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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿C】医師 菅原一晃シリーズ > 【寄稿C】No.15 「哲学的問い と 宗教」 精神科医 菅原一晃
哲学的問い と 宗教
精神科医
菅原 一晃
昨年は とある特定の宗教が 日本政府との関わりがあることで 世間やメディアを騒がせていましたが、最近では 全く話を聞かなくなりました。これらの問題、宗教と政治が密接にあること自体 悍ましいと言わざるを得ません。
それ以上に 多くの人が疑問に思うのは 「何故 宗教に入ってしまうのか?」 ということです。家族が宗教に入ったことで 別の家族が被害を受けたり 金銭面や精神面で苦しんだりする例は 後を絶ちません。
多額の寄付や 貢ぎ物を強制されることは 非常に多くあります。
有名人や学者、アーティストなどが入会し、その宗教の広告塔になるケースも 非常に多いのです。
しかし これは 私から見ると 敢えて激甘な言い方をすると その人の立場に立つと 「やむを得ない」「仕方ない」 と思うことが しばしばあるのです。
その人にとって 「こころの必要性、喫緊性が高い」ことが 多いのです。
私は 医療者です。そして 多くの人が 恐らく 私のことを知っているように あらゆる宗教を忌避しています。
まあ 私のことはどうでも良いのですが…実は 医療者で宗教を信仰している 或いは 宗教に捕まってしまう方は かなり相当数いるのです。
何故か?
以前 私は 学生時代に 多くの緩和ケアの勉強会や講演会に 参加していました。私の直感として 人間の精神を知るためには 極限状態に面する人たちのことを知らなければならない というものがありました。
緩和ケア というのは 死にゆく人に対しての 医療やケアを考える局面であります。
そこで あるセラピストが言っていたのが 「看護師の半分くらいは 何らかの宗教に入っている」 というものでした。
これが事実かどうかは 分かりません。しかし そうであっても おかしくない と思う要素があります。
医療の現場 というのは 病気や死、仏教で 「生老病死」 と言ったものですが そういうものを 突きつけられる機会は多いのです。
で、はっきり言うならば、そのあたりのことは 医者は避けています。或いは 避けることができてしまいます。患者に会って 診察して 診断をつけ 治療をする。治療できない患者は それこそ 緩和ケアの対象になるのですが…さてどうしたものか…どこか良いところに紹介できないでしょうか? みたいな感じで 診断と治療を司り、そこから外れた問いや質問については 医者は嫌う傾向が はっきりあります。
一方で 患者に最も近い立場にいるのは 看護師です。入院中のベッドサイドでは 特にそうで、ナースコールという名前もあるように 患者がボタンを押すと まず 看護師に繋がるわけです。
患者は 痛みや苦しみ、病気自体の恐怖などを持っています。死の怖さなども 当然ながら持ちます。そのことを 医療者にぶつけることがあります。当然ながら 最も近い存在である看護師に です。あとは 医者に患者が質問しても 上記のように まともに取り合わなかったり、診断〜治療の問題に 多くの医者はすり替えてしまうので 答えてもらっている と患者は思わないでしょう。
この時の患者の質問は 本質的であります。
「何のために 生きているか?」
「人間は 死んだらどうなるか?」
「どうして 他の人ではなく 私が病気になってしまったのか?」
などなど。
これは 「哲学的な問い」 と言うことができます。
何をもって 「哲学的」 と言えるかは人によります。ですが 例えば 「デカルトが こう考えた」「カントは こう言った」 などという西洋哲学の知識と、患者のこれらの問いは 直接的な関連はなくても良いのです。結果的に 一緒のことを考えていることは 実は かなり多いのですが。
この 「哲学的」 というのは 簡単に言えば 「どんな答えをも凌駕する問いを立てる」 という側面があります。
例えば、「私は死んだら どうなるでしょう?」という問いに対して 生物学的な「死」の定義を伝え、そうなると腐敗が進むので焼却するなり 土に埋めるなりします、みたいなことを言ったところで 絶対に納得しないのは 目に見えています。
一方で 「死んだら 天国があって」みたいな答え方は ほとんど 嘘を言っているようなものであり、患者によっては あまりに不誠実にしか思えない かもしれません。
とにかく 看護師が この「哲学的な問い」を受けるわけです。「問い」が 「あらゆる答えを凌駕する」ような質問を 受けるのです。
私は 職務的に 職員が仕事を休んだり 部署を変えるための相談に乗るようなことをしています。残念ながら 資質や能力に関して 医療者として 不適切な方に引導を渡さざるを得ないこともあります。その中で はっきりと言葉にしないまでも なんとなく 患者からの「哲学的問い」に耐えられないために 辞めざるを得ない気持ちになっている方を 稀に みることがあるのです。
そんな時に 確かに 「何らかの宗教」 というのは 一つの解決策の可能性があります。
既に 書いていますが 患者にとっては なんらかの宗教が提示した解答 というのは助けになりません。単なる嘘 にしかならない可能性が高いからです。
しかし 悩める医療者には違います。同じような世界観を共有する、ある種の「共同幻想」を持つことで 絶対に敵わないような問いに対しての免疫を 手に入れることができるからです。
日本人 というのは この点で不利なのです。
例えば ヨーロッパやアメリカなどの キリスト教を国教としている国では もし 自分が信じているかいないかに関わらず 「キリスト教を信じているモード」になって 仲間と繋がる余地があります。さらには 患者も同じ「キリスト教」という共同体の感覚を 共有できる余地があります。
