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老成学研究所 > 初代所長 森下直貴 作品群(2018 09〜2022 12) > 私の本棚 > 《私の本棚》 No.4 書評 『量子力学の哲学』読書ノート 森下直貴
『量子力学の哲学』
森田邦久
講談社現代新書、2011年
マクロとミクロの交錯
哲学の役割とは何か
森下直貴
青い空と白い雲、朝日と夕暮れ、風と木々、山と川、人々と町並み、建物と乗り物、鳥と虫、工場とスーパーマーケット、等々。これらはすべて私たちの等身大の世界の情景である。つまり、私たち人間にとってふつうのありふれた世界の事象だ。今年はコロナ禍と洪水と尋常でない暑さの渦中にいるため、残念ながらそのありふれた世界を無邪気に味わうことができない。
私たちの等身大の世界は、生きものの世界であり、したがって意味や感情や欲望がたえず生成する世界である。ここから一切の生々しさを削ぎ落としてみる。すると、そこに立ち現れるのは物理の世界、つまりニュートン物理学によって描き出された世界である。ここでは、物体、質量、位置、時間、速度、加速度、運動量、力、仕事、角速度、回転数、モーメント等のタームや数式が活躍する。
例えば、空が青く見えるのは、大気中の粒子が太陽光線の波長より短いときに乱反射するからだし、雲が白いのは、大気中に浮かぶ氷の粒の大群が太陽光線を受けて反射するからだ。物理の世界は普遍的である。投げ上げられた私の身体と石は同じような軌道を描いて落下する。
この物理の世界をさらに微細に観察してみよう。すると、そこに浮かび上がるのがミクロの量子の世界だ。これに対してニュートン物理学が捉えるのはマクロの世界である。私たちの身体を構成する細胞も石も原子から構成されている。原子は原子核と電子の結合、したがって素粒子の集合体だ。電子同士が光子をやりとりしているように、あらゆる素粒子同士は量子というエネルギーの束をやりとりしている*。
*なお、細いことをいえば、量子は、クォークや電子などのフェルミオン群と、これらをつなぐ(力を運ぶ)光子などのボソン群に分かれる。素粒子や素粒子が集まった物体は基本的に高速で回転し、回転しながら他の量子や物体を巻き込んでいる。ここで働いている力が重力であるが、これも光子の仲間(重力子)である。重力については大栗博司『重力とは何か』(幻冬舎、2012年)に詳しい。
ミクロの量子の世界を記述する量子力学は(相対論とともに)20世紀に登場した。量子力学に対してマクロの世界を記述するニュートン力学は古典力学と呼ばれる。今回、「私の本棚」で(書評というより読書ノートとして)とりあげる『量子力学の哲学』は、物理学者によるミクロの世界の捉え方について哲学的に反省するためのガイドである。
ミクロの世界を解説した本はそれなりに揃っており、量子色力学などの一定の知識を提供し、読み物としても面白くできている。しかし、その多くはあくまで啓蒙書であり、本書のように量子力学の理論的な問題点を読者に考えさせるものではない。その点で本書は貴重である。
それにしても、量子力学に関してなぜ哲学が必要なのか。科学者の中には哲学を嫌う人が多い。哲学を個人的な夢物語とみなしているからだろう。物理学者も同様だ。しかし、マクロの物理の常識から見ると、ミクロの世界の量子はじつに奇妙な振る舞いをするのだが、そのような実験結果をいかに捉えるかをめぐって解釈上の対立がある。この対立状況を整理するためには、さらに一歩引いた反省のレベルが必要であり、それが哲学なのだ(哲学の役割についてはあらためて言及する)。
それでは、量子の奇妙な振る舞いとは実際にはどのような事態なのか。電子と光子を例にとって説明しよう(この部分も含めて説明に大きな間違いがないことを祈る)。
まず、あくまで直感的なイメージだそうだが、電子はある軸を中心に回転しているとされる。これはスピンといわれ、軸を中心にして右回りと左回りの値をとる。ところが、実際に測定してみると、左右どちらの向きになるかが確定しない。あるときは右回り、あるときは左回りになる。あるいは、光子や電子の位置を測定してみる。すると、波長(=速度=エネルギー)が定まらない。逆に、波長を測定しても位置が定まらない。量子は「重なり合い」の状態にあり、確率の分布でしか示せない。
また、ペアの量子では「もつれ(エンタングルメント)」が起こる。左右反対の向きを持つ電子のペアが何光年も離れているとする。このとき、片方の電子の軸を測定してたまたま右回りと分かれば、もう片方の軸の向きは左回りと確定する。左右の回りが瞬時に決まるため、この同期現象を「非局所相関」という。しかしそうなると、光速度という特殊相対論が前提とする制限速度を超えてしまう。
