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老成学研究所 > 時代への提言 > 『今、国学の呼びかけるもの』シリーズ > 『今、国学が呼びかけるもの』シリーズ 〈14〉 遠江出身の防人の歌も 万葉集にあるの?
遠江出身の 防人の歌も
万葉集にあるの?
【遠江出身の 防人の歌 (万葉集の巻二十)】
畏(かしこ)きや 命被(みことかがふ)り 明日(あす)ゆりや
草(かえ)がむた寝む 妹(いむ)無しにして
意味:
畏れ多い命令をいただいて、明日からは草と共寝をするのだろうか。妻もなくて
作者: 物部秋持
防人集団での身分が「国造丁」(クニノミヤツコノヨボロ)。リーダー格。
万葉集巻二十には、歌の作者である7人の防人の出身郡名が 注記。
物部秋持の出身郡は「長下郡」。
さらにもう一首…
【遠江出身の 防人の歌 (万葉集の巻二十)】
わが妻も 絵に描きとらむ 暇(いづま)もが
旅行く吾(あれ)は 見つつ偲(しの)はむ
意味:
わが妻を 絵に写し取る暇があればよいのになあ。
防人として 長い旅路を行く私は それを見ながら 妻を偲ぶことであろうに
作者 物部古麻呂(古麿)
出身郡は 物部秋持 と同じ「長下郡」
写真がない時代の古代兵士にとって 愛する妻の肖像画は 何よりも貴重なものであった と思われます。
それを描く時間がなくて 心を残して出発した悲しさ を 古麻呂は歌に詠みました。
古麻呂は 長下郡に居住、国府(今の磐田市)の軍団に通って 武技の訓練を受けた者 と考えられます。
防人は 軍団の兵士から選ばれました。
※2つの歌の作者の身分関係は 物部秋持の方が上。
遠江の「長下郡」とは どこにあったのでしょうか?
奈良時代における遠江国の郡名は 正確には分かりませんが 10世紀に成立した『和名抄』によると 浜名・敷智・引佐・麁玉・長上・長下・磐田・山香・周智・山名・佐野・城飼・蓁原の13郡だ と思われます。
遠江国は、東は 大井川を境にして 駿河国と接し 三河国に続き、北は 信濃国 と境を接しています。さらに 南は 遠州灘、中央に 古代の入り組んだ天竜川が流れ、西側には 遠つ淡海 の国名の起源になった 浜名湖 が大きく位置しています。
この海や山の間に 遠江の 13郡・96郷があった。
『続日本紀』によると 709年(和銅2年)に 長田郡を 長上 と 長下 の2郡に分けた とあります。
現在の東海道より南に 長下郡の故地があった とすると 古代の天竜川河口までの流域の 左右にわたる地域が 長下郡であり、西側は 今の浜松市に 東側は 今の磐田市になるもの と思われます。
その後 長下郡は 部分的に 敷智郡、長上郡、豊田郡に 吸収されていきました。
尚 755年2月(天平勝宝7年)に 遠江国府(磐田市)を出発した この二人を含む一行は
757年8月(天平宝字元年)の防人廃止の勅により 3年間の任期を待たずに 帰還の日を迎えることができたようです。
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浜松市立賀茂真淵記念館
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(編集: 前澤 祐貴子)
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