交流の広場
タイムカプセルで届いた手紙
寺川 進
2人の孫が共に受験勉強中なので、入学
試験の例題として、下記の文章を贈った。
国語の問題:次の文の筆者は、いくつか
のことに驚きを感じることになった。
どんなことに 驚いたのか、箇条書きで
解答せよ。
タイムカプセル・サービス
( 〜 2025年5月26日)
歳をとってからというもの、カレンダーの横の壁には、メモ類や予定表などが沢山貼り付けられるようになった。ほとんどは妻のメモ書きである。それらに隠されがちになりながら、私の物もいくつか有る。数カ月先の診察予約は、カレンダーにも書いてあるのだが、医院は大きな紙の予約票を出してくれるので、それらが壁に貼られる。そんなものに混じって、いつ頃からだったか、少し日に焼けた小さなカードが、気になるようになった。
そのカードというのは、東京都世田谷区の芝信用金庫の支店が発行したものである。タイムカプセル・サービスと銘打たれている。短い説明文で、「50年間お手紙をお預かりいたします」と書かれている。中央の枠欄には、私の名前がペン書きされている。自分の字ではなく、誰か、信用金庫の人が書いた字のようだ。他には情報が無い。どのような経緯でカードが壁に貼られることになったかすら、はっきりとした記憶が無い。ひょっとしたら、17年前まで同居していた母が、いつの間にか貼ったりしていたのではないか?
芝信用金庫は、私が利用していたわけではなく、母がよく利用していたものだ。母が亡くなって遺品を整理していたところ、大きな写真が出てきた。カラーで、200人以上と思われる集団が、戸外に階段状に造られた台に立ち並んで、写っている。一人一人の顔は小さく、特に後ろの方の人は顔が判別しにくい。母を探すと、すぐ見つかった。驚いたことに、一番前の列のまん真ん中の椅子に座っているではないか。端に立っている男性がグループの世話係なのだろう、大きなのぼり旗を手にしている。旗には、「お得意様感謝記念旅行」という文字が読みとれた。
そのことから、私は、母が芝信用金庫 〇〇〇支店の最も上得意様なのだということに気づいた。そういえば、一度、新聞か世田谷区のニュースか何かに、高額納税者のリストが出ていて、その中に母の名前を見た覚えがある。そういうことには興味が無かったため、母に細かいことを訊かなかった。
私が子供の頃
私は子供の頃から、自分の家が、所得の低い、かなりの下層階級に属する世帯だと思っていた。7歳になるまで、住まいは戸建てではなく、ずっと、一部屋だけの間借りをしていた。物心ついたのは、祖父母の家であり、幼稚園から小学校に入る頃までは、親戚の家であった。8歳のとき、両親は、初めて、小さな建売住宅を購入した。新築ではあったが、借地に建てられた平屋で、2室しかなかった。価格は75万円だったのを聞いて憶えている。父は、それを一括購入する貯金が無く、母方の祖父に借金をしたことも聞いた。そこに住んで数年した頃、父が勤めていた会社が倒産した。月々の生活費に困り、母がタンスの着物などをすぐ近くの質屋に入れているのを知っている。そんな情景を見て育ったので、おねだりは片手で数えるほどもしたことが無い。13歳の中学生になると、大人と同じ身長になったので、工場でバイトをした。工場といっても、父が新しく勤め始めた会社のもので、コンベアで流れてくる製品を段ボール箱に詰めて、シールをし、倉庫に積み上げるという、簡単だが疲れる仕事だった。そんな記憶ばかりなので、自分で、収入の低い家庭の子、というレッテルを自身に貼っていたのである。その感覚は、医科大学の6年生になって、少し医療的なバイトができるようになるまで、続いた。
息子が生まれた頃
50年前に書かれた手紙が金庫に入っている、ということは壁に貼られた私名義の預かり証カードの存在で分かったが、誰がその手紙を書いたのかということは、預かり証には書かれていなかった。お得意様感謝記念旅行の写真が、強い印象を残したので、母がタイムカプセル・キャンペーンか何かで、抽選に当たって、そのような手紙を書くことにしたのだろうと想像した。カードには、50年目に相当する日にちとして、2025年5月25日が記されていた
