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老成学研究所 > 時代への提言 > 【竜ヶ岩洞:74歳からの洞窟掘り 戸田貞雄翁】シリーズ > 【竜ヶ岩洞:74歳からの洞窟掘り 戸田貞雄翁】シリーズ No.3「人のために動く 即ち 働く」
1920年代後半、昭和初期頃
標高僅か359mの何の変哲もない小山…
セメント用石灰岩採掘にも護岸・道路工事用採石からも見捨てられ、
土砂に埋没した奥行き70mばかりの小さな鍾乳洞観光も廃れ、
竜ヶ石山は 人々の記憶から 忘れ去られていた
もう一度
この石山を
蘇らせたい
岩膚を削り取られ 荒れ果てた地元の山の地の底に
「必ず 華が咲いている」
と 夢を賭けた 実業家* 戸田貞雄 70歳
* 静岡県引佐郡引佐町にて 建設会社・木材会社を経営する実業家
その子供時代こそが
貧しさに負けるどころか
貧しさ故にこそ 紡ぎ 培われた
広くも深き 精神基盤の源 だった…
【竜ヶ岩洞:74歳からの洞窟掘り 戸田貞雄翁】シリーズ
No.3
人のために動く
即ち
働く
汗は 滝のように 流れた
踏ん張る 足は
その荷重で 地にめり込んでいただろう
空を 地を 喘ぐ息で 見つめていたに違いない
1900年代 初頭
人と荷車が 一体となった塊が
通称「長坂」*で
材木を運んでいた…
* 現在でも ダンプカーでも荷物を満載していると 喘ぎ喘ぎやっと上急所。当時は 勿論 道幅も狭く、舗装もされていない凸凹道…
後に 竜ヶ岩洞を発掘した 戸田貞雄を作り上げたのは
多くの人の運命もそうであるように
本人が選択することのできない
生まれ落ちた 環境 だった
生まれ落ちた 場所
囲まれた 家族
見聞きする 社会
抗うことのできない 本人に降り注ぐ 様々な条件…
いわゆる 育ち とやらが
個人の先天的資質と相まって
貞雄 という 人物を形成することとなる
1922年(大正11年) 貞雄 15歳 高等科卒業
しかし
家を離れることのできない長男にとって
1910年代 大正中期の当時
山ひだに 十数戸の家が散在して 一つの集落を形成しているような故郷 奥山村*では
農業(米作り)だけで食べていける家は数えるほど…
「働く」 といえば
木材伐採・炭焼きといった 山仕事 か
伐り出された木材を運搬する 車引き
の仕事しか なかった
*「村内 概して 山多く 渓深くして 運輸交通の便に乏しく 文化の発達 産業の振興上 遺憾の点 少なからず」
との 現状が記載 (静岡県引佐郡誌/引佐郡教育会 大正11年)
貞雄は
車引き(木材運搬)を始める
奥山から浜松まで 往復12時間*の道のり…
* 一口に片道6時間と言っても 往復12時間、積荷のあげおろしを加えると 時間はさらにかかり、夜明けに出発して 日暮れまでに帰れるか という距離。
1910年頃 大正時代、山間の村の距離感は 現代人の想像以上のものがあり、生やさしいものではなかった。
貞雄は 自身の荷車に 人より少なめの材木を積み
鬼門「長坂」を人より先に登り切ると
同じく「長坂」で難儀している同業者の材木満載の荷車に駆け戻り
共に押した*
当然 貞雄の稼ぎは一回当たり80銭*の手間賃…と 少なくなるが
「皆さんには 仕事を教えてもらっているから 当然」
と 助け戻ることをやめなかった
* 人が1円分の荷を積む時 貞雄は80銭分しか積まなかった。当然 その分 自身の荷は軽くなり 坂の上まで一気に車を引き上げてしまう。そして 引き返し 1円分の荷を積んだ車の後押しを手伝い 坂道を上げてやる…それが 子供の自分に仕事を教えてくれる先輩への 礼の尽し方だ と貞雄は考えていた。
* 当時 木材運搬には 馬車、人力で引く荷車が使用。荷車1台分運送賃は約1円。10代で 牛馬を購入する資力のない貞雄は 人力で荷車を引くしかなかった。
仕事 それ自体 と 共に働く大人たち が 貞雄の教師だった
1907年(明治40年)10月3日 戸田貞雄 奥山村田畑*に誕生
