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『天体衝突現場への旅』第2回/全5回シリーズ 「第2章 ボラベン高原 (ラオス)」 寺川進 
時代への提言 | 2025.06.15

第2章  ボラベン高原 (ラオス)

寺川 進


農薬の無い畑

東南アジアは、私の仕事関係の学会やシンポジウムが開かれることが無いので、足を向けたことが無かった。中でも、ラオスには、正直、馴染みが無く、歴史や観光に興味を持っていなかった。そこに行くことになるには、いくつかの布石を踏んでいる。ある日、妻から、「偉温(いおん: 次男) がベトナムに行って医者をやるそうよ」という突拍子もない話を聞いた。どうして欧米留学ではなく、ベトナムの勤務医なのか? 国境なき医師団にでも入るのか? ベトナム戦争終結後に生まれた世代には、戦争の話は遠いものになったのだろう。息子が決めたことに反対するつもりもなく、様子を見守るしか無い。しばらくしてから、息子が病院に就職して居を構えたという ホーチミン市(旧サイゴン市)を訪ねてみると、想像を超える賑わいと、なごやかな落ち着きがあり、住むには良い所なのかもしれないと思った。

息子と家族が選んだ住まいは、プール、テニスコート、専用公園、通勤用クルーズ船付きの、豪華なマンション群の中の一戶であった。部屋のベランダの鼻先には、サイゴン川がゆったりと流れている。そこを大きな汽船や艀(はしけ)が忙しそうに行き交う様は、眺めていて飽きない。船に混じって、草の生えた色々な形の浮島も流れてきて、おもしろいくらいの景色だった。対岸は広大な緑地帯になってい る。マンション群の敷地は大きな樹木と壁に囲まれ、入口には数人の警備員と何台ものタクシ ーが常駐している。契約時に、料理、掃除、洗濯、修理などをしてくれる人たちを、戶別に雇用する義務が科されるのだという。

街には自転車とバイクがバッタの大群のように走っていて、目を驚かせる。道路わきの電柱には、異様な数の電線が張られている。追加工事をしたと思われる電線も多数あり、その余剰部分が切り取られておらず、電柱に沿って暴れ回っている。時には歩道に大きなとぐろが残されたままになっているのは、呆れるほどだ。バスは混んでいて、路線が分からないため、街の移動は不便である。しかし、全体的に安全そうで、人々は親切である。

気になっていた戦争の傷跡は、目にすることは無かった。戦争遺品と言えるものは、元大統領府の広場にあった一台の戦車だけである。南ベトナム軍を支援するために駐留していた米軍が本国に去り、戦争終結が決定的になってから、北ベトナム軍の戦車隊が(旧)サイゴン市の中心に入ってきた。そのうちの一台だけが、当時の様子を思い出させるために残されたものである。戦車に付いている大砲を間近に見るのは初めてで、自分に向けられると思うと、ゾーとするようなものだ。街の中心一帯にある建物は、大きな教会や中央郵便局などの、古くからの公共的なものであったが、それらの壁には砲弾の跡は見当たらなかった。

同じ地域に近代的なビルも立ち並び、息子とその嫁が一緒に勤務する病院はそれらのビルの中の一角を占めていた。病院はフランス系の資本によって運営されており、患者も医師も国際的な色彩を帯びていた。息子夫婦は、主に、ホーチミン市駐在の日本人を担当しているらしく、特にベトナム語を必要とすることは無かったようである。病院の設備は、日本と比べて遜色ないものに見えた。特に、嫁の方が担当していた小児科は、随分、子供に気を使った造りになっていた。たとえば、診察用のベッドは仔像の背中のようになっており、子供が乗りたくなるようなものだ。壁面には、楽しそうな画が描かれていて、医院というより遊園地の雰囲気にしてある。

ベトナムの食べ物は、中国の物より、食べやすいものが多い。ただ、油断は禁物で、私は、ホーチミン市到着の次の日には、食中毒にかかってしまった。新鮮な野菜サラダが怪しく、アメーバ赤痢にやられた。 6 人中、私だけが罹患者だった。経験したことの無い下痢で、ショック状態に陥り、低血圧のため起き上がれなくなった。息子が自分の病院から救急車を呼んでくれて、緊急搬送され、素早い輸液と投薬で事なきを得た。病気以外のものは、日本人にとって馴染みやすく、その印象は、後に訪れたアンコール・ワットのカンボジアやお寺の国タイにも共通していた。

