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老成学研究所 > 時代への提言 > 『天体衝突現場への旅』5回シリーズ > 『天体衝突現場への旅』 5回シリーズ:「第1章 ユカタン半島(メキシコ)」 寺川進
天体衝突現場への旅
2024-12-18
寺川 進
(元浜松医科大学教授:細胞イメージング科学)
プロローグ
旅を回顧する
歳をとると、未来のことより過去のことを考える時間が増えるようである。自分の人生を振り返り、いくつものことを後悔し、楽しかったことを反芻する。記憶に残るシーンが出てきて、 あそこで別の道を選んでいたら、もっとよい人生になっていただろうに、という考えに捕らわれ、そこからやり直したくもなる。叶わないことと分かっていながら、何度も意識に上ってきてしまう。逆に、特に塾考せず自然の成り行きで歩いてきてしまった道が、あとで考えてみると、とてもよい人生コースだったと分かって、何と運がよかったのだろう、と思うことも多い。それは、ひとりよがりの評価ではなく、並行してはいるが別のコースを歩いてきた知人の人生と比較して、というある程度客観的な評価から、思えることである。
突然思い立ってやったようなことは、時間と共に、記憶から落ちてしまうものが 多い。色々な旅行などはその部類が多い。旅行した後、普通は印象が薄れてしまうが、逆に、 しばらくたってから、その旅行の印象が強まって来るものがある。歳をとったせいか、時間が経ったせいか、自分が知らなかった事実が後で明らかになって、かつての旅行の意味が深まるようなことが起こる。数十年前の旅行が、実は、数千万年前への旅行だったことが、歳をとってから初めて分かるとしたら、⻑生きすることに新しい意味が加わることになる。
私は、子供の頃は、宇宙少年(天文好き)であり、ラジオ少年(電子工作好き)であった。その流れで、職業を選ぶ道もあったが、脳に興味を持ち、結局、神経や分泌に関わる細胞の研究をする道を選んだ。その方面の学会には頻繁に出かけたし、海外にも何度も行った。研究者というものが、こんなに旅行に出かける事が多いとは、研究者になるまで、知らなかった。研究人生後半の時期には、学会だけでなく、教育講演や講習会などの講師役の依頼が多くなり、中国には 40 回、ドイツには20 回もでかけることになった。そういった旅行では、人々との交流が多く、知り合いが増え、世界が広がったような気がした。
また、あまり人の住んでいないような、珍しい所にも行っているのも思い出す。たとえば、 サソリを収集するために、中国の⻄の端、タクラマカン砂漠周辺の地域に出かけた。三蔵法師の辿った⻄遊記の道を行き、緑色のサソリを捕まえた。驚いたことに、それらのサソリをホテルに持ち帰って調べると、何と、緑ではなく、薄い⻨わら色に変わっていた。緑は、強い紫外線を含む砂漠の太陽光の下でのみ見える蛍光色であった。拳法で有名な河南省の少林寺にも行った。その裏手の畑地には、普通にサソリが棲んでいて、簡単に捕まえられるのだ。中国東部のサソリは、暗い茶褐色をしていて、⻄方のものとは種が違う。毒の成分も異なる。この中国調査旅行から始めた研究で、サソリの毒はサソリ自身の体(神経)には効果が無い、ということが分かった。
安徽省の⻩山や雲南省の石林など、絶景の自然を見ると、世界の広さに包み込まれる感じがする。ナイアガラの滝、グランド・キャニオン、デス・バレーなども、日本に居ては想像もつかない雄大な自然の造形だ。アルメニアという独特の小国は、香草と干し肉、固いパンと味わいのワインの国だった。どの場所についても書き残したい話があるが、ここでは、最近になって一番奇遇だった、と分かってきた場所について、書き記してみたい。私が少年の頃憧れていた、天文学者の気分にも浸れるのだ。