* 奥山村田畑: 20世紀初頭 山中を流れる奥山川周辺の僅かな田畑を耕作、木材伐採・炭焼きなどの山仕事しかない貧村
父 邦雄、母 きみ
長男
のちに 弟二人、妹一人 が生まれる
1913年(大正2年)生姜仲買を営んでいた父の店が倒産、
突然 住み慣れた家から 狭い うち破れた家に引っ越すこととなる
貞雄 6歳、
「働く」 という世界に足を踏み入れる
少年時代 貞雄は 登下校の道を友達と歩くのが嫌だった
自分の家のずっと手前で さよなら と言って 別の道を行く…
自分の貧しい家を見られたくなかった
父は 貞雄に諭した
「働けば 山も畑になる
骨身を惜しんではいけない」
と…
「長男*だから
兄弟や家族のことを考えて 働け」
と…
* 当時 長男の立場には 家を継ぐという重い使命があった。「都会に出て 一旗あげる」という道は始めから閉ざされていた。
相変わらず 家は貧しく
正月に油揚料理を食べる習慣のある奥山村、
年の暮れには 幼い弟を従え
貞雄は 油揚を 売って歩いた
売れ残って しょんぼりしている貞雄を見て
残りの品を全部買ってくれた村の”おだい様(お大尽様)”の奥さんの親切…
感謝と共に いつまでも 忘れることはなかった
貞雄は 周囲から 「サーシャ」 と 終生 親しみをこめて呼ばれ
村の大人たちは 「サーシャのようになれよ」 と 子供たちの手本とした
小柄な体を 精一杯使いながら働き 成長していく貞雄にとって
働くことは勉強 であり
一筋 貫かれた精神の主軸は
『自分も良くなるが 他人も良くする』
という
自利利他円満
だった
貞雄は 故郷を 愛した
「ワシを育ててくれた故郷に
恩返しがしたい
この土地は
ワシの生まれ育った場所だから…」
1907年(明治40年) 奥山村田畑 で生まれ
兵隊時代を除けば
ずっと この土地で生きてきた貞雄の
心の土台は そこにあった
古今東西
人類史上 あらゆる時代、あらゆる地域で生じる
故郷への想い…
揺るがない 大きな源力
貞雄にとって
「働く」という字は
「人のために動く」ということを表す、
すなわち
自分のために働く ことを 「働く」とは言わない
という理解であった
そして
『奥山という土地 と 人 がいたからこそ
自分がいるのだ』
と 常に 自身の存在の足元を自戒することが
生まれ育った土地を荒れさびれさせなきよう 大切にする
強い覚悟と決意に繋がる
貞雄は 勉学も好きだった
1914年(大正3年) 奥山尋常高等小学校 入学
家から学校までは 3キロの道のり
母から 「学校へは 毎日 行かなくては駄目だよ」と言われたから と
頑固に
少しくらい熱があっても 寒気がしても 登校した
小学校6年間、高等科2年間 通算8年間 無遅刻、無欠席で通した
義務教育終了後 一人前の働き手をして 仕事に就くことが 当然の時代、
「それでも勉強をしたい」という強い意欲から
貞雄は 昼は12時間を越す厳しい仕事をしながら
夜 実業補修学校*に通い始める
* 実行補修学校: 働く青少年のための2年制の学校
多くの青少年たちが寝落ちする中、「面白い」と熱心に勉学に励んだ
戸田貞雄の生き方の原型は
間違いなく
この幼少期に培われた
貧しさは 村全体のものであり
人間関係が貧しさを補って 人々を生かした
働くこと
助け合うこと
ここが 原点となった
子供の時から家事を手伝い 当たり前に 肉体を充分に使って働く
ごく質素でも 自分の住んでいる土地で採れた 大地の恵みを食べる
決して 贅沢ではない
が
丈夫な肉体と心は
人間らしい豊かさの支え と 長寿 に繋がる…
さて 一体
貧しさ とは
豊かさ とは
何なのだろうか…
尚 本シリーズにおきましては 戸田貞雄氏の直系の御子孫であられる 戸田達也氏(株式会社 戸田建設・竜ヶ岩洞 代表取締役)のご承認とご協力のもと 進めさせていただいております。
(記: 前澤 祐貴子)
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