そんな旅をした後で、昔、妻に設計を依頼してきた女性から、ラオス旅行に誘われたときは、結構、東南アジアへ向かう敷居が低くなっていた。夫婦二人そろっての旅行で、2 週間分の旅費を持ってくれるという話である。彼女は、ラオスにとてもよい土地を見つけたので、そこに養蚕ができる家を作りたいというのである。南北に縦長の形をしたラオスの南端、パクセの街の近郊だ。 そんな話に一緒に乗ってくれた大工の棟梁と連れ立って、現地へ出かけた。2018年の6月のことである。

パクセまでは、タイのバンコクを経由して飛行機で行ける。あとは車で2時間ほど走る。灌木だけが生えた緩い高原が延々と続く道だ。滞在したのはタドローという全 20 戶ほどの村で、近くの滝が売り物の小さな観光地である。⺠宿といった方が適切な個人住宅のホテルに泊まった。ラオス風の中庭を持つ母屋を中心に、周りに客用の部屋が3つ、離れの形で建てられていた。部屋の前には大きなベランダがあり、そこから野原のような、畑のような、平原が広がっているのが見えた。灌木の他に何も無いのが、私達には豪華な景色であった。ときどき牛が現れて草を食んだり、歩いて買い物に行く人の行き来も見えたりした。妻と棟梁は、1 週間ほど、その気持ちの良いベランダで相談し、新しい田舎家の設計を進めた。

夜のベランダには大形のヤモリが現れ、照明に群がる蛾を食べていた。客の部屋は普通に明るかったが、家族たちの部屋は、極めて暗い電球が使われていた。外は真っ暗で、星空はものすごい迫力であった。手を伸ばせば、宇宙に直接触れることができるかのようだ。星の世界が、 こんなに近くにあったとは、知らなかった(もうすでに、私の眼は悪くなっていて、小さな星は見えなかったが、それでも)。よほど空気がきれいなのだろう。

宿には、街道に面して、三方が吹き抜けの食堂も付いていて、道行く人のレストラン兼喫茶店となっていた。ちゃんとメニューがあり、宿泊客もそこで、毎食の注文をする。時々、中学生ぐらいの子供が料理をしてくれることもある。どのメニューでも作れるようだった。コーヒーはその高原地帯の特産で、なかなか良い味わいだった。

近くには、もっと本格的なフレンチ風レストランもあり、少し高いが、よい味だった。かつてのフランス植⺠地時代に根付いた食文化が、引き継がれていて、メニューにはエスカルゴさえあった。寄生虫を恐れて、食べるのは控えておいた。ラオスにはマラリア蚊がいるので、用心して、予防薬を飲み続けていたのだが、実際は、蚊に刺されることはなかった。後で分かったが、パクセ郊外のボラベン高原全体としては、海抜が 900 mくらいあり、避暑地なのだ。7 月でも暑くなく、とても快適なのに驚いた。

宿を経営する家族らは、皆が協力して働く様子で、仲がよさそうだった。主人は、村⻑職もやっていて、英語が喋れて、上品な人だった。旅行者向けの洗濯サービスや、モーターバイクのレンタルもしていた。他の家でも、荷物の預かりや、小さな玄関先での地元食のサービス、材木や団扇の販売など、やれることは何でもやるという雰囲気が感じられた。車で 30 分も走らないと何も無い所で、各戶が、それなりの工夫をして、生活を立てているようだった。朝の 5 時頃に近くのお寺から、スピーカーの大音響で、お教かお祈りが流れてきて、目覚まし時計の役をしていた。

宿から 2 時間ほど歩いた所に小高い丘があり、その場所が新築予定地であった。そこから見渡すと、地平線まで灌木の平原が続く雄大な景色が楽しめた(写真2)。いつか見た、ユカタン半島の樹海にも似ている。遠くには、特徴的な形の山が点在している。この場所に家を建てたいという施主の女性は、日本では見られない景色に惚れ込んだようだ。しかし、彼女は、この地での農業が、ほとんど農薬を使用しないものであることが、蚕家を建てたい本当の理由だという。

彼女は呉服店の跡取りで、全く農薬や化学物質の入っていない絹を作りたいのだという。自分の畑の桑が無農薬で育ったとしても、周りに農薬を使う畑があると、必ず、繭に薬物が含まれてしまうのだそうだ。絹の需要が減った現代で、その販路を広げるには、薬害の無い絹が重要だという。化粧品や医用品としての用途を、開発することを目指しているわけである。 実際、手肌に塗るための、絹から作った化粧品の見本をもらって試してみると、とてもすべすべしていて高級感があった。

