である。これに比べると視覚は反応が遅く、光の強さが急に変化しても、瞬時に気づくことはできない。これは、主に網膜視細胞の反応が遅いためであり、テレビや映画のコマが、ちらつかずに連続画として見られなくなる限界は 40 ms に1枚というコマ速度になっている。つまり、それより速い割合で画が変化しても、その詳細は判別できないというわけである。こうしたことをエビの神経の遺伝子を使って改変することはできない。視細胞の特性には係わりが無いからである。意識を作り出すのに重要な要素となっている他の感覚は、いずれも反応が遅い。視覚と同様、それらが速く応答するようになっても、別段、意識というものに変化が現れることがないのではないか、というのが差し当たりの結論になりそうだ。
神経の反応速度以外に、どんな進化が起こったら、意識が変わることになるのだろうか。可能性があるのは、神経細胞の固有な反応性の変化ではなく、神経組織となっているからこそ現れる機能の種類が、複雑化するということではないだろうか。今現在は不可能な機能を、実現するということである。空想的になってくるが、一例を挙げれば、現実感の強い夢を自由に作り出して、実際に見た景色と同じ程度に記憶できるといった機能である。眠っているわけではないのに夢のようなものを体験する人は結構いるようである。多くの人が見る夢は、睡眠中のもので、覚醒と同時に夢であったことが分り、多くの場合、はっきりした記憶としては残りにくい。それを、意思によって制御できるようになり、はっきりした画像が自由に見られるとすれば、それは新しい意識の世界となるのではないだろうか
ほとんどの夢は現実感の少ないものである。また、記憶された過去の体験も、現実感が乏しい。よほど強烈な体験ならば、鮮明に憶えているというものも無いわけではないが、大部分のものは時間と共に印象の薄いものになっていく。その性質があるからこそ、過去のものという仕分ができるともいえるのだ。しかし、過去のものというはっきりした自覚の下に、過去の体験が現在のものと同様に意識されることがあれば、より人生が豊かになるような気もする。現在の常識から考えれば、ほとんど病気ともいえるが、制御と自覚が可能であるという条件があれば、混乱を招かずに、過去の体験を再度現実の様に楽しむといったことが実現するわけである。未来の方向についても、同じ考え方ができる。まだ起きていないことを夢想するに当たって、ちょっと鼻の頭の油を眉に付けて夢想にとりかかると、その夢のような考えや想像事が、現実感を持って、頭の中の意識として立ち現れるということは可能になるかもしれない。
ダンゴムシからヒトに至るまでの意識の進化の道を眺めて、その段階を追ってみると、この先のヒトまたはヒトを越えた何者かの、一段と高度化した意識の有様が予測できるであろうか。思考するだけで机上の物を動かすサイコキネシスや、遠くまで物を送り届けるテレポーテーション、言葉や小物を使わずに人を催眠術にかける技、閉じられた本の中の文章や黙っている人の考えを読み取るといった技など、先進的な電子機器を介していれば可能になるような意識や意思の延長は、ここでは考察しない。それらは、古来から人の願望として考えられてきた。それらを実現するために、これまでの科学技術が発達してきたとさえ云える。現代では、脳と電子機器の間のインターフェースの研究開発が進み、脳波などを媒介に、頭で考えるだけでPCのカーソルを動かすようなことは実現しており、それは意識自体の進化ではない。ここでは、前述してきたヒトの意識機能だけを純粋に進化させた形を想像してみたい。
可能性のある進化の道は、前節までに現れた意識の要素について、それぞれを拡大または融合する方向を探ることである。すなわち、下記のように考える。
1) 時間細胞や場所細胞の機能を大きく拡大する。
時間細胞や場所細胞は、通常、海馬に在り、意識を成り立たせている記憶のセットに対して、それらが何時、何処で獲得されたものかというタグを付けてから、大脳皮質に転送する。このタグの貼り付けを自由に変更したり、一時的に貼り換えるなどが可能であれば、過去の体験が現在のもののように鮮明に感じられるようになる。未来に起こるであろう体験についても同様である。ある体験が、普通の部屋でのものであったのに、気持ちの良い高原での体験に替わってしまうなどということを、楽しむことになる。
