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【寄稿E】 (10)翻訳論から見たトルコ映画Nefes: Vatan Sağolsun ― 生と死の二律背反  遠藤 幸英
時代への提言 | 2024.05.24

翻訳論から見たトルコ映画

Nefes: Vatan Sağolsun

生と死の二律背反


Nefes: Vatan Sağolsun(ネフェス:ヴァタン・サァアオルスン)

[仮訳:息 ― 祖国よ永遠なれ]

(レベント・セメルチ監督、2009年、全編2時間)

遠藤 幸英


つい ひと月ほど前 YouTubeで 海外の英語字幕付き映画を探していて 

偶然 14年ぶりに再会した トルコ映画『息』

(自分で言うのもなんだが、この日本語訳、耳障りだな)

たしか2009年のこと、イスタンブール滞在中に見て以来 ずっと気になっていた。

初見当時はトルコ語音声のみで英語字幕がなかった。トルコ(南東部)と隣国(イラク)との国境をなす山岳地帯でトルコ軍とクルド人ゲリラ集団(クルド労働者党の軍事組織PKK)との戦いを描く。監督は実際の衝突事件からヒントをえたらしい。現在は20年を超える長期政権のせいもあって種々の問題を抱えながらもレジェップ・タイイップ・エルドアン政権の元では比較的情勢が落ち着いている。しかし1990年前後はPKKの襲撃が激しかった。

今回動画でじっくり見るまでは耳をつんざくような銃撃、砲撃に加えて(トルコ軍)武装ヘリの爆音が混じっていたことだけが記憶に残っていた。その後長い間この映画の詳細を知りたいと思いながらも果たせないままだった。

原題にある「息」は通常連想される命の息吹というよりむしろ絶えず<死と隣り合わせの生>を暗示するように思える。その意味で印象深いのはゲリラ軍と対峙する国境守備隊の面々が家族や友人と私的な会話を交わす場面である。すべて親子や男女間の愛情が話題になるが、眼前に死がちらつく危機的状況の兵士たちにとって受話器を通して近しい関係にある相手の息遣いを感じることは「いのち」を感じることにほかならない。だが、死に瀕した人間の口からもれるのもまた「息・吹息」なのだ。

この映画はカメラ・アングルや場面の繋ぎ方などの面でかなり実験性に富んでいて私には物語の構成が把握しにくいように感じる。話の展開をどうとらえるか、視聴者一人ひとりが挑戦されているような雰囲気さえある。物語構成の典型である「始め、中、終わり」というパターンを避けているので自動翻訳機能を使ってセリフを追ってみてもすんなり理解できない。

導入部で岩山に散乱するゲリラ兵の死体がトルコ軍ヘリからの目線で映し出される。その後時間が逆行。ゲリラの大規模侵攻に備えて監視体制を増強するためにベテラン士官メテ・ホロゾグル大尉が率いる40名編成の増援隊が到着。途中2名がゲリラ側の狙撃を受けて死亡する。部下を二人も亡くしたことがトラウマになっている大尉は支援を受ける守備隊の士気があまりに低いことに苛立つ。緩んだ戦闘意欲を高めようと大尉は教練を強化するうちに数ヶ月が経過する。その一方で守備隊兵士たちがそれぞれの家族や恋人と電話をかけることで緊張をほぐし、寂しさを癒そうとする姿が強調的に描かれる。大尉も例外ではなく妻と深刻な面持ちで話し合う。だが、彼らの電話交信に敵方のリーダー(元医学生、通称「ドクター」)が割り込んできて敵意をむき出しに繰り返し宣戦布告する。やがて戦闘がリアルかつ執拗に描かれる。負傷したゲリラの女兵士が捕獲され、大尉の反対を押し切ってヘリで病院に搬送されることになる。戦場においても(病者・負傷者は最優先で救うべしという)「ヒポクラテスの誓い」が適用されたのだ。それに続く激戦の結果は双方ほぼ全滅に終わる。「ドクター」の生存は不明だが、宿敵ホロゾグル大尉は戦死する。映画の結末ではこの悲劇的な戦闘の後新たに同じ守備隊監視所に派遣される新兵たちが娑婆の生活との別れを惜しんで騒ぐ平和なひと時の宴となる。このエンディングは反戦・厭戦意識の表明、不滅を信じてトルコ軍の士気を鼓舞する意志、あるいは冷徹に政治的現実を直視する姿勢など作品解釈によって様々かもしれない。トルコにとってもクルド人ゲリラ組織にとっても武力衝突は簡単には収まりがつきそうにない。その点を強調するためにこそ結末部に新規に派遣される国境警備兵たちの姿が映し出されるのだ。一つの物語として解決を示さないのはのちに述べるabusive translation とよばれる映画手法であって、そうすることで観客の現実に対する批判意識を研ぎ澄まそうという狙いがある。

