交流の広場

老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿B】教育者 岡本肇シリーズ > 【寄稿B】《20》「一葉の生涯」 西遠女子学園 学園長 岡本肇

【寄稿B】《20》「一葉の生涯」 西遠女子学園 学園長 岡本肇
時代への提言 | 2024.08.28

©︎Y.Maezawa

一葉 の 生涯

西遠女子学園 学園長

岡本 肇

二十年ぶりに お札の顔が変わることになり、長く親しんできた 福沢諭吉、樋口一葉、野口英世 は退場することになった。

中でも 一葉が登場した時は 初めての女性であり、とりわけ印象的なのは 新紙幣発行の年に 十九才と二十才の女性が芥川賞を受賞したことだった。

一躍、 ”時代の寵児”と もてはやされた彼女達と、それより百年前に 貧困の生活の中で 不朽の名作を残し夭折した一葉の生涯が あまりにも対照的だったから である。

©︎Y.Maezawa

一葉は 1872年(明治五年)、内幸町(うちさいわいちょう)東京府庁構内官舎(長屋)で 樋口則義(のりよし)、たき の二女として生まれた。

則義は 山梨の農民の出でありながら 江戸に出て 幕府の役人になり、明治維新後は 新政府のつくった東京府の下僚に横滑りをする。激動の時代に身を処する能力や才覚のあった人だったのだろう。

1875年(明治八年)には 東京府士族となった。小なりとはいえ、 ”士族の誇り”は 一葉の生き方に大きく影響したように見える。

貧しい生活だったのに 五千円札の肖像に見る気品のある凛とした姿は ”士族の誇り”が支えだったのではなかろうか。

一葉が四才から九才頃までは 庭のある家を買い、穏やかな生活をしている。

五才から もと僧侶の経営する吉川学校で学び、一葉日記に 「七つといふとしより草々紙(そうそうし)といふものを好みて、手まり、やり羽子をなげうちてよみけるが」と書いているように 本が好きだった。

父も自慢の子どもだったが、「十二といふとし学校やめけるが、そは母君の意見にて、女子にながく学問させなんは、ゆくゆくの為よろしからず。針仕事にても学ばせ、家事のみならいなどさせん、とてなりき」 とあり、「死ぬばかり悲しかりしかど、学校やめにけり」 とある。

小学高等科四級卒業 というのが 一葉の最終学歴になる。

©︎Y.Maezawa

それからの一葉は 家事の見習いをしたり 裁縫を習いに行ったりしているが、一葉の才能を惜しんだ 父 則義は、十四才になった一葉を 歌塾「萩の舎(はぎのや)」に入門させてくれた。

「萩の舎」は 中島歌子が 小石川安藤坂に開いた歌塾で、宮家や士族などの夫人、令嬢をはじめ 一時は 門弟が千人いた と言われた。

その中で 一葉は頭角を表して 歌子に何かにつけ 目をかけられるようになる。

©︎Y.Maezawa

しかし この頃から 樋口家の家運は傾き始め、長男の泉太郎が肺結核で亡くなると、成り行きで 十五才の一葉が 相続戸主になってしまう。則義は 官吏を辞め、金融業など新しい事業を始めるが、いずれもうまくいかず 失意のうちに 明治二十二年 一葉が十七才の時 病没する。

借金もあったようで 母 たき、一葉 なつ、妹 くに の三人は本郷菊町の借家に移り、針仕事や洗濯で 生計を立てる。まさに「赤貧洗うがごとし」の生活で、一葉日記には 「昨日より、家のうちに金というもの一銭もなし。母君これを苦しみて、姉君のもとより二十銭かり来る」「我家貧困日ましにせまりて、今は何方(いずく)より金かり出すべき道なし」「この夜伊勢屋がもとに走る」とある。借金しても返せないから、そのうち頼む当てもなくなり 質屋に走るのである。

仕事は「午前の内に浴衣一枚縫い終りぬ」「頼まれたる針仕事遅くまでする」「よべの残りの仕事ども早くよりして十時頃出来る。それより机にむかう」と 朝から晩まで 働きづめである。

その頃の仕立賃は 木綿綿入が 十四、五銭、袷(あわせ)は 八、九銭、単衣(ひとえ)は七、八銭で 遅くまで働いても 一日十銭がせいぜいだった。

樋口家の相続戸主として 一葉の肩には 母や妹の生活がかかってくるが、手間仕事だけでは成り立たない。十九才の一葉は 小説で原稿料を稼いで 生活を立てる決心をする。

「今日より 小説一日一回ずつ書くことをつとめとす。一回書かざる日は黒点を付せんと定む」と書いている。

しかし 芥川賞や直木賞などない時代に 女流作家として世に出る道もなく、二十六才の日記には 「文学は糊口の為になすべきものならず」と書いて 遊郭吉原近くに 間口二間、奥行六間の家を借りて 雑貨屋を開く。

糸、針、紙、ろうそく、うちわ、駄菓子、玩具 など 自分で仕入れてきて並べるが、日に五十銭ぐらいの売れ揚げで、 仕入れ代金と家賃を払うと いくらも残らない。

翌年の正月には 「七日むかひがわに同業出来る」「八日よりあきなひひまなり」と 同じような店が向かい側にできて、十ヶ月もしないで 古巣の本郷へ戻る。

この時 もう亡くなる三年前である。

©︎Y.Maezawa

一葉が 同人誌「文学界」に 「大つごもり」を発表し、「たけくらべ」を連載して評価を受けるのは「奇跡の十四ヶ月」と言われる一年と少しの期間である。

当時の大出版社 博文館から 原稿の依頼が来た時、「やうやう世に名を知られ初めて(そめて)、めずらし気にかしましう持てはやさるる。うれしなどいはんはいかにぞや」「虚名は一時にして消えぬべし」と書いている。

明治二十九年四月に、連載だった「たけくらべ」が一挙に再掲載されると 幸田露伴や森鴎外、斎藤緑雨たちも絶賛するが、既に肺結核が進行していた一様には「椋花(むくげ)の一日の栄え」と映ったようだった。

七月十三日、築地本願寺の 父や兄の墓参りをして 七月二十二日で 十四才の時から書いていた日記を終わっている。

発熱が続き 緑雨や鴎外が心配して依頼した医者も もう危篤に近い という見立てだった。

九月九日、無理をして 「萩の舎」の歌会に出席している。

十一月二十三日午前に 妹くに に「枕の向こうを支えてくれ」と言ったのが 最後の言葉だった。

二十四年と八ヶ月、九千日ほどの 短い生涯だった。

©︎Y.Maezawa

自分の名声など すぐに消えるもの と言っていた一葉は、百三十年の後の世に 作品が読まれ、ラジオで朗読され、自分の顔がお札になって 世の中に出回っているのを見たら、日記に何と書くだろうか。

(編集: 前澤 祐貴子)

* 作品に対するご意見・ご感想など 是非 下記コメント欄にお寄せくださいませ。

尚、当サイトはプライバシーポリシーに則り運営されており、抵触する案件につきましては適切な対応を取らせていただきます。

 
一覧へ戻る
カテゴリー
© 老レ成 AGELIVE. All Rights Reserved.
© 老レ成 AGELIVE. All Rights Reserved.

TOP