今から50年前というと、私は29歳くらいで、母は58歳に相当する。ちょうど、私の長男が生まれた頃だ。そんな時に、どんなことを書いたのだろうか? その頃には、何があったかしら、と考えてみた。息子が生まれて、妻は産休を取っていたが、半年休んだ後は、勤めていた建築設計事務所に復帰しなければならない。そこで、私が育った件の小さな家を建て替えて、3世代が同居できる家として、息子の昼間の世話を保育園と両親に託すという話がまとまった。両親もそれなりに喜んだと思う。家が新しく大きくなり、息子家族と同居するのだ。人生に張り合いがある時期だったはずだ。
母を思い出す
その頃の母だったら、どんなことを私に書いただろうか。母は、ある手術の必要から輸血をし、当時の血液管理の悪さから、血清肝炎になった。数年間、入院生活をした。何とか肝炎から回復したが、天ぷらや牛乳ですぐ下痢を起こす病弱な体質になった。そのため、身体によいといわれることには、何でも積極的だった。指圧、足揉み、漢方薬、紅茶きのこ、ビオフェルミン、食後は30分横になる、玄米入りご飯で、一口食べたら30回は噛む、等々。
花や木をとても愛していた。小さな庭に無数の鉢を置き、命を分け与えていた。65を過ぎてから、近くの園芸高校の聴講生となり、卒業証を手に入れた。隣のプロ写真家に大判フィルムで 数千枚の写真を撮ってもらっている。 冒頭の写真は、その中の手近な一枚である。植物に加えて。かなりの宗教好きだ。白光真光会、モルモン教、天台宗などを遍歴した。他人をあまり疑わず、信じやすいところは、父と正反対である。手紙には、「庭の片隅に〇〇億円が壺に入れて埋めてあるヨ」などと書かれているはずはなく、きっと「信心を持ちなさい。そうでないと、外国人にバカにされるからね」とか、「ご飯はよく噛んで食べること」などといった人生訓が書かれているに違いない。なにしろ、58歳の母が、79歳になった息子に対して、手紙を書いているのだ。母は、そうした人生訓に忠実で、実際、99歳に2カ月欠けるまでの寿命を全うした。
私は、そのような手紙でも、50年前から送られてきたものを読むという小説的な話に何らかの価値があるような気がして、数年も前から、静かな興奮を感じていた。その50年目という日が来る前に死んでしまうようなことは、避けたいと思っていた。かなり首を長くして待っていたのだ。幸い、この5月に、無事、ゴールに入ることができた。
手紙をもらいに東京へ
2025年5月25日は日曜であった。せっかく東京まで行くので、前の日に家を出て、日曜は、上野の東京国立科学博物館へ遊びに行き、時間つぶしをした。館内はどこも暗い展示の部屋が多く、眼が悪いのであまり楽しめなかったが、心眼で見ていたのは、75、6年前に同じ場所にあった、フーコーの振り子や波の伝播する様子を表した電動の模型である。当時、東京に住んでいた私は、3歳のときから父に連れられて、何度も科学博物館や交通博物館に行き、そこらを遊び場にしていた。今と違い見物の人はとても少なかった。展示物が動くのが、楽しかった。押しボタンは全て押してみるまで、場所を離れなかった。非日常的な展示品が持つ不思議な魅力を、子供ながらに理解していたと思う。いわば、私の人生が始まったところである。75年以上が経って、同じ場所に妻と立っていると、傍に、息子ではなく、3歳の自分が居て、展示品を一緒に見ながら、楽しんでいるかのような気分にもなる。
50年という時間は、私の子供時代の記憶が始まった76年(前)よりは短いが、やはり特別だ。息子よりはるかに若い母が、母より歳上になった息子に手紙を書くという、少し捻じれたような関係は、タイムカプセルの持つSF的な効果である。大して驚くような事は書かれていないとしても、その手紙を開いてみるのは、特別なことだ。誰にでも訪れる季節の移ろいや、古希、喜寿といった人生の節目とは、また異質の価値があるような気がするのを私は楽しんだ。
