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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿B】教育者 岡本肇シリーズ > 【寄稿B】《13》 「あとみよそわか」 西遠女子学園 学園長 岡本肇
あとみよそわか
西遠女子学園 学園長
岡本 肇
戦後70年余りがたち 日本の社会も家庭も大きく変わった。
家には電気冷蔵庫、洗濯機、掃除機、テレビなどが入り 生活は便利で快適なものになった。しかし 以前は どの家にもあった日本の家の佇まいのようなものが 取り除かれたように感じる。
小津安二郎の映画や長谷川町子の漫画に登場するような家庭の情景は見当たらなくなった。
幸田文(あや)は父 露伴から受けた躾のことを「父·こんなこと」に書いている。
幸田露伴は 明治·大正の文豪で 文化勲章の最初の受賞者として 誰もが仰ぎ見る存在だったが 8歳の時 生母を失った娘 文の行く末を思って 暮らし方の全てを仕込んだ。
文は「亡父は 私が小さい時から 学問·芸術の道にも お金を稼ぐことにも見込みがないと見透して 衣食住のことを一通り知って 並の家庭を築いていけるように と家事雑用を教えてくれた。」と書いている。
父から娘への特訓は 女学校に入った14歳から18歳くらいまで 家の中で厳しく躾けられた。
最初の稽古は掃除から始まったが まず 箒の曲がった先の直し方から入る。
それから 箒の持ちよう、使いよう、呼吸、畳の目やへりの箒の先の使い方など、微に入り細に入っている。
「働いているときに 未熟な形をするような奴は 気取って 済ましたって 見る人が見りゃ 問題にならん。」
「物事は何でも いつの間にか出来たか というように 際だたないのがいい。」
と言う。
拭き掃除は「水は恐ろしいものだから 根性のぬるい奴には使えない」と バケツ6分目に水を汲んで 水を包むように雑巾をゆすぐことや 動作に無駄のない雑巾がけをやってみせる。
それを見た娘は 身のこなしに折り目というか 決まりがあって ああいう風にやるもんだな と覚えた と言っている。
この雑巾がけで もう一つ覚えたことは 無意識の動作である。
雑巾をゆすいで 搾った手を 拭きにかかるまでの間の濡れ手を いかに処理するか である。私は全然意識しなくやっていたが 「偉大なる水に対して 無意識などという時間があっていいものか。気がつかなかった などと言うのは 呆れ返った料簡だ」と言われた。
言われてみれば 搾る途端に 手を振る、水の垂れる手のままに 雑巾を拡げつつ 歩み出す。雫は意外な処までに及んで 斑点を残す。更に驚くべきことには そうして残された斑点を見苦しいとも 恥ずかしいとも気にせずにいたことである。
「水の扱えない者は 料理も 障子張りも 絵も 花も 茶も いいことは何も出来ないのだ」と脅され 「お茶の稽古に行ってみろ。茶巾を搾って振り回したり 手水をひっかけていい という作法はない」と言う。
障子張り、薪割り、庭の草取り、畑仕事に至るまで どれにも道理があり 作法があることが仕込まれる。
家の中の挨拶も この挨拶が一家の会話の基礎になるから なおざりにすると 家の中の話が段々通じなくなり 同時に 家の中の秩序に乱れが生じる と言って 厳しく叱られたそうである。
「親しき仲にも礼儀あり」で 家族の中でも 挨拶の秩序が求められたのである。
露伴が このように家事雑事に詳しいのは 貧困の中で8人の子供の2人は亡くしたが あとの6人を 名の知られる人に育て上げた母親の教育によるものだった。男の子でも朝晩の掃除、米研ぎ、洗濯、風呂炊き、何でもやらされて 要領を自分で工夫したから と言っている。
露伴は 家事をそこまで徹底してやっても 終わってそこを去る時は 「あとみよそわか」と 呪文を唱えるように 娘に命じている。「いいと思っても 後をもう一度振り返って見て 粗相がないか 気を配りなさい」という意味である。
文が露伴から このような教育を受けたのは 昭和の始め頃で 戦後 日本人の価値観や生活様式が変わる中で 意味がなくなったか といえば そうも思えない。露伴の亡き後 書かれた幸田文の作品を読むと 行き届いた掃除の済んだ部屋と 行儀よく物が置かれた机を見るような気がする。
そして その文章の佇まいは 文の娘の青木玉に引き継がれて 生きている。
(編集: 前澤 祐貴子)
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