さらに、光だけでなく電子にも見られることだが、波と粒子の二重性という特徴もある。光源から出た光が二重スリットを通過すると干渉や回折を起こす。これは波の性質である。しかし、感光版にぶつかると粒子つまり点になる。量子が一個でも多量でも同じことだ。これを「双対性(もしくは相補性)」という。
著者の森田は、量子の以上のような奇妙な振る舞いをていねいに説明し、そこから哲学的に考察を要する四つの課題を取り出す。四つとはこうである。
①測定前の物理量は確定した値をもつか(確定した物理量は実在するか)
②非局所相関はあるか(空間的に遠く離れたもの同士が一瞬で影響を与え合うか)
③射影公理をどう扱うか(状態の収縮をどう扱うか)
④粒子と波の二重性をどう考えるか
これらの課題については多少の解説が必要だろう。そこで私なりに二点に絞って補ってみる(これらは私の見方であり、森田とは関係ない)。
第一点は、三つの事象の区別である。三つとは、まず、量子同士が働き合う「物理状態」、次に、スピンの軸の向きや位置や波長といった量子の「物理量」、そしてマクロな装置によって捉えられる物理量の「測定値」である。測定値は確率分布で与えられている。これが実験結果として動かせないとすれば、ここで四つの考え方が生じる。
一つ目は、測定する限りの物理量は確率分布となるが、測定しないときの実在の物理量は分からない(確率では捉えられない)と考える。二つ目は、測定とは関わりなく物理量は実際に確率分布している(あらゆる経路を通過する)と考える。三つ目は、実在の物理状態の物理量は確定しているが、真の変数が隠れているから現時点では捉えられない。しかし、原理的には知ることができると考える。四つ目は、物理量は確定しているが、複雑すぎてマクロな測定装置を用いる限り確率としてしか捉えられない。それでも確率は実在の物理量を単純化した縮減版の一つであると考える。
第二点は、「収縮」という現象である。収縮とは、量子力学の一般方程式である波動関数の与える連続量が、測定によって不連続量に変換されることを指す。波が粒子(=点)として現れることを想定すればいい。「射影公理」は収縮のメカニズムが不明だったため要請されたが、「射影公理」を余計で不要とみなすなら、収縮のメカニズムについては四つの考え方がある。
一つ目は、量子同士が働き合う中で収縮が起こると考える。ペアの電子同士が一個の関係を形成すると、双方が全体の要素として機能する。これが「非局所相関」の正体だとすれば、それが収縮の例である。また、ミクロの量子群がマクロの原子を構成することも収縮といえる。二つ目は、ミクロの量子が空間の歪みやマクロの物体と相互作用する中で収縮が起こると考える。三つ目は、ミクロの量子がマクロの測定装置と相互作用する中で収縮が起こると考える。四つ目は、以上の三つ位相の収縮が総合されてマクロの世界が成り立つと考える。
以上の準備の上で実際の解釈を森田の解説に沿って概観してみる。
多数の物理学者が支持するのは、いわゆる標準解釈である(ただし、細かいところでは幅があるそうだ)。この解釈によれば、① 明確な物理量は実在しない(非決定)、② 非局所相関を認める、③ 射影公理と状態の収縮を認める、④ 量子の二重性を認める、となる。
この標準解釈に対して別の解釈を立てる物理学者も少なからずいる。前回紹介したベンローズもその一人だ。彼は空間の窪みに落ち込むことで収縮するという重力仮説をとる。これは相互作用説の一種である。彼はまた実在論(決定論)をとりつつ、予測の計算はできない(非アルゴリズム)と考える。ペンローズ以外にもこれまで有力な学者によって複数の解釈が提案されてきた。
例えば、測定と無関係に完全にランダムな出来事として収縮が起こる(マクロの大量の量子のうちどれかは常に収縮する)とみなすGRW理論。あるいは、ミクロの干渉しやすい性質(コヒーレント)が環境との相互作用によって消えることから収縮が起こるとするデコヒーレンス理論。あるいは、密度が高いところでは粒子が多く、低いところで少ないことから二重性が生じると考える軌跡理論。観察者と量子の状態が多世界に分岐するとみなす解釈、測定の条件や状況によって物理量と測定値が変わるとみなす様相解釈、波動関数の二重の解から過去と未来が交流すると考える解釈、過去と未来の時点のあらゆる強弱の測定値を統計的に処理する解釈、等々。
本書の特徴は、標準解釈に対抗する多彩な解釈をていねいに紹介するところにある。実在(決定)論もあれば、局所相関しか認めないもの、収縮を認めないもの、二重性も認めないものがあり、四つの論点の捉え方を組み合わせるとかなりのパターン数になる。森田自身も標準解釈を支持せず、時間対称化された解釈に多世界解釈を組み込む方向が有望だと考えている。自分の立ち位置を隠さない森田の率直さはなかなかに潔い。しかし正直なところ、門外漢にはどの解釈が説得力を持つかを判定することは難しい*。読者に一つだけ分かることがあるとすれば、量子力学をめぐる多彩な解釈がいまだに収縮していないという事実である。