翌、5月26日になって、芝信用金庫へ出かけた。窓口でタイムカプセル預かり証を見せると、本人確認も質問も無く、「あゝ、これですね」、「2, 3週間のうちに、郵便でお送りします。どちらの住所ですか」と言われた。預かっていた手紙を金庫から出してくるものとばっかり思っていたので、少しがっかりしたが、50年間も待ったのだから、2,3週間は短い、と思い、現住所を書いて、窓口女性に渡した。他にやることは無く、すぐに建物を出て、商店街の道路を、最寄りの駅に向かって歩いて行った。駅に着く直前になって、先ほどの窓口嬢が走って来て、「あのー」と呼び止めた。「お手紙のあて先は、寺川愛印様になっていますが、そちらに送りますか、それともお客様が書かれた現住所の方にしますか? 愛印様の住所はお手紙に書いてありました。お近くのようですが、どちらにお送りします?」。私は、一瞬、何が何だか分からなかったが、やっと、言われたことの意味が呑み込めた。大きな誤解をしていたのだ。彼女は、手紙は、50年前に、私が書いたものだと言っているのだ。あて先は、当時1歳くらいだった息子なのだ。私は、駅前道路で、気が遠くなるような感覚を覚えた。どうして、そんなことを全然憶えていないのだろうか・・・。どうして、顧客でもなかった私が、信用金庫のキャンペーンのような企画に乗ったのか? そんな事情をまったく覚えていない。手紙を書いたことも、芝信用金庫の店に行ったことも、頭から完全に消えているなんて! そんなことがあるだろうか。歳をとると、自分の能力に自信が持てなくなってくるので、受け入れるしかない。
私は、やっとの思いで、答えた。「ここからすぐですから、息子の家にしてください」。金庫の窓口嬢は、「はい、わかりました」と言って戻って行った。
タイムカプセルから出てきた手紙
(2025年8月18日 〜 )
昔、私が住んでいて、今は息子が住んでいる住所地は、金庫からほんの 200 m 程度の距離にある。しかし、そこに手紙が届くまでには、2カ月を要した。手紙の宛先人となっている息子は、今や51歳のおじさんである。独身で、散らかし放題の家(本人には宝がざくざくの家)に住んでいる。特に玄関内は、2台も自転車が入れてあり、いくつかの段ボール箱が積まれていて、足の踏み場が極めて狭い。郵便物は、玄関の壁を通して中から受け取れるような郵便箱に入るのだが、毎日チェックされることはない。箱の中に重なったままになっているか、または、箱から溢れて玄関の床に散らばっている。
最近は、大事な郵便物は、本人に手渡すサービスがあり、郵便局員は、郵便物を郵便受けに入れずに、「留守中のお届け郵便物を預かっています」という小さな紙片だけを入れて、帰ってしまう。そのため息子の目には入らなかったようだ。再三電話をして、届いていないか訊ねたが、「来ていない」とつれない。やっと、気が向いたらしく、沢山の広告パンフや請求書類の郵便物に一気に目を通して、郵便局からの小さなお知らせ紙片を見つけたという。それを持って、郵便局へ出向き、なんとか手紙を手にすることができたのだ。封筒を受け取り、それを開封した宛名の本人は、大した感動もなく、中身を見たまま放置した、という。それを送れと催促してから、さらに日にちが経って、私がその中身を手にしたのは、2カ月半が過ぎてからであった。
さて、私は、どんなことを息子に書いたのだろう。そう思って、中身を見ると、まったく見覚えの無いものが出てきた。2枚の和紙を横に貼り合わせた小さな紙に、手書きの文章が数行書かれており、それに続いて、何人かの名前と、息子から見てどんな親戚に当たるのかが記され、その隣に家系図が描かれていた。手紙の他には色あせた写真が4枚入っていた。写真には、息子が1歳になった頃の、’初孫‐誕生日会’ の様子が写っていた。集まっているのは、大人ばかりで、私の祖父母、父母、弟、それに妻の父母と私たち夫婦で、息子を入れて計 10人。手紙に記されていたのは、それらの人々の名前と生年月日であった。
文章の方には、「愛印ちゃん、あなたの両親とも忙しいので、おばあちゃんがこれを書きました。さて、どんな世の中になっているかしら」とあった。やはり、私に心当たりが無かったはずである。タイムカプセルに手紙を預けたのは、私に成り代わった母だったのだ。人生訓のようなものは無く、家系図を孫に贈ったのだ。
家族史