この頃は、緑内障のせいで、大きなテレビ画面でも画がよく見えない。そんなある日、テレビをぼーっと見ていたら、番組は、隕石の衝突跡を探すということを話題にしていた。その中で、「パクセ」という言葉が聞こえた。この言葉が何を意味するか、すぐに分かる日本人はほとんどいないであろう。私は、その単語がある街の名前であることを知っていたので、話に引 き込まれた。その街は、人口 10 万人しかいない大きさなのであるが、ラオスでは、首都ビエ ンチャンに次ぐ第二の都市である。6 年前に、私は妻と共に、そこを訪れていた。出かけた理由は後で説明するが、普通は、人が行かないところである。番組で取り上げていたのは、どうやらその場所が、79 万年前に大きな隕石が落下した場所だ、ということであった。俄然、テレビに引き込まれてしまった。見ているうちに、自分と隕石の衝突に何らかの因縁があるのではないか、と思えてくることになった。かつての自分の旅と隕石の間に強い関係があるような気がしてきたのである。
第1章 ユカタン半島 (メキシコ)
マヤとテオティワカンの遺跡
突然、マヤ人の遺跡に行ってみようと思ったのは、1980年 2月のことである。アメリカ留学が終わりに近づき、帰国の日程が決まった頃で、二度と行ける機会はやって来ないだろうと思ったのである。その頃住んでいたメリーランド州のロックビルは、ワシントン DC の隣にある街で、ナショナル空港まで車で 45 分くらいであった。そこから飛行機で、メキシコ・ユカ タン半島のメリダまで、5 時間ほどで行けた。近くの旅行店で、パック・ツアーを作ってもらった。メリダに 3 泊して、メキシコシティに飛び、また 3 泊という行程で、家族の飛行機代、 空港からホテルまでの送り迎え、ホテルからのバス移動、遺跡の入場料、ガイド代、昼食代、 ホテル代などが全て入った便利なお任せ旅行で、アメリカの感覚としては、高いものではなかった。
メリダに着いたあと、ホテルの近くを家族で散歩した。道路端で何かを売っている人がいた。近づいてみると、売り物は、洗面器に入れた昆虫だった。カブトムシなどに、ビーズやラメが貼りつけてあり、動くとキラキラする。ウチの子供たちはそれに魅了されて見とれていたが、周りに集まった現地の子供たちは、ウチの子たちを飽きずに見つめていた。大きなレストランがあったので、 そこに入った。早い時間で、他に客は見えなかったが、すぐに注文を聞きに来てくれた。メキ シコ料理の注文に迷ったが、直ぐに出てきそうだと思い、ステーキにした。すると、待てど暮らせど、一向に料理が出てくる気配がない。小一時間経って催促に立つと、あと一時間以内だ、と言われた。妻と子供たちは、一度ホテルに引き上げて、 一休みすることにして、私一人が待ちに待った。これが、メキシコ時間というものだ、と悟った。やっと出てきたステーキは、草鞋(わらじ)より大きく、お皿からはみ出さんばかりの物であった。
翌日、パック旅行で連れていかれたのは、チチェン・イッツァとウシュマル、それに、カバ ーという遺跡であった。2 月だというのに、日本の夏のように蒸し暑く、ツアーバスの冷房に入るとすぐ眠り込む始末ではあったが、目的地に着くと、マヤ文明の偉大さに気が引き締まる思いであった。いずれの遺跡にも、極めて個性的な石造りの神殿やピラミッドがあり、ため息の出るような立派さである。マヤ人たちの建築技術の高さに圧倒された。その記憶は今でも鮮明に残っている。
チチェン・イッツァのカスティーヨと呼ばれるピラミッドは、24 m の高さがあり、4辺が 正確に東⻄南北を向いている。どの面も人の背丈ほどの段々状にできている。各面の中央には、最上段まで上れる幅の広い階段がある。今は分からないが、当時は上まで上ることができた。ただ、階段の踏面の 奥行きが足底の⻑さより短く、蹴上げの高さが大きいので、登りの傾斜角が 45 度より大きい。登るときはまだ良かったが、下りはとても急に感じられて怖い。何度も横座りをしながら、ゆっくりと下りなければならなかった。愛印(あいん: ⻑男)は、ほゞ6 歳になっており、急な階段を身軽に上り下りして、私をハラハラさせた。
