交流の広場
存在しない地がある
地図から消え去った場所がある
満州…それは記憶にしかない大地
【読み物】 記憶
❷ 編み上げ靴…満州
満州
その響きは その大地を知っている者には
一瞬にして 心を揺さぶる呪文となる
幻の地
その少年は その大地で 編み上げ靴を履いていた
彼の父の愛だったのだろうか…
当時にしては珍しいその靴、
いくら幼いとはいえ 周囲の子供たちの目に焼きついたらしく
数十年経て語る仲間との思い出話でも
記憶を引き出すステッカーとなった
満州 とは実質 1932年から1945年しか存在しなかった
複雑な政治背景を持った地域のことを指す
ある者は 国だ と言い
ある者は 国ではない と否定し
ある者は 故郷 と言い
ある者は 存在しない と抹殺した…
国破れて 山河あり
しかし
大陸の一部であるその土地において
様々な人々が存在し、
記憶の底に その風景、温度、風、息吹き…
人生を過ごした深く忘れ得ぬフィルムを埋め込んだことは確かである
五官に刻み込んだ記憶は 良きにつけ悪しきにつけ
終生、満州を知る者としての基軸となった
父は そんな満州にて少年時代を過ごした
その父は 軍人であった
満州国皇帝に溥儀を推した大日本帝国陸軍 高級参謀に列する大佐、
生活は保証されたものであったに違いない
少年の日常に 政治や国策や世界情勢は関係なかった
凍るように冷たい大地でスケートを楽しみ
映画を鑑賞し
草野球をやり
軍馬の横で記念写真を撮った
自由と豊かさが 活気とエネルギーを巻き起こし
黄砂の霞に揺らぎ立ちのぼっていた
そこは 少年にとって 間違いなくかけがえのない故郷であり
人間の情操を育み、基本的な人格を育成した
満州…
島国日本と異なる 大陸の空気に包まれて
戦争そして敗戦 という結果が いかなる状況をもたらすかは
時代、国、戦争の種類、相手国…様々な要素要因によってそれぞれ異なり
一概に総論を語るのは難しい…
また そもそも戦争という手段に至るまでに
多くの課題、疑問がないはずはなく
あらゆる意味で 第二次世界大戦そのものを軽々に語ることは難しい
しかし
満州国で暮らしていた総人口一割にも満たないの200万人余の日本人にとっては
その敗戦は文字通り天国から地獄への現実となった
主には 十数社に及ぶ民間企業人とその家族、当時の政府や軍関係者とその家族である
生活、人生の舞台に据えていた満州から
言語を絶する引き揚げで 命のみならず魂までも失ってしまった方々…
母国である日本に辿り着いたところで 筆舌に尽くし難い苦難の連続…
これを運命というのか
少なくとも 敗戦が突きつけるものに深さのないものはない
軍人とその関係者、家族も例外ではない
国を動かす立場にいた者は 極東軍事裁判にかけられ
戦場に散った数えきれない命同様
自らの命の始末を預けることとなった
山崎豊子著『不毛地帯』は その徹底的なリサーチにより
その肉薄した状況を ある方向からは再現し得ているとも言えるだろう
父が敬愛する“我が父“は
極東軍事裁判、
巣鴨プリズン…
その経緯を詳しく知る者はおらず
54歳で 病死した
父は 親父を看病をする枕元で卒論を書いた とだけ…聞いたことがある
故郷を喪う
ということが どういうものであるかを真に理解できる者は
そう多くはない
「捨てる」ということは
「ある」ことが当たり前で
「捨てても消えない」という前提が どこかにあるからできる
「ない」
…ということがどういうことかは 喪った者にしかわからない
息ができなく 蠢くばかり である
その者が 次に立ち上がれた時に 何をするか
喪わないようにする…
ありとあらゆる知恵と努力を注ぎ込み…
人生を賭けて
父にはそれが宿った
0の故郷 は 1から0の意味と0から1の意味 を教えてくれた
彼は 国を護る事業に 人生を賭けることにした
それは 最早 “戦争“という手段ではなかった
しかし それを上回る“武器を用いない過酷な闘い“となった
それでも 護る価値のあるものが あった
「ある」… ということが大事だった
父は 今でいう中学2年で敗戦を迎えた
幼き頃より 軍人となる道を志していたが敗戦
縁あって 早稲田大学にて土木と建築の2科を修め
重工業分野に漕ぎ出す
国は破れども 山河は残れり
いつでも 彼の故郷は 満州だった
幻の故郷は 仲間同士との会話から
空中に浮かび上がらせ、再生共有する初音ミクならぬOptical walls か、
「プラズマの発光を用いて“リアルな3次元映像“を空間描画」するかのような
現代最先端研究に近いものがある
©︎Y.Maezawa
人には 故郷が要る
帰巣する拠り所が要る
父を見て 私はそう学んだ
満州以降 映画好きであった父が 唯一 私に薦めた映画があった
『砂の器』
苦労多き人生だった松本清張ならではの 抉られる作品だった
初めて観た時 映画館で嗚咽が止まらなかった
父の心の拭いきれないのたうちまわりに触れた気がした
どう生きるべきか
それを考える時
親とは 有難いものだ
確かに 風が吹いてくる
未だに 父から
故郷をもつ者は 驕ってはならない…
それは 当たり前にあるものではない
また
優なる者は 道を間違えてはいけない
と…
記憶だけにしてはいけないものがあるのかもしれない…
(作:前澤 祐貴子)