なるほど、初孫には相応しい贈り物かもしれない。その系図は、息子から見て5世代前の一組の夫婦から始まっている。私にとっても初めて聞くような名前であった。母から、昔のご先祖は、ある藩主に仕える最下級の武士であったと聞いたことがあるのだが、時代的には対応している。武士ではあったが、武勇伝は無く、父から受け継いだ地方の市史に載っていたお城の名簿に苗字が有り、書記という職階が添えられていた。昔の名称では、多分、右筆(ゆうひつ)というもので、手紙の代筆をしたり、藩政を記録したりする役だったと思われる。その夫婦の下には、息子である人とその伴侶がいるが、何の説明も無く、今や誰も何も分からない。その下の世代には、男子が3人いる。二人の名前は初めて見たが、一人の名前は聞いたことがあり、それが私から見て祖父に当たる。祖父は、私が生まれる前に亡くなったので、会ってはいない。
祖父は、日本が満州国を建てた頃、開拓団に加わり、家族と共に朝鮮へ渡った。そこで、いくつかの刑務所の所長をした。偉そうに聞こえるが、実際は、雇われ所長といったものである。父は、祖父の経歴書を保管しており、私はそれを父の遺品の中から見つけた。記されていたのは、年月日、担当刑務所名、給料である。給料は、上がったり下がったりしていた。ある期間勤めていると、給料は上がる。しかし、所内の囚人が脱走すると、失態として、給料が下がるのである。逃走した人の人数などの記録が続いており、何カ所かの刑務所を移動したことも記されていた
父が生まれたのは、祖父が働いていた新義州という所で、今は、北朝鮮の北西部、中国と鴨緑江(おうりょくこう)をはさんで接する地域である。遺されたアルバムに写る父は、中学生くらいに見えるが、寒そうな恰好をしたものが多い。川の上でスケートをするような写真も見たことが有る。その後、家族は東京に帰り、父は大学を卒業した。就職する前に、支那事変という戦争に駆り出されて、ひどい目や怖い目に合ったという。千キロ近い距離を歩かされたとも言っていた。それでも、何とか生還できた。その褒賞は、小さな勲章ひとつと後の年金(恩給)だ。戦争のトラウマは大きく、生来の興奮上戸と相まって、酔うと大騒ぎであった。志那事変に続いて太平洋戦争が始まったが、結核に感染したため召集時の検診で落とされた。東京空襲の前に疎開して、命拾いをした。お陰で、私はこの世に生を受けることになった。
3歳下の弟も同じ幸運に恵まれたわけである。私の記憶の糸が始まるのは、赤羽橋の済生会病院の玄関で、靴を脱ぎ、下駄箱に仕舞って、下足札を引き抜くところからである。母が弟の出産のために入院していた病院に、折り紙を折ってもらいたくて一人で出かけた。家から15分くらいの所まで歩いて行ったのだ。日差しが明るく、都電が走るのが見える、2階の部屋だったのを憶えている。その後は、家にとてもかわいい弟が居るシーンに記憶が跳んでしまう。弟は、芯があるが、大人しいタイプで、ガキ大将タイプの私とは、性が合ったとは言えない。数年の年齢差が災いしたのかもしれない。家族旅行以外には、弟と一緒の出来事は少ない。
弟は化学に興味を持ち、専門店に出かけては、化学実験のためのガラス器具などを購入してきて驚かせた。家で実験するのを楽しんでいたのを憶えている。その流れのまま、教育学部のある大学へ入った。学生時代に、原付バイクで日本を半周ほど旅行した。一周の予定で出かけたのだが、金沢辺りで、バイクが壊れ、途中から電車で帰宅した。理由は忘れたが、私が、トラック輸送で運ばれてきたバイクを、荷受け場まで取りにいき、家まで1時間押して帰った。大学卒業後は、川崎市で、中学の理科の先生となった。中でも苦労の多い、障害児の理科教育を専門とする特殊支援学級を、定年まで担当した。私も学校の先生になったことを合わせれば、二人とも、4代前のご先祖の職業(お城の書記:右筆)を踏襲していると言えなくもない。