中央の階段には、鎖の手すりが付けられていたような気がする。それが、当時の物なのか、 現代人が後付けしたのか不明である。階段の側壁最下部には、大蛇の頭の彫像が付けられている。春分と秋分には、真横から日が当たり、側壁と彫像の影が、階段を降りる蛇になるという。その時は観光客で一杯になるそうだ。しかし、私たちが行った時にはその影は見られなかった。
カラコル(かたつむり)という名称の天体観測台があった。重厚な石造りのもので丸屋根風となっており、現代の天文台にも似ていた。ピラミッドの向(むかい)には、列柱造りの神殿があった。その正面階段の上には、チャックモールという不思議な形の台座が置かれていた。 犬くらいの大きさの石造りである。左端に丸い頭部と神の顔のような彫り物が付いていて、台座の中央を見ているようだ。そこには少し窪んだ部分がある。生贄にされた人の心臓を取り出 して、そこに置き、神に捧げたとのこと。また、観客用スタンドの付いた球技場もあった。ゴールは、垂直に立つ石の壁に、耳のように突き出た形で付いている石の環(わ)であった。5 メートルくらい高い所にあるその環に、ボールを通すのだ(ネットでは、腰で打つとある)。奇妙なのは、勝った方の主将が神に捧げられる生贄になる栄誉を得る、と説明されたことだ。
ウシュマルにもピラミッドのような神殿があった。こちらは、四角錐の形ではなく、角が曲面になっている。傾斜は、チチェン・イッツァのものより、さらに急に感じられた。カバーの遺跡の建築は、石造りでありながら、アーチを工夫していた。その形は、ローマ建築にあるような湾曲したものではなく、大きな二等辺三角形であった。よく似た形は、エジプトのピラミッドの内部にある大回廊の天井である。場所と時代が大きく違うが、何らかの繋がりがあるかもしれない。かなり広い平地に建てられた神殿は、チチェン・イッツァのそれより屋根が整っ ており、神官や修行の人々が使ったような個室が並んだ形をしていた。
マヤの文明は、天文学に優れ、独特の暦や大石に彫った絵文字を使い、人間を生贄にするなど、印象深いものばかりであった。マヤ人は、エジプトのピラミッドのことを知っていたのかどうか、不思議に思った。年代は、マヤの方が主に紀元後であるが、大⻄洋を挟んだ距離にあり、アフリカ大陸からの、人の流れは難しそうだ。同じくピラミッドを造ったテオティワカンの人々を含めて、南北アメリカの古代人は、アジア方面から、ベーリング海峡が繋がっていた頃に渡ってきたという説が有力なので、ピラミッドの記憶は、アジアを通過して、伝承されていたのかもしれない。
自然の風物にも不思議なところがあった。ピラミッドの頂上から見ると、周囲は地平線まで見渡す限りの密林で覆われ、都市はその樹海に浮かぶ孤島のようである。驚いたのはその広大な平坦さである(写真1)。どのような土地形成の歴史があれば、あれほどの平面ができるのか。何らかの形で水が大きく関与していなければ、傾きの無い平面はできないであろう。サンゴ礁のようなものが、⻑時間海面すれすれの深さにあれば、石灰岩の平坦な土地ができるかもしれない。
樹海の所々に、セノーテと呼ばれる池があり、底には生贄となった人々の骨が眠っている。中には、犠牲になった子供の骨も少なくないという。子供が生贄にされたということは、想像を絶するが、雨乞いなどの必死の願いは、神に最も大事なものを捧げなければ成就しないと考えたのであろうか。この池は、かつて平地の下に地下水が流れ、鍾乳洞ができ、そのトンネル構造の天井部分が陥没し、空に向かって丸い穴が開いたところへ、地下水や雨水が溜ってできたものだという。海底が隆起しないままに海底の石灰岩に鍾乳洞ができることはありえない。海底でできた石灰岩層が隆起と沈降を繰り返した⻑い歴史があったのだろう。