*私自身は、実在に関しては、物理量は確定しているが、複雑すぎてマクロな測定装置を用いる限り確率としてしか捉えられない。それでも確率は実在の物理量を単純化した縮減版の一つであると考える。また、収縮に関しては、ミクロの量子同士、ミクロとマクロの相互作用、マクロの測定装置との相互作用という三つの水準の収縮が総合されて、マクロの世界が成り立つと考える。ただし、以上の解釈は拙著『システム倫理学的思考』に基づいてはいるが、量子力学の分野では好事家の夢想にすぎない。
本書を読むのは易しいことではない。それでもなんとか通読してみてあらためて考えさせられたことがある。それが哲学の役割だ。哲学は一歩引いた反省の視点から、種々の分野の理論や実践を導く考え方や方法や概念枠組みに関して、論点を網羅的に整理することを通じて再考を促し、できれば対立状況を解きほぐそうとする。しかし、哲学の役割はそれだけだろうか。人間世界に関して未来世界や将来社会を構想し、望ましい方向を打ち出すような役割が哲学にあるとすれば、それと似たような役割が物理世界に関してもないだろうか。物理学に関していえば、宇宙や量子世界のビジョンということになる。
これではまるで古代の哲学者ではないか。私は少し酔っているのだろうか。そうではない。専門的な物理学者だけが物理の世界を精密に捉えるというのはその通りだが、量子の世界に関してはそれでも限界があり、解釈の対立が生じている。解釈の対立の根本にあるのは、物理の世界に関する物理学者のビジョンであり、直観である。例えば、今では乗り超えられたといわれるが、アインシュタインの理論は彼なりのビジョンに基づいていた。ビジョンを図的に表現するとイメージになる。イメージはすべてマクロである。最先端の物理学の場合、点(粒子)でも波でもなく、両端がくっついたり離れたりする弦・超弦や膜・布(メンブレーン)の振動というイメージがある。
本書で紹介された様々な解釈は、細かい論点では対立しているが、波と粒子、局所と非局所、同期、因果性、スピン、軸と左右といった言葉を共通に用いている。それらの言葉は、物理学では厳密に定義されているのかもしれないが、すべてマクロの世界の言葉でもあり、等身大の日常的な世界のイメージを伴っている。ちなみに、感染症の専門用語と差別の言葉や、コンピュータの専門用語と人の脳の働きの言葉についても、言葉やイメージがクロスしている。
量子力学の専門家たちは、意識的か無意識的かの違いはともかく、実際にはマクロの言葉をもってミクロの世界をイメージしている。数式の背後にはビジョンが潜在している。とはいえ、ミクロの世界をマクロの世界の言葉でそのままイメージすることは無理である。それは数理の関係式(方程式)によってしか近似的に捉えられない。それが量子の世界である限り、量子たちは私たちの実感からは遠くかけ離れ、いつまでも奇妙に振る舞うことになる。
しかし、である。数学にもトポロジーという分野(幾何学)がある。例えば、たびたび登場してもらっているペンローズは、トポロジーを駆使し、アインシュタインの方程式の厳密解ではないが、解の一般的性質を調べることによって「特異点」を証明してみせた。特異点とは(古典力学を乗り超えたはずの)相対論の法則が通用しない物理状態である。つまり、ブラックホールと宇宙の始まりだ。
なぜ、トポロジーか。数理も物理も非連続の連続体を扱う。非連続の連続体が共通のプラットフォームである。しかし、数理の世界と物理の世界は同じではない。一方には無限の次元が広がるが、他方では次元にも制限がある。つまり、質点に重さがあるように、物理の世界には独特の秩序がある。数理にはそれがないが、トポロジーのような幾何学にはそれがある。なぜなら描いて見せなければならないからだ。幾何学の図形は具体的なイメージというよりそのパターンである。トポロジーが示すのは、パターン思考によってイメージングに挑戦する道があるということだ。
哲学もまたパターン思考をする。数学と違って哲学は言葉を用いて概念世界を構築する。言葉には数字と数式にはない曖昧さがあるが、それは言葉の意味にイメージが伴うからである。送り手は自分のイメージをもって言葉を送り、受け手は自分なりのイメージでそれを受け止める。そこにイメージの重なりはあるが、普遍的な一致はない。しかし、哲学者は言葉を手探る際、図的なパターンや具象的なイメージを思い浮かべている。少なくとも私はそうだ。定義は言葉の関係であり、概念の関係である。関係とはパターンである。哲学はトポロジーに通じている。
今回、『量子力学の哲学』を読んで、哲学には量子力学の解釈を論理的に整理するという役割だけでなく、宇宙や量子の世界を図的に絵として構想するという役割もまたあるのではないかと思った。どうやら私の中でプラトンや荘子に通じる想像力が刺激されたようである。
(編集:前澤 祐貴子)