交流の広場

老成学研究所 > 時代への提言 > 【竜ヶ岩洞:74歳からの洞窟掘り 戸田貞雄翁】シリーズ > 【竜ヶ岩洞:74歳からの洞窟掘り 戸田貞雄翁】シリーズ No.3「人のために動く 即ち 働く」

【竜ヶ岩洞:74歳からの洞窟掘り 戸田貞雄翁】シリーズ No.3「人のために動く 即ち 働く」
時代への提言 | 2025.01.06

©︎戸田達也

1920年代後半、昭和初期頃 

標高僅か359mの何の変哲もない小山…

セメント用石灰岩採掘にも護岸・道路工事用採石からも見捨てられ、

土砂に埋没した奥行き70mばかりの小さな鍾乳洞観光も廃れ、

竜ヶ石山は 人々の記憶から 忘れ去られていた

©︎戸田達也

もう一度

この石山を

蘇らせたい

岩膚を削り取られ 荒れ果てた地元の山の地の底に

「必ず 華が咲いている」 

と 夢を賭けた 実業家* 戸田貞雄 70歳 

 * 静岡県引佐郡引佐町にて 建設会社・木材会社を経営する実業家

©︎戸田達也

その子供時代こそが 

貧しさに負けるどころか 

貧しさ故にこそ 紡ぎ 培われた

広くも深き 精神基盤の源 だった…

【竜ヶ岩洞:74歳からの洞窟掘り 戸田貞雄翁】シリーズ

No.3

人のために動く 

即ち

働く

©︎Y.Maezawa

汗は 滝のように 流れた

踏ん張る 足は 

その荷重で 地にめり込んでいただろう

空を 地を 喘ぐ息で 見つめていたに違いない

1900年代 初頭

人と荷車が 一体となった塊が

通称「長坂」*で

材木を運んでいた…

* 現在でも ダンプカーでも荷物を満載していると 喘ぎ喘ぎやっと上急所。当時は 勿論 道幅も狭く、舗装もされていない凸凹道…

©︎Y.Maezawa

後に 竜ヶ岩洞を発掘した 戸田貞雄を作り上げたのは

多くの人の運命もそうであるように

本人が選択することのできない 

生まれ落ちた 環境 だった

生まれ落ちた 場所

囲まれた 家族

見聞きする 社会

抗うことのできない 本人に降り注ぐ 様々な条件…

いわゆる 育ち とやらが

個人の先天的資質と相まって

貞雄 という 人物を形成することとなる

©︎戸田達也
1921年(大正10年)高等科卒業記念
貞雄:最後列 左から4人目が貞雄

1922年(大正11年) 貞雄 15歳 高等科卒業

しかし

家を離れることのできない長男にとって

1910年代 大正中期の当時 

山ひだに 十数戸の家が散在して 一つの集落を形成しているような故郷 奥山村*では

農業(米作り)だけで食べていける家は数えるほど…

「働く」 といえば 

木材伐採・炭焼きといった 山仕事 か

伐り出された木材を運搬する 車引き 

の仕事しか なかった

*「村内 概して 山多く 渓深くして 運輸交通の便に乏しく 文化の発達 産業の振興上 遺憾の点 少なからず」

との 現状が記載 (静岡県引佐郡誌/引佐郡教育会 大正11年)

貞雄は

車引き(木材運搬)を始める

奥山から浜松まで 往復12時間*の道のり…

* 一口に片道6時間と言っても 往復12時間、積荷のあげおろしを加えると 時間はさらにかかり、夜明けに出発して 日暮れまでに帰れるか という距離。

1910年頃 大正時代、山間の村の距離感は 現代人の想像以上のものがあり、生やさしいものではなかった。

©︎Y.Maezawa

貞雄は 自身の荷車に 人より少なめの材木を積み 

鬼門「長坂」を人より先に登り切ると

同じく「長坂」で難儀している同業者の材木満載の荷車に駆け戻り

共に押した*

当然 貞雄の稼ぎは一回当たり80銭*の手間賃…と 少なくなるが

「皆さんには 仕事を教えてもらっているから 当然」

と 助け戻ることをやめなかった

* 人が1円分の荷を積む時 貞雄は80銭分しか積まなかった。当然 その分 自身の荷は軽くなり 坂の上まで一気に車を引き上げてしまう。そして 引き返し 1円分の荷を積んだ車の後押しを手伝い 坂道を上げてやる…それが 子供の自分に仕事を教えてくれる先輩への 礼の尽し方だ と貞雄は考えていた。