繭から取れる絹糸の一本は、髪の毛よりも細く、立体的な織り方ができれば、それを足場に 細胞を培養する方法が考えられる。そんな方法ができれば、細胞を組織として塊に育てて、最終的には肝臓や心臓などの臓器を造ることに応用できそうに思った。しかし、絹糸で立体的な織物作品を作ることは、眼の悪い私にはそもそも無理であった。でき上った臓器の中に絹糸が混ざり込んでしまうのも問題であろう。

©︎寺川進
写真2.ラオスの南部、パクセ市の郊外、ボラベン高原の風景。
(2018 年 7 月、寺川撮影)

隠されたクレーター

2019 年 12 月、私達がラオス旅行をした次の年に、PNAS 誌に発表されたケリー・シーらの論文は、地中のテクタイトの分布から、インドシナの地に小惑星のような天体が落下したことを提唱した。その衝突の中心となった場所が、何と、ラオスのパクセの近くにあるボラベン(ボー ラウェン)高原の辺りなのだと結論している。79 万年以上前のことだ。現地への旅行経験者としては、衝突クレーターらしきものは全く見当たらなかった、という他ないのだが、研究グル ープの調査によると、クレーターの跡は、地下にしか無く、大部分の形は、後に起こった火山活動で完全に埋められてしまった、というのだ。たしかに、火山を思わせる奇異な形の山々が、 平原からいくつか突き出ていた(写真2)。鐘楼形のものや、火山爆発で吹き飛んだかのような切り立った形が目を引いた。高原全体は、ゆるく盛り上がった盾状の形をしていて、いわゆる溶岩台地のひとつと言える。クレーターの痕跡は、それらの山や台地の地中に隠されてしまったらしい。

2023 年 12 月には、日本人(多田隆治・多田賢弘)を中心とする国際的なグループが、この説を固める研究成果を発表した。ラオス南部のパクセ付近を中心にタイからベトナムの広い範囲に拡がっ た、イジェクタ層という特徴的な地層が残っていることが、採石場などに露出した地層から分かるという。この話を題材とするTV番組で「パクセ」の言葉を聞いたのが、この文の全体を書き始めるきっかけとなったわけである。イジェクタ層の厚みは、タイほどの遠方では 10 cm と薄く、ラオス南⻄部では、 9 m ほどに厚くなっているという。 いくつかの方向に沿って、この地層の厚みの変わり方を調べると、どの場合も、ラオス南⻄部に近づくにつれて、厚みが増していくのが確認される。小惑星が衝突した地点を中心とする円形の地帯では、理論的に最大の厚みになるはずなのである。

イジェクタ層の底の方には、小石や岩石の重なりが含まれている。これらは、大きな天体の衝突によって土地がえぐられて吹き飛ばされた時の岩屑だろうという。また、この小石や岩石の層の上部付近からは多数のテクタイトが見つかり、その上をさらに分厚い灰の層が覆っている。これは、天体衝突で舞い上がった巨大な粉煙が、後に地上に降り積もったものに相当する。これらの全体をイジェクタ (ejecta: 射出) 層という。2023 年の論文では、イジェクタ層から出た石英の微細な構造が電子顕微鏡で調べられている。その結果、石英は大きく複雑な力を受けた、いわゆる衝撃石英であることが示された。それによって、この層が、実際に天体の衝突で大地から射出された物(衝突放出物)が堆積してできたことが証明された。

79 万年前に衝突した小惑星の推定の大きさは、1 km 。クレーターの大きさは 25 km 。衝突のコースは、北⻄方向から斜めの入射だったことが推定されている。その衝撃は、想像を絶する。北は中国東北部まで、南はインドネシアからオーストラリア全域、さらにそれを越えて南極に至るまで。⻄はインド洋を越えてアフリカ東岸までの地域に、直接的な影響を及ぼした。 その領域は、天体と地表の衝突の際の高温でできる、ガラス質のテクタイトが見つかることから分かる。それは、オーストラリア・アジア・テクタイトと呼ばれる世界最大の分布域を成している。火球、爆風、破砕弾が、全域に撒き散らされたはずである。森林火災や地球全体を覆う厚い煙雲なども⻑く続いたことであろう。マイクロテクタイトと呼ばれる小さなガラス粒は、日本海の3ヵ所で、 同年代の海底地層からも見つかっている。