海馬の左右対称の細長い形の先端には、偏桃体と呼ばれる神経核が存在する。偏桃体には、怖いとか嫌だとかいうような感情が起きた時に生じる信号が、入力される。その様な強い負の信号が入ると、海馬での記憶の整形過程で、記憶の塊に、忘れてはいけないという特別なタグが付与される。そうした記憶は、大脳皮質に転送された後も、強い印象を持った記憶として保存され、長く忘れない記憶になる。それは特に重要な記憶となって、生き抜くために役立つわけである。偏桃体には、心地の良い感情が起きたときの信号も入力され、その時も、海馬での記憶の整形において、忘れない様にというタグが付けられ、その正の感情を引き起こす対象を再び求めるのに役立つ。このように、記憶にタグが付くと、その記憶は特別なものとなり、学習の効果を一段と高めることができるのである。未来においては、そのような記憶の強化の過程がより強く働き、鮮明な記憶に基づく過去の反芻や、よりよく生きるための知恵の獲得能力の向上が見込まれる。時や場所の記憶の鮮明化が、意識の深さや重みといったものを増強することになるかもしれない。
ここに未来の意識を考察するようになる前は、意識に上る時間(時刻)や場所(空間)の記憶は、直線上の一点や四角に等分された平面上の一点に、それぞれの位置を占めているように感じていた。しかし、実は、それらの位置は、絶対的に決まったものではなく、それぞれの間隔が伸び縮みするものである。楽しい時には細かい間隔の目盛りになったり、目盛りの移動が速くなったりもする。今・現在に近い時は、1分ごとの目盛りが使われるが、遠くの過去になれば、次第に、1時間とか、1日とか、1か月とか、1年とか、目盛りは大きな桁の数字に対応するようになる。正確にという訳ではないが、あたかも対数目盛のようになっている。現在という時間の近くでは、たくさんの細かいことを記憶していても、時間が経つにつれ忘れていくことに対応する。このように、時間細胞が紐づけられている目盛りの間隔は、時間と共に、大きく変わっていく。空間についても、定住して住み慣れた所では、等間隔の目盛りになっているであろうが、あまり行ったことのない遠くの場所の目盛りは、おおざっぱなものになっている。
未来の意識の中では、時間の感覚や空間の感覚が、自由に変えることができるようになるであろう。注意を向けた領域における目盛りの間隔を、自由に伸び縮みさせられるようになるのだ。そのようなことを実現するには、多数の神経細胞が狭い間隔の目盛りに対応しているところを、ある程度まとめて代表する細胞ができるようにすればよい。一冊の本において、ページ、節、章などを単位として、まとめて捲(めく)ることができ、必要とあれば、その中を細かく捲って行くこともできる、というふうになっていれば、時間が経ってからの過去のある時期を、細かくおさらいすることができるわけである。多数の神経細胞がなければならない。その上で、一群のまとまった神経細胞を束ねたり、ばらしたりすることを制御する機能が無ければならない。
2) 私細胞の代わりに、私でない誰かに紐づけされた細胞を、一時的に私のものとする。
一時的に、私が私でなくなり、Aさんであるという感覚になる。Aさんの置かれている状況をどれだけ記憶として取り込むか難しいが、Aさんの時々刻々の気持ちを直接的に知ることになり、同情したり、犯罪心理を理解する能力が高まる。本来は一本の物語として継続してきた自分の意識が、あたかも人の意識であるかのように感じられる、ということもありうる。
こうした私自身が別の私へ転換するということをどう捉えるべきか、疑問を持つ読者もあろう。文章は成り立つが、その意味するところは成り立たないのではないか、という疑問が生じるのである。そして同時に、私とは何か、が疑問になる。いわゆる多重人格を持つ人の話は実際にあり、ビリー・ミリガンと呼ばれた人物は、24人の異なる人物の間を転換したとされている。
どれが本人か、という問が成り立たない状況になる。「私細胞」の節において説明したように、私には私を特徴づける多数の記憶があり、それらの記憶細胞のスクラムが一体化していて、私をトーナメントの頂点に支えている。人格が換わるということは、その巨大なスクラムが活動を一時停止して、別のスクラムのセットが活動を開始するということである。神経細胞の数は巨大なので、ひとつの脳内にそのくらいの記憶セットが複数収蔵されていて、完全に交代することはあり得るかもしれない。