手紙の宛先本人である息子は、どんな大人になっているのか。背広は着ない。結婚はしない。新聞を読まない。掃除機はあまり使わず、乾燥モップを使っている。外食よりは、自炊が多いようだが、実際は、チンするだけの料理なのではないか(私たち夫婦はそうだ)。サラダやケーキくらいは自分で調理する。前に、おいしいのを何度か食べさせてくれたことが有る。世間話や雑談はあまりしない。他人の苦労に気づけば、素早く対処してくれる。特に、コンピュータ関係の困りごとには、滅法強い味方だ。こちらのパスワードも、よく教えてくれる。
家にいるときは、ほゞ、PCの前に座っている。仕事は、プログラマーで、主にゲームを作っているようだ。どんなゲームであるかは、あまり言わないが、以前は、「ポケモン」の下請けをしていた。声に反応して、森からキノコを採ってきてくれる、といった部分を担当していると言っていた。よく初音ミクの追っかけで海外旅行に行く。仕事の必要上なのか、ぞっこんなのか、よく分からない。。趣味らしいことは、PC用のキーボードを自作することのようだ。変わった形の物がいくつもある。興味の幅が狭く尖っているというのが個性なのかもしれない。
彼の世代は、結婚していない人が明らかに多くなっている。結婚しても子供が少ない。実際、書かれていた系図に連なる親戚は40〜50人は居るが、お家の苗字を後世に伝えられる可能性は、たった2人の男子に託されている現状だ。それぞれが結婚したとしても、女の子だけを授かれば、お家断絶である。しかし、私を含めて、そのような現状を憂う人もいない。
母の問いかけ
「どんな世の中になっているかしら?」という母の言葉は、私には、その声が聞こえるようだ。その返事は、一言では難しい。東京の変化は大きいといえるかもしれない。新橋地区、豊洲地区には高層ビル群が生まれ、渋谷も大きく変わった。母が生まれた地域には、〜ヒルズと呼ばれる、街と言っていいような、大きなビルがいくつも建っている。地下鉄路線が増え、相互乗り入れで利便性が上がった。スマホで改札が通れる。リニアで大阪まで、1時間で行けるという工事も着工された。
世田谷の住まいの近辺は、変わったといえば変わっている。街全体が少しきれいになり、瀟洒なマンションが増え、道路は整備された。しかし、50年前と比べて、お店が一番変わっているかもしれない。よく見ると前と同じ店はあまり無いようだ。駅の隣の小さなスーパーと果物屋は続いているが、他の店は全部変わっているかも。本屋やお菓子屋は無くなった。寿司屋も無い。電気店も無い。風呂屋も無い。ただ、食べ物屋は増えた。そんな中で、芝信用金庫は残っている。
血清肝炎を含めてウイルス性の肝炎は減った。しかし、別のウイルスが暴れるようになった。糖尿病は横ばいか。認知症や緑内障は増えた。治療法は変わってきているが、それらの回復は依然として難しい。がんは、治るものも出てきているが、死因のトップにある。健康保険は収入によって自己負担の率が変わる。介護保険が作られ、要介護になると、かなり手厚い待遇を受けられることもある。日本は最長寿国の地位を保っているが、GDPは第4位に落ちた。老人が多く、著しく若者が減少している。地方では、空き家が多い。閉校する学校も多い。人口が減ったところで安定化すれば、北欧のような比較的住みやすい国になる可能性もあるのではないか。この80年間、戦争が無かったというのが、最もよかったことというべきであろう。世界では、予想に反して、戦争が多くなり、この先の日本の運命はまったく分からない。
大きな変化は、おそらく、目に見えないところで、深く進行したのだろう。電車の中で新聞を読む人は皆無となり、皆、スマホを見ている。ヒトはどんどんヴァーチャル(仮想的)な街の方に出ていくようだ。そして、現実の街がヴァーチャルな雰囲気に変わっていくようにさえ見える。歩いている人も、お店の人も、マニュアル的で、ヒトの匂いが薄くなっているといった感じだ。ネットやAIの進歩は著しい。それらを使って、便利な生活をしたり、金持ちになる人がいる一方、スマホを介して、詐欺、強盗、殺人までをする人も沢山いる。かつての産業革命では、人々は新しい階級に分けられることになった。資本家(金持ち)と労働者(下層階級)。しかし、誰もが安いシャツや靴を身に纏うことができるようになった。現代のネット革命では、知本家(ITを利用して儲ける人)と、労働者(無力な人)に分けられていく。どちらもITを使ってはいる。しかし、その中で貧富の差が生じ、極端な金持ちが生まれ、犯罪人も生まれている。何とか普通でいられる人々は、ネットを介して、自分の思いを世界に発信することに、生きがいを感じている。