パクセから⻄へ 500 km ほど離れた地、タイの東北部には、厚さ 20 m の白い土の層が在り、その 中から、テクタイトと一緒に、今は絶滅していなくなってしまったような、大型動物の化石が多数見つかる。木の化石もあり、その表面は焼け焦げを示している。かつては、メコン河の支流であったムン川が大きく蛇行していたが、森林の焼失で土地の保水性が無くなり、大量の放出土砂で広範囲に川が堰き止められ、⻑期間、大洪水が続いたと想像される。そのため、沢山の動物の死骸と焼けた木材が川に流され、平地に来て水の下に沈んだことが想像される。洞窟に住 (棲)んでいるヒトや生物であれば、一時の難は逃れられるかもしれないが、小惑星衝突後に起こる寒冷化と食料不足には、長期間耐えることはできないであろう。

ジャワ原人の滅亡

79 万年前、現在のインドネシアにあるジャワ島には、ジャワ原人が住んでいた。彼らは、約 130 万年前から、東方や南方のアジアに生きていた。ネアンデルタール人を、種としては現生人類(ホモ・サピエンス)の兄弟と考えると、ジャワ原人は、現生人類のいとこに相当するような人たちである。彼らは、190 万年前にアフリカに現れたホモ・エレクトスの子孫で、180 万年前にはアフリカを離れ始め、130 万年前には南アジアに到達していたようだ。

インドシナの地域は、メコン河の流れによって、はるかヒマラヤやチベット高原から運ばれてきた土砂が堆積してできた、肥沃な土地である。北緯 10 度くらいにあり、温度、湿度ともに高く、動植物の繁殖に有利な地域である。原人や人類が誕生したと考えられているアフリカ中部のオルドヴァン渓谷の気象条件にも近い。インドネシアのジャワ島の辺りも、当時は、海面水位が低く、インドシナ半島と陸続きであった。そこで化石が見つかった原人たちが、狩猟採集しやすい環境にあって、数十万年間、定住し、繁栄したことは、容易に想像さ れる。

しかし、彼らは、80〜79 万年前には、原因不明の人口減少に陥り、殆ど絶滅したことが分かっている。彼らの骨の化石は、約 80 万年前の、テクタイトを含む特異な地層を境に急減しているのである。テクタイトは、ガラス質の鉱物が高熱で溶融したもので、その存在は、空から小惑星が飛来して地表に激突したことを示している。ジャワ原人は、それが原因となって、滅亡したものと推定されるのである。

北京原人は、ジャワ原人と同列に思われがちである。やはり、ホモ・エレクトスの子孫とされるところは同じであるのに、東アジアに生きていたのは、地層年代の測定から、78 万年前以降とされている。丁度、隕石大衝突の時期の直後からのようである。したがって、彼らは、ジャワ原人と共に絶滅したということにはならない。東アジアに先住していた何者かと、入れ替わったのかもしれない。

ジャワ原人たちの化石が見つかったジャワ島は 、天体衝突の現場から南の方向へ、約 3,000 km 離れた所にある。3,000 km はかなり遠い所である。しかし、小惑星は北⻄から斜めに飛来し、それによって発生する大火球は、その進行方向を中心に、6,000 km にわたって拡がっていくので、難を免れることは無いであろう。もし、ジャワ原人たちがそうした天体衝突に合わずに大集団として存続していれば、今頃は、ホモ・サピエンスに先だって独自の進化の道を辿り、現在のヒトの多様性をより豊かにしていたことであろう。実際のところは、ジャワ原人は完全絶滅はしておらず、その種のものと思われる最後の化石は、今から 11 万年前の地層からも少数が見つかっているという。しかし、総人口が十分に大きくないと、文明の発達は望めず、ひ っそりと密林に暮らす小集団として生きるしかなかったであろう。生物種としての進化も起きにくかったことであろう。

人類だけでなく、他の生物種も、天体衝突の大きな影響を受けたはずである。現在、東南アジアには、オランウータンやコモド・大トカゲなどの希少動物が生息している。いずれも、この小惑星衝突で多くの生物種が絶滅した後の空白期にこの地に移り住み、急速な進化を遂げてから隔絶されたことが想像される。中国南部のジャイアント・パンダ、レッサー・パンダ、それに金絲猴も、同じような特異な種である。これらに比べて、海の生物にはとても長く種を保ち続けてきたものがいる。シーラカンスは4億年、オウム貝は6億年程も、その種として存続してきた。共に、西太平洋やインドネシア近辺(および西インド洋)の 500 m 前後の深海に生息する。固有の特徴は、数億年前の化石に見られる標本と、ほとんど変わりが無いのである。深い海の環境が安定していることが、長期間の種の維持に有利に働いたのであろう。

(編集: 前澤 祐貴子)

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