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『今、国学が呼びかけるもの』シリーズ 〈14〉 遠江出身の防人の歌も 万葉集にあるの?
時代への提言 | 2024.02.06

©︎Y.Maezawa

遠江出身の 防人の歌も 

万葉集にあるの?

【遠江出身の 防人の歌 (万葉集の巻二十)】

畏(かしこ)きや 命被(みことかがふ)り 明日(あす)ゆりや 

草(かえ)がむた寝む 妹(いむ)無しにして

意味

畏れ多い命令をいただいて、明日からは草と共寝をするのだろうか。妻もなくて


作者: 物部秋持 

防人集団での身分が「国造丁」(クニノミヤツコノヨボロ)。リーダー格。

万葉集巻二十には、歌の作者である7人の防人の出身郡名が 注記。

物部秋持の出身郡は「長下郡」。

©︎Y.Maezawa

さらにもう一首…

【遠江出身の 防人の歌 (万葉集の巻二十)】

わが妻も 絵に描きとらむ 暇(いづま)もが 

旅行く吾(あれ)は 見つつ偲(しの)はむ

意味:

わが妻を 絵に写し取る暇があればよいのになあ。

防人として 長い旅路を行く私は それを見ながら 妻を偲ぶことであろうに

作者 物部古麻呂(古麿)

出身郡は 物部秋持 と同じ「長下郡

写真がない時代の古代兵士にとって 愛する妻の肖像画は 何よりも貴重なものであった と思われます。

それを描く時間がなくて 心を残して出発した悲しさ を 古麻呂は歌に詠みました。

古麻呂は 長下郡に居住、国府(今の磐田市)の軍団に通って 武技の訓練を受けた者 と考えられます。

防人は 軍団の兵士から選ばれました。

※2つの歌の作者の身分関係は 物部秋持の方が上。

©︎Y.Maezawa

遠江の「長下郡」とは どこにあったのでしょうか?

©︎浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

奈良時代における遠江国の郡名は 正確には分かりませんが 10世紀に成立した『和名抄』によると 浜名・敷智・引佐・麁玉・長上・長下・磐田・山香・周智・山名・佐野・城飼・蓁原の13郡だ と思われます。

遠江国は、東は 大井川を境にして 駿河国と接し 三河国に続き、北は 信濃国 と境を接しています。さらに 南は 遠州灘、中央に 古代の入り組んだ天竜川が流れ、西側には 遠つ淡海 の国名の起源になった 浜名湖 が大きく位置しています。

この海や山の間に 遠江の 13郡・96郷があった。

続日本紀』によると 709年(和銅2年)に 長田郡を 長上 と 長下 の2郡に分けた とあります。

現在の東海道より南に 長下郡の故地があった とすると 古代の天竜川河口までの流域の 左右にわたる地域が 長下郡であり、西側は 今の浜松市に 東側は 今の磐田市になるもの と思われます。

その後 長下郡は 部分的に 敷智郡、長上郡、豊田郡に 吸収されていきました。

©︎Y.Maezawa

尚 755年2月(天平勝宝7年)に 遠江国府(磐田市)を出発した この二人を含む一行は 

757年8月(天平宝字元年)の防人廃止の勅により 3年間の任期を待たずに 帰還の日を迎えることができたようです。

©︎Y.Maezawa

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©︎Y.Maezawa

浜松市立賀茂真淵記念館 

URL: http://www.mabuchi-kinenkan.jp

尚、当シリーズにおきましては、賀茂真淵に関連する資料/画像、及び内容解説に至るまで 浜松市立賀茂真淵記念館(一般社団法人 浜松史蹟調査顕彰会)の許可とご協力のもと、展開させていただく運びとなります。この場をお借り致しまして その多大なるご尽力に感謝申し上げます。

(編集: 前澤 祐貴子)

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