おばあちゃん(母さん)、以上がタイムカプセルで送ってくれた手紙の顛末です。なかなか粋な計らいでした。ありがとう。おばあちゃんも会うことのできたひ孫(次男の息子)が、あと半年で大学受験なので、受験勉強の材料にさせてもらいました。成績を左右するほどのことは無いでしょうけど。ところで、天国の様子はどうですか? まあ、教えてもらわなくても、もうすぐ自分で確かめられるようになるけどね。50年も待つことは無いはずだし。
もう一人の息子
血の繋がった家族としては、まだ、次男に触れていない。次男は、手紙が書かれた時点では、この世にいなかった。しかし、僻むといけないので、少しだけ書いておこう。
次男は、生まれてから1カ月経つか経たないかで、アメリカに渡った。私が留学したからだ。3歳までアメリカ育ちということになるが、そのせいか、とても髪の毛が細く赤っぽくなり、一見、女の子のようなかわいい子であった。公園でも、スーパーでも、年配女性に見染められ、必ず「キュート」と言われ、年齢と性別を聞かれた。抱きたがる人も多かった。帰国して、小学校5年くらいまで、髪の毛が赤かったのは、なぜだろうかと思う。
小学校では、いじめや不登校はなく、アメリカから来た子と仲良くなったりした。あるとき、授業参観日があり、息子の教室に入ってみると、壁に表が貼ってあり、桜の花を積み重ねた棒グラフになっていた。一番左側の生徒が得点が高く、右側ほど得点が低い。名前を見ると、一番左側の子がウチの息子であった。ホーッと思ったが、グラフの上にある表題をよく見ると、[忘れ物ランキング] とあった。本人は、全然気にしていないところが、大物だったのかも。
大学は医学部に入り、医者になると遊ぶ時間は無いから、学生のうちに世界を見ておくと言って、よく海外旅行に出かけた。旅先から、毎日1枚ずつ、ポストカードに何かを書いて送ることを条件に、旅費を出した。1枚1万円に相当するような高価なカードを、たくさん受け取った。オランダ、スペイン、モロッコ、インド、東南アジア、それに南米。子供の頃に行った所を含めれば、私の行った所より、あちこちに行ったようだ。今は、消化器を専門とする内科医をやっている。相変わらず、小児科医の嫁と2人の子と共に、よく海外に出かけている。
私の書いているこの文は誰に対して書いているのか、自問してみる。日記のように特定の相手を考えずに書く文もあるが、相手がいるとしたら、誰であろうか。本として出版できれば、一般の読者という想定になる。しかし、これを掲示できるのは、ネット上に開設されたひとつのホームページ(HP)である。いわゆるSNS(Social Network Service)の一つである。したがって、ネットに繋がることのできる人ならば誰でも、読むことができる。つまり、同時代の人々すべてが、読者 となる可能性がある。日本語で書いたが、今や、文章を翻訳することは容易なので、世界中の人々が読む可能性がある。さらに、この文の載ったHPが、 何らかの保存性の高い メモリーに移され、将来的にもネット上にアクセスできる入口を持てば、将来の人々にも直接読んでもらえる可能性がある。そう考えると、この文も50年後の誰かに対する私的な手紙であるということにもなるのではないか。50年といわず、100年後、いや、千年後でも、可能性は有る。将来は、通信手段がさらに発達し、新しい SNS(Space Network System)が作られ、1万年後の1万光年離れた世界に住む読者に読まれる可能性も、ゼロではない? 人が心血注いで制作するアート作品も、同じ望みが託されるものだ。私は、50年前に出された手紙を出汁に、1万年後の誰か、血筋の繋がった者か、考古学に興味を持つ者か、誰だか分からないが、未来の人に向けて、書いている気持ちになってきた。
(2025-9-11)
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