セノーテの水面は池の端から 10 m ほど下がっており、池同士は、⻑い地下トンネルで繋がっ ているものが多い。メキシコ湾に繋がっているものもあるという。川の無いユカタン半島では、セノーテは生活や農耕用の水源であったが、チチェン・イッツァでは、宗教的な儀式のためにも使われたという。このようなセノーテは、ユカタン半島に沢山あるが、その多くは、弧状に並んでいるらしい。
メキシコ・シティの歴史も、興味深いものであった。今では、想像もできない大きな湖上の都市だったという絵が特に記憶に残っている。その郊外に位置する、紀元前 2 世紀から 6 世紀に栄えた、テオティワカンの都市国家は、今も遺跡が残されており、大したものだ。巨大な太陽のピ ラミッド、月のピラミッド、4 km の⻑さの死者の道、羽根の生えた蛇の神を祭るケツアルコアトルの神殿などの宗教的な建造物が、整然と配置されており、すごいものであった。自分の脚で、高さ 65 m のビラミッドに登ってみると、頂上からは、その辺りの区画が計画的な広場 となっている様子が雄大に眺められる。そして、周辺を含む大きな都市が想像される。後に、 この文明が滅んでしまってからこの地に現れたアステカ人たちが、都市の廃墟を発見して、その後も崇拝の対象にし続けたという。
メキシコ・シティーの人類学博物館に展示されていたマヤやアステカの遺物は、圧倒的な存在感があった。アメリカに住んでいると、17 世紀というだけで古い物とされ、本当に古い物へ の欲求不満が生じるのだが、その空腹のような感覚が、大いに癒された。特に、マヤの暦が彫られた車輪の形の大石や、亡くなった王に被せた翡翠の仮面、人の心臓を取り出すために使わ れたという石のナイフなどは、忘れられない品々だ。マヤは、インカと違って、渡来したスペ イン人に滅ぼされたのではなく、部族間の戦争、疫病か自然災害、あるいは農耕事情で、13 世紀過ぎには滅亡したようである。見渡す限りの樹海の所々に孤立したように生きていた人々の、特異な文明が偲ばれる旅であった。
小惑星の衝突
マヤ文明が滅ぶはるか昔、ユカタン半島の先端を含むメキシコ湾に小惑星が衝突するという大事件があった。チクシュルーブ大隕石と呼ばれるもので、その衝突跡は、チクシュルーブ・クレーターという。
小惑星衝突説は、1980 年、ウォルター・アルバレスとルイス・アルバレス父子らのグループによって、初めて発表された。彼らは、最初、イタリアで、わずか 1 cm の厚さの粘土層が、異常に高い濃度のイリジウムを含むことを発見した。イリジウムは小惑星には豊富に存在する場合があるが、地表にはほとんど無いことから、どこかに小惑星が落下したのではないかと想定した。同じような地層がデンマークでも見出された。それらの地層は、丁度、生物の大絶滅が起こったとされる K-Pg 境界(白亜紀: Kleide ‐ 古第三紀: Paleogene の境)に存在したことから、大絶滅を引き起こしたような、巨大隕石の飛来があったのではないか、と提唱した。しかし、その論文発表の時点では、隕石落下の場所は不明のままであった。その後、イリ ジウム地層は、世界のそこここで見つかり、大天体の衝突説は真実味を増した。彼らが論文を発表したのは、私たちが丁度ユカタン半島を訪れた正にその年のことであったのは、奇遇である。その後、イリジウムの堆積が世界的な規模の火山の噴火による、という説も現れ、その優劣は決まらなかった。