実際にするかしないかは別として 背景に 「それ」 があるのが大きいのです。中東や中央アジアなどの イスラム教などは もっとそこで繋がれるでしょう。アジアの国も ヒンドゥー教や仏教同士で 共有できる可能性があります。
一方で 現代の日本ですが 宗教 というのは忌避されています。論者の中には 日本人は 宗教は関係ない のではなく、知らない のだと言います。人が死んだら 仏教式の葬式、初詣や七五三には 神道、クリスマスは キリスト教で祝う、などの論拠にして。
しかし この「風習」のレベルと 「信仰」や「思想」レベルとは 異なります。本当に困ったり 迷ったりした時に 他者と横に繋がるようなもの としての宗教を 私たちの社会は 持ち合わせていないのです。
さらに 現代はアトム化 つまり 社会が個人主義的に切り離され 共通の要素を持つ集団がなくなっているために 考え方や生き方などが その個人に多く委ねられているのです。勿論 それは良いことでもあり 共同体や集団の慣例に縛られない自由さを体現できる可能性を享受できるようになったことを 意味しています。一方では 自由が故に 危機も自分で乗り越えていかなければならないことを 意味しています。
人は 生きていると なんらかの死活問題に 苛まれてしまうことがあります。
特に 医療者は顕著ですが 先程述べたような 「哲学的な問い」を 他者から投げかけられてしまうことがあります。
このような時に 対応の難しさを 実感せずにはいられません。
幸い現在では 看護系の雑誌などで このような質問があった時の答え方 のようなものを 取り扱ってもいるようです。しかし 付け焼き刃では どうしようもない面があるのも また事実であります。
最初に書いた 「こころの必要性、喫緊性」というのは まさに これらの問いに答えるために 宗教に入る人がいる ということです。
医療者に限らず 人生の何らかの局面で 危機に直面し 自分で自分に対し 絶対に解けないような「哲学的問い」を 向けてしまうのです。
その結果 「急いては事を 仕損ずる」とばかりに 金銭面や精神面、家族関係などを犠牲にしてしまう人も 多いのです。
では これは どうしたら良いのでしょうか?
私が考える処方箋は 以下です。
当たり前のことしか 言えません。
まずは 問題を相対化すること です。
「何のために生きるか?」 「何故自分だけがこんな目に遭わなければならないのか」 というのは 非常に強い質問です。答えるのが大変であり どんな答え、哲学者の解決策や解答でさえも 敵わない質問ですらあります。
だからこそ その質問の「大きさ」「偉大さ」に敬意を持ちつつ すぐに解答することを 放棄することです。
それは 目の前にいる人 或いは 自分自身が そのような問題を抱いた場合 自分自身を見捨てる行為になるように 思えてしまいます。しかし 必ずしも そうではありません。
その質問に すぐに答えられる という風に考えること自体が 謙虚さを欠く行為であり そのことを 自覚すべきなのです。問題に直面してしまうと 自分が何とかしないといけない と思う その自己愛自体が 問題を厄介にします。故に 自分の身の程を知りながら その問題に近づき また遠ざかり というのを繰り返していくよりない と思います。
自分が そのような問いを抱いてしまったならば それに時間をかけて解くような余裕を持てるように 気持ちのコントロールをしていくべきなのです。
さらに 誰かが 例えば 目の前の患者が そのような問題を持ち投げかけられたならば とにかく 答えをすぐには出そうとせず しかし 自分もその問題を共有していて 大変だと思っていることを 時間をかけながら伝えていく…それしかない と思います。
但し 性急に答えを出すよりも その方が 他者にとっても 有意義になるはずです。
さらには 問いだけでなく 答えに対しても 相対化することです。
例えば ある宗教の考え方で 例えば 「死んだら天国があって」 とか 「その人が病気になったのは 神に選ばれたからであって」 など 一見 納得し得るかもしれません。
しかし ある団体や共同体の中では 共通認識を持てるものであっても ひとたび そこを離れれば 通用しない可能性が大です。あくまでも 時間や場所の限定でしかなく さらには 自分が安堵したいが故の これまた 自己愛からによるものであることを 認識することです。
そして 解決方法を一つではなく 幾つも持つことです。そうすると いずれも 誰にとっても 満足できるものはないことに 気づくはずです。従って 一つの考え方、ある特定の宗教の考え方に同化して 入信する必要はなくなるはずです。さらには そのような力強い問題を持った他者 或いは 自分自身に対して 畏怖する気持ちを持つかもしれません。
と言いつつ こういうことは 実は 難しいのです。そのためのトレーニングとしては 実は 昔からの 仏教やキリスト教、イスラム教について 知って 考えることが大事だ と思います。
新しい新興宗教と上記の古典的な宗教は 時代や歴史を重ねていること です。
キリスト教も仏教も弾圧されたり 逆に 他の宗教を弾圧したり 権力闘争をしてきた負の歴史があります。それでも 歴史の荒波を乗り越えて 現代に伝わってきたのは 意味があります。そして 多くの批判があり さらに その批判への反批判を 繰り返してきた歴史があります。それを 参照することで 古典的な宗教というのは 絶対視せずに 冷静な距離をとりながら 安心して信仰することができます。
勿論 そのようなプロセスを経た後では 宗教を信仰する必要すらない状態に なっている とさえ言えます。
現在は 文庫から 仏教やキリスト教、イスラム教のテクストを読むことが出来、例えば 最近では 仏典が 光文社古典新訳文庫から読めたり キリスト教の新約聖書も 文春新書から読めたりも出来ます。
手に取りやすい本を読みつつ 「こんなことは あり得ないだろう」など 批判的に考えるプロセスが 私たち日本人には 必要なのではないか と思うのです。
(編集: 前澤 祐貴子)
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