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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿B】教育者 岡本肇シリーズ > 【寄稿B】《17》「同窓会」 西遠女子学園 学園長 岡本 肇
同窓会にて
西遠女子学園 学園長
岡本 肇
教師として 最初に出会った生徒は 女子大学の附属中高等部の 団塊の世代の生徒達だった。
彼女達は 終戦後のベビーブームに生まれ 3年間で700万人が誕生している。少子化が問題になっている今の 3倍以上の出生率である。
まだ 戦後の復興期で 校舎も 教室も 十分でなく 木造が多かった。今の教室と同じ広さの所に 60人以上の生徒が 机を並べていた。
今年の夏、 その彼女達が 最後の同窓会を開いて 招待してくれた。最早 彼女達も 私と同じ 後期高齢者になろうとしている。
出席したのは 120人のうち30人で 病気や介護など それぞれ事情があって 来られない人も多かった。亡くなった人や 消息のわからない人もいて 同じ学窓を巣立ってからの 時間の重さを感じた。
その間に 日本は 高度経済成長、一億総中流、バブル、石油危機、リーマンショック、失われた20年 等 浮き沈みの激しい60年間だった。
夢多き可憐な少女達も 世の中の荒波に揉まれ 私などよりもずっと 逞しく 世間を渡ってきたように見える。
その頃の自分に戻ってみると 何を教えていたのか 思い出しても 心許ない。
戦後 日本の学校は 民主主義、男女平等へと大変換したとはいえ 教育方法や教育技術は 旧態依然のままで 教科書の知識を教え、どれだけ覚えたか テストをするようなものだった。
新米教師で 要領など わからなかったから、目の前の大勢の生徒に 前日 下調べをした事を 授業で喋るだけで 精一杯だった。今のように パソコンもコピーも計算機さえ なかった。ガリ版で ロウ原紙を切り 謄写版で一枚ずつ わら半紙に印刷して プリントや試験問題を作った。
個々の生徒と面談したり 個別指導など 余程の問題がなければ しなかった と思う。
一方で 高校や大学の進学率が上がってきて 収容しきれない生徒や学生を 大教室で マイクを使って するような授業もあった。マスプロ教育 とも揶揄されたが、児童、生徒の収容が 一番大きな問題だったのではないだろうか。
勉強をさせるといっても 宿題を出して 反復練習と学習時間を増やすことが目的で どのくらいの効果があったのか わからない。
そのうち 詰め込み教育、偏差値主義に批判が集中して 落ちこぼれが 問題になった。ゆとり教育や学校5日制が検討されるようになったのは 1970年代だから 彼女達が学校を出て だいぶ経ってからである。
今から思えば 集団で 足並み揃えていくような勉強に合わないで 自分の才能を伸ばせなかった生徒もいたはすである。
体育や部活動でも 腕立て伏せ、腹筋、うさぎ跳びが 筋トレとして 行われていた。また 夏でも 練習中は 水分補給は禁止で 根性を鍛える練習が中心だったように思う。
時々 「行き過ぎた指導」とか「体罰」として問題になったが、 最近まで 普通にあったように思う。
何より 楽しいはずのスポーツや音楽が 大会を目指す猛練習のため 苦しみに変わり 学校を終える頃には すっかり嫌いになっていることもある。大人になって 学生時代にやったスポーツや音楽を続けて楽しんでいる人は 意外に少ない と思う。
ある新聞の投書欄に 年をとって 右手が震えて 字を書けなくなった女性が 元々 自分は左利きだったのを思い出して 左手で字を書く練習を始めた と書いていた。
昔は 左利きはみっともないから と 親や教師は 箸と筆は右手を使うように教えた。右利きの我々が 左手で書くように教えられるのと 同じである。
もし 得意な左手を自由に使えていたら 勉強も運動も 楽しく違ったものになっていたかもしれない。
それと同じようなことが マスプロ教育、画一教育の中で 沢山 あったのではないだろうか。
同窓会は それぞれが 昔のことを思い出して
時が経つほどに 賑やかになっていった。
ふと 欠席した人のことを思うと 出たいけど 事情があって 出られなかった人もいるけど 出たくなくて 欠席した人もいるのではないかと思った。学生時代に 何も良い思い出がなくて あの頃を思い出したくなくて 同窓会に一度も顔を出さない人もいるのではないか。
もう60年も経って 顔も名前も出てこないけど
そんな人にこそ 未熟だった自分を詫びたい と思った。
(編集: 前澤 祐貴子)
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