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『今、国学の呼びかけるもの』シリーズ:〈22〉「真淵が生きた江戸時代中期」 その5
時代への提言 | 2025.07.06

©︎Y.Maezawa

真淵が生きた 江戸時代中期

その5

江戸時代の大名にとって大きな負担になったのは

江戸屋敷の維持と参勤交代でした。

藩主の正妻と嫡子を江戸に住まわせて、藩主は 隔年で江戸に住まなければなりませんでした。

この江戸屋敷の維持費と、国と江戸を往復する「大名行列」の旅費・宿泊費は 多額なものになりました。

江戸時代初期の江戸の人口は 15万人ぐらいでしたが、こうした幕府の政策もあり、

急激に人口が増加して 享保期には 100万人ぐらいになった と言われています。

17~18世紀 のパリやロンドンが 100万都市ではなかったことから、

当時の江戸は世界最大級の都市で ありました。

真淵が生きた江戸は まさにこの時代でした。

©︎Y.Maezawa

また 大名の参勤交代と流通の発達に伴って 

全国に街道が整えられたのも この時期でした。

街道が整備されると 関所の通過に必要な通行手形を持った庶民が旅行をする機会が増えま した。

伊勢神宮や讃岐の金刀比羅宮(ことひらぐう)、安芸の厳島神社(いつくしまじんじゃ)、

信濃の善光寺などの寺社への参詣、大坂や京への観光などで 人々は街道を使いました。

©︎Y.Maezawa

驚くのは 江戸時代の治安のよさです。

京から江戸まで 女性でも一人旅ができた と言われています。

©︎Y.Maezawa

真淵が出かけた旅には どのようなものがあったのでしょうか?

真淵は41歳の時、江戸で活動している荷田一門を頼って 江戸に出ました。

田安宗武に見出されて 和学御用になる前のことです。

まだ浪人の身で 学問修行の期間でした。

(和学御用になったのは50歳の時)

1740年(元文5年)7月、真淵 44歳の時、

浜松に帰省し およそ2か月滞在した後、

江戸に 戻るまでの旅日記 『岡部日記』 を残しています。

この日記には 多くの古典や古歌をふま えた引用があります。

最も多く引用しているのが 『万葉集』であり、他には 『古今集』、『伊勢物語』などもありました。

真淵の紀行としては 1736年(元文元年)の 『旅のなぐさ』、

1745年(延享2年)の 後の『岡部日記』  などもあります。

さらに 1763年(宝暦13年)2月、真淵は 江戸をたち 大和へ の旅に出発しました。

同年5月25日、この旅の最中、真淵は 松坂の新上屋 という旅宿で 本居宣長と対面します。

真淵 67歳、宣長 34歳の時でした。

真淵は 松坂に数日 滞在していました。

探訪と古書の探索のためだ と言われています。

この一期一会の出会いが「松坂の一夜」になるのです。

しかし この旅には 紀行が残されていません。

書いたもの が散逸したのか、はじめから書かなかったのか…不明ですが、

「家集」などから推測されるばかりです。

『賀茂真淵 岡部日記 訳注』後藤悦良 著

(編集: 前澤 祐貴子)

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