* 当時 木材運搬には 馬車、人力で引く荷車が使用。荷車1台分運送賃は約1円。10代で 牛馬を購入する資力のない貞雄は 人力で荷車を引くしかなかった。

仕事 それ自体 と 共に働く大人たち が 貞雄の教師だった

©︎戸田達也

1907年(明治40年)10月3日 戸田貞雄 奥山村田畑*に誕生

* 奥山村田畑: 20世紀初頭 山中を流れる奥山川周辺の僅かな田畑を耕作、木材伐採・炭焼きなどの山仕事しかない貧村

父 邦雄、母 きみ 

長男

のちに 弟二人、妹一人 が生まれる

1913年(大正2年)生姜仲買を営んでいた父の店が倒産、

突然 住み慣れた家から 狭い うち破れた家に引っ越すこととなる

貞雄 6歳、

「働く」 という世界に足を踏み入れる



少年時代 貞雄は 登下校の道を友達と歩くのが嫌だった

自分の家のずっと手前で さよなら と言って 別の道を行く…

自分の貧しい家を見られたくなかった

父は 貞雄に諭した

「働けば 山も畑になる

骨身を惜しんではいけない」

と…

「長男*だから

兄弟や家族のことを考えて 働け」

と…

* 当時 長男の立場には 家を継ぐという重い使命があった。「都会に出て 一旗あげる」という道は始めから閉ざされていた。

©︎戸田達也
1918年(大正7年) 奥山尋常高等小学校 5年生
貞雄:最後列、右から3人目

相変わらず 家は貧しく

正月に油揚料理を食べる習慣のある奥山村、

年の暮れには 幼い弟を従え 

貞雄は 油揚を 売って歩いた

売れ残って しょんぼりしている貞雄を見て 

残りの品を全部買ってくれた村の”おだい様(お大尽様)”の奥さんの親切…

 感謝と共に いつまでも 忘れることはなかった


©︎Y.Maezawa

貞雄は 周囲から 「サーシャ」 と 終生 親しみをこめて呼ばれ

村の大人たちは 「サーシャのようになれよ」 と 子供たちの手本とした

小柄な体を 精一杯使いながら働き 成長していく貞雄にとって

働くことは勉強 であり

一筋 貫かれた精神の主軸は

自分も良くなるが 他人も良くする』

という

自利利他円満

だった

©︎Y.Maezawa

貞雄は 故郷を 愛した


「ワシを育ててくれた故郷に

恩返しがしたい

この土地は

ワシの生まれ育った場所だから…」

1907年(明治40年) 奥山村田畑 で生まれ

兵隊時代を除けば 

ずっと この土地で生きてきた貞雄の

心の土台は そこにあった

古今東西

人類史上 あらゆる時代、あらゆる地域で生じる

故郷への想い…

揺るがない 大きな源力

©︎Y.Maezawa

貞雄にとって 

「働く」という字は

「人のために動く」ということを表す、

すなわち

自分のために働く ことを 「働く」とは言わない

という理解であった

そして

『奥山という土地 と 人 がいたからこそ

自分がいるのだ』 

と 常に 自身の存在の足元を自戒することが

生まれ育った土地を荒れさびれさせなきよう 大切にする

強い覚悟と決意に繋がる

©︎戸田達也

貞雄は 勉学も好きだった

1914年(大正3年) 奥山尋常高等小学校 入学

家から学校までは 3キロの道のり

母から 「学校へは 毎日 行かなくては駄目だよ」と言われたから と

頑固に

少しくらい熱があっても 寒気がしても 登校した

小学校6年間、高等科2年間 通算8年間 無遅刻、無欠席で通した

義務教育終了後 一人前の働き手をして 仕事に就くことが 当然の時代、

「それでも勉強をしたい」という強い意欲から

貞雄は 昼は12時間を越す厳しい仕事をしながら

夜 実業補修学校*に通い始める

* 実行補修学校: 働く青少年のための2年制の学校

多くの青少年たちが寝落ちする中、「面白い」と熱心に勉学に励んだ

©︎戸田達也
1919年(大正8年)卒業記念
貞雄:後ろから2列目、右より4人目

戸田貞雄の生き方の原型は

間違いなく

この幼少期に培われた

貧しさは 村全体のものであり

人間関係が貧しさを補って 人々を生かした

働くこと

助け合うこと

ここが 原点となった

子供の時から家事を手伝い 当たり前に 肉体を充分に使って働く

ごく質素でも 自分の住んでいる土地で採れた 大地の恵みを食べる

決して 贅沢ではない

丈夫な肉体と心は

人間らしい豊かさの支え と 長寿 に繋がる…

さて 一体

貧しさ とは 

豊かさ とは 

何なのだろうか…

尚 本シリーズにおきましては 戸田貞雄氏の直系の御子孫であられる 戸田達也氏(株式会社 戸田建設・竜ヶ岩洞 代表取締役)のご承認とご協力のもと 進めさせていただいております。

(記: 前澤 祐貴子)

* 作品に対するご意見・ご感想など 是非 下記コメント欄にお寄せくださいませ。

尚、当サイトはプライバシーポリシーに則り運営されており、抵触する案件につきましては適切な対応を取らせていただきます。

     

 
一覧へ戻る
カテゴリー
© 老レ成 AGELIVE. All Rights Reserved.
© 老レ成 AGELIVE. All Rights Reserved.

TOP