<翻訳論的視点からの映画批評の試み>

映画に限らず物語の基本形は事の発端から結末までを時にフラッシュバックを交えながら基本的には時系列に沿って語り、描く。しかしこの描写形式は『息』に適用できそうにない。というもの過去と現在が並列状態というか、過去が現在に食い込んで離れないという印象を受ける。

支援分隊の隊長であるホロゾグル大尉が支援を受ける兵士たちの無気力ぶりに苛立っているが、その不満を(大尉が来るまでの指揮官であった)軍曹にぶつける。大尉は金属製の屑入れを抜き身のナイフで執拗に叩く(開始後3分以降)。まるで脅迫するかのようだ。amazonのサイトで五つ星のうち1評価をつけたDVD版購者の次のような否定的な反応も尤もではある。「ストーブ?屑入れ?カーン、カーンってうるさい。陰湿で根暗の隊長?の喋りに耐えられなかった」。

だが、こういう観客にとって邪魔でしかない不協和音も見方を変えることで違ってくる。つまり欧米の比較的最近の翻訳論に助けを求めることで制作者側の意図を肯定的に読みとれるのではないか。ただし本稿では「翻訳」と言っても、トルコ語から日本語への翻訳を意味するのではない。現実から映画への翻訳である。トルコの政治的優位に不満を募らせるクルド人勢力(PKK)の対立という現実をどう映画化するか。この問題をtranslateという観点から見たいと思う。Translateは語源的に見ると、”to remove from one place to another,” also “to turn from one language to another”なので、現実の現象を映画化するのも日本語で言う「翻訳」にそぐわなくてもtranslationには合致するだろう。

1990年代末ごろから欧米翻訳論 (translation studies) の界隈でabusive translationに注目が集まり始めた。Abusiveはマスコミを通じて広く知られることとなったdrug abuse(違法ドラッグの乱用・誤用)に通じるが、翻訳論では従来の手法からあえて逸脱して創造性を確保するような翻訳を指す。(日本をはじめ)東アジアの映画を研究対象とし同時に英語字幕制作にも携わってきたアメリカ人学者Abé Mark Nornesが“For an Abusive Subtitling“ (Film Quarterly, Vol. 52, No. 3 [Spring, 1999]) において日本映画などを引合いに出しながら従来の逐語訳や意訳を排して原作の意図や面白みを異文化圏の観客に伝える英語字幕上の工夫を論じる。Nornesによると、たとえば悪態・罵倒を ”!%&$”など意味不明な形に文字化けさせる。

ただし、日本人からすれば、これはパンチがなさすぎることは否めないだろうが。(当該論文は英語論文のオンライン・アーカイブ「jstor」で提供されていて無料でアカウントを登録すれば、月に100本の論文が読めるし、ワード文書等にスクショで複写できる。)

ちなみに、Nornesはabusive translationのアイデアをフランス文学・思想の研究者Philip E. Lewisの論文 “The Measure of Translation Effects”(1985年)から得ている(Lawrence Venuti編Translation Studies Reader所収, 2000年, Routledge刊, Google Booksでほぼ全編読める)。Lewisは翻訳における原文に対する忠実さ(fidelity)は従来の翻訳に典型的に見られる非本質的な superficialなものではなく、あえて典型から逸脱して創造性を発揮する忠実さ(abusive fidelity)こそ必要だと説く.