大隕石衝突が恐⻯絶滅の原因だとする話が、私の知るところとなったのは、2000 年代に入ってからである。世界各地の K-Pg 境界に相当する深さにイリジウム含有地層が見つかり、その厚みが、カリブ海周辺やメキシコ湾沿いでは、1 m に達する大きなものになっていること、 また、 周辺各地で、大きな津波の跡が見られることから、ユカタン半島を含むメキシコ湾南部が、天体衝突の場所であることが、想像されるようになった。そして、この十数年、多くの研究が追加され、当時の様子が、具体的に想像できるようになった。
衝突した小惑星の大きさは(イリジウム層の総体積から推定して)直径 10〜15 km、衝突速度は(衝撃石英などの構造から)約 72,000 km/h (= 20 km/s) と推定される。クレーターの直径は、160〜200 km 。深さは 25 km 。約 6,600 万年前の事である。ユカタン半島先端の⻄の半分は、クレーターの内側に含まれる位置関係にある。クレーターの規模が大きく、中心地が海洋の底であるために、その全体の形を、ひと目で捉えることはできない。衛星画像、残留磁気特性、重力の強度分布、およびセノーテ(前述)の配列によって想定されている。これらの特徴物は、いずれも大きな円弧の一部をなすように並んでおり、この円の中心が衝突の中心とされている。
2024年には、K-Pg境界層のルテニウムについての分析結果が発表された(ゲッデら)。ルテニウムも稀な金属である。その同位体組成から、この隕石が木星より遠方の領域から飛来する C型小惑星(炭素質コンドライトを含むタイプ:後述)であったことが突き止められた。これにより、特異地層の成因が火山噴火であるという説は、ほゞ、否定されることになった。
恐竜の大絶滅
チクシュルーブという名称は、付近の地名に由来し、マヤの言葉で「悪魔の尻尾」という意味だという。この小惑星の衝突により、現場では、マグニチュード 11 の地震が起き、300 m の高さの津波がメキシコ湾全体を襲ったらしい。高温の火山弾のようなものが衝突地点から吹き上げられ(火球)、空から広い範囲に落下し、大陸規模の森林火災を引き起こした。衝突時の 粉塵と火災の煙が地球の大気圏全体に広がり、日光を完全に遮った。数年間は太陽が隠された可能性がある。
衝突の地は、炭酸塩岩(石灰岩)や硫酸塩岩が多く、衝突の衝撃は、大量の二酸化炭素や硫酸水滴を発生させた。特に、硫酸エアロゾルが⻑期に亘って大気に浮遊し、酸性雨や海洋の酸性化を引き起こした。こうしたことから、気候寒冷化と食糧不足が起き、海のプランクトンや海藻が激減、アンモナイトが絶滅、地上の多くの植物種と大型恐⻯が絶滅したとされる。この生物大絶滅が起こった時期が、K-Pg 境界である。恐竜絶滅の最もありそうなシナリオとされる。
水中などにいて助かった小型の両生類や爬虫類、地中の穴などにいて助かったネズミやモグラのような小さな哺乳類、そして、羽毛を持ち比較的小食であった鳥たちが、生き残った。彼らは、恐竜がいなくなった世界で繁栄することになった。そして、次第に大型の哺乳類が現れる。もし、恐竜がいる世界に、突然、狼や⻁のような大きな哺乳類が現れると、その多くは、恐竜たちの餌食にされてしまう可能性が高い。人間ならば、知恵と集団の力で恐⻯と闘うこともできたかもしれないが、大型哺乳類たちでは、恐竜を凌駕することは難しい。
恐竜の退場は、我々人間が地球の覇者となる道が開かれたことを意味しているであろう。こ の衝突事件が無かったなら、地球は、恐竜たちの領地であり続け、人類はおろか、現在見られる多くの哺乳類が、現れることも無かったであろう。チクシュルーブの巨大隕石衝突のお陰で、今の人類があるのだ。
最近になって、隕石衝突時に恐⻯がすべて絶滅したわけではない、とする見解も現れている。 恐竜の一部は当時のゴンドワナ大陸に逃げたり、たまたまそこに居たために助かったとする考えである。今は南米と南極、それにオーストラリアに分かれてしまったゴンドワナ大陸は、当時は南極点よりは低緯度にあって、緑の茂る生物圏であった。この地域は、メキシコ湾の位置からは遥か南方にあった。
