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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿B】教育者 岡本肇シリーズ > 【寄稿B】《21》「栄冠の陰に 涙あり」西遠女子学園 学園長 岡本肇
栄冠の陰に
涙あり
西遠女子学園 学園長
岡本 肇
今年の八月に開催されたパリ五輪は、様々な話題を残し、
多くのヒーローも生まれた。
名所を取り込んで 古都全体を競技場とするフランスらしい演出も目についた。
日本選手団も金メダル20個、メダル総数45個を獲得して 海外五輪では最多の成績を挙げた。連日の日本選手の活躍に 日本中が湧いた17日間だったが、「栄光の陰に 涙あり」の言葉通り、勝者もいれば 敗者もいる。
個人的には 三人の女子選手のことが 心に残っている。
女子槍投げで 北口榛花選手が 最後の6投目を投げて流した涙 と 金メダルを取った者だけが許されているという競技場の鐘を何回も鳴らして飛び跳ねて喜びを表していた姿 が印象的だった。
そして 彼女は 他の選手と共に 日本に凱旋することなく 自分の槍投げを育ててくれたチェコに帰っていった。
柔道の阿部詩(うた)選手は 前回の東京五輪で 兄の一二三選手と揃って優勝した。その後の世界大会でも連勝を続け、今回も兄弟揃って金メダルという期待が寄せられていた。
それが負けるはずのない初戦で 一本負けすると 彼女の体から 絞り出すような号泣が会場に響き渡った。そして 観客からは 「ウタ、ウタ」という同情と励ましの声援が起こった。それだけ 人気があり 多くの人から愛されていたのだろう。
しかし SNSでは 彼女に 号泣したこと、負けたことへの非難が殺到し、6日後の混合戦に出場した時の顔は げっそりとやつれていた。強い者が負けると 情け容赦なく 傷口に塩をすり込むように 誹謗中傷を浴びせるような人がいることは 悲しく淋しいことである。
体操女子の選手が 五輪直前に 飲酒・喫煙が発覚して 出場を辞退することになった。日本体操協会が定める代表選手の行動規範に合わせて 選手は協会と話し合って辞退した と報じられていた。
昔は スポーツといえば アマチュアとプロフェッショナルの境がはっきりしていた。アマの世界では 試合中や競技場での「フェアプレー」や「スポーツマンシップ」が重んじられて、 日常生活での品行はさほど言われなかったように思う。
今は 私生活でも 高い倫理観が求められ、スポーツ団体はファンの期待に応えるため より厳しい処分をするようになってきていないか。
今回の選手のパリ五輪代表の辞退の代償は 重すぎるように感じる。
話し合いで決めたことになっているが、十代の少女が協会の役員を向こうに回して 自分の反省や考えを十分に述べるのは無理である。やはり 協会の世間への忖度の結果ではないだろうか。
オリンピックになると いつも思い出すのは、メキシコオリンピック前に 自ら命を絶った マラソンの円谷(つぶらや)幸吉選手のことである。
1964年の東京五輪は
国を挙げて オリンピックを成功させ、
敗戦からの復興 や 国際社会への復帰、一流国への仲間入りを果たす
ための大会だった。
円谷選手は マラソンの日本代表として出場し、7万5千人の歓呼の声に迎え入れられて、ゴールの国立競技場に2番目に表れた。しかし あと200メートルのところで 英国のヒートリー選手に抜かれて 3位銅メダル になった。
それでも 日本として 陸上競技唯一のメダルで 国立競技場に初めて掲げられた日の丸だった。その時の1位は エチオピアのアベベ選手だった。
円谷は 1940年、福島県須賀川町で 7人兄弟の末っ子として生まれた。高校に入ると 駅伝チームに入っていた8歳年上の兄に誘われて走り始めた。
県内の駅伝で区間記録を出して片鱗を見せているが、高校を卒業すると 自衛隊に入隊した。配属された郡山駐屯地に陸上部はなかったので 朝夕 一人で走っていた。
東京オリンピック開催が決まると 自衛隊は体育学校に「特別体育課程」を設けて、オリンピック選手育成に力を入れ始め、円谷も選抜された。しかし そこにトラックがないので、自衛隊に籍を置きながら 中央大学夜間部に入学して 大学のグラウンドで練習した。
安保闘争の余韻が残るキャンパスでは 自衛隊員への反感が強く、風当たりの強い中での練習だった。
しかし 次のメキシコを狙う4年間は 様々な障害に見舞われて 満足な練習ができなかった。椎間板ヘルニアやアキレス腱の手術をしたり、結婚を考えていた女性との関係は 上官の「五輪を優先させよ」という意向で破談になった。さらに 福岡県の自衛隊幹部候補生学校に入校することになり、半年間 練習は満足にできなくなった。
兄に 「各方面からの期待はありましても、一線のクラスとして これ以上続けることに無理があります」と 手紙に書いている。メキシコオリンピックを前にして 心身共に限界だったのだろう。
オリンピックの年、1968年1月9日に 正月の松の内が明けるのを待っていたかのように 官舎の自室で 頸動脈を切って自殺した。
残された遺書には
「父上様母上様、三日とろろ美味しうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しうございました。
勝美兄、姉上様、ブドウ酒、リンゴ酒美味しうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しうございました。
㐂久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴイカ美味しうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした」
疲れ果てて 正月に帰ってきた幸吉に
家族みんながご馳走をして 元気をつけようとした様子が目に浮かぶ。
彼は その一つひとつを 心に刻んだのだろう。
「幸雄くん、秀雄くん、幹雄くん、敏子ちゃん、…
立派な人になってください」
と 甥や姪の17人の名前を
一人ひとり 顔を思い浮かべながら 書いている。
「父上様、母上様 幸吉はもうすっかり疲れ切って 走れません。
何卒お許しください。
気が休まることもなく、ご苦労、ご心配をお掛け致し 申し訳ありません。
幸吉は 父母上様の側で 暮らしとうございました。」
そして
上官にも詫びて
「メキシコオリンピックのご成功を祈ります」
と 結んでいる。
川端康成は この遺書を読んで
「千万言も尽くせぬ哀切」
と 言った。
円谷が命を絶った1968年、
日本は国民総生産でドイツを抜いて世界第2位の経済大国になった。
70年には大阪万博も開かれ、
日本は高度経済成長へと一気に駆け上っていったのである。
(編集: 前澤 祐貴子)
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