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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿A】医師 本郷輝明シリーズ > 【寄稿A】 ② 第二部 コロナ禍の中、介護老人保健施設の高齢者と接して 白梅ケアホーム 本郷輝明
©︎Y.Maezawa
第2部
コロナ禍の中、介護老人保健施設の高齢者と接して
白梅ケアホーム 本郷輝明
新型コロナが流行する昨今、介護老人保健施設の入所高齢者と会話する中で感動したことや、悩んだこと、考えたことを書き綴った。なお、個人情報の特定を避けるためDさんと表記する。当ホームページ掲載に当たってはDさん本人から承諾を得ている。
コロナ禍における高齢者
その1: 私の人生は何だったのか?
はじめに
コロナ禍が続く中、入所者は家族との面会を2、3週に1回程度のウエブか窓越しにのみ制限されている。当然、高齢者は自分自身と向き合う時間を多く持つようになる。家族と会えないことで心理的にも家族との距離ができ、自分の人生は何であったのかを問い直しているようだ。今回とりあげる大正12年生まれの97歳Dさん(女性)もそんな一人である。
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Dさんの日常
Dさんの認知機能は年齢相当で難聴もなく会話は普通にできる。Dさんは掛川で生まれ育った。結婚後浜松に住み始めた。老健への入所は5年前である。入所当初は歩行器歩行ができていた。しかしここ1年で歩行はできなくなり、さらに介助量が増してきた。現在ご自分で食事は摂取できるが、半年前からベッドから起き上がって座ることが難しくなり、ベッドから車椅子への移動には介護士の手助けが必要になった。食事はホールで皆さんと一緒に摂るが、ホールまでの移動も介護士に車椅子を押してもらうことが多い。
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Dさんは会話好きなので、私は診察を終えた後、ベッドの脇に座って話を聞くことが多い。Dさんの話の中でしばしば出てくるのは「もう十分長く生きてきたので早くお迎えが来て欲しい」である。コロナ禍以前から何度もこの言葉を聞いていた。「急がなくても人間には必ずその時が訪れますから静かに待っていていいのではないですか」と私は答えていた。
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今回、「どうしてですか?」と聞くと、「家族にこれ以上迷惑をかけたくないし、今までの人生でいいことは何にもなかったから、もういいと思っている」とのこと。また「自分の人生はなんだったのだろうか?」など人生の意義を問うこともある。「つまらない人生だったので色々病気が襲ってくるのかしら?」などとも聞いてくる。これは3ヶ月前にベッドから落ちて大腿骨骨折をして手術を受けたことを指していると思われる。最近は、「私の人生はいいことは一つもなかった。別に寂しいことはないが、切なくて早く終わりにしたい」と言う。言葉を交わしている時には苦痛の表情はなく笑顔を浮かべているが、本音を話し始めているという気持ちは伝わってくる。
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医師としての姿勢
目が合い、その人自身の心の奥から発する本音のことばを話していると感じた時、私はそれを無視して立ち去ることはできない。一生懸命子供を育て、働き、生き続けてきた人を襲う本音の時間とことば。それを直感した時は何よりも優先して傍にすわり、話を聞くことにしている。97歳の人なら若いころ戦争を経験し戦後の混乱も生き抜いてきた人だ。そんな苦労を重ねて生きてきた努力家の普通の人の「心から発する本音のことば」、それをしっかり聴こう、これは私が医師として45年間貫いてきた姿勢である。
相手が幼児や子供だろうと、高齢者だろうと本音が出たと感じたら、その場に座り込み、十分話を聞いてもらえたと相手が思えるまでしっかり時間を共有するようにしてきた。すぐ回答が出なくとも一緒に人生の意義を考える時間を共有する。それが今まで生きてきた人(そして残された時間が私よりは少ないだろうと思われる人)に対する礼儀だと思う。少しずつ話を聞いていくとその人の人となりが見えてくる。
苦労話
Dさんは5人兄弟の一番上の長女で、高等小学校卒業後すぐに働き始めたそうだ。16歳から海軍工場や掛川の軍事工場で働き、重い鉄を運んだりして大変だった、苦労ばかりでいいことは何一つなかった、働らきづめで食べるのにやっとだった。ただ、一時期2年間東京のお茶の先生のところで見習い女中として働いたが、その時はよかった。みんないい人だったので働いていても気が楽だった。東京の空襲がひどくなり、親から戻ってこいとしきりに言われ、掛川に戻った。終戦後は地元の小さな工場で働いたり、家で刺繍の内職などをしたりしていた。戦後も生活は大変だった。親たちが買い出しに行ってくれ、畑も作った。30歳代前半に結婚し浜松に来た、家族みんなに反対されたが後妻に入り先妻の3人の子供を育てたことなど、苦労を話してくれた。
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青春時代の苦労と戦後の生活の苦労を生き生きと語る。私はそんな若い頃の苦労話を聞くのが好きだ。そこにはその人の生き方や生活が満ちている。具体的な事を質問すると、当時の情景をしっかり語ってくれる。例えばご主人との旅行。北海道と九州に二人で旅行したことがあるというがその感想は厳しい。ただ行っただけで、ゆっくりしたということはない。飛行機には1回だけ乗ったことがある、青函連絡船にも乗ったが、慌ただしい旅行で楽しかった記憶はないとのこと。犬や猫は飼ったことはなく、畑もなく野菜などを育てた経験もなかった。Dさんは優しく笑顔を見せながら、「いいことは一つもなかった。早く終わりにしたい。もう疲れた。」とご自分の生涯を振り返る。育てた子供たちが独立して、その後夫が他界してから21年間一人で生活をしてきた。
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母のこと
私の母もDさんと同じ大正12年生まれである。母は北海道で生まれ育ち、93歳の時札幌で亡くなった。90歳ごろから耳が遠くなり、その頃から母とは会話が続かなくなっていた。年に一回程度札幌に帰省して訪ねて行った時も、挨拶と簡単な会話で済ましていた。そして2、3日して帰るときになると、「もう帰るのかい」と寂しそうに言った。93歳で亡くなったが、最後の3,4か月は自分で食事が取れなくなり、中心静脈栄養で命をつなぎ、意識も次第に朦朧となり、2月下旬の雪と厳寒の中、札幌のとある小さな病院で息を引き取った。死亡診断書には肺炎と記載してあった。当時を思い出しては、もう少し母の傍でゆっくりと話を聞く時間を作ればよかったと悔やんでいる。父と暮らした一軒家に、父が亡くなった後13年間一人で暮らしていた。一人で過ごす高齢者の寂しさが、最近少しずつ分かりかけてきたように思う。
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(編集:前澤 祐貴子)
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