巨大なチクシュルーブ・クレーターの形状をよく調べると、北北⻄の方向で環状の稜線が切れていることが分かった(杉田精司)。このことは、小惑星が南の方向から飛来し、大気圏を斜めに落下しながら、地球に激突したことを物語っている。衝突位置から激しく射出される岩石は、この稜線の切れ目を残しながら、北半球に火球となって散開した。その高温の溶岩が降り注いで森林火災が引き起こされる。そうなると、衝突地点より南の方向は比較的被害を受けなかった可能性がある。
南極地域では、南極横断山脈が氷雪が少なく、岩が露出しており、化石を発見しやすい。 6,600 万年より後の地層から、シダ植物の化石が見つかっている。これは、恐竜たちの餌であったものだ。第三紀には、南極でも植物が繁茂していた(ネイト・スミスによる「極圏の 謎」)。半年の間は暗闇なのに 地球温暖化のため、南極も温室のようだった。また、南極と アフリカ大陸南部(カルー盆地)で、いくつかの恐⻯(リストロサウルス)の化石が、1960 年代後半にすでに発見されている。これは、大陸移動の証拠ともされている。さらに北の方でも、恐竜が生きていた化石が見つかった。特に、卵を塚の中に入れて保護する習性を持つ恐竜もいたようである。寒冷化しても、地熱のある場所の近くに、恐竜の卵が発見されたりもしているので、隕石衝突の直接的被害を免れた恐竜もいたかもしれない。
化石の年代は、地層の年代から決められるが、すでにできている地層に、別の地層の中にあった化石が紛れ込むこともあり得るという。したがって、地層の年代だけから、恐竜の生きた時代を推定するのは、難しいかもしれない。
大型恐竜は、この天災を生き延びにくかったことは、間違いないが、必ずしも一瞬の全滅をしたわけではなかったかもしれない。その後、数万年の間に、鳥類に進化した恐竜だけが命を繋ぎ、他の恐竜たちは生きにくくなっていった。その理由は、食料不足以外にもあるかもしれない。考えられるのは、ネズミよりは大型の哺乳類が現れるようになり、それらが、好んで恐竜の卵や子供を食べてしまったかもしれない、ということだ。飛ぶことができた鳥類は、卵を木の上の巣に隠すことで、そうした難を逃れたかもしれない。隕石衝突が、繁栄の絶頂にあった恐竜に大打撃を与え、その隙に哺乳類が進化したため、生物界の主役が交代したのであろう。
実は、チクシュルーブの大隕石落下以前にも、生物の絶滅を招いた隕石衝突があったという説もある。2億5千万年前のぺルム紀(P)と三畳紀(T)の間に起こったという、P-T境界大隕石衝突説である。この古生代終わりの境界時期に、三葉虫を初めとする生物種の 9割以上が絶滅しており、その原因がやはり大隕石の飛来であると考える学者もいる(ルアン・ベッカー)。難しいのは、この時期の地球にはパンゲア大陸ひとつしかなく、それが、後に分裂、移動して、現在の5大陸になったということだ。隕石の証拠となる遺物は、小さな物だけに限られることになる。多数の火山が爆発したのが絶滅の原因という考えもあり、まだ、結論は固まっていないようである。
隕石の地球衝突が恐竜を地上から消し去ったと表現すると、いかにも、彼らが邪魔者であったかのように聞こえる。しかし、彼らは決して悪者なのではなく、地球を代表する生物として大成功し、その時代を必死に生き延びようとしていたのだ。私は、絶滅させられた恐竜たちに深く同情し、災害から逃れ続けた姿に憐れみを覚える。もし彼らが絶滅していなかったら、今頃、どんなことになっていただろうか。人類と地上に同居し、保護区に隔絶された生活をしているだろうか。あるいは、恐竜型のまま進化し、背広を着て長い首にネクタイを締めた恐竜人として、街を闊歩したりしているだろうか。
(編集: 前澤祐貴子)
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