Abby と Britnany は、アメリカ・ミシガン州に生まれた双子であるが、二頭体結合双生児であった。彼女たちの身体は、外見上、首まで結合していて、2つの頭部だけが一人分の肩の上に載っている状態である。脳として見れば、2人は別人である。体内の臓器も2つずつあるものが多いが、骨盤内臓器は1つしかなく、共有している。ひとつの肉体の中の二人である。彼女たちの存在は、十数年も前にテレビで知った。今はやりのAIによるフェイク動画ではなく、実写しかない時代のものである(現在、AI検索でこのことを尋ねると、生成AIによる動画ではなく、実話であると答える)。あの報道を知ったとき、私は、人間の未来の姿を見たような気がした。それも、一段と進化した人類だ。彼らは、現在、小学校の先生をしている。授業の専門は異なる。興味ある人達であるが、ここでは二人の意識についてだけ、取り上げたい。
二人は、それぞれ別のことを考えられる。違う時間に眠ることができる。そして、片方は結婚しているが、もう一人は独身である。未来の形をした意識を持つだろう、と直感的に想像したのは、二人の距離がこれ以上ない近さにあり、親密な関係が長時間持続しているからである。喧嘩をするのは得策でないことは、すぐ分る。二人は、一人では考えられないことを思いつくはずだ。会議の人々のように。会社の人々の様に。社会の人々の様に。いつでも話し合える。いつでも相談できる。いつでも励まし合える。彼らの遺伝子が子孫に伝わることは、通常は無いと考えられるが、そんなことが起これば、新人類が誕生する。双頭人類だ。彼らの知能は、通常の人の2倍は高くなくても、1よりは高いだろう。教育を受ければ3,4倍も高くなるかもしれない。
東京湾のハゼに、双頭の奇形を呈するものが見つかったことがある。また、メダカなどで遺伝子導入を施すと、双頭のものを造り出すことができる(発生時の脊柱部へのFox遺伝子導入)。未来の進化の一形態として、双頭の生物は大いに可能性がある。その高い意識能力により、思考力が高まり、想像力が豊かになり、他人の気持ちを察する力が高まるかもしれない。さらなる遺伝子進化によって、二人の脳はさらに接近し、ほとんど融合した大きな脳ができるようになるかもしれない。もともと、大脳は左右の半球ずつに分かれており、それが同期して統合的に働く形を取っている。片方の半球だけでも、あまり遜色のない能力を示すこともできる。その上に別の個体の能がさらに統合して巨大な脳組織となれば、大きな発展性を示す可能性がある。
3) 記憶に取り込んだ世界の様子を、一時的に感覚入力として意識に上らせる。
旅行したり勉強したりして蓄えた情報を、その時の新鮮な印象として反芻することができる。こうしたことは、脳の中の記憶に繋がる配線を、一時的に意識の中の最も注意が向けられる点に、接続するといったことである。神経細胞間の接続点であるシナプスを、短時間の間に消滅させたり、再生させたりすることはできない相談だ。しかし、介在ニューロンと呼ばれるような神経細胞の応答性を、側面から接続する別の細胞のシナプス反応によって、制御することは容易で、瞬時に切り替えができる。抑制性の入力が側方から入れば、介在ニューロンの反応は止めることができ、それが無ければ、ニューロンは信号を通過させる。実際のところ、ある過去の記憶と現在の意識との距離感は、この抑制性入力の強化によって作られている可能性がある。思い出しやすいものは数分前の記憶である。数年前の記憶はとてもはっきりしない。つまり、古い記憶は強く抑制されているのだ。そこには抑制性シナプスの経時的な強化が行われており、それが、我々の認識する時間経過の感覚の基になっている可能性さえある。
こうした 1)〜3) のようなことが、現在の普通の人間にはできないのは、意識の秩序が混乱し、手が着けられなくなるからである。1)〜3) のようなことができる人は、現在、統合失調症の患者として扱われるであろう。逆にいえば、統合失調症の症状は、ヒトの意識が進化する方向を試行するように、前方へ跳躍したものと見ることもできる。患者は、常軌を逸して混乱している意識の持ち主であり、正常な意識の人からは理解できない認知や思い込みを抱き、社会生活に適した形に修正できない状態だ、と考えられている。現在は、多くの場合、適切な薬物の使用によって、他人の理解を得られないような妄想はかなり抑制できる、というのが共通した捉え方である。第5章で再考するが、多くの精神的な疾患は、神経組織が未来の意識の形を先取りしているのだと捉えることもできる。意のままに、妄想を走らせたり、抑制したりすることができるとすれば、それが未来の意識が享受する新らたな機能であり、進化の可能な方向のひとつである。