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老成学研究所 > 時代への提言 > 『今、国学の呼びかけるもの』シリーズ > 『今、国学の呼びかけるもの』シリーズ: 〈20〉「真淵が生きた江戸時代中期」 その3
『今、国学の呼びかけるもの』シリーズ
《20》
真淵が生きた江戸時代中期
その3
真淵は 1697年(元禄10年)3月4日、
遠江国 敷地郡 岡部郷 (現在の浜松市)に岡部政信の三男として 生まれました。
1733年(享保18年) 京都の荷田春満に師事し、上京したのが 37歳です。
その後、江戸に出たのは 1737年(元文2年)、41歳の時でした。
そして 延享3年(1746)、真淵 50歳の時
田安宗武に仕える 和学御用 となり、
本格的 に江戸で活躍するようになりました。
真淵は 晩年 隠居を認められます。
1763年(宝暦13年)2月、宗武の命により 大和への旅に出発 します。
5月、この旅の途中 松坂で まだ若い34歳の本居宣長が 真淵の宿を訪ねてきます。
二人の出会い(松坂の一夜)は この一回だけで、
この後は 手紙のやり取りで 宣長は 真淵から指導を受けます。
その後、真淵は 多くの門人を育て
明和6年(1769)10月に73歳で逝去します。
真淵が生きた江戸時代中期とは
どんな時代だったのか?
真淵が生きた時代は 関ヶ原の戦いから 既に100年がたち、
武力で物事を解決する時代 が去り、
法と文書で解決する時代 になっていました。
徳川吉宗が 8代将軍になったのは 1716年(享保元年)、
真淵が 20歳の頃です。
真淵 が 和学御用として仕えた田安宗武は 吉宗の二男でした。
10代将軍 家治時代に権力をにぎったのが 老中 田沼意次でした。
真淵が亡くなって3年後のことでした。
真淵の門人で 四天王の一人と言われた 橘千蔭 は、意次の側用人です。
意次の後の老中が 松平定信 でした。
真淵が 和学御用として仕えた田安宗武の七男が 定信です。
定信は 寛政の改革を実施し、
その政策の一つとして 江戸石川島に人足寄場を設けましたが、
この建議をしたのが 火付盗賊改方長官の 長谷川平蔵 でした。
真淵が73歳で亡くなった時、平蔵は まだまだ若い24歳ぐらいでした。
つまり
真淵と意次、千蔭、定信、平蔵は
江戸で 同じ時代を生きていたのです。
江戸時代中期は 平和が続いて 世の中が安定するに伴って
江戸や大坂などは 政治や経済の中心地として 大いに賑わいました。
江戸は 人口が100万人にもなり、
商業が発達し、
武士以外の人々の中にも、学問や文化に親しむ人が出てきました。
この頃、日本古来の考え方を研究する新しい学問である国学が広がりました。
また、洋書の輸入ができるようになり、西洋の学問である蘭学を学ぶ人も増えてきました。
真淵が生きた江戸時代中期は、様々な学問が花開くと共に、
真淵ら国学者の古典研究が 実を結ぶ よき時代でもあったのです。
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浜松市立賀茂真淵記念館
URL: http://www.mabuchi-kinenkan.jp
尚、当シリーズにおきましては、賀茂真淵に関連する資料/画像、及び内容解説に至るまで 浜松市立賀茂真淵記念館(一般社団法人 浜松史蹟調査顕彰会)の許可とご協力のもと、展開させていただく運びとなります。
この場をお借り致しまして その多大なるご尽力に感謝申し上げます。
(編集: 前澤 祐貴子)
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