このようなNornesの問題提起を受けてLawrence Venutiがabusiveという概念をさらに充実させてもいる(Venuti, Lawrence. Translator’s Invisibility: A History of Translation, 2008, Routledge (Google Booksのサイトで覗き見可能: p. 19)。繰返しになるが、Nornesの提唱するabusive translationは原語のセリフを<言語的忠実さを度外視して>他言語に<字幕>として創造的逸脱値雨発想の元に翻訳することである。本稿は映画化のきっかけとなった(映画制作者の目に映じた)現実を新規な手法で音声を伴う映像に転換すなわち<翻訳>する点に焦点を当てている。

さてここで(拡大解釈した)abusive translationを意識に入れて『息』に対する先ほどの低評価(「ストーブ?屑入れ?カーン、カーンってうるさい。陰湿で根暗の隊長?の喋りに耐えられなかった。」)について再考したい。この評者は物語において個々の(主要な)登場人物は個性をもつのであるという大前提がある。監視所の支援に駆けつける途中部下2名が狙撃されって死んだ。その上現地に着けば、今度は監視兵の絶望的な気の緩みを見せつけられる。いつなんどきゲリラの襲撃があるかしれないのに夜間大部分の兵士が就寝し、歩哨でさえ居眠りするという情けない現状に大尉の怒りは爆発する。人間は個性があるという信念(あるいは思い込み)があるから大尉が「陰湿で根暗」な輩に映るのもうなずける。登場人物の中で大尉がキャラ立ちの典型みたいなのだから。  

しかし『息』の構成は個性のふれあい、ぶつかり合いをもとにして展開する伝統的物語形式を意図的に逸脱しているのではないか。怒れる大尉の言動は一個人の思想や感情を反映したものではない。目指す監と監視所を目前にして部下を失ったために指揮官としての重い責任を感じる大尉。だが、この一見個人的な危機的事態は見方を変えれば、クルド人問題を抱えた現代トルコが置かれた政治的状況をこそ暗示すると思える。

トルコにとって反抗勢力であるクルド人(ことにPKKとして知られる武装勢力)の存在がどれだけプレッシャーとして働いているのかがこの大尉の狂気じみた苛立ちから伝わってくるように思える。どの場面をとっても民族対立という政治的状況が背景として存在しているではないか。トルコ国内を不安定化する外敵の侵入を防ぐ目的で比較的警戒体制が構築しやすい平地の都市部ではなく、警戒網をくぐりぬけやすい険しい山岳地帯にある国境のあちこちに設置された監視所の描写が全編を覆い尽くしている。かなりな時間を割いて描かれる監視兵と彼らの家族や恋人との電話交信は単に死の影に脅かされて心が荒んでいる兵士たちにとって癒しの場面というよりむしろ彼らが常時直面する死に直結しかねない危機的状況を強く印象づける。この映画は一般の観客が期待するような一定の枠に収まるモノガタリをいわば解体することで観客の内面に場面展開の解釈をめぐって葛藤を起こさせる。これが滑らかすぎる理解を阻み、再解釈へと観客を仕向けるabusive translationが生み出す効果だと思える。そうすることでありきたりのお話とは異質な人間世界の生の現実を垣間見ることが可能になるのではないだろうか。

この映画が実践するabusive translationは次のような場面にもうかがえる。動画の時間表示では1時間27〜30分のあたり軍曹はすでに就寝している。が、任務に対する責任感からか、物音には敏感である。そこへまだ就寝前の大尉が近づく。大尉は軍靴を履いている。軍曹はそれが決まりらしくすぐにベッドから出て直立不動の姿勢をとる。当然ながら裸足である。3分ほど二人の横顔が大写しになり、ほぼ一方的に大尉がつぶやくように話す。まるで静止画のようである。話題は国境守備隊の危機的状況である。ゲリラの敵襲はいつ発生するともしれないのだ。大尉はbreathあるいはbreatheという言葉を口にする。戦闘行為が不可避な兵士たちにとって息をし続けるか息が止まるかについて彼らに選択権はない。否応なく外部から押しつけられるものでしかない。生か死かという究極の問題をめぐる大尉の発言は相手(軍曹)に対するというよりむしろ自らに発せられた問いに違いない。カメラは二人をクロースアップでとらえるが、映画という通常リアルな画面から大きく外れてまるで大尉の内面世界を映し出すかのようだ。いや大尉個人ではなく守備隊の兵士全員の内面というべきだろう。

何度か二人の足元が大写しになる。軍曹は裸足、大尉は軍靴。この対比は興味深い。裸足は生身であり、息づく命を暗示する。他方、軍靴は絶えず死に直面する危機を連想させる。この軍靴はまた死を恐れない雄々しい戦士の姿、さらには国威発揚の観念を彷彿させるだろう。こう考えると映画の題名が生と死の二律背反を言いあらわすかのような『息 ― 祖国よ永遠なれ』とされたのも納得できる。こういう矛盾にあえて挑戦して生々しい現実を皮肉や悲観主義を抜きにして映画化しようとした制作者側にとって定番の手法を排してabusive translationは不可避だったのではないだろうか。

この「生と死の二律背反」のテーマは一見さらりと描かれている戦場における「ヒポクラテスの誓い」にまつわるエピソードにも如実にうかがえる。戦闘で重傷を負った女性ゲリラが守備隊の捕虜になる。(彼女は「ドクター」の恋人であるらしい。)死を覚悟で戦う大尉はヒポクラテスの誓いに則って彼女を救おうとする衛生兵らを妨害する(1時間8分ごろから)。結局彼女は軍のヘリコプターで市中の病院へ搬送されるのだが。これがトルコ軍対クルド・ゲリラの衝突で実践されているのかどうかはわからない。(現実にはありえないと思える。)

戦場において敵味方を問わず治療するという課題は現場の医療者にとって深刻なジレンマを引きおこす。医学専門誌でもしばしばとり上げられている。

だが、戦場における医療の現実はさておき、あえて「ヒポクラテスの誓い」を実行する設定を持ち込むのは(ついついエンタメ的な完結を期待しがちな)トルコ国内外の観客に対する挑発だと思える。これも(丸くおさめる語りの常套手段を避ける)abusive translationの手法なのではないか。

「ヒポクラテスの誓い」は人種・国籍を問わず大いにセンシティブな問題であることは言うを俟たない。が、近代トルコ「建国の父=Atatürk」という尊称を氏名の後に添えるMustav Kemal (1881-1938)の作中における扱いもトルコ国民にとっては同様に身長差を求められるはずである。作中でも何度か山頂に翻るトルコ国旗と共に彼の胸像が映し出される。結末近く、ゲリラ側の攻撃で台座から落ちた銅像を生き残った兵士の一人が元の台座に戻そうとするが、そうする体力、気力が失せたのか像を抱えたまま座り込んでしまう。カメラはこの兵士の動きを丁寧に追う。トルコの誇りと信じられているAtatürkの権威、名誉は回復されないままで映画は終わる。これは偶像破壊とまで言わないまでも観客に対してともすれば深刻な衝突を避けられない人間集団どうしの関係について改めて思いをめぐらす必要を感じさせる。結末において作中で印象深く描かれた惨劇の後で新規に国境警備に派遣される若い兵士たちの姿が描かれるのも腑に落ちる。


本稿は本来翻訳、ことに映画、TVドラマなのどの字幕翻訳に関して論じられるabusive translationをトルコ映画批評で勝手に、いや強引に援用させていただいた。結果としてけっして無意味でない視点を提示できたと思うのだがどうだろうか。

(編集: 前